新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



カリスマ性を持つこととプライベートが充実することはトレードオフの関係にある

Facebookを見ていたら、このところ連日僕の身の周りのカリスマ性の高い友達たちのプライベートが崩壊しているという投稿をみかけて、彼らには申し訳ないのですが、面白いなあと思ってしまいました(笑)

というのも、僕にはカリスマ性がある人はプライベートが崩壊するという持論があるからです。
基本的に人を惹きつける人は、何かしらの惹きつける要因を持っています。
そしてそれは、他者からの期待と言い換えることができる。
それが本人の志なのかもしれませんし、或いは人間性なのかもしれません。
カリスマ性があるというのは、自分に対して他者か期待する志や人間性に答えるということだと思うのです。
 
周囲からのそういった期待に答えようとするとき、等身大の自分ではなく、求められる「自分」を演じることが必要になります。
矢沢永吉さんがバラエティでおちゃらけたことをして欲しいと頼まれた時に「俺はいいけど、YAZAWAは何て言うだろう」と言ったというエピソードを聞いたことがあるのですが、これは周囲に期待される自分を演じるという視点から出た発言です。
どんな人でも基本的に、「等身大の自分」と「役割期待に応える自分」の両方を持っています。
会社に勤めているのならば、勤務先では「仕事人としての自分」、子供がいる場合は「パパ、ママとしての自分」というように、何かしらの役割は誰もが担っています。
そしてこれらの役割を果たすとき、多かれ少なかれ周囲にの期待に応えようとする振る舞いが求められます。
その意味で、ほぼ全ての人が「役割期待に応えようとする自分」を持っていると言えます。
 
問題は「等身大の自分」と「役割期待に応えようとする自分」の比率です。
僕の感覚では、普通の人はこの比率が多くても5:5、たいていは等身大の自分の比率が多くなってきます。
だから職場での雑談でプライベートの話をするし、飲みに行ったら愚痴を言う。
周囲の期待に応える自分を演じるときも、そこにプライベートが顔を覗かせているわけです。
これが「役割期待に応える自分」の比重の方がずっと多くなった人がカリスマです。
等身大の自分よりも周りに期待されている自分を優先するからこそ、周りから「あの人は魅力的だ」と思われ、人に「ついて行きたい」と思わせるのです。
本来の自分よりも周囲からの役割期待に応える自分を優先すれば、当然プライベートは疎かになります。
そして、カリスマ性の強い人ほど周囲の期待に応える比重が高くなるので、行動基準は否が応でも「自分がどうしたい」ではなく、「周りの期待する自分ならばどういう行動を取るだろう」というものになってくる。
こうやって、カリスマのプライベートは崩壊していくわけです。
 
冒頭で、カリスマのプライベートは崩壊すると書きましたが、むしろプライベートが崩壊するのを顧みないからこそカリスマ性を維持し続けられるというのが正しい捉え方かもしれません。
「この人ならきっとこうするだろう」そういう期待に、いつも応えるからこそ人がついてくるのです。
カリスマ性のある人が「いやいやっ、そうは言っても私はこういう事をしたいし。。」といって、周囲の期待を裏切るような平々凡々なことをやった途端に、その人の輝きは失われます。
それがたとえ自分のしたいことであったとしても、「役割期待に応える自分」という基準で一旦考えてしまう。
これをするからこそ、彼らはカリスマで有り続けるのだし、それをしている限りは、等身大の自分としての幸せを掴むことはできません。
カリスマ性があることとプライベートがうまくいかないことは、表裏一体の事柄であるように思います。
 
アイキャッチは「役割期待に応える」を端的に示してくれる江頭さん。

 

エガヨガ

エガヨガ

 

 

 

同じ仕組みで解決できる!~リバウンドしないダイエット法と3日で辞めない勉強法~

この前の授業の休憩時間に、子供たちとリバウンドしないダイエット方法について話をしていました。
僕はリバウンドする理由をシンプルに、外見上の体重減に習慣が追いついていないからだと思っていたのでそれを話しました。
実体重を減らすには、食事を減らして運動を増やすだけでいいので、ダイエットを始めてから効果が出るまでに即効性があります。
それに対して、自分の生活習慣はそれほど早く変わりません。
今まで当たり前としていた習慣を大きく変えるのには、少なくとも数ヶ月はかかります。
僕はかなりの痩せ型体系で、今まで太るといったことがありませんでした。
これはもちろん、体質由来の部分も大きいと思うのですが、それと同時にもう十何年もの間「太らない習慣」で生活してきたというのも大きな要因の一つだと思っています。
物心つく頃から「太らない習慣」で暮らしてきたから、いまさら一日や二日暴飲暴食のような「太る行動」をしたところで太らない。
短期的には太る要因になったとしても、少し立てばすぐにやせてしまうのです。
ちょうどリバウンドと逆の作用です。

リバウンドしないためのダイエットに必要なことは、身体的な体重の増減と、習慣の変化のギャップをできるだけ小さく保つことです。
そのためには、ダイエットが身体的変化として現れるタイムスパンと、生活習慣の変化が板につくタイムスパンをそれぞれ認知しておく必要があります。
僕にとっての両者の変化の期間は、身体的変化が現れるのに2週間、生活習慣として板につくのに3ヶ月といったところです。
つまり、仮に全力でダイエットを始めたとして、2週間もすれば身体は痩せ始めるのですが、生活習慣のほうはまだまだ「太る習慣」が染み付いたままであり、2ヵ月半はリバウンドの可能性が消えないということです。
一旦体重が目標値まで減少すると、どうしても気が抜けてしまいます。
また、「体重を減らす」方法と「体重を維持する」方法は異なるため、「痩せた人の生活習慣」が身につかないうちに目標体重まで落とすことに成功してしまうと、かえってリバウンドしやすくなる。
こうならないためにも、自分の生活習慣の変化するペースに合わせて、体重も少しずつ落としていくことが大切になってくるのです。


さて、ここまでで僕はダイエットについて「成果が体重の増減に表れるまでの期間と生活習慣が変化する期間のタイムラグを減らす」という切り口でお話してきました。
じつはこのやり方、勉強にそっくりそのまま当てはめることができます。
よく、受験勉強を始めたのはいいけれど3日坊主で終わってしまうという生徒さんを見かけます。
これは表面的な変化と習慣的な変化の間のギャップが埋められないことによりうまくいかない典型例です。
何らかのやる気に当てられて、数日の間はものすごい気合が入り、何時間も勉強しようと意気込んでいるような「生まれ変わった自分」であったとしても、それまでの習慣は総感嘆に変われるはずも無く、引き続き「いままでだらけてきた自分」のままなのです。
だから、もし急に何時間も勉強するという目標を立てたとしたら、生活習慣の変化がおきるまで、非常に強固な意志力で「いままでだらけてきた自分」から「生まれ変わった自分」に近づく努力をしなければなりません。
で、ここの部分でうまくいかないから、たいていの場合三日坊主に終わってしまうわけです。
そうならないためには、生活習慣のペースに合わせて勉強法方を少しずつふやしていくという方法以外にありません。
ダイエットにせよ勉強にせよ、短期間で成功する手段を見に付けるだなんて虫のいい話は存在しないわけです。

表面的な効果が現れる期間と習慣的な変化が現れるまでの期間のタイムラグを埋めるというのは、いろんな局面で有効です。
今回はダイエットと勉強方法という2つの目的に適用しましたが、これは就活にも組織運営にも応用できると思うのです。
同じ切り口をまったく違う事象に適用する。
今回はダイエットや勉強の話ではなく、あくまで思考方法のお話でした。

 

アイキャッチはダイエットでこの思考法を紹介していた岡田斗司夫さんの「いつまでもデブと思うなよ」

 

いつまでもデブと思うなよ (新潮新書)

いつまでもデブと思うなよ (新潮新書)

 

 

「水の東西」考察~噴水と鹿おどしの違いは、写真と映像で両者を見比べると直感的に理解できる~

高校一年生になると、多くの学校で扱う山崎正和さんの「水の東西」という作品。

鹿おどしと噴水を通じて、欧米と日本の感覚の差を論じています。

日本の文化は鹿おどしに流れる時間やありのままの姿を感じ、欧米の文化で噴き上げる噴水に空間的な美しさを求めるのだそう。

別に、水の東西を西洋の文化と日本文化の対立軸を学ぶための教材として機械的に学ぶのであれば、それほど複雑なテキストではありません。

「鹿おどしが日本的で噴水が欧米的」という主題が、①「流れる水と噴き上げる水」、②「時間的な水と空間的な水」、③「目に見えない水と目に見えない水」というように形を変えて繰り返されるだけです。

対立軸を追って、文の構造を理解するという目的ならばこれで十分なのですが、せっかく子の文章に触れるのであれば、ここで終わりはもったいない。

せっかくの裳白い文章なので、少しだけ内容を噛み砕いて見ていきたいと思います。

 

まず、そもそも噴水の違いと鹿おどしの違いの理解を深めたいと思います。

作者の山崎さんは、鹿おどしのことを「水の流れなのか、時の流れなのか、『鹿おどし』は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を感じさせる。」と言っています。

一方で噴水のことは、「音を立てて空間に静止しているように見えた」と表現されています。

両者の違いは何か。

文字では違いが分かったような気がするのですが、僕は直感的に分かりやすくするために、映像と写真の違いで考えています。

例えば写真で見て美しいのは噴水です。

作者の意図を反映して噴き上げる水の姿は静止画で見ても臨場感が伝ってくるはず。

それに対して鹿おどしは写真で見るとただの竹筒がそこにあるだけ(笑)

ちょぼちょぼと水が竹筒に注がれる絵を見ても、非常に地味なだけで、どうやっても噴水のスケールには劣ってしまうでしょう。

これが動画になると立場は逆転します。

鹿おどしの場合、水が少しずつ注がれて、今か今かと待っているうちにやがて、満タンになった水を吐き出すために竹筒が傾きます。

そして、空になった竹筒が戻るとき、「コツン」という音と共に意思を打つ。

注がれる水の音と一気に吐き出されるときの水音、そして戻ったときの石を打つ音と、鹿おどしは動きにも出る音にも変化があります。

だから見ていても飽きない。

一方で噴水は、基本的に一定の水量を変わることなく噴き上げ続けます。

静止画であればその瞬間を捉えて壮大に見えるのですが、映像でそんなものを見せられたら、退屈にたえられないでしょう。

僕は世界で一番有名な噴水は小便小僧だと思っているのですが、あんなもの動画で30分も見せられたらたまったものではありません。

噴水は映像には向いていないわけです。

静止しているときの美しさと言うのが作者のいう空間的な美しさで、映像としての美しさが、同じく作者の言葉でいう時間的な美しさ。

鹿おどしと噴水をそれぞれ、映像と写真で見てみると、作者の言わんとすることが、より直感的に理解できる気がします。

 

西洋と日本では、自然に対するアプローチが対照的であるというのは、センター試験でも題材として扱われたことのあるくらいメジャーなトピックです。

例えば庭について。

西洋の美しさの感覚では、いかに人が趣向を凝らして手を加えたかに美しさを感じ、日本の感覚ではいかにありのままの姿の中に美しさを見出すかという部分に重点が置かれます。

西欧の庭は左右対称で、人工的なレンガの敷き詰められたようないつ見ても同じ美しさを保つ庭が多いのに対して、日本の庭は自然の姿や非対称な構図、そして時間とともに変化していくのを前提に作られています。

こうした庭一つとっても、日本と西洋では、美しいとするものに違いが現れます。

水の東西の後半に出てくる「見えない水と、目に見える水」とは、こうした日本と西洋の美しさに対する感覚の違いが述べられているわけです。

 

以前、チームラボの猪子寿之さんがTEDの講演でこの事に近いことをプレゼンしていました。

猪子さんは西洋と日本の庭の違いから芸術の歴史に話を深め、最期はスーパーマリオという横スクロール型のゲームが日本で発明された理由に言及するという非常に面白い繋げ方をしていました。

水の東西の理解を深めようとしたら、この講演は非常に役に立つと思いますので(何より純粋に面白いです)、ぜひご覧になってみてください。

 日本文化と空間デザイン~超主観空間~ | 猪子 寿之 | TEDxFukuoka - YouTube

文の構造を学ぶだけでなく、いろいろな気づきを与えてくれる「水の東西」。

僕のオススメの教材作品の一つです。

 

 

 アイキャッチは作者の山崎正和さんの本

装飾とデザイン (中公文庫)

装飾とデザイン (中公文庫)

 

 


 

 

6月1日が就活のスタートだと思っている人への処方箋

6月1日の就職活動解禁日が迫ってきました。
因みに6月1日とは、「学生が就職活動を一斉スタートする日」ではなく、「企業が正式に内定を出すことが認められた日」のこと。
だから、この日までに殆どの大企業は採用活動をしていますし、内々定なんかも出ているわけです。
厳しい言葉かもしれませんが、この就活スタートの日の主語を「学生が」と取り違えてしまっている学生さんは、もうこの時点で出遅れています。
僕が就活の時は4月1日が就活の解禁日でしたが、出版業界を目指していたため、殆どの採用活動は1月くらいには始まっていました。
また、某メガバンクに行った友達たちは4月1日の段階で一次面接件説明会が開かれている同時刻に別室で内定をもらったりもしています。
因みに今年3回生で就活をしている友達からは、3月の段階で志望動機についての連絡が来ました。
動いている人はとっくに動き出しています。
就活の解禁日とは、あくまで「企業が内定を出す」ことの解禁日であることをじかくしていないと、出だしの段階で既に出遅れているということになってしまうので、注意が必要です。
特に就職活動の情報純度は、つるんでいる友達コミュニティによって大きく左右します。
成績優秀で、向上心が高い人々が集まるコミュニティに属していれば、こんなこと「当たり前」のこととしてコミュニティ内では共有されています。
逆に、情報リテラシーのそれほど高くない人々の集まるコミュニティに属していたら、そんな情報は全く入って来ないため、文字通り就活解禁日を「学生にとって」と読み間違えてしまうわけです。
周りが動いていないから大丈夫という認識は1番危険です。
それは「あなたの周り」が動いていないだけなのです。

そんなわけで、自分が想定するような企業群に入りたいと考えている人が動き出してギリギリ間に合うのが今くらいのタイミングです。
今から始めるのなら、今週いっぱいで片っ端からリクナビみたいな就活サイトで志望する業界の募集を探すくらいのスピード感で行かなければならないでしょう。
一次面接の応募には、大抵の場合400〜800文字くらいで書かなければならない質問事項が複数用意されたエントリーシートの提出が必須になります。
よほど文才があるかそれまでに相当練り込んでいるのであれば別ですが、いちから書き始めようとしたら、30分やそこらで書けるものではありません。
仮に書き上がったとしても、そんな即席のエントリーシートでは、伝えたいことや企業が求める内容などをしっかり捉えたものにはならないでしょう。
最低でも一週間、自分が受けようとする企業のエントリーシートの質問内容を全部並べて、それらに一貫した回答をできるような自己PRなどを練り上げる時間が必要になります。

また、採用試験へのエントリーと並行してSPIなどの対策もしておかなければなりません。
エントリーの段階で数学・国語に加え論理問題や抽象化問題などを含めた常識問題をウェブ上で受けさせる場合が少なくありません。
もちろん何も勉強しなくても普通に突破できる人もいるでしょうが、この試験の段階で躓く人も少なくありません。
ウェブ受験ならば、周りに頭のいい友達がいれば替え玉受験で乗り切れるでしょう(笑)
こういうと「ズルはいかん!」と思う方もいるかもしれませんが、少なくとも僕はウェブでのSPI系のテストは替え玉が容易であるというシステム上の弱さがあるということと、そもそもSPIは「自力で突破できる実力がある人間」と「SPIを突破できる程度の人脈を持った人」を残すシステムだと考えているということもあり、替え玉したきゃすればいいとおもっています。
ウェブ上の試験ならば最悪これで乗り切れますが、テストセンターの問題や会社が面接時に課す会場受験型の試験はそうはいきません。
こうした試験は対策本も出回っていて、そこそこ練習すれば点数も上がります。
そのため、苦手な人はある程度準備をしておかなければなりません。

SPIの対策をしつつ、エントリーシートを書きながら、随時面接の予定も入れていく。
繰り返しになりますが、今の時期から始めるのであれば、かなりタイトなスケジュールになります。
因みにパッと調べたところ、カゴメ、住友重工、JR西日本小学館近畿日本鉄道NTTデータ、三井電気、小田急オリンパスダイハツ、リコー、伊藤ハムあたりは4月13〜15日が締め切りなのだそう。
(一次募集のところもあるかもしれません)
既にひと月前にエントリーシートが締め切られているわけです。
6月1日の段階で3〜4回の面接の後に内定を出すと考えれば、妥当な期限でしょう。
このくらいが就職活動のスピード感です。
もしそろそろ始めようという漠然とした意識でいる人がいて、そこそこ有名な企業しか頭に想定していない人がいれば、すぐにでも今この瞬間から就職活動を始めた方がいいと思います。
大学入試に例えるのならば、12月の段階で入試勉強を始めて旧帝大を狙う位の感覚です(笑)
このペースではよほどの努力をしない限り、浪人生か偏差50以下のそれまで名前も知らなかった大学くらいしか受かりません。
今から始める就職活動もそんな感じ。
もちろん就職活動が全てだとは全然思いませんが、それを志望するからには、就活のスピード感に自らが合わせるしかありません。
今から就活を始める際に必要なことは、「自分は一歩出遅れている」ことを自覚すること。
ここからは一日過ぎるごとに目に見えてチャンスが消えていきます。
とにかく早く早く行動することを心がけることが大切です。

関連エントリ


アイキャッチは元マッキンゼー採用マネージャー伊賀泰代さんの採用基準

採用基準

採用基準


IT革命は誰もが参加できる段階からルール作りの段階に入った

最近ちょこちょこ書いている「革命」についてのお話です。
このトピックの話をするときにいつも言っていることなのですが、僕は「革命=何かのルールがひっくり返ること」と定義しています。
例えば農業革命は、腕っぷしの強く狩の得意な人間が偉いルールから、安定した収穫をもたらしてくれる人が偉いというルールに変わったことみたいな感じです。
ルールが変わるには、一旦境界がなくなるタイミングと、新たな境界が再構築されるタイミングが必要です。
1度目の波でそれまでのルールが崩されて、2度目の波で新たなルールが施行される。
産業革命で行けば、蒸気機関というテクノロジーが生まれたことでそれまでのルールが崩されます。
そして、それを使った工場を作る人が出てきたところで、生産者と消費者、もっと言えば資本家と労働者という枠組みで新しいルールが出来上がった。

専門家でも何でもないので、この辺は直感的なものなのですが、1つ目の波でルールが崩れ、2つ目の波でルールが作られるというのが僕の考えです。
で、この考えに沿ってIT技術について見て行くと、僕には1つ目の波がパソコンの普及で、2つ目の波がスマホの普及に見えるのです。
これは先日のちきりんさんの記事(保有端末のまとめ - Chikirinの日記)にも書いてあったことですが、パソコンとスマホの最大の違いは生産するためのツールであるのか、消費するためのツールであるのかという点です。
パソコンは、新たなサービスを作り出すためのツールです。
パソコンに関するIT技術の発展といったお話は、あくまで作り手視点のもの。
だからこそ、パソコンが普及した時に僕たちの仕事のスタイルは大きく変わったし、ITバブルなんてものが起こったのだと思います。
それに対してスマホに絡む技術進歩は、あくまで消費者視点のお話です。
どんな高機能のデバイスが出たという話題であっても、それは「消費者」として使いやすい商品が生まれた程度のお話です。
だから、スマホが爆発的に普及しても、それが原因でスマホによるITバブルはこないわけです。
もちろん、消費者がスマホを持ったことによってビジネスチャンスができたという意味ではバブルがあったと考えることもできます。
しかしそれはあくまで、スマホが消費者に広まった(=いい消費者が生まれた)ことによって起きたことで、スマホというデバイスの機能によって起こったことではありません。
あくまでスマホは消費目的のツールで、その範疇を出ない。

生産のツールとしてのパソコンが発達したことで、既存の様々なサービスがITテクノロジーにとって変わられて行きました。
そしてそれはさらに加速しています。
これが1つ目の波で、ルールが崩れていく過程です。
この段階に触れている人たちは、IT普及以前のルールと以後のルールを行き来していくことになります。
その中でそれまでのルールでは不利だった人が、一気に優位なポジションに飛び出してくるなんてことも起こります。
そういう、入れ替わりが激しい混乱した状態がパソコンが普及したあたりから起こり始めたこと。
それまでは資本を持っている人、或いは資金を集められる人が生産者に回っていたのが、パソコンがあれば取り敢えず生産者に回ることができるようになりました。
つまり、この時点で生産者と消費者のシャッフルが起きたということ。

その後、消費のツールとしてのスマホが普及し始めると、パソコンは使ったこともないけれどスマホは持っているという世代が出始めます。
今の中高生は、このパターンが少なくありません。
もしかしたら、大学生でもいるのではないでしょうか。
スマホしか触れたことがない人々は、生産ツールとしてのITを知らず、消費ツールとしてのITしか触れたことがないことになります。
消費ツールとしてのITにしか触れたことの無い人にとっては、ITイコール消費の手段という認識になってしまう。
つまりこの段階で、パソコンが普及したとき崩された生産者と消費者の境界が、別の形で再び形成されてくるわけです。
ITと聞いて「やっぱパソコンでしょ」という人は生産者の立ち位置になり、「スマホで十分」という人は消費者の立ち位置になる。
僕はこうやってIT革命後の世界のルールが形成されていくように感じています。

スマホの普及によって、明らかに僕たちのライフスタイルは変化しました。
これは、IT技術が僕たちの世界にどんどん溶け込んできているということだと思います。
IT技術のある世界が当たり前になったということは、逆に言えばITの持つ可能性に鈍感になりつつあるとも言えます。
そこに消費するためのサービスが十分には揃っていなかったスマホ以前ならばITは触れた殆どの人にとって、新たなサービスを生み出すポテンシャルを秘めたものでした。
しかし、消費するサービスありきのスマホになった段階で、そういった新たな可能性には、目が向きづらくなっています。
スマホの可能性に目が向くには、あまりに面白くて便利なサービスに溢れすぎているから。
こうなると、ITに触れて生産者の側に回るという経験は少しずつ減っていきます。
そして、生産者と消費者の境界が再び形成され始める。
IT革命はここから加速するという主張を耳にすることがありますが、それは「ここからルールが整備されていく」という意味だと僕は考えています。
つまり、プレイヤーがシャッフルされる段階は終わって、新たなプレイヤーによって次の境界が作られる段階です。
スマホの普及はその転換点てあったように思うのです。
少なくとも僕は、日々のサービスの進化を見ていると、新たなルール作りが着々と進んでいるように感じます。
その進行過程を自分で体験できるというのが、なんとも面白いなあと思ったりするわけです。

アイキャッチはネットを体系的に語ったこの本

HUNTER×HUNTER考察〜ヒソカVSクロロはヒソカの負けしかあり得ない〜

先々週号のHUNTER×HUNTERの団長vsヒソカのバトル。
当時中学生のときに幻影旅団編(これが予想変換で出てくるのが凄い!)が始まって、そこでファンになった僕としては待ちに待った戦いです。
GW を挟んで明日ジャンプに掲載される最新話が気になって仕方がありません。
ハンターファンとしては、同じ気持ちの人も多いのではないでしょうか。
作家の岡田斗司夫さんも待ちきれずに、先週の自身の番組で展開予想を話していました。
そこで話されていた内容が、僕のなんとなく考えていたことを補完してくれるようにあまりに納得のいくものだったので、明日まで待つ気を紛らわすために、岡田斗司夫さんの予想を踏まえて、僕の予想をまとめてみたいと思います。

まず、どちらが勝つかという僕の(チンケな)予想の前に、考えられるストーリー展開を挙げたい思います。
基本的にハンターハンターはかなり論理的に物語が展開するので、出てきた内容を反故にするようなことはあまり起きません。
で、そんなストーリーを書く冨樫先生が、ヒソカたちに「どちらかが死ぬまでやろう」と言わせました。
ということは、その口約を守るのであれば、①ヒソカが負けて死ぬ②クロロが負けて死ぬのいずれかになるということになります。
ただし、どちらもそう簡単には殺せないキャラクターです。
というのも、どちらも主人公たちとの間に伏線が残っているから。
クロロにはクラピカの復習という因縁があります。
これまでのストーリーで一旦クラピカとクロロの因縁には決着がついているという見方もできますが、クロロがクラピカにかけられた念を解いたとなれば、再びクラピカが決着をつけに行くというのが妥当でしょう。
何より、恨み続けていたクロロを殺したのがヒソカであるなんて、クラピカの心情的にも読者の気持ち的にも素直に納得できる結末ではありません。
やはりクロロが死ぬとしたら、クラピカとの戦いの中というのが妥当でしょう。

クロロが死なないとすると、ヒソカが殺されることになるのかというと、こちらのパターンも正直あまり考えづらいと思います。
クロロの側にはクラピカとの因縁がありましたが、ヒソカヒソカで主人公のゴンとの伏線が残っています。
天空闘技場編で、ゴンはヒソカに一撃食らわし、以前の借りを返したとはいえ、まだ全然勝ててはいません。
一方でヒソカも、ゴンのことをいつか成長仕切ったときに戦いたい対象として追いかけ続けています。
こちらの伏線も、クロロとの闘いでボツにしてしまうにはもったいない。
ヒソカが死んでもクロロが死んでも、その後に納得のいくストーリーが出てくるとは考え辛くなってしまいます。

ヒソカもクロロも殺せないとすると、あとは2人を引き分けにするという結末しかありません。
①②でもない選択肢は引き分けにするか、どちらかが負けても殺されない相応の理由をつけることになります。
引き分けになるパターンを想像すると、1番現実的なのは旅団メンバーが闘いに横槍を入れてバトル凍結みたいなものですが、これはどうやっても不自然になってしまいます。
(少なくとも僕の想像の及ぶ範囲では)
そうなってくると、決着はつくけれど殺されずに済むという所しか落とし所はありません。
というわけで、僕はどちらかが負けても殺されずにすむ、それなりに筋の通ったストーリーを予想することにします。

結論からいうと、僕はクロロ(団長)VSヒソカは、クロロの勝ちになると見ています。
初めにそう思ったのは、バトル開始前に2人が向かい合うシーンの立ち位置を見た時です。
2人が向き合うシーンは、ヒソカが左で団長が右にいました。
これ、本来ならば、団長が左にいてヒソカが右にいるのが自然だと思うのです。
普通マンガを読む時、僕たちの視線は右から左へと移動して行きます。
その視線移動のラインに則るのであれば、右側に主人公(読者に感情移入して欲しいキャラクター)が来るはずです。
その方が、敵対するキャラクターが視線の移動を阻むように存在して、気持ちが乗りやすくなるから。
ワンピースなんかだと、この辺をかなり意識的にやっているように思います。
しかしながら今回左に配置されているのはヒソカ
視線移動の法則に当てはめるならば、読者はクロロに気持ちを重ねることになってしまいます。
クロロは、ヒソカがずっと闘いたいと追い求めていた「敵」です。
おまけにヒソカは度々主人公を助けるトリックスター的なポジション。
クロロとヒソカであれば、どう考えても主人公的な扱いになるのはヒソカであるはずです。
それがあえて左に配置されているのは、この闘いでヒソカが負けることを暗示しているのだろうと感じました。

ではどうやって、殺し合いと宣言させた上で、ヒソカを死なせずに、かつ誰の目にも納得のいく幕引きにするのか。
これに関しては、クロロの能力「盗賊の極意(スキルハンター)」しかないように思います。
盗賊の極意は、一定条件をクリアすると相手の念能力を奪うことができて、奪われた相手はその能力が使えなくなるという能力です。
ヒソカが盗賊の極意によって能力を奪われて幕引き。
これが唯一読者が納得する線だと思います。
で、ここからは岡田斗司夫さんが話していた内容のまるパクりなのですが、ヒソカは以前、クラピカによって能力を封じられたクロロに対して「壊れたおもちゃに興味はない」と言って、能力の使えなくなった団長と闘わずに去っていきました。
今度は能力を奪った上でクロロがヒソカにこの言葉をそのまま返すのではないかと。
確かにこれで行けばヒソカを殺さない理由にもなりますし、勝敗もつきます。
僕はこの線が1番濃厚だと思っています。
もう一つ、ヒソカが能力を奪われるのではないかという根拠を。
これも岡田斗司夫さんの話していたことですが、クロロの能力は、相手の能力を奪うというもので、奪われた相手はその能力が「使えなく」なります。
1次的に何らかの形で能力が使えないというのは今までも出てきましたが、全く能力が「使えなく」なるというのは、極めて特殊です。
そして、現在この状況になっているのが主人公のゴン。
ゴンはキメアラント編で1時的に強大な力を発揮手にする代わりに死にかけ、一命を取り留めたものの、現在念能力が「使えない」状況です。
もしここでヒソカも能力が「使えない」という状況になれば、念能力が使えないという点でゴンとの接点が生まれます。
ハンターハンターという作品は、常に主人公のゴンと仲間が共に冒険をするという形で話が進んできました。
キャラクターの設定上、どうしても主人公だけでは絵的に盛り上がりませんし、性格上的確なツッコミ役や導き手がいなければ上手く話が回りません。
今までの最大の相方であるキルアは、妹を助けたことで一旦物語の主軸からリタイアしました。
そうなると新たなパートナーを作らなければゴンを話の主線に復帰させられません。
そこに使おうとしているのが、クロロに能力を奪われ、ゴンと同じく念能力を「使えなく」なったヒソカなのではないかというわけです。
つまり、ヒソカVSクロロの決着は、ヒソカが負けて能力が奪われ、ゴンとの接点が生まれるというもの。

後半はほとんど岡田斗司夫さんの説ですが、これが1番納得のいく展開であるように思います。
まあいつものことですが、自信満々に展開予想をしても大半は的外れで終わります。
寝る前に勢いで書き散らした戯言なので、あまり間に受けずに読み流して頂けたら幸いです。。

HUNTER X HUNTER 1 (ジャンプ・コミックス)

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「見えないだけ」考察〜世界は美しいという主題とアンサーとしてのアイスプラネット〜

今年の教科書の大幅改訂により、谷川俊太郎さんの「明日」に替わって新たに掲載されることになった牟礼慶子さんの「見えないだけ」という作品。

サブタイトルの「年若い友へ」というのが個人的には好かないのですが(笑)、それでも内容は非常に好きだったりします。
特に、次に掲載されている椎名誠さんの「アイスプラネット」との繋がっていて、非常に練りこまれた選出だと思います。
 
まずは「見えないだけ」の内容について。
作者が見えないだけで確かに存在していると言っているものは、最初の対句で表された「もっと青い空」と「もっと深い海」。
そしてその次に続けて並べられている「優しい世界」「美しい季節」「新しい友だち」の全部で5つです。
作品は、「優しい世界」は胸の奥で言葉によって育まれ、「美しい季節」は次の垣根で蕾が示してくれると言っています。
言葉によって育つ優しい世界も垣根の蕾が知らせる美しい季節も、ともにこれから来る未来を暗示したものと考えられます。
これらを踏まえれば、3つ目の「少し遠くで待ち兼ねている新しい友だち」も、物理的な距離が離れているのではなく、将来出会うであろう素晴らしい友と考えるのが妥当でしょう。
つまり、前の2つは物理的に未だであったことのないもの。
後ろの3つは未来にいずれ出会うかもしれないけれど、まだ時間的に出会っていないもの。
この作品では空間的に、そして時間的に未だ出会っていないものが並べられています。
そして、それらは確かに存在しているのだけれど、「まだここから見えないだけ」とされます。
僕はこの締め方がいいなあと思いました。
「ここ」とは発展途上の子供たちの現在のこと。
まだ皆は気づかないけれど、世界には楽しいことがあちこちに散らばっている。
そんなメッセージがこの詩から読み取れるように思います。
僕がこの詩から感じたのは、「世界は美しい」という作者からの強烈なメッセージ。
そして、成長して将来それに気づいて欲しいという作品の願いでした。
 
「見えないだけ」をこんな風に解釈すると、次に「アイスプラネット」が並べられていることが妙にしっくりきます。
「アイスプラネット」という作品に込められているのは、世界は広くて想像を越えたワクワクすることに溢れているということ。
そしてそれを感じるための感度を育てて欲しい。
筆者の言葉で表せば「不思議アタマ」を持って欲しいというメッセージが「アイスプラネット」からは伝わってきます。
そして、そんな「不思議アタマ」を身につけるには「いっぱい勉強して、いっぱい本を読むこと」が重要とのこと。
この言葉で「アイスプラネット」は締められています。
 
僕は、この「見えないだけ」の最後と「アイスプラネット」の最後が、問題提起とそれに対するアンサーの関係になっていると感じました。
「見えないだけ」では、身の回りにワクワクすることや美しいものがいっぱいあって、皆はまだそのことに気づいていないだけだよと、世界の見方の切り口を教えてくれています。
しかし、具体的にどうすればいいかは書かれていない。
それに対して、「アイスプラネット」では、主人公のお母さんに象徴される「普通の人」にはだらしない大人にしか見えない「ぐうちゃん」という存在を通して、世界に広がる常識の枠を超えた驚きを提示しています。
そして、それらに気づくために必要な具体的な行動が「勉強と本を読むこと」というわけです。
「見えないだけ」で提示された物の見方に対して、「アイスプラネット」では具体的にそれを身につける方法が述べられます。
この切り口の提示とそれに対するアンサーという関係から、教科書を編集した人の熱意のようなものを感じました。
 
それまで「見えないだけ」の代わりに載っていた谷川俊太郎さんの「明日」も前に進むために一歩踏み出せという明確なメッセージはありましたが、どこか個人的にはしっくりこない部分がありました。
それが「見えないだけ」では、一歩踏み出すのではなく、素晴らしいそとはそこら中に広がっているけれどそれに気づかないだけというものになります。
「見えないだけ」と「明日」の違いは一歩生み出すことを説くのか、すでに身近にあるワクワクを見つけるのかということ。
「アイスプラネット」で世界の大きさを伝えるのであれば、やはり「明日」よりも「見えないだけ」の方が繋がりが見えます。
作品をこえたメッセージ性があるように感じた中学2年生の国語の教科書。
今回の改訂は素直に面白いなあと思いました。
 
 
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