新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ゆとり世代の取り扱い説明書⑤若者は目上の人を尊敬しない

今の若者は年上を敬わないなんていわれますが、若者の立場から言えば、逆に「どこを敬えばいいのか?」ということなんだと思います。
誤解の無いように言っておくと、僕は決して今の若い世代が大人に失望しているとかいうことを言いたいのではありません。
そうではなくて、昔若者が年上を敬うことが当たり前だったときと現代を比べたら、システム的に年上を敬おうという意識にはなりづらいだろうということが言いたいのです。

そもそもなぜ年上を敬うのか?
それが当然みたいな思考停止したことを言っても仕方がないので、まずは「かつて若者が年上を敬っていた理由」について考えてみたいと思います。
その根拠の一つとして、儒教的な考え方が根付いていたということを挙げる人がいるかもしれませんが、僕はちょっと違うところに根拠があると考えています。
一昔前までの若者が年上を敬っていたのは、儒教的な教えが根付いていたというようなある種の「理想論」ではなく、シンプルにその必要性があったからであると思うのです。
サラリーマンという働き方が定着するまで、人びとは手に職を付けて生きてきました。
この枠組みの中では、自分の持つ技術を高めることと、技術を継承してもらうことが不可欠です。
当然、技術は基本的に経験に比例して身につくものなので、年上ほど技術に優れているということになる。
かつ、技術は継承されるものなので、そこには必ず師弟関係のような構造が生まれます。
技術的に優れているため具体的に尊敬すべき箇所があり、また、技術を継承するためにはある種の上下関係があり、そこに目上を敬うという関係が生まれやすいといえます。

企業勤めが一般的になると、この構造は少し変わってきます。
個人レベルで優秀であるとか、職種レベルでテクニックを持っているということはあるかもしれませんが、あくまで構造レベルで言えば、企業に勤めて労働をし、その対価として賃金を受け取るという働き方は代替可能であることが前提となっています。
職人が技術を用いて価値を生産するのに対して、資本主義社会における労働者は技術や能力ではなく自分の労働力を賃金と言う対価を得るために支払う「人材」となるわけです。
根本に根ざす考え方が代替可能であるというものである以上、そこに「技術に憧れる」という考えはうまれません。
(前でも言ったように個人レベルで突出した人に憧れることはあっても、全体の平均値としてはという意味です。)
こういった理由から、今の若い人たちは目上を敬わなくなったのではなく、今の若者には昔の人びとが当然のように持っていた「敬うべき理由」がなくなり、だからこそ敬わなくなったのだと思うのです。
或いはもしかしたら今の若者が年上を敬わなくなったのではなく、その親の世代が年上を敬う理由を見失って、その価値観のもとに育てられた今の若者世代にはそもそも年上を敬うべきという前提がなくなっているのかもしれません。
いずれの理由にせよ、仮に若者が年上を敬わなくなっているとしても、それは若者世代に原因があるわけではなく、システム上ある程度は仕方のないことであるような気がします。
当然今の若者だって、全く年上を敬わないわけでは決してなく、個人レベルで尊敬する人を見つければキチンと礼儀を備えた対応をするし、尊敬していますという態度が表に出てきます。
ただその対象が自分の環境の中で「出会ったから」というだけの理由で選ばれるわけではないということ。
「最近の若者は」なんていっている人を若者が見たときに感じるのは、おそらく「あのオッサンは目上の人としての『価値』がないと周囲に判断されているんだ」というビジネスライクな評価だけな気がします。
いいか悪いかということではなく、若者はたぶんこう考えているよねというお話。

コミュ症克服クエスト〜相手の気を引く方法を、レベル別に表してみた〜

小学校・中学校時代に全く異性と話した経験なんかなく、気になる女の子ができたら話のきっかけに茶々を入れるというのは、モテないクラスタの人ならば誰もが一度は経験したことと思います(笑)

多分に漏れず僕もそれの経験者で、小学校・中学校くらいの時は、そもそも気になったところで話すきっかけが見つからず、なんとか気をひこうとちょっかいを出してしまうんですよね。

交尾の時期に威嚇しまくっている昆虫と同じレベルです。

異性に限らず、人にこちらを向いてもらうというのは、簡単なようで意外と難しいことだったりします。

得意な人は人を惹きつけるのがものすごく上手い。

僕は人の惹きつけ方には、いくつかのレベルがあると思っています。

それを順に登っていくしか上達しない。

ということで、僕が考える人に気を向けてもらうための方法をレベル別にまとめていきたいと思います。

 

レベル0 ちょっかいを加える

相手から反応をもらう手段としてもっとも簡単にできるのがこれ。

相手の空間に対して直接的に影響を及ぼす訳ですから、反応が返ってこないわけがありません。

そのため、小学生などが異性と話すために用いる最初の手段はこれになることが多いのです。

スカートめくりとか典型例。

で、当然ですがこのやり方では反応こそ返ってくるものの、それは十中八九「不快感」を示すものです。

相手が求めてもいないタイミングで一方的に絡んでくるわけなので当たり前ですよね(笑)

因みにこれ、学校生活とかでは物理的な茶々入れですが、これがネット空間になるとツイッターフェイスブックになるといきなり誹謗中傷で絡んでくる人がここに該当します。

というわけで人の気を引く方法レベル0はこれ。

 

レベル1 オレって凄いやろアピール

実際にちょっかいを出すというアピール手法では、確かに話す機会は生まれるけれど、全く印象が良くならないということがわかった人が次に覚える、他者の気を引く手法がこちらです。

「こんなこともできるんだ」「これもしってる」みたいなオレって凄いやろアピールや、「実は○○ってこうなってるんだ」みたいな需要のない雑学。

レベル0の時が相手に対して直接的なちょっかいを加えたり誹謗中傷をすることで相手の気を強引に引くことであったのに対し、自慢話や雑学は自分のコンテンツで勝負しているという点で多少難易度が上がっています。

しかし、まだまだ「強引に」相手の興味を引くようなアプローチであることに変わりはありません。

「オレって凄いやろ?」も「ねえねえこれ知ってる?」も、相手に無理やり自分を押し込むタイプのコミュニケーションだからです。

この手のコミュニケーションは、自分が気持ちよくなるだけなので、長くやるとウザがられます。

一方的に相手の時間をとって、自分のアピールをするだけだからです。

この自分だけ楽しいカラオケ状態を経験すると、次のステージに進みます。

 

レベル2 世界一不幸な私アピール

人によっては一方的な自慢話を経由せずにこちらから始まる人もいるかもしれません。

「私ってこんなに不幸なんだ」「なんで私ばっかり」みたいな自らの境遇を嘆くタイプの気の引き方。

レベル2のコミュニケーションが深刻化したものが「死にたい」みたいな気を病んだようなセリフです。

レベル0.1の手法は相手に不快感を与えるものであるため、長くは続きません。

長くその方法で接していると、明確に相手から拒絶の意思が伝えられるのです。

それに対して、自分の不幸自慢に関しては直接的に相手に迷惑をかけているわけではありません。

だから、相手から拒絶されることはないのです。

この気の引き方の最大の問題点は、「相手に対して自分に興味を持つことを強要している点」にあります。

「私こんなに不幸で...」という話の切り出し方は、相手をその話に付き合わなければならないという強制力を浴びるのです。

極端な話、友達から「死にたい」って電話が掛かってきたとしたら、その話を聞かざるを得ないんですよね。

こんな風に、相手が自分の話に付き合うことを強制するタイプの気の引き方がレベル2です。

 

レベル3 聞き上手

さらにレベルが上がると、相手の話を聞くことによって相手の気を引くという手法を身につけます。

この段階に来て、初めて相手との良質なコミュニケーションをとることができるようになる。

レベル0〜レベル2までは、すべて自分視点なんですよね。

自分が気を引きたいから相手の時間を奪うという状況。

それがレベル3になると、相手を主役にする形で相手の気を引くというスタイルになります。

それまでの「構って欲しい」という気の引き方とは違って、あくまで相手が主役になっているので、このやり方では相手に負の印象を持たせません。

聞くことにより相手の気を引く。

自称優秀な押し売りセールスマンと本当 当に優秀な営業マンとの違いなんかも、ここにあります。

 

レベル4 エンターテイナー

最後の段階はエンターテイナーです。

聞き上手というのを基本スタンスにした上で、相手に喜んでもらうにはどうしたらいいか?

そういうことを考えながら相手とのコミュニケーションをとることができる。

これが、レベル4に該当する人です。

同じ相手を愉しませるでも、「オレ様の美技に酔いな」的な自分の技を見て楽しんでもらうというのではなく(これはレベル1の気の引き方)、あくまで相手を主役にした上で愉しませるという方法です。

だいたい学年の人気者や、この人についていきたいと思わせてくれるリーダーはこの手の気の引き方ができる。

聞き上手が相手のマイナスを吸収するホメオパシー的な関わり方だとしら、エンターテイナーは相手にプラスを与えるというようなイメージです。

 

 

レベル0〜レベル4をざっくりまとめてみたいと思います。

僕はコミュニケーションとはプラスの感情とマイナスの感情の増減で成り立つものだと考えています。

このプラスマイナスが増減するときに、相手の気を引くことができる。

その定義で上のレベルを作りました。

相手のマイナスを増やすのがレベル0

自分のプラスを増やすがレベル1

自分のマイナスを減らすのがレベル2

相手のマイナスを減らすのがレベル3

相手のプラスを増やすのがレベル4です

こう分類すると、あと1つ「相手のプラスを減らす」コミュニケーションというのがあります。

これを僕は「お説教型」と名付けてはいるのですが、このレベル分けにはうまく組み込めなかったので今回は除外しておきます。

お説教型は相手の気を引かないので(笑)

というわけで僕流のレベル別相手の気の引き方です。

皆さんはどこに属していますか?

 

アイキャッチ

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

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低所得者は成功体験を求めてパチンコ屋に行く!?~パチンコと所得の関係~

先日パチンコに関するエントリを書いたのですが、そこからパチンコについてあれこれ考えるようになって、ひとつエントリのネタが思いついたのでまとめてみようと思います。
考えてみると面白いんじゃないかと思ったのは、「年収が低い人がパチンコにはまる理由」です。
よく、半分批判交じりでパチンコにはまる人は年収が低いみたいな話を聞きますが、それは理屈を付けて説明することができるのか、そして仮にそうだとしたらなぜ彼らはパチンコにはまるのか。
この2点について屁理屈をこねてみたいと思います(笑)

まず、本当に年収が低い人ほどパチンコにはまる率が高いのかということについて考えてみます。
以前何かの本でそんなデータを見た気もするのですが、調べてみてもそうしたデータがでてこなかったので、周辺から攻めることにします。
僕が注目したのは喫煙率です。
喫煙率と年収の間には相関関係があるというのは、厚生労働省の「所得と生活習慣等に関する状況」(http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000020qbb-att/2r98520000021c30.pdf)という資料の中で明らかにされています。
それによると、世帯所得が200万円以下の場合の喫煙率は男37.3%女11.7%、600万円以上だと男27%女6.7%となっています。
ここから「低所得者ほど喫煙の割合が高い」ということがいえます。
次に、パチンコユーザーと喫煙者の関係を見てみます。
こちらは空気清浄機のメーカーさんのサイト(http://www.suntacnet.ne.jp/air/index2.html)からの引用です。
これによると、パチンコ店での喫煙率は最低でも50%ほど(調査対象をヘビーユーザーに限ればさらに増えるのではないかというのがこのメーカーさんの予想です)とのこと。
日本人全体の喫煙率が焼く20%ですので、パチンコ店内での喫煙率50%というのは普通に比べて明らかに喫煙率が高いと判断できるでしょう。
パチンコを行う人は喫煙率が高い、それから喫煙率は世帯収入が低いほど高くなるという2つのデータから、とりあえず「パチンコユーザーの世帯収入は低い傾向がある」ということは言えそうです。

次に、なぜ「低所得者ほどパチンコにはまるのか」ということに関する考察をしていきたいと思います。
パチンコにはまる最大の理由として、ギャンブルの中毒性がよくあげられますが、僕は少し違う角度でパチンコにはまる理由を考えています。
僕の意見は、パチンコにはまる最大の理由は「努力せずに成功体験を得られるところ」にあるというものです。
普通、何かに成功するためには相応の努力と時間を要します。
それが社会人であれば組織のブランドやポジションなど、成功体験をする際に必要な諸条件はますます増えてくる。
仕事や私生活で一定の成功経験を得るには、それなりの努力と時間の投資が必要なのです。
それに対してパチンコやスロットといったギャンブルは基本的に確率論です。
よく「工夫すれば~」みたいなことを聞きますが、前提として機会により確率が完璧に管理されているという事実は変わりません。
そのため自分の実力が結果に与える変化の余地は極めて少ないのですが、これは裏を返すと「自分が行動することなく一定の結果を引き出せる」ということでもあります。
自分の行動が結果に与える影響が殆どないのであれば、いるだけで、そこでお金と時間を費やすだけで「大当たり」という成功体験を得ることができるわけです。
(本人には目押しなどの努力をしたと思い込ませた上で)自分の努力なしに成功体験を味わえる。
年収が多い人ほど社会的ステータスは高く、成功経験をする機会には恵まれている可能性が高く、その機会は下に行くほど下がってくる。
「成功経験」を欲する欲求が全ての人に等しく備わっているとしたら、それを満たすための選択肢としてのパチンコが、所得の低い人にとって相対的に大きな存在であるということができるように思います。
自分の成功欲求をみたすための手段としてのパチンコ。
実はギャンブル性よりもここにひきつけられている人が多いのではないかと思うのです。

以上が僕のパチンコに関する考察(っていうかほぼ想像)です。
なんかまた友達が減りそう。。。

 

 アイキャッチは読んだことないけどこの本

私、パチンコ中毒から復帰しました (中公新書ラクレ)

私、パチンコ中毒から復帰しました (中公新書ラクレ)

 

 

 

スマホゲームとスロットに見る消費社会的メカニズム

中学校時代、学校が終わるとあれこれごまかして部活をサボり、散々ゲームセンターに入り浸ってスロット漬け。
やりたい台があるという理由で10キロ近く離れたゲームセンターもいくつか常連で片道4、50分かけて自転車で通うのはザラ。
そんな本当にどうしようもない中学校生活を送っていた僕ですが(このエントリの冒頭の話に使おうと思い出したのですが、思った以上にダメ人間だったと分かりました…)、今は殆ど興味がなくなってしまいました。
今は付き合いか数ヶ月に一度人間観察で訪れるくらいです。
もちろん当時研究し尽くした(笑)情報と、ちょこちょこと見に行って仕入れた知識である程度スロットの歴史について体系的に話すことはできますが、今の事情みたいなことや、台の情報みたいなものは全く分かりません。

僕があれほど熱中していたスロットなのに、あるときを境にぴったり興味がなくなりました。
自分でもどうしてか分からなかったその理由は、ある現代文の文章の中に書いてありました。
それは2009年のセンター試験の現代文の問題です。
「缶蹴りの政治学」という文章なのですが、この文章ではさまざまな室内ゲームと子供たちの関係性が論じられています。
その中で子供たちの娯楽に関して、以下のようなことが書かれていました。
「次々と新しいゲームが子どもたちに与えられるが、それらは表層だけを変えたもので全て同じ構造を持っている。子供たちがそれに気付いたとき、急激に熱が冷め同じ構造を内包したものには関心を示さなくなるだろう。」
細かな言い回しは違いますが、おおよそこんなことが書かれています。
僕はこの文章を読んだとき、僕がスロットに対する関心を失った理由はまさにこれだと思いました。

はまっていたときは新しいスロット台が導入されるたびにスペックを調べて、実際に遊んでみて、その違いに興奮していたのですが、よくよく考えてみたら、表面的な演出が変わっただけで、その仕組み自体はほとんど変わっていないんですよね。
パッケージとちょっとだけ香料の配分を変えただけで「期間限定」と銘打って販売されているお菓子と同じ。
全く構造は同じで表面的に塗り替えただけのものを「新商品」として消費させられている。
それを肌感覚レベルで悟ったときに、急にそれまでの熱が冷めてしまったのだと思います。

僕がスロットで覚えたのと同じ感覚が、今のスマホゲームでも感じられます。
数週間おきに期間限定の特別クエストが用意され、それを攻略することがいわゆる今の主流スマホゲームの楽しみの一つでもあるのですが、やっぱり僕には「本質的に同じことをやらされている」という感じが拭えませんでした。
ゴールの見えない同じ作業が姿を変えて毎回送られてくるだけに思ってしまったのです。
僕がモンストもパズドラも黒猫のウィズもすぐにやめてしまった理由はここにあります。
どうしてもそこに「消費させられている」感を感じてしまうのです。
確かにキャラデザや能力は変わっているけれど、攻略の仕方は全く同じだよねという部分を意識した瞬間のスマホゲームに対する熱の引き具合は自分でも驚くくらいにはっきりしていました。
本当にスロット熱が冷めたときと同じ現象です。
だからこそ、スロットのターゲットとスマホゲームのターゲットはかなりかぶっているのではないかと思いました。

ゲームにしろスロットにしろ、僕ははまっている人を批難しようだなんて気持ちは毛頭ありません。
ただ、スマホゲームもスロットも、凄く消費社会的な娯楽であるということに対して面白みを感じているだけ。
表層的な変更を繰り返すだけであそこまで人びとを熱中させるこれらの娯楽を研究してみると、人々を飽きさせない仕組みづくりみたいなものが見えてくるような気がします。

因果と相関

僕はよく高校時代の物理の先生が苦手だったという話をします。

説明は分かりやすく、熱意のある方だったのですが、その人の喋り方というか、考え方がどうにも苦手だったのです。

 

彼の事が苦手だった最大の理由は、因果関係と相関関係がごっちゃになっているところにあったような気がします。

どう考えても相関関係(大学で統計学を習ってこう呼ぶ事を知りました)しか言えないものを、さも因果関係があるみたいな言い方をするんですよね。

それがいちいち鼻についたのだと思います。

たとえば「下駄箱の周りが綺麗な学年は受験結果がいい。だから下駄箱を丁寧に使え」とか、「話をよく聞く子は勉強ができる。だから(俺の)話をよく聞け」とかいうことを全力で言われると、その因果関係を示してくれと思ってしまうわけです。

本人の中では「下駄箱を丁寧に使う学年=入試結果がいい」→「成績を上げるために下駄箱を丁寧に使うことを心がけるべき」という因果関係が全く違和感なく成り立っているみたいです。

そこに因果関係はないなんて、そもそも思ってもいないからタチが悪い。

彼のことを苦手だった最大の理由はここにあります、というかこれに尽きる気がします。

根性論や感情論で語る人は生きている世界が違うんだなあと割り切ることにしているのでそもそも噛み付こうと思わないのですが、相関関係と因果関係がごっちゃになっている人はそこに当人なりのロジックがあるから本当に苦手です。

 

「下駄箱の周りが綺麗な学年は受験結果がいい。だから下駄箱を丁寧に使え」について、「下駄箱の周りが綺麗な学年は受験結果がいい。」は確かに成り立っているのかもしれません。

しかし、これは直接的に因果関係で結べる現象ではなく、個別の事象に正の相関があるというだけのこと。

「アイスクリームが売れる季節には熱中症患者が多い」というのも「警察の検挙率が高い地域は犯罪発生率が高い」というのも正しい情報です。

だからといって、「アイスクリームが売れるから熱中症患者が増える」も「警察がたくさん検挙するから地域の犯罪率が高い」という因果関係はそこにはありません。

アイスが売れる季節は気温が高い季節になる→気温が高い季節は熱中症になりやすい→アイスを食べる季節は熱中症患者が増えるが正解でしょう。

下駄箱の話もこれと同じで、相関関係話も言えても、因果関係は全く言えないんですよね。

因みに僕は100歩譲って下駄箱を丁寧に使う学年は受験結果がいいという関係が成り立っているとして、その理由は「下駄箱を丁寧に使う人が多い→家庭での躾が行き届いている人が多い→家庭での教育が幼い頃からなされている→相対的に基礎教育の水準が高い→受験結果が良くなる」だと思っています。

少なくともこれなら納得できる(笑)

 

「話をよく聞く子は勉強ができる。だから話をよく聞け」も同じです。

確かに「話をよく聞く」ことと「勉強成績」には正の相関があるかもしれません。

しかし「話をよく聞く→勉強ができる」という因果関係は成り立ちません。

僕はこの話に関しては因果関係が逆向きであると考えています。

つまり、「話をよく聞くから勉強ができる」ではなく、「勉強ができるから人の話を聞くことができる」だと思うのです。

そもそも人の話を聞かない最大の理由は、その話に魅力(もっと言えば価値)を感じないからです。

そして、話に価値を感じるか否かは当人の知的レベル次第。

たとえば、アインシュタイン相対性理論を話していたとして、そのロジックが理解できる人にとってはとても面白い話かもしれませんが、それが理解できない人には単なる「小難しい独り言」としか捉えられません。

これと同じで、「話を聞くから勉強ができるようになる」ではなくて、「勉強ができる人は理解力があるから話を聞くことができる」だと思うんですよね。

 

「AとBには相関関係がある。したがってAとBの間には因果関係がある。」は成り立ちません。

相関関係と因果関係をごっちゃにした語りをすると、それはすごく恣意的に聞こえることがあります。

僕が高校時代のこの先生のことが苦手だった最大の原因はここにあったのかなあなんて思います。

(仮にも物理の先生なら、因果と相関の区別をつけようよという、いい先生だったからこその期待値も含めて)

 

なんていう、愚痴混じりの昔話(笑)

 

本当に安易な電話はやめるべき

僕は電話がものすごーーく、嫌いです。

よほど気を使う相手でなければ電話である必要のない内容で電話掛けてきたら内容無視してその場で文句をいうくらい(笑)

「特に用はないんだけど...」みたいな電話だったら100%その瞬間に切ります。

これは極めて個人的な理由なんですが、

すぐに電話で要件を伝えようとするのって、すごく「自分本位」に思えてしまうんですよね。

 

電話のメリットには、同時性がある、情報量が多いなどがあります。

逆に電話をかけている間、相手の時間を拘束するというのはデメリットです。

僕はこの、デメリットが相手側にあるということを意識しておくことがとても大切だと思っています。

たとえば急な誘いとか、突然のアクシデントに関して電話を使う。

この場合は全く問題ありません。

電話のメリットが最大限発揮されています。

しかし、来週末の予定や明日あったときに話せば事足りる内容など、その瞬間に伝えなくてもいい情報に関しては、電話で聞く必要は全くありません。

LINEで一本入れておけば済む話。

LINEなどの隙間時間で返せるツールであれば、送られた側の都合のいい時に返せます。

緊急性がない連絡の場合、相手の時間を尊重しているという気配りを表すためにも、そちらを使う方がいいと思うのです。

緊急性のない内容に関しても電話を使うというのは、相手によっては自分のことしか考えていないと思われてしまいます。

少なくとも僕はそう考える。

こちらがプライベートで遊んでいるときでも、誰かから電話が来れば折り返さない訳には行きません。

その時の空気を中断しているということ、全く電話をかけてきた相手とは違う文脈にいるところに電話をかけることでそれを遮るということ。

電話を頻繁に掛けられると、そういう部分に意識が届かないのかと思ってしまうのです。

 

僕の先輩でやはり連絡はいつも電話という方がいます。

3回ほどブチギレているのですが、それでも言うほど彼からの電話は嫌ではありません。

なぜなら、彼の電話は必ず留守電かLINEで直後に要件を伝えてくれるから。

仮にその場で取らなくても、すぐに返すべきと思えばその場の作業を中断して電話を折り返しますし、どうでもいいクソ内容なら無視できます(笑)

「返せるなら返してね」という先輩なりの気配りが感じられるから、その人からの電話はそれほど嫌ではないのです。

ただ、逆にそういったメッセージを残されないタイプの電話は本当に嫌です。

何より、頻繁に電話ばかり使われると、本当に緊急の内容であったときに出なくなってしまうのが怖いんですよね。

なんでもかんでも電話で連絡されると、「この人は必要のないことでも電話でしてくるんだ」というラベリングをしてしまいます。

そうなると、万が一重要な連絡であったときも、電話を取ろうという気にならなくなってしまいます。

ある程度、電話を掛けるという行為自体に、特別な手段であるという意思表示を付け加えておくことは大切だと思うのです。

だからこそ、何かを伝えようと思ったとき、それはメッセンジャーアプリなのか、メールなのか、電話で伝えるのか、或いは次に会ったときに話せば事足りるのか。

そういったことを「相手視点」で考えることが重要です。

少なくとも「自分が今相手に伝えたいから」という思いつきで、相手が全く違う文脈を生きているという可能性に気をかけずに電話をするべきじゃない。

相手への尊重しているという意を示すためにも、そして自分からの電話を掛けるという行為の緊急というシグナルの意味合いを保つためにも、あんまり考えなしに電話という連絡手段をとるのは控えた方がいいように思います。

僕は不公平のないよう、誰の連絡先も登録しないことにしています。

これは極端かも知れませんが、少なくとも無意味に電話を掛けることにイライラを募らせている人は一定数存在しているように思います。

安易な電話という選択肢は、案外相手によってはNG行為であることが少なくないのです。

 

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お金を貰えない仕事はする意味がないのか?

昨日の夜、お店でお酒を飲んでいたときに、偶然隣になった方と仕事の話になりました。

「時給もいいし銀行だからそこは魅力的に見えるけど、制服着て『かな文字』入力は絶対にイヤ!」

彼女が少し前に面接に行ったときに出会った仕事なのだそう。

給与面も会社も文句はないけれど、そこで行う業務は顧客名簿の打ち込み。

そして会社のシステム上、コンピュータは昔のもので、それがかな文字入力しかできないと言われたのだそうです。

間違いなく割のいいこの仕事ですが、やっぱり僕もその仕事をするかと言われたら選ばないと思います。

 

お盆休みに実家に帰ったとき、祖父と近況について話しました。

「お前は今何やっているんだ」と聞かれたので塾講師とNPOの立ち上げと文章の寄稿を少々と答えると、NPOってなんだという話になりました。

細々した説明をするのも面倒だったので、NPOの概要を少し話したあと、僕は「ざっくり言うとお金以外の全てが揃った仕事みたいなもん」というと、祖父は「お金がもらえないでどうするんだ」と怪訝な顔をして言いました。

 

銀行のかな文字入力とNPO

お金という視点で見ればどう考えても魅力的な銀行のお仕事ですが、僕はやっぱりNPOの方に惹きつけられます。

別にそれはやりがいがどうとかいうモチベーション的な今からではありません。

単純に損得感情から後者を選ぶだろうというお話です。

確かに銀行のかな文字入力の仕事は、お金という対価のみで測ったとしたらかなり優良の案件です。

しかし、スキルの蓄積という視点でみると、話は違ってきます。

「かな文字入力」のスキルなんて、どう考えてもこれからの社会では役に立ちません。

スキルという視点で仕事をみたとき、前で挙げた銀行のお仕事の価値はほとんどゼロなわけです(少なくとも僕にとって)。

一方で、NPOの活動ではお金こそ発生しないものの、様々なスキルが手に入ります。

イラストレーターやエクセルのスキルはもちろん、広報、販路拡大のノウハウ、企画の集客から利益追求といった、蓄積する事で価値になるようなスキルがいくつも転がっているわけです。

僕がもし賃金とスキルの蓄積という2点だけで2つの仕事を比較したとしても、NPOの仕事の方がかな文字入力で得られる対価よりも高いと感じます。

僕が60代で、特にその先にステップアップを考えていないというのであれば話は違ってきますが、今の年齢を考えたら、どんなにお金がよくても、それによるスキルの蓄積がない仕事はやっぱりやらないと思います。

 

スキルの蓄積があれば、それを他のものに当てはめてお金という「対価」を生み出すことが可能です。

しかし、お金という対価をスキルの蓄積に使うことは難しい。

もちろん稼いだお金で語学やプログラミングを学ぶみたいなことはできますが、わざわざお金を払ってスキルを身につけるくらいなら、仕事の中でスキルを身につけてしまった方が効率的です。

そんな訳で、かりに同じ量であるのだとしたら、僕なら断然お金で測ることのできると報酬しかないものではなく、スキルが蓄積されるものを選びます。

 

そういう理由から、多分僕はコンビニの店員やスーパーのレジの仕事も選びません。

レジ打ちのプロにはなれるでしょうし、接客のプロにはなれるでしょうけれど、そのスキルが横展開しそうにないからです。

自分の積み上げたスキルを必要とする環境(仕事)が、今後成長していくのだろうと思えるのならそこでしか使えないスキルを磨くのもいいと思います。

しかし、それが今後安い労働力に取って代わられたり、ロボットで代替できるものである場合はしっかりと考える必要があります。

かな文字入力に対する需要は、よほどニッチな分野を除き、完全に役に立たなくなるスキルです。

それならば、たとえお金をもらえるとしても、そこに時間を投資するのは賢い選択とは言えません。

むしろ、賃金が発生しなくても将来性のある蓄積ができるものを選ぶべきです。

 

自分自身にスキルを蓄積しておくというのは、不安定な社会を生きる上で最も合理的な選択であるように思います。

ある組織の文脈でしか生きないスキルは、そのフィールドがなくなった瞬間にゼロになってしまいますが、自分自身に集約されるスキルならばどこでも使うことができるからです。

お金の評価軸しかないと、長期的にみたときに損をするということがあり得ます。

スキルの蓄積という対価を通して仕事を見てみるというのは、先入観を抜け出す1つの方であるように思います。