新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



公募推薦やAO入試で落ちる子に抜けている、たった一つの「ある」視点

今年(17年)版として少し詳しく複数回に分けて書く予定です。

よかったらこちらもよろしくお願いします。

AO・推薦入試で周りに差をつける視点①受かる人は「顧客視点」と「コンセプト」がはっきりしている - 新・薄口コラム

 

少しずつ公募推薦やAO入試の募集やそのための説明会が始まってきました。
この時期になると、面接や小論文の相談をチラホラ受けます。
一応僕も塾の看板の元にお仕事をさせていただいている身なので、どうしても立場上教室では言いづらいようなことがあります。
それは当然入試に関しても。。。
ということで、推薦入試やAO入試の戦略について、あまり塾では言わない観点から考えてみたいと思います。
よく、面接や自己推薦書を書く際に、どのようなことを書いたらいいだろうという相談を受けるのですが、僕は大学によって求める人物像が違っているので一概には答えられないといいます。
因みにここでいう「求める人物像」というのは、いわゆる「自主性がある」とか「リーダーシップを持っている」とかいうことではありません。
もっとシビアな、学校側の事情に基づいた「求める生徒像」です。

僕は、大学側が推薦入試やAO入試といった入試形態をとる意図は、大きく2つあると考えています。
一つはより優秀な人材が他校に流れないように囲い込むために設定している場合で、もう一つは最終的に定員割れをしないために人員を確保するために設定している場合です。
前者のロジックで推薦入試やAO入試を行っている大学は、いわゆる人気校。
関東で言えばMARCHクラス以上大学や日東駒専、関西なら関関同立、産近仏龍あたりの大学でしょう。
これらの有名大学は放っておいても一定以上の受験者が来ます。
だから、推薦入試やAO入試で取ろうとする人材は、一般入試ならばより上位の学校に流れてしまうような優秀な生徒か、中国語が出来るとか部活動で優秀な成績を収めたとかの一芸に秀でた生徒さんになるわけです。
それに対して、後者のロジック(一定の定員を取り合えず確保したい学校)で公募推薦やO入試を設定している大学も少なからずあります。
もちろんそんなことを公にいうわけがありませんが、学校が入学者の授業料によってなりたっており、それを管理する入試課というものが設定されている以上、そこに一定のノルマがあり、それを達成したいという方向に当事者が動くのは明らかでしょう。

優秀な人材が欲しいという理由で設置した推薦入試と、一定数の生徒を確保したいという理由で設定した推薦入試とでは、合格基準が異なるのは当然です。
優秀な人が欲しいと考える学校が期待するのは、他生徒よりも明らかに優秀とわかる実績や態度です。
だから、こうした学校を狙うのであれば、学業でお部活動でもプライベートでもいいですが、いかに他の生徒と比べ秀でた結果を残しているかをアピールすることが重要に鳴ってきます。
「部活動でチーム一丸となって頑張りました」みたいなことではなく、「個人で全国大会優勝です」みたいな方が響くはず。
それに対して、一定数の定員を確保したいと思っている学校は少し違います。
こうした学校の入試課の担当者が求めている生徒像を想像してみましょう。
彼らにとって一番避けたいのは、入学させたはいいけれど留年したり退学してしまったりすることです。
そうなると選定の基準には少なからず、「入学したらキチンと授業に出席する」だとか「絶対に学校を止めないだろう」という部分になってくるはず。
先にあげた学校では有効であった個人の著しい成果よりも、この子は卒業まできっと学校に通ってくれるだろうなという安心感が、面接官には響くようになるのです。
こうした意図を汲んだ上で有効な面接でのアピールポイントは、仮に結果がでていなくても何かに取り組んできたという「継続力」や「何事にも努力する」という姿勢です。
優秀な人を求めている学校に対して「努力が~」などといっても何もプラス点にはなりませんし、逆に定員を確保したい学校に対して結果ばかりアピールしても「才能はあるけど辞めるかもしれない不安感が拭えない」とかだったらやはり好印象にはなりえません。
自分が志望する学校がどちらに属していて、そして自分にはその点でアピールし得るポイントがあるのかどうか。
そこを考えることが重要です。
面接や志望動機の書き方において一番重要なことは、相手が求めていることと自分の持っているエピソードにおいて、どの程度弁図的な重なりがあるかを考えることなのです。
そこをせずに自分の言いたいことばかりを伝えても、他と差別化は出来ませんし、100%学校に併せた模範解答をしたところで、やはり差別化にはなりません。
面接の練習や文章に起こしたりする前に、まず自分と学校の接点を探す。
これが非常に重要になってくるのです。

 

アイキャッチは大学入試にロジックを持ち込んだドラゴン桜

 

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

 

 

 

まどマギの姉妹作品としてのモブサイコ〜少年少女は不思議な力を失って大人になる〜

「少女は絶望を知って、大人になる」
見方は人それぞれで、その人なりの解釈があるということを前提に、僕は魔法少女まどかマギカという作品をみた時、こんなメッセージ性があるように思いました。
魔法少女まどかマギカは、普通の女の子が何でも一つだけ願いを叶えてもらう代わりに、魔法少女となって様々な魔女と戦います。
作品の後半で語られるその魔女の正体は、実はかつての魔法少女
魔法少女は戦いに疲れ、自分の運命に絶望すると、やがて魔女になってしまいます。
魔法少女たちはソウルジェムという自分のココロを綺麗に保つためには、永遠に魔女と戦い続けなければなりません。
しかし永遠に戦い続けること、つまり永遠に少女のままでいることはできるわけもなく、やがては魔女となってしまう。
まどマギという作品では、魔法少女になったときからやがて魔女にならなければならない運命を背負った少女たちが描かれています。
僕はこの「魔法少女」と「魔女」の関係は、少女がやがて大人になることのメタファーであると考えて作品をみました。
いろいろな夢を見る子供にとって、様々な現実と折り合いをつけながら生きている大人はまさに「魔女」。
その魔女=大人にならないために抗うけれど、当然いつかは大人にならなければいけません。
魔法少女まどかマギカにはそんな、大人になることへの拒絶と、大人にならざるを得ない現実が描かれているように思いました。


僕は3人以上から薦められた作品は好みに関わらず見ることにしているのですが、当時何人もの友達に薦められてまどマギをみた時に持ったざっくりとした感想が上のようなものでした。
当時まどマギに衝撃を受け、子供が主役の物語における「魔法使い」という位置づけについて、 チラホラ考ていました。

先日、とあるきっかけでモブサイコ100というアニメをみた時に、久しぶりにこの「魔法使いと大人」問題を思い出しました。
モブサイコ100は、ワンパンマンの作者の作品です。
主人公は誰よりも強い超能力を持つ少年。
しかし本人は、超能力なんて持っていても役に立たないと、常に目立たない人並みの生活を送っています。
そんな主人公の周りには、超能力に憧れる大人や子供たちが溢れていて、モブサイコには主人公モブを中心に彼らとの様々なやりとりが描かれています。
僕がこの作品をみて面白いなと思ったのは、全編を通して登場する「超能力に憧れる大人たち」です。
彼らは超能力を持っている人々に憧れ、あるいは超能力を持つ大人たちはその力を使って世界征服のような壮大な夢を語ります。
そんな「大人」たちと対峙する主人公たちは、「大人になれ」と言って彼らと戦う。
モブサイコに登場する多くの「大人」が超能力に憧れるなか、主人公モブの師匠霊験(名前です)だけは、超能力を持たず、また超能力に憧れない人物です。
そして、彼は主人公がピンチの度に超能力が使えない身で戦いに割り込んで、「超能力なんて夢を見ていないで大人になれ」と敵を諌める。
この作品において主人公を取り巻く「大人」の中で、霊験だけが本当の意味での大人として描かれます。
モブサイコでは、超能力に憧れる大人が「大人になれなかった子供」として描かれています。
超能力という夢のようなものに頼らず地に足つけて現実と向き合えというのが、この作品から僕が受けたメッセージです。

まどかマギカが「大人になりたくない少女」を描いている作品として捉えるならば、モブサイコは「大人になれなかった大人」を描いた作品と言えるでしょう。
魔法や超能力といった不思議な力を失うことで大人になるという点で、僕はこの2冊品に共通性を感じました。
この2冊品を比べた時に面白いのは、両者が同じモチーフの中で伝えようとしているメッセージ性の違いです。
魔法少女まどかマギカでは、どんなにあがいてもいつかは大人にならなければならないということが描かれています。
それも魔女という敵として。
まどマギにおいては、大人とはできることならなりたくないものです。
それに対してモブサイコでは、自らの意志で地に足をつけて大人になろうという形で「大人になるということ」が描かれています。
2000年代が終わった時に発表されたまどかマギカが「嫌でも大人にならなければならない」ことを伝え、2010年代半ばで発表されたモブサイコでは「いい加減大人になろうぜ」と語られている点に、時代の空気を感じます。

「不思議な力を失って大人になる」というのは、多くの作品で描かれてきたモチーフでした。
街に出て働く中で成長し黒猫と会話できる力を失った魔女の宅急便も、囲碁棋士として成長していくうちにきっかけをくれた背後霊の藤原佐為が見えなくなってしまうヒカルの碁もそう。
こうした「不思議な力を失って大人になる」というモチーフの最先端としてモブサイコ100という作品を見ると、非常に考えさせられるものがあるように思うのです。



マンガで読み解く男女のすれ違い〜少年マンガVS少女マンガ

「信じてくれるなら話さなくても」
「悪いことしてないなら話せるはずじゃない」
「僕を信じてくれないんだ」
「私を信じて話してくれるんじゃないんだ」
バクマンの8巻「頑固と素直」に出てくる、僕がこの作品で最も好きな場面の一つです。
男女の「信じる」の定義の違いが、とてもよく描かれていると思います。
物語の主人公、サイコーは、自分がやましいことで隠し事をしているのではないと「信じて」欲しいといい、ヒロインの亜豆は、ありのままを話してくれれば納得するから自分を「信じて」全てを話して欲しいという。
どちらも同じ「信じて」ですが、そのベクトルは反対方向を向いています。
皆さんはサイコーと亜豆の「信じて」について、どちらの気持ちにライドしたでしょうか。

おそらく男の人ならサイコーの言い分の方が理解できて、女の人なら亜豆の言い分の方が分かる!となるのでは。
サイコーの「信じて」は少年マンガ的で、亜豆の「信じて」は少女マンガ的。
バクマンのこの場面が好きな理由は、少女マンガ的な心の動きと少年マンガ的な心の動きが対照的に描かれている点にあります。
少年マンガには少年マンガらしいロジックがあり、少女マンガには少女マンガらしいロジックがあるというのが僕の持論。
それならば、少年マンガで育ってきた人にはどこか「少年マンガらしい」思考回路が身についていて、少女マンガで育った人は、「少女マンガらしい」思考回路があると思うのです。
僕が思うそんな違いをいくつかまとめてみました。


「1番好きだから最優先」と「1番好きだから後回し」
僕が少年マンガと少女マンガにおいて1番大きな違いだと考えているのは、この部分です。
1番大切な人だからこそ最初に助けるのか、1番大切な人だからこそ最後に助けるのかという違い。
少女マンガは前者で、少年マンガは後者。
王道少女マンガでは、「お前が好きだ。だから世界の全てを敵に回してもお前を助ける」となります。
それに対して王道少年マンガの場合は「お前の事を誰よりも愛している。だから全てを救った最後にお前の元に戻ってくる」です。
少女マンガでは好きだからこそ最優先で、少年マンガでは好きだからこそ後回しになる。
ハチミツとクローバー」も「海月姫」も主人公を取り巻く男の子たちは、主人公の女の子のために動きます。
それに対して「ドラゴンボール」も「タッチ」も、好きな人よりも先に世界を救ったり夢を追いかけたりする。
「好きだから全てを片付けて最後に君を迎えに行くよ」が少年マンガで、「好きだから全てを投げ出して君を迎えに行くよ」が少女マンガ。
そして、少年マンガを読んで育った僕たち男は、どこか少年マンガ的な価値観に共感する節があります。
少女マンガで育った人は、少女マンガ的な方に共感するのだと思います。


「汚い汗も全て描くからリアル」と「汚い汗を描かないからリアル」
評論家の岡田斗司夫さんが以前、「汚いものまで忠実に描いてしまうのが少年マンガ的なリアルな描写で、目に写したいものだけを徹底的に描くのが少女マンガ的なリアルな描写」と言っているのを聞いて、妙に納得しました。
少年マンガの中では、自分の目にどう映るかではなく、実際のものにできるだけ忠実に描かれます。
それが少年マンガの「リアル」
それに対して少女マンガでは、主人公の目を通して見えた景色がより忠実に描かれています。
これが少女マンガのリアルな絵。
情景を書き込むのが少年マンガのリアルで、心情を書き込むのが少女マンガのリアルだと思うのです。
だから少年マンガの汗は汚くて、少女マンガでは主人公がかく汗は綺麗に見える。
少年マンガの汗は誰がどうかいても「汗」であるから綺麗ではいけません。
逆に、少女マンガの汗は人物のいろんな思いまで込められて描かれているので汚いわけにはいきません。

教室の絵とかでもそうです。
教室のゴミや机の汚れまで書き込むのが少年マンガで、心情的に強く残る部分を中心に書き込むのが少女マンガ。
同じリアルな描写でも、情景を忠実に描くのか、心情を忠実に描くのかで違います。
男視点で見ると「心情的なリアルなんてリアルな描写ではない」と思ってしまいます。
しかし、実際に僕たちが自分の目で見るときは、好きな人と話しているときにいちいち周囲の情景すべてにピントがあっているわけではなく、他のほとんど全てに意識は向いていません。
その意味では心情に忠実に描かれた少女マンガ的な絵の方がリアルとも言えるのです。

「強敵と書いて『とも』と読む」と「親友と書いて『とも』と読む」
友達に関しても少年マンガと少女マンガではアプローチが違うように思います。
少年マンガでよくあるのは、かつての敵が仲間になるというパターン。
ここで注目すべきは、仲間となったとは言っても、完全に主人公の味方になったというわけではない場合が多いという点です。
決して主人公の側についたわけではないが今回は手を貸してやる。
少年マンガにはこういったスタンスの友情がよく出てきます。
僕はこれをベン図型の友情と呼んでいます。
普段は主人公と相容れない存在であるし、そこではお互いに敵とみなしているが、ベン図のようにお互いの主張が重なる部分に関しては協力し合う。
これが少年マンガ的な友情の特徴です。
少年マンガの友情がベン図だとすれば少女マンガの友情はベクトルに近い気がします。
もちろん全てがというわけではありませんが、ベクトルが「向き」と「大きさ」で出来ているのと同じように少女マンガの友情はどれくらい同じ方向を向いているかとその思いの大きさで出来ています。
そのベクトルが逸れてくることと、思い大きさの差で描かれるのが「すれ違い」です。
少年マンガ的な友情は、お互いに重なっているベン図の共有空間においてどれだけ濃密な関係を結ぶかで、少女マンガの友情はどれだけベクトルの向きと大きさを互いに揃えられるかです。
だからワンピースでルフィは敵の海軍大将藤虎に「オレおっさんのこと嫌いじゃねえから」といい、藤虎は「お前さんきっと優しい顔してるんだろうねえ」となるのです。
或いは君に届けのケント君と矢野ちんは、その向かうところと思いの大きさの違いですれ違いが少しずつ大きくなり、やがて別れてしまうのです(これは友情というか恋愛ですが)。


上に挙げたのはパッと思いつく少女マンガと少年マンガの違いですが、こういったものはまだまだあります。
少年マンガが苦手という人も、或いは少女マンガはちょっとという人も、それぞれの考え方の傾向を知って読めば多少は作品世界に没入できるように思います。
また、男女のコミュニケーションに関しても、少年マンガ的思考と少女マンガ的思考を理解しておくと、いろいろと上手くいくことがあるはずです。
両方を読んでみると、いろいろな気づきがあって面白いかもしれません。

アイキャッチバクマンの8巻[これはDVDだけど]

手探りで、革命。

現在の家庭で子供たちに将来のために親からのアドバイスとして言われる言葉で一番多いのは、「いい会社に入るためにしっかり勉強しなさい」だと思います。
「明日の狩りのために、勉強なんかやってねぇで肩を鍛えろ!」だとか、「春の田植えに備えるために、体力をつけなアカン!」なんていうアドバイスをされることはほとんどありません。
もちろん家が大農家で、将来はそこを継ぐことが決まっているとかなら別ですが。。。

今の時代に肩を鍛えろとか体力をつけろという親からのアドバイスよりも、しっかり勉強していい会社に入りなさいといったアドバイスが多いのは、今が勉強して会社に就職するのが一般的な社会だからです。
蒸気機関の発明により機械化が進んだため、仕事は分業、そして働く道具の揃っている場所に行って働くというのが基本になりました。
分業化された仕事は、誰でも一定の成果が上がるようにパターン化されています。
そうなると、最低限の「知識」が必要になる。
例えば、レーン作業であるならば自分の都合で手を休めないだとか、電気をつけるには壁にあるスイッチを押すだとか、そういう基本中の基本から、注文を読み取る読解力みたいなものまで。
ここでの「学び」は、一部に特化したものでは困ります。
彫刻を作らせたら右に出るものはいないけれど、漢字もロクに読めないみたいな人材ではまずいわけです。
どんな会社の労働に従事しても、最低限の仕事ができる能力を身につけることが勉強です。
そのための基本的な知恵を教えるのが学校。
これが通説として正しいかは分かりませんが、少なくとも僕には産業革命以来の社会はこんな感じで成り立っているように思います。

産業革命が起こる前の社会では、「しっかり勉強していい会社に入りなさい」という言葉はあったのかと言えば、間違えなくそんなこと言われていなかったと思います。
そもそも現代のような会社という組織がありません。
例えば、日本の江戸時代くらいの社会であれば、仕事は何処かに丁稚に行くか、家業を継ぐことが一般的な「仕事の就き方」でした。
そうなると重要なことは、どの分野にも使える最低限の知識などではなく、その分野で役に立つ、実用的なスキルです。
そんなもの学校では教えられません。
だから、教育というのは学校ではなく家庭で行うことが中心だった。
江戸時代のような社会では、仕事に就くとは家や丁稚先の仕事を継ぐことなので、そこで言われるアドバイスは「しっかり勉強していい会社に入れ」ではなく、「俺の仕事を手伝って、しっかり家を継げ」だったのではないかと思います。
もっと遡って農業をして暮らしていた時代になれば「一年中畑の面倒を見られる体力をつけろ」かもしれませんし、狩猟をしていた時代であれば「明日の食事を逃さないために、動物を狩れる力をつけろ」だったかもしれません。
何れにせよそれは、その社会の中で必要とされるアドバイスであり、同時にそのアドバイスは違う時代に移植すればまるで役に立たないものになってしまうものであったに違いありません。

時代が安定していればまるで問題はありませんが、ライフスタイルが変化するちょうど真っ只中にいる人にとってはこのアドバイスは一大事です。
例えば狩猟から農業へとライフスタイルが変化しようとしている時であれば、子供達の世代にとって必要になるのは、「明日を生き抜くための狩りのスキル」ではなく、「1年後の生活を安定させられる農作物を育てるチカラ」です。
狩猟にとって絶えず獲物を求めて移動することが正解であっても、定住して作物を育てる農業にとってはそのアドバイスは大間違いなわけです。
変化を感じ取って「農業の常識」に自分を合わせられた人は、農業がベースとなる社会で生きていくことができます。
しかし、社会が狩猟から農業へと移行しているにもかかわらず、狩猟の常識ばかりを積み上げたとしたら、その先にあるのは緩やかな衰退でしょう。
そして、こういった親の世代の常識と子が生きるこらからの社会の常識が違う移行期には、親からのアドバイスが大きく足を引っ張る可能性があります。

通常、親の知恵は役に立ちます。
それらの知恵は親が様々な経験を繰り返した中で手に入れた、成功のためのある種の方法論だからです。
子どもが思う「こうすべき」なんかよりも、様々な経験を通して学んできた親がいう「こうすべき」の方が正しいのは容易に想像がつきます。
ただしこれは、あくまで「同じ常識」を共有している世代においてです。
子どもたちがこれから生きる時代がちょうど変革期で、これから新し社会が始まるとしたら、その社会における常識に関しては、親も子どもも「素人」です。
むしろ、それまでの経験がある分、親世代には新たな社会に対応するのは時間がかかる場合さえあります。
そうなった場合、親の経験に基づくアドバイスというのが、全く役に立たない場合がでてくると思うのです。

ちょうど今はIT革命何て言われています。
ちょうど狩猟から農業に変わった時のように、緩やかに社会のルールは変わっていくことでしょう。
そうなったとき、恐らくその先の社会では今の僕たちにとって「勉強なんかしないで家を手伝いなさい」という親からのアドバイスが古臭く感じるように、「勉強していい会社に入りなさい」という言葉が古臭くなっているように思います。
それがどんな社会になるのかは分かりませんが、既存の常識で動く社会が緩やかに縮小して、代わりに新しい常識で動く社会がやってくることは想像できます。
その「新しい常識」が生まれる社会での方法論を手探りで模索していくというのが、今20代の僕たちがしなければならないことであると、なんとなくそんな風に思うのです。


アイキャッチは先を見るのが抜群に上手いひろゆきさんの本

ホリエモン×ひろゆき 語りつくした本音の12時間 「なんかヘンだよね・・・」

ホリエモン×ひろゆき 語りつくした本音の12時間 「なんかヘンだよね・・・」


スキルとしてのNPO

「とおるちゃん、NPOやらない?」
大学時代の気の合う友達に誘われて、春先から始めたNPOのお仕事。
内容は主に東京にある団体の関西支部を立ち上げるというもので、だんだんとメンバーも集まり形になってきました。
先日その友達と電話をしていて、NPOで活動する目的やパラレルキャリアという選択に関する話になりました。
電話でいろいろ雑談したあと、自分のモチベーションは何なのだろうと考えたのですが、僕にとっては、「社会人の仕事を勉強できる」ということが1番大きい理由なんだろうなと思いました。
18歳の時から塾のバイトを始めて、職場は変わったものの、今も塾の先生を続けています。
さすがに足掛け8年も身近に仕事を見てきたので、塾講師として必要なスキルやざっくりとした業務のフローは大体わかります。
反面で、それ以外の仕事を全く知らないので、名刺交換の仕方だったり、ビジネスメールの打ち方だったり、営業の仕方、あるいは部署を超えたコミュニケーションの仕方みたいなことを僕は全く知りませんでした。
そして何よりも、誰かと連携して仕事を進めていくときのスピード感みたいなものも僕には新鮮でした。

本来なら社会に出て1番初めに学ぶであろう様々なビジネス常識を全く持ち合わせていない僕(笑)
基本的にマナーや常識みたいなものは気にしない方なのですが、知った上でマナーを気にしないのと、知らずにマナーを踏み外すのではまるで意味が違います。
名刺交換の仕方やビジネスメールの打ち方、あるいは敬語くらいは知っておかなければ流石にまずいなあと、ここ最近思っていました。

NPOで活動していると、嫌でも対外的に接点を持つことがあります。
必然的にメールのやりとりや、名刺交換みたいなことをしなければなりません。
そうなると嫌でもそれらのことを学べる。
また、広報をする際にはプレスリリースを打ってみたり、フライヤーやチラシの違いを学べたりといった、告知のフローが学べます。
何より僕にとって大きいのは、他の人がどのようなスピード感で「業務」を処理していくのかを学べることでした。
企画書の書き方やスケジュール管理表の作り方は、やはりその人が所属する企業によって色があります。
そういったいろんな組織の人間の、いろんな部署の人間の仕事の進め方が、外の仕事をほとんどしらない僕にとっては新鮮です。

先日、行きつけの居酒屋の大将と話す中で、「社会を知らない先生が、子供たちにどうやって『いろいろな仕事』を教えるんだよ」という話になりました。
やっぱり塾で教えていても、他の仕事とは違うんだろうなあということは感じます。
BtoBの仕事とくらべればもちろんのこと、BtoCの仕事と比較してもかなり他とは違う職業なきがします。
それが学校の先生になればなおさらです。
僕らは立場上「先生」と呼ばれてしまうことに対して、もっと謙虚になっていなければいけないんだろうなと常々思います。
そして他の仕事を見ておくことの大切さ(それ以前に僕の場合は最低限のビジネスマナーを学ぶこと)が必要なのだというのを改めて感じました。

そんなわけで、NPOでいわゆる普通の仕事を学べるというのは僕にとって結構大きなことだったりします。
そして、それが僕にとって最大のモチベーションであるように思います。
スキルとしてビジネス英語を身につけるということもいいとは思いますが、意外にNPOみたいな組織で他の職種の人の仕事を学ぶというのも長期的に見たとき、大きな武器になる気がします。
「スキルとしてのNPO
そういった捉え方もアリなんじゃないでしょうか?


アイキャッチはうちの代表の著書

ゆめのはいたつにん

ゆめのはいたつにん


生じる価値と生じるコスト

ちょうどお昼ご飯を買おうとしていたときに、たぶん中学生?だと思われる子が、ターミナルを出発したバスを無理やり止めて、扉を叩いて乗車をしようとしているのを見かけました。
「子供なんだから…」と思われるかもしれませんが、僕はその子の行為を非常に愚かだなあと感じながら見ていました。
結局その子はバスへ乗せてもらえなかったのですが、その後僕の職場に届くくらいの声で絶叫していました。
性格上何でも数値で考えたい性質なので、その子の嘆きはいくらくらいになるのだろうと計算してみました。
もしどうしても所定の時間に行かなければならない場があったのならば、その子はタクシーという選択だってできたはず(もちろんお金がないことも考えられますが、初乗りで一つめのバス亭まで先回りしてもらうなどもできなくはありません。)
初乗り運賃が640円で、バスの運賃が230円。
もし500円しかなかったのなら仕方がないかもしれませんが、仮に1000円持っていれば、いくらでも対策は練ることができます。
それをしなかったということから、申し訳ないけれどあの子にとってバスに乗り逃したことに対する「嘆き」は410円以上の価値はないということです。

次に、バスを止めることのコストを考えます。
昼時で、バス停に並んでいた人数から考えると、おそらく20人は乗っていたと考えられます。
その子がバスの前に行き、バスを止めて叫んでいた時間はおよそ2分。
仮に乗車中の人が一時間に生み出す価値を1000円と換算すると、20000円を2/60時間で割り、666円。
タクシーの初乗り以上です。
その子は410円分の「嘆き」のために666円の周囲への迷惑は構わないという判断をしたということになります。
彼がバスを止めたことに対して非常識とかそういうことは思わないのですが、自分の失敗(バスにのりおくれる)ということにより生じたコストを、自分が感じるよりも多くのコストを払って無理やり実現させようとしていたところに「?」と思ってしまいました。

僕は、年齢に関係なく、自分の行為によって生じるコスト計算をするということは非常に重要だと思っています。
というか、その「コスト意識」は年齢に関係ないものです。
僕はバスを止められて迷惑を被ったわけでも、なんでもありませんので、その子の「行動」に対して思うことは全くありません。
それ以前にあれこれいう資格はないので。。
ただ僕は「コスト意識」に関して考えるいい題材だと思ったので、バス停の彼をネタにさせてもらいました(ゴメンネ!)

浪費魔の倹約術

消費と投資と博打。
お金の使い方にはこの3種類があると思っています。
消費は文字通り、欲求に基づいてお金を使い、○円という価値をお金以外の「もの」と等価交換する行為です。
例えば、1000円の雑貨があったとして、それに自分が「1000円の価値がある」と判断して購入した。
これは消費です。

それに対して投資とは、投入した金額よりも多くの価値を再生産できるお金の使い方です。
例えば僕は今、はてなブログProという有料のサービスを利用していますが、有料にしているのはアドセンスアフィリエイトで払った額の倍くらいは回収できると踏んだからです。
これは分かりやすく払ったお金<手に入れるお金という例ですが、「価値」はお金には限りません。
僕は有料メルマガを幾つか行動していますが、これも間接的に仕事などで役に立つと考えているからです。
実際に話のネタや事象の切り口として、支払った額以上の価値が生み出せていると考えています。
これが投資。

最後は博打。
僕の中の定義では、理屈上は損することが大きいけれど、もし当たったら大きなリターンが手に入るものとしています。
具体的には[期待値<成功した時のリターン]という式が当てはまるもののことです。
最もわかりやすいのは宝くじです。
たしか、宝くじが一口300円であるのに対して、それにより返ってくる金額の期待値は半分程度。
もしかしたら当たるかもしれないけれど、確率的には価値が半分になることにお金を使う。
そして、その「大当たりした時の可能性」を買う行為。
これが僕の中の博打です。
この定義にあてはめると、パチンコやスロットはもちろん、声優学校やマンガの専門学校に行くというのも、僕にとっては博打です。

僕は財テクみたいなことには全く興味がなく、守るものもない若いうちにはむしろ稼いだ額は綺麗に使うべきくらいに思っているのですが、一応自分なりにお金がマイナスにならないための理屈みたいなものを組み立てています。
それが消費と投資と博打という3パターンのお金の使い方による考え方です。
論理式は以下の2つです。
①月単位で消費<投資にすること
②月単位で消費+投資>博打にすること
もちろん全部がお金で表される「価値」ではないため、額面の上ではマイナスに見えることもあるかもしれませんが、これを基準にしておけば、取り敢えず長期的にはマイナスになることはないだろうと考えています。
完全に休日にしか着られない服を買うのは消費、職場に着ていく服を買うのは投資(もちろん減価償却を考えた上で、ですが...)、自分の欲求を満たすだけのアダルトコンテンツは消費(笑)、ブログや仕事のネタになる本は投資といった感じです。
もちろんこれは、独り身でお金の使い方を単純化できる場合にしか成り立たないことですが、逆に言えば独り身の人にとっては、意外と役に立つ判断基準ではないかと思っています。
不必要な出費を抑えるという意味においても、そして不要な倹約を避けるという意味においてもです。

そもそもどれくらい稼いだのかも、どれくらい使ったのかもよく知らない無頓着な人間の節約術?なので、全く役に立つとは思えませんが、奇特な方がいるのなら、ぜひご活用ください(笑)

 

 

アイキャッチホリエモンのこの本