新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



就活に蔓延する「やりがい至上主義」と面白い大人たちの「判断基準」

 

年末年始に色々な人と飲んでいて、色々な人の仕事論を聞く機会があって、「向いている仕事」に関して今の僕の大きな関心事の1つになっています。

色々な人の仕事感がびっくりするくらいに違って面白かったのです。

ざっくりわかると以下のような感じ。

①やりたい事を仕事にしている人

②向いている事を仕事にしている人

③仕事以外にやりたいことがあり、仕事は仕事と割り切っている人

④楽しく生きる資金稼ぎの手段として仕事をしている人

上のような価値観を話してくれた人たちは、いずれも人を惹きつける才能を持っている人たちで、それぞれの理由も納得のいくものでした。

人生全てを賭けてカンボジアに映画を届けようとしているうちのNPOの代表は間違えなく①だろうし、休日だろうが授業をするうちの塾の先生たちはやっぱり①なのだと思います。

そもそも分析する事に長けているからマーケティングの部署に行った先輩は就活時から明確にやりたいことではなく優位に戦えるフィールドに絞っていました。

人に好かれるのがやたらと得意な理系の友人は、そのスキルを活かせるという理由で今の営業を選んだのだそう。

彼らは完全な②型。

因みに前者の先輩は学生時代、出席しなくても取れる単位の授業をかき集めて全て好成績を収め奨学金をもらい、「俺にとって大学はお小遣いもらうところ」と豪語していました(笑)

仕事以外の部分でボカロのプロデューサーをやっている友達もいますが、彼はまさに③型。

僕の友達のジャグラーがいるのですが、彼も完全に③のタイプです。

なんでも去年、ディアボロの大会でアジア大会2位になったのだそう。

収入が多い仕事について、休日は社員割引で遊びまくっている友達もいます。

彼はそうやってとんでもない距離感で友達のネットワークを築いており、そこから出てくる話はどれも面白いものばかり。

これが④型。

当然①〜④以外にも「家族のため」とか「生活のため」「どこかに所属したい」みたいな理由で働くという仕事観もあると思います。

①〜④を取り上げたのは、たまたま僕の身近に面白いヤツがいたと言うだけのお話です。

 

公私問わず、わりと大学生さんとの関わりが多いので、就活の話をよく耳にします。

また、自分が就活をしていた時期を振り返ってみてもそうなのですが、就活って①の軸だけが大きく取り上げられがちな気がします。

これは大学入試の進路相談でもそう。

「何をやりたいか」は大切だと思いますが、「何をやりたいか」で進路を選ぶ人が正しくて、それ以外は間違えだみたいな、いわば「何をやりたいか至上主義」みたいなのは何か違うように思うのです。

自分の好みを押し殺して、自分の得意な戦い方に徹するという選択もありだろうし、仕事以外の部分に主戦場を置くのもアリだと思うのです。

そもそも、そういう「見方」自体が今の就活ではほとんど与えられていないように感じます。

で、それはある意味当然で、就活マーケットのほとんどのサービスが、企業からお金をもらって成り立っています。

ということは、当然仕事を選ぶ基準みたいなものは「企業がこう選んで欲しい」というものになるはず。

だから、どうしても「やりがい」みたいなものが選択基準の中で大きな比重を占める事になるのだと思うのです。

 

上に挙げた①だけの基準で選ぼうとすると、All or Nothingで、自分の目に全く止まらないけれど、②の基準で見ると自分に向いた仕事が見つかるなんてことはザラにあります。

或いは③のように、別の所に自分の強みを見出したのなら、副業オッケーで残業が少ないかとうかみたいなものが決定的に重要になるかもしれません。

そんな、選ぶ基準の視点を複数持っているかどうかっていうのが、案外仕事選びには重要であるように思いました。

特に就活に関しては「やりがい至上主義」からちょっと距離を置いてみてもいいんじゃないかなあと思ったらするわけです。

少なくとも①で選ばなければ充実した社会人生活が送れないなんてあり得ませんし(むしろ①以外を当たり前のように軸に組み込んでいたやつの方が例外なく面白い)、①だけで考えた人ほどみるみる尖がなくなっているようにさえ感じます。

 

そんなことを、年末年始に仕事をしている人たちと、仕事を探している人たちにたくさん会う中で感じました。

さあ、仕事行ってきます(笑)

 

アイキャッチ堀江貴文さんの

 

99%の会社はいらない (ベスト新書)

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2009年京都産業大学一般前期「大和物語」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

好きな文章なので、若干意訳がきつくなってしまっていますが、その点はご了承下さい。

 

 むかし、奈良の帝にお仕えする采女がいた。顔立ちが非常に清らかで、人びとは求婚し、中には殿上人までもが求婚をしたのだけれど、この采女は結婚することはなかった。采女が誰とも結婚するそぶりを見せないのは、帝を何よりも愛し、素晴らしいものであると思っているからであった。あるとき帝が、この采女を召した。しかしながら、その後は再び召されることもなくなってしまったため、この采女はとてもつらさを感じていた。昼も夜も帝のことばかりが心にかかって、恋しく、だからこそ一層つらく思っていた。一方で帝は、一度は召し迎えたものの、そのときに采女のことを特に何とも思ってはいらっしゃらなかった。(一度呼ばれたのにその後声をかけてもらえもせずいた采女は気まずさを感じつつも、仕事で帝に仕えているという立場上)そうとはいえ日頃から帝にお会いしなければならなかった。采女は(帝に選ばれなかった身でにもかかわらず、帝の前に姿を見せるなんて)やはりこのまま生きていることはできまいと思い、夜、密かに屋敷を出て、猿沢の池で身投げしてしまった。このように身投げをしたことも、帝はお知りになることがなかった。ある者が帝への用事のついでに、この采女が亡くなったことを伝えると、帝はたいそう気の毒に思いなさって、この池の辺りに大所帯でやって来て、采女を供養すべく、人びとに歌を詠ませなさった。
その時、柿本人麻呂
猿沢の池に漂う玉藻を見ると愛するあなたの寝くたれ髪に想いが重なり悲しさばかりが募ります。
と詠んだ時に、帝は
猿沢の池もなんと冷たい(冷淡)なものだ。私の愛する者が水中を漂う玉藻のように水の中に身を投げたのならば、池の水を干からびさせてくれればよかったのに。そうすれば彼女が水に溺れて死んでしまうことも無かったのだから。
とお詠みになった。さて、その後帝はこの池に墓を立てさせなさって、お帰りになったのです。

 

 

伊勢物語・大和物語 (新明解古典シリーズ (3))

伊勢物語・大和物語 (新明解古典シリーズ (3))

 

 

2014年龍谷大学一般「とばずがたり」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
(とくに敬語に関しては、話の筋を理解しやすくするためにあえて無視している箇所が多くあります)
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。
(ところどころいい加減ですがご了承下さい・・・)
特に後半はいきなり「姫」を出しても混乱すると思い、かなりぼかしています。

 

 宮島についた。延々と続く波の上に鳥居がはるか高くそびえ立ち、180間の回廊はそのまま波の上に建っているので、おびただしい船がその回廊に船付けしていた。大法会があるということで、内侍はそれぞれに練習をしていたようだ。
(中略)
旅先で長く留まるような期間も無くて、京に上る船の中で、自分と地元の縁のある女と出会った。私は「私は備後の国、和知というところの者でございます。前々からの願い出会ったということで、ここに参拝へ来ました。よかったら私の家を御覧なさい。」などと誘ったのだが、女は「土佐の足摺の岬という興味があるところがありまして、そこを参拝するつもりです。帰りにあなたのもとを尋ねましょう。」と約束を交わした。
 この岬にはお堂がひとつある。本尊は観音様でいらっしゃる。外と内を隔てる策がなく、また坊主もいない。ただ、修行僧や通りかかった人が集まるばかりで、彼らには身分の上下もない。私がどのような場所かと聞くと、「昔、一人の僧がいらっしゃいました。ここで仏道修行をしていたのです。彼は使いの小法師を連れていました。この坊主に仕える小法師は、慈悲の気持ちが深かったそうです。どこからというわけでもなく、ある小法師が一人やってきて、午前の食事と午後の食事を食らうようになりました。坊主に仕える小法師は、必ず自分の分をこの法師に分けて食べさせたのだそうです。坊主はこれをいさめて『一度や二度ではない。そのようにご飯を分け与えることはしてはならない』と言いました。物乞いの小法師は、また翌日になってやって来た。坊主の使いの小法師は『心ではあなたにご飯を明け与えたいと思うけれども、坊主が私のことをお叱りになるのです。これ以降はどうかいらっしゃるな。今回が最後です。』といって、また分けて食べさせます。今ご飯を乞うてきた小法師は『これまでのあなたの情は忘れません。したがって、私の住む場所へお越し下さい。』と言ったそうです。坊主の使いの小法師は、言われるままについていきました。坊主は不思議に思いこっそりとついていくと、この岬にたどり着きました。二人の小法師は一葉の船に棹をさして、南に向かって進んでいったのだそうです。坊主はそれを見て泣きながら、『私を捨ててどこにいくのだ』と言いました。すると小法師たちは『観世音菩薩の浄土である捕陀落世界に変える』と答えました。見たところ、二人の菩薩になって、船の船尾にたっていました。坊主は辛く、悲しく思って、泣きながら足摺りをしていたことから、足摺り岬と言うそうです。岩に足跡がついたけれども、坊主は無駄だと思って帰ったのです。そこから、『人を隔てる心があるからこそ、このようなつらい事にあうのだ。』といって、このような隔てのない堂に住むようになったのです。」と言われた。
 安芸の佐東の社は、牛頭天皇を祭ると申しますので、同じく牛頭天皇を祭ってある京都の祇園を思い出されまして、なつかしくて、一晩そこに停まり、供養をしました。
 讃岐の白峰・松山などを通れば、崇徳上皇の墓を思い出しまして、訪問する縁もあったので、私たちは船をこぎ寄せてそこに降りました。崇徳院を祭ってある松山にある法花堂では、丁寧に供養をされているため、たとえ崇徳上皇が魔道に落ちたとしても、再び浮いてくることができるだろうと頼もしく感じているようです。「このような後には」と西行が詠んだ歌も思い出している様子で、「こうなることが分かって生まれたはずなのに」と崇徳院の詠んだことまでをしみじみと思い出されるにつけて、「あなたがもし自分の身にふりかかった辛さを思い出したのならば、苔の下からでも私を哀れと見守っていてください。」と詠んでおられました。

 

アイキャッチは「逃げ恥」の作者の書いた「とばずがたり」のマンガ

 

後宮(1) (Kissコミックス)

後宮(1) (Kissコミックス)

 

 

だからあなたが誘われる!?マルチ商法に誘われ易い人の特徴とはまらない方法

昨年のクリスマスに知り合いの子とご飯を食べていたら、「最近マルチの勧誘を受けてるんです」という話になりました。
そういうお誘いがよくあるのだけれど断るのは申し訳ないとのこと。
僕は以前先輩に誘われて、面白そうだったのでコミュニティ研究の一環としてマルチのグループに所属していたことがありました。
まあ結局半年で買ったものがポン酢一本だけだったので追い出されてしまいましたが(笑)
で、その際には週に2回くらい彼らのコミュニティに混ざらせてもらっていたのでそこでの人間関係は、ある程度知っているつもりです。
そんなわけで、僕なりに思うマルチ商法で勧誘されそうな人の特徴と、断り方を考えてみようと思います。

そもそもマルチなぜマルチ商法にはまるのか

マルチ商法のコミュニティに出入りさせてもらっているときに一番感じたのは、連帯感の強さでした。
といっても宗教的なあやしさやチームとして同じ方向性を向いているというのではなく、大学のサークルのようなノリ。
マルチ商法の集まり自体がそこに所属する人たちの「居場所」となっているのです。
いつでもいきたいときにそこに行けば誰かしらがいて、自分が受け入れられる。
所属欲求をしっかり満たしてくれるシステムになっているところが非常にうまいなと思ったことを強く覚えています。
別にそこに行ったとして、いきなり何かを買わされるということはありません。
初めは本当にいつでも出入りができる居心地のいい「居場所」を提供されるだけ。
本人にとってそこが欠くことのできない居場所になった時点で、「ここにいるのなら商品を買うよね」という空気が流れて、少しずつ商品を買うようになるのだと感じました。

マルチ商法にはまらない人の特徴

あくまで上に挙げたのは僕が誘われたマルチであって、他も同様であるとは思いませんが、何らかの形で「居場所」としてのマルチを押し出しているパターンは多いのではないかと思います。
そこからマルチ商法にハマリ易い人・ハマリにくい人を考えたら、以下のことがいえるでしょう。
まず、そもそもマルチ商法にはまらないタイプについて。
僕の飲み友達でも、マルチ商法に何度も誘われているのに、まったくなびかない人が多くいます。
彼らには大きく二つのタイプに分かれます。
一つが「自分が一国一城の主である」場合、そしてもう一つは「どこにも属さないわが道を行くタイプ」である場合です。
自分が会社や団体の代表をしている人はだいたい前者です。
彼らはそもそも自分が中心となった居場所を持っていて、それを運営しているので、他に居場所を作ろうとはそもそもならないのです。
だから「居場所」を売りにするマルチ商法にはかかりません。

フリーランスやそもそもグループに属するのが好きではない個人主義の人間に関しても同じです。
彼らはゆるく多くのコミュニティに関わることを好み、一つの場所に深く属することを好みません。
マルチ商法はその性質上絶対に深いつながりを求めてくるため、そこに嫌悪感を覚え、グループに入っていこうとはしないわけです。
で、結局マルチ商法にはなびかない。

上に挙げた2タイプ以外の人は全員マルチ商法に勧誘されやすいのかといえば、決してそんなことはありません。
所属欲求がある人でも、すでに自分が所属するグループがあれば、マルチのコミュニティに対して、ほとんど魅力は感じません。
だから、すでに遊び友達のグループを持っていたり、何らかの活動に従事していたりする場合はなびかないのです。

マルチ商法にはまる可能性のある人の特徴

マルチ商法にはまる可能性が高い人を端的に表せば、「居場所」が一時的に空白になった状態の人といえるでしょう。
会社の異動で違う地域にやって来る、引越しをした。
あるいは一番大きなものは新卒で知らぬ土地で一人暮らしを始めるなど。
とくに新卒の人はまだ、その地で全く所属コミュニティを持っていないので、そこを満たしてくれるコミュニティがあれば、そこに依存する可能性が高くなります。
マルチ商法にはまりやすいのは以下の用件を満たす場合です。
①所属欲求が強い
②所属する場が一時的に不在である
この場合、本人が思っている以上になんらかの居場所を持つことに対する羨望が強くなっているため、注意が必要です。
所属の欲求はマズローの欲求階層説でいう所の3層に属します。
それが満たされた通常時に僕たちが考えるのよりも、ずっと強い欲求であるのです。

マルチ商法に誘われたときの断り方

上に書いたように、所属の欲求を欠いている状態では、その欲求に抗うことはそう簡単ではありません。
そこに温かな「居場所」が存在して、自分が受け入れてもらえると感じたら、そこにひきつけられるのはある程度仕方が無いことでしょう。
となると対策は以下の2つ。
そもそも誘われてもコミュニティには触れないか、自分の所属の欲求を予め満たしておくかです。
前者は意思の問題なのでおいておくとして、自分でできる有効な方法は後者の居場所を予め見つけてしまうという方法です。
それが読書会でもNPOの活動でも、それこそ行き着けの居酒屋を作ることでも構いません。
不在の状態の自分が属するコミュニティに対する所属欲求を埋めてしまう。
これが最も有効な手段です。
もちろん、僕はマルチ商法自体が悪いとは思っていません。

仕組みとしてそれがあり、所属する人が満足しているのであれば別にいいじゃん!というのが僕の立場。
(僕はあまりそういうひとつのコミュニティに深く入り込むのが好きではないので入りませんが。。。)
あくまでマルチに誘われて困っているという話を聞いて面白そうだったので、興味本位にまとめてみました。

 

アイキャッチ東浩紀さんの「弱いつながり」

 

 

 

選ぶお店で分かる男性のイケメン属性と女の子に言われたいタイプ別キラーワード

度々書いているようにイケメン研究がライフワークになりつつある僕ですが(こう書くとよく誤解されるのですが、別に男が好きなわけではありません)、秋口から年始にかけては、イケメンのデートで使うお店についての分析にハマっていました。

イケメンはどんなお店に女の子を連れて行くのだろう。

そんな純粋な興味から、会う友達にアンケートを取っていたのですが、聞いて行くうちに、一定の傾向が見えてきました。

その人の自己分析的な傾向により、選ぶお店にも一定の偏りがあるように思えたのです。

性格に偏りがあるのなら、それぞれのお店を選ぶ傾向が高い人には、言われて嬉しい言葉も近くなってくるはず。

そんな仮説のもと、選ぶお店のタイプと、そのお店を選ぶ男性が言われると嬉しい言葉をセットにしてまとめてみました(笑)

(これ絶対友達が減ると思う...)

 

①名物の逸品があるお店を選ぶ注目タイプ

その店に名物がある、もしくは大将と知り合いだったり特別メニューを知っていたりという基準でお店を選ぶ男性はここに該当します。

女の子に「そのお店を知っている自分」をアピールしたい注目タイプ。

デートに行ってもう一品というタイミングで凄い手の込んだものや珍しいものを頼んだりする場合は十中八九このタイプです。

ここに属する男性は、人と競争して競り勝つことや、人から注目を集めることを好みます。

ノルマ達成や資格試験に全力になれる人が多く、総じて認められたい願望が強かったりします。

そのため、自分の冒険譚を嬉しそうに聞いてくれる女の子を見つけると、ついつい心が動きがち。

①のタイプの人に好かれたかったら、どんどん相手の話に頷いてあげるのがいいでしょう。

キラーワードは「すごいね!」

 

 

②内装や雰囲気で選ぶプロデューサータイプ

料理の味はともかく、お店の雰囲気や盛り付けにやたらとこだわったお店に連れて行ってくれる人はこのプロデューサータイプです。

中身はもちろんだけれど、プロセスや形式にもこだわります。

よく言えば特別な空間を演出してくれる王子様、悪く言えばナルシスト。

サプライズ的なものが好きなのだとしたら、高確率でこのタイプです。

ここに属する男性は自分の演出に感動してくれると喜ぶ傾向があります。

したがって、相手の演出に乗っかって楽しんでいる姿を見せてあげるのが、なによりの男性にとっての胸キュンポイントになることでしょう。

キラーワードは「こんなの初めて!」

 

 

③自慢のコース料理を頼む軍師タイプ

その場の雰囲気で注文するというよりも、あらかじめ決まったものが出てくるお店を選ぶなら、その男性は物事を計画的に動かすのが好きな軍師タイプです。

おそらく日常では連絡がマメで、スケジュール管理が上手い人に多いでしょう。

ここに属する人は、物事が自分の計画どおりに進むことに喜びを感じます。

また、計画通りにことを運びたい完璧主義者。

計画性の高さや、そのスマートさを褒めたり、尊敬の眼差しを向けられるのに弱い傾向があります。

キラーワードは「頼りにしてもいいですか?」

 

 

④食べたことのなさそうな料理を選ぶアーティストタイプ

普段食べないような料理を出すお店を選んでくれる、珍しいお店を沢山知っている。

そういう男性はアーティストタイプに含まれます。

日常生活では蛾が強くてルールすれすれを戦います。

ここにいる人は相手の女の子が知らない世界を見せることに喜びを感じます。

プロデューサータイプのサプライズ好きに似ているところはありますが、プロデューサータイプが驚いてくれた姿に満足するのに対して、アーティストタイプは女の子が知らない世界を見つけてくること自体に喜びを感じます。

周囲との差別化、個性的であることを、望むので。そこを褒められると大体オチます(笑)

キラーワードは「どうしてそんなの知ってるんですか?」

 

ルックスとは関係のない振る舞い方での部分で魅力を上方修正している人のことを、僕は雰囲気イケメン、雰囲気美人と呼んでいます。

男は単純なのでこのタイプ別のキラーワードをかけられると、それだけで魅力が10%くらい付加されます。

「この人は俺のことわかってくれてる」みたいな(笑)

もちろんこれは女性の場合も当てはまると思うので(食事に誘うというサンプルが多くないので断言はできませんが)誰かと食事に行って、その人に気に入られたいと思った場合は、このキラーワードを意識してみて下さい。

 

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アイキャッチは恋愛マンガなら俺に任せろ、山田玲司さんの美大戦記アリエネ

 

 

 

お正月らしく、和歌や短歌や百人一首についてまとめてみた。

朝起き「て」歯を磨く

雨降っ「て」地方まる

あけまし「て」おめでとう

どうしても「明けた」という事実確認と「おめでたい」という状態を無思考のまま単純接続で結ぶのが憚られるので、僕の新年の挨拶は「明けた」という事実確認だけにしています。

もちろん元日を一年の区切りと考えて、去年も無事一年を超えられたという思いを噛み締めながらいう「明けましておめでとう」ならいいのですが、少なくとも僕はそんな事に思いを馳せるタイプではないので、安易に「おめでとう」はどこか気がひけるのです。

 

そんなどうでもいい屁理屈はおいておいて。。

最近、和歌や俳句を勉強しています。

もちろん作る方でなく楽しみ方の方(笑)

今までどうしてもこの分野だけは良さが全く分からなかったんですよね。

「今の気持ちを込めた十七文字あるいは三十一文字のつぶやき」って、ただのTwitterじゃん!みたいな。

ちなみに僕が1番好きな歌は「ダメ男子 モテ期が来ても 死んだ目だ」っていうひっくり返しても意味が変わらないこの川柳。

あとは意味もなくただ似た動物を並べただけの「トドラッコ アシカアザラシ オットセイ」なんて言うのもお気に入りです。

・・・本当に風流のカケラもありません。

全く「和歌を愛でる風流心」みたいなものを持ち合わせていないんですよね。

なんなら小林一茶の「初夢に 故郷を見て 涙かな」みたいな歌に対して、「こんなん今なら『初夢に故郷わずww(泣)』でしょ?」たいなとんでもなく失礼なことを言ってたくらいです(笑)

 

Twitterに被せておちゃらけた説明をするのはともかく、きちんと良さは知っておかなければならないよなと思い、改めて色々な和歌や俳句に当たっています。

そんなわけで短歌・俳句に限らず、狂歌に都々逸と色々な「歌」を見ていく中で、僕なりに3つの楽しみ方があるんじゃないかと思ったので、それをまとめます。

 

1.超絶技巧系

ひとつ目は直感的に最もわかりやすい、一瞬の思考で歌に多種多様な技巧を込めた作者の機知に驚くといった和歌の楽しみ方です。

代表例としては伊勢物語に出てくる「唐衣(からころも) きつつ萎れにし 褄しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」という短歌が挙げられます。

唐衣という枕詞、「〜褄しあれば」までが序詞となっていて、「きつつ」や「はる」といった所には掛詞が、おまけに「衣/きつつ/萎れ/褄/はる(張る)」みたいな縁語が用いられています。

その上で各句の頭の文字をとると「かきつばた」の主題が出て来る(折り句といいます)というとんでもない一首。

或いは江戸時代の天才狂歌師である蜀山人が旅先の近江で読んだといわれる「乗せたから 先は会わずか ただの籠 ひら石山に 走らせてみい」という狂歌

近江の籠屋(今で言うタクシー)に近江八景を全て読み込んだ歌を詠んだらタダで運んでやると言われて詠んだとされています。

近江八景(瀬田/唐崎/粟津/堅田/比良/石山/長谷/三井)が順に「乗せた(瀬田) から先(唐崎)は会わず(粟津) かただ(堅田)の籠 ひら(比良)石山(石山)に走ら(長谷)らせてみい(三井)」といった具合で読み込まれています。

伊勢物語のものも蜀山人のものも、どういう発想力があれば生み出せるのだろうという超絶テクが盛り込まれています。

こういう超絶技巧に感心するのがひとつ目の楽しみ方です。

 

2.世界の歩き方系

漫画家の山田玲司先生が、アートは昔の天才たちが俺には世界がこう見えるっていうのを残してくれたものと言っていました。

僕はこの言葉をきっかけに芸術がすきになったのですが、歌にも作者が感じた「俺には世界がこう見える」というのが込められていると考えると楽しめるようになります。

例えば「散りぬとも 香をさへ残せ 梅の花 恋しきときの 思ひ出にせむ」という歌には、もう会えなくなった人を香りで思い出すという筆者の繊細な視点が描かれています。

j-popの歌詞で「あなたの香りであの時を思い出す」みたいなものが時々ありますが、あれと同じ系譜でしょう。

たしかにそんな感情あるよねという、僕たちが言われると納得するような気持ちを文字で改めて知らせてくれる。

それをコレクションするイメージなのが、2つ目の楽しみ方です。

万葉集の「君まつと 我が恋をれば 我が宿の すだれ動かす 秋風の吹く」だったら、好きな人をまだかと待っている時は、風になびくすだれの微かな音でさえ、あなたが来たのではないかとドキドキしてしまう(そして結局来てはくれないのですね)という気持ちが歌われています。

これをそのまま現代に当てはめて、好きな子からのLINEの返信を待っていると、他のプッシュ通知にいちいち期待してしまうという時のあの感覚だと考えると共感できるのかもしれません。

そんな昔の天才たちの感情コレクションとしての楽しみ方が2つ目。

 

3.背景洞察型

何でもそうですが、深く楽しみたかったら一定の知識量が必要です。

例えばバクマン。というマンガの12巻に、ある登場人物の姉が弟にエールを送るために「あきらめたらそこで試合終了だ」という言葉を贈るのですが、これはslam dunkを知っている人にとっては、単なる姉から弟へのセリフではなく、slam dunkのあの名シーンに込められた思いが重ねられていることに気がつきます。

そして、一層その作品を楽しめるようになる。

歌もこういう側面があって、たとえば百人一首にある「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」という歌に出て来る「かささぎの渡せる橋」とは一年に一度だけ会うことが許された織姫と彦星が再開させるためにかささぎたちが集まってかけるとされている白い橋のこと。

そんな、七夕の夜に織姫と彦星の前に現れる幻想的な白い橋のように霜で真っ白になったということをこの歌には読んでいるわけです。

また、当時の文化を知らなければ分からない歌もあります。

たとえば小林一茶が娘を無くした時に読んだ「手向くるや むしりたがりし 赤い花」というこの俳句。

意味は「あなたがむしりたがったあの赤い花を、今あなたに手向けます」となり、これだけでは何のことか分かりません。

この歌を理解するためには、江戸時代の「花」に対する見方、もっといえば現代の「過去→現在→未来」という時間の捉え方とは異なる時間感覚を知っておく必要があるわけです。

咲いた花にはもともと、認識できない世界が我々のいる世界に顔を出すというイメージがあります。

だから、それを「摘む」というのは避けなければならないわけです。

唯一花を積むのが許されたのが、死者を弔う手向けの花を備える場合。

こういう価値観を踏まえて一茶の歌を読むと、味方がまるで変わってきます。

「幼いあなたがむしりたがっていたあの赤い花を、今ようやくあなたに上げることができます」

幼い自分の子供が元気に「あの花が欲しい」って言っていたのを、死んでしまった墓前で始めて叶えてあげられたとあえて詠んだ一茶の悔しさや悲しみに溢れた心中が伺えます。

 

こんな感じで僕は3種類の読み方をすればある程度楽しめることがわかりました。

もちろん読み方なんて人それぞれですし、そもそも短歌や俳句を好きになる必要もないと思うのですが、もし興味があったら、こんな切り口で見てみると楽しめるかもしれません。

 

そんなわけで今年もよろしくお願いします。

 

アイキャッチは「ちはやふる

ちはやふる(30) (BE LOVE KC)

 

 

個別指導を提供する塾の差別化戦略について(ちょっとマジメに)考えた

顧客が塾に求めることは何かということを、常々考えています。

もちろんそれを表層で捉えれば、「成績が上がる」という一点に集約されるのでしょう。

しかしもっと細分化していけば、さまざまなニーズがあるように思うのです。

特に個別指導に関しては、ここを分析することで明確なポジショニングができるのではないかと考えています。

 

色々な塾のサイトを見ていると「指導力」という言葉を見かけます。

僕は個別指導における「指導力」という言葉には懐疑的です。

というのも、基本的に個別指導というビジネスモデルがアルバイトで雇う大学生ありきのものであるのに、どのように「指導力」なるものを担保するのか、その仕組みが分からないからです。

指導力には「知識」と「教え方」の2つがあります。

そして、これらが商品としての価値を帯びるのは、教える側に顧客が手に入らないだけの「経験」があるときです。

たしかに、マニュアルを使えば一定の「教え方」はノウハウとして身につけさせることはできるかもしれません。

仮に家で保護者の方が教えるとしたら、教えたことのある経験はせいぜい兄弟分だけ。

ここにおいて、マニュアルで一定の教え方を学んで、複数人に指導したことのある大学生は、保護者さんと比較すれば指導力に関して価値があるということができます。

知識面に関しても、受験を経験したばかりの学生の方が、基本的には覚えている知識量も最新の入試傾向も知っているため保護者と比べればそこら辺の学生の方が多く、こちらも価値が担保できます。

というわけで、家で教えるよりはアルバイトの学生に教わった方が効果的ということになります。

 

次に、個別指導をする塾同士の差別化について考えてみます。

僕はアルバイトを採用するタイプの塾において、「教える」というこのに関する差別化要因は、突き詰めると「人数」と大学ブランドしかないと考えています。

アルバイトを主体とする以上、その経験値をウリにすることはできません。

アルバイトという雇用形態が性質上代替可能な人材を採用するものだからです。

指導人材の経験値で差別化することができないとなると、人材そのもののもつブランド力と指導力する人数で差別化するくらいしかできません。

前者の場合、採用するときに東大医学部に通う人しか雇わないみたいな形で行う差別化。

「ウチはアルバイトですが東大生しかいません」とか「国立大の大学院生だけを採用しています」とかだったら、たしかに大きな差別化要因になるでしょう。

立地的にそれが可能で、かつコネクションを持っている塾はこういう売り出し方はアリだと思います。

(ただし、少なくとも多教室展開をしている大手塾にはできませんが...)

あらゆる塾でできる戦略が、一度に教える人数で差別化するという部分です。

基本的に個別指導は1対1〜1対3くらいになっています。

当然同じ値段で1対1か1対3ならどちらを選ぶかと言われたら前者でしょう。

人数による差別化は1番行いやすいものなので、個別指導の塾の(教務における)戦略で最もポピュラーな部分になってきます。

 

教える部分での差別化がこれくらいしかできないとなると、基本的にはその周辺サービスで差別化をすることになります。

例えば授業の振り替えや補習、自習室の完備etc...

あとは1番分かりやすいところは授業料。

仮に学歴ブランドをウリにするような人材ではないアルバイトで1対3の指導形態をとる塾があったとして、そこの売り出しポイントは、指導部分に関しては「丁寧な指導」「熱心な指導」「一人一人にあったプラン」みたいな抽象的な表現になり(もちろん1対複数というところはできるだけ小さく書きます)、振り替え可能であることや、自習室があること、周辺教材、そして授業料のような部分を売り出すことになります。

大手の場合はこれに全教室を合わせた合格実績などでしょうか。

アルバイトを採用しての個別指導の場合、システム上「指導力」をウリにすることはできないのです。

実際に、指導力をウリにするところはありますが、その説明を読んでみると、例外なく抽象的な表現しか書かれていません。

 

こういう風に見ていくと、少なくとも僕には基本的に個別指導はどこの塾を選んだとしても本質的には同じであるように見えてしまいます。

僕の塾は何故か社員(僕も含めると4人)さんがエライ量の個別授業を行っていますが(笑)、普通の塾ではそんなことしません、というかできません。

そもそも基本的に100〜150人規模の教室であれば、社員さんは2人くらいが限度なので、経営面を考えたら不可能なのです。

 

では、こうした中で個別指導ではどうやって差別化をしていけばいいのか。

僕はこれに関して、指導面以外のニーズをいかに多くすくい上げることができるかという部分になってくると考えています。

つまり、専任講師による情報提供の部分です。

指導に関しては物理的に時間をとられるため不可能ですが、それ以外の情報提供の部分に関しては、社員による差別化が可能です。

たとえば、コンサルタント的な学習方法の指導であったり、生徒・保護者に対する入試情報や入試分析といった各種情報の提示です。

ここで重要になってくることは、前者も後者も独自コンテンツとして内製しているということです。

今はスマホが普及しているため、単なる数値データに関しては、調べれば誰でもアクセスできてしまいます。

したがって、特定の学校の情報そのものは価値になりません。

しっかりと自社で数値を踏まえた分析をして付加価値を帯びる、若しくは複数の学校の情報をまとめるといった、一般の人にとって面倒な仕事をこちらで代わりに行うといったかたちで付加価値をつけなければなりません。

コンサルタント的な方法で勉強の指導をするというのも同じです。

単に「もっと頑張れ」みたいな声をかけることなら、誰でもできます。

誰でもできることならば、当然そこに価値はない。

アドバイザー/コンサルといった側面を強調する以上、しっかりと理論に基づいたアドバイスのツールを自社で開発することが不可欠です。

提供する情報と、学習のアドバイスをするためのノウハウを自社でいかに充実させるか。

そして、社員が子供と保護者にいかに積極的にこういった観点から関わっているか。

ここが、個別指導を運営する側における、差別化においてもっとも重視すべきことだと思います。

 

なんて勢いで書いてしまったけれど、これ、どの層に需要のある文章なんだろう?(笑)