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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2017年佛教大学一般入試A日程2/3「撰集抄」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。


中頃、播磨の国、平野というところの山の麓に、海に向かって体裁だけは何とか整っている庵を建てて、そこで仏道修行をしている法師がいました。一日中念仏を唱えておりました。ある時、法師の下へ人が行って仏門に入った理由を尋ねましたところ、法師は「私にはたいそう仲の良い妻がいました。その妻が亡くなったので、どこかの場所でどのような苦行を受けて苦しんでいるのではないかと不憫に思って、彼女の後世を弔おうと思い、持っていた田んぼなどもみな捨てて、このような身になってからは、欠かさず念仏を唱えているのです。」と語ったそうだ。法師は里に出かけていく托鉢などもしなかったので、人々が同情してもってきてくれる食料で暮らしていた。
 あるとき、普段とは違って、この僧(法師)が里に出てきて人々にこう言った。「私は明日の夜明け前には極楽往生しますので、今日で最後となる対面をしたいと思い、山里へ出てきました。私のために日頃行ってくれたあわれみは、感謝しきれないほどありがたく感じております。」。とてもしみじみと言っていたのだけれど、里の人々は僧の言うことが本当だとも思えなかった。しかし、僧は言った通りに、翌日の暁方、息絶えてしまった。神秘的な雲が空に満ちて、庵は普段とは違う香りに満ちていた。法師はその庵の中で眠ってるようにして、西を向き、手を合わせて亡くなっていた。
 この事を伝え聞くと、哀れに悲しいことです。本当に、夫婦となって、愛情深く過ごし、来世でも一緒になろうと願う気持ちが浅くなかったのでしょう。唐の玄宗皇帝は「空を駆けるならあなたと一緒に翼を並べるような鳥となり、地に住むならば、あなたと枝を連ねる木となろう。」といって契りを交わし、また日本にも、「うずらとなって一緒に泣こう」と言った者がいましたが、生きているうちは熱心にしていたようですが、死んだ後は人の心の情けなさでしょうか、妻の死後、他の女性に心を移して、自分の慕ってくれた妻の言葉も忘れて、熱心に妻の死後のことを弔う情もかけなかったのに、この僧はしっかりと妻のために勤めたのです。やはり、めったにないほど素晴らしいことと思います。弔いをした聖(僧・法師)が往生をしましたのだから、ましてその女はまさか往生していないことなどないでしょうと、返す返す羨ましいことです。なるほどどうすれば、生きているうちはともかくとして、自分が死ぬまでずっと、思う人の死を悲しみ続けることができるのだろうと、しみじみと心惹かれるきがするのです。
 さて、この聖はいつの人であったのでしょうか。何処にいたのかも知りません。姿かたちなどは断片的にきいているとはいえ、彼の心境を思いやると、どのような人だろうかといっそう知りたくなるものです。仏門に入ったときから亡くなるまで、きっと澄んだ心だったのだろうと思われます。

 

 

撰集抄 (岩波文庫)

撰集抄 (岩波文庫)

 

 

信用を集める装置としてのクラウドファンディング

年末から年始にかけて、クラウドファンディングに関して面白い話をたくさん聞いたので、僕なり考えをまとめてみました。

(最近古典の現代語訳ばかり書いていたので、久しぶりに書きたいネタでやや分量が大目です 笑)

 

 

ここ最近、個人で事業を起こしている人たち見ていると、クラウドファンディングをやっている団体が増えているように思います。

僕は比較的初期の頃から面白いクラウドファンディングの仕方をしている人たちなどを追いかけていたのですが、ここ最近で、本来あるべきところに収束しつつあるように感じています。

それは、クラウドファンディングによってファンを増やしていくという使われ方です。

 

そもそもクラウドファンディングとは、何かを作りたい人がウェブ上で出資者を募るシステムです。

最大の特徴は一人当たりの出資額が極端に小さいということ。

従来のであれば一人の賛同者がパトロンとなって大金を出資していたのですが、クラウドファンディングは、その活動に共感した人や、そのサービスが欲しいという多数の人から、少しずつお金をもらうことで成り立っています。

例えば、被災地の子どもたちに音楽を届けるために1000万かかる音楽フェスを企画したとして、今までならこの活動に共感した人からお金を貰っていました。

1000万×1人という具合です。

これがクラウドファンディングだと、日本中(時に世界中)にいる活動に共感した人たちから小口でお金を集めます。

1000円×10000人という感じ。

大人数から小口でというのが、僕が見るクラウドファンディングの「装置として」の革新的な部分だと思います(「装置として」というカッコ抜きの部分は後で説明します)。

 

初期のころは純粋に一人当たりの支払額が少額のパトロンを募るというイメージでした。

例えば僕が面白いなあと思っていたのは、ある女性用下着の事例です。

この事例では、クラウドファンディングの目的は「カワイイ女性用下着(ややエロ)」を作ることでした。

それに対して出資者へのリターン(お金を出してもらうお礼に渡す品)はネットアイドルの方がその下着を着用した写真集(DVD)というもの。

当然下着のターゲットは女性ですが、このリターンを見る限り、あくまで出資者のターゲットは男性です。

つまり、この事例ではお金をネットアイドルの下着写真集が欲しい男性から募り、女性向けの下着メーカーの立ち上げに使うという形をとっているわけです。

これに対して賛否は分かれると思いますが、僕は非常に上手なやり方だなあと思って追いかけていました。

他にも、アイドルが一緒に散歩みたいなものをリターンにしようとして炎上しかけたみたいな事例もありました。

この頃は明らかに複数人からお金を集める手段として、クラウドファンディングという装置は機能していました。

しかし、ここ最近になって、全く違うクラウドファンディングの捉え方が出てきて、そして、それが主流になりつつあるように感じます。

 

クラウドファンディングを「小口のお金を複数人から集める」装置として利用していたのに対して、ここ最近は「ファンを増やす」装置として捉える団体が増えてきたように思います。

ある作者が本を出版したいから、どんな本を出すのかを熱心に語ってそのリターンに本を贈る、どうしても作りたい映画があるから賛同してくれる人を集めてリターンは上映会やクレジットへの名前の記載にする等々。

僕はこのクラウドファンディングの「ファンを集める装置」としての捉え方が非常に面白く、かつ、様々な可能性を秘めていると思っています。

たとえば出版において非常に重要なことは初期の出版見込みと言われています。

それが、仮に本を出版したいというクラウドファンディングをして、出資額を本の値段(かもうちょい上)にして、リターンをその本そのものにし、1万人の出資を募ることができれば、それはそのまま発行部数となるわけです。

本来、発行部数はその作者の知名度やコンテンツの強さで決められます。

しかし、クラウドファンディングで一定数の出資を集めていれば、それがそのまま見込み数となります。

いわば人気の前借りです。

 

同じ「不特定多数から小口の出資を集める」という装置であっても、「出資者=お金を出す人」とみるのではなく、「出資者=ファン」と捉えることで、一気に可能性が広まります。

先の下着の例(たまたま今回は否定的な文脈で使ってしまいましたが、本来はとても凄い戦略だったと思っています)では、あくまでクラウドファンディングはお金を集める手段であり、出資者と企画の意図は完全に分離していました。

この場合、お金を集めるという目的は達成できますが、ファンを集めるということはできません。

これだと定点的にお金を募るのならば大丈夫だけれど、支持層を広める手段としてはまるで機能しません。

お金ではなくファンを集める手段として使われてこそ、クラウドファンディングの真価が発揮されるというのが僕の持論。

そして、実際に多くの成功事例が、徐々にこの方向にシフトしてきているように思います。

 

で、ここからは実際にクラウドファンディングを立ち上げるときのお話です。

こんな使い方に特化したクラウドファンディングがあれば面白い差別化になるだろうななんて僕の考えを、クラウドファンディングをしたことのある人たちに話していたら、そのたびにサービスによってかなり思想やターゲットが違うということを教えていただきました。

その中でも二人の団体の代表さんたちから聞いたお話が印象的だったので少し紹介します。

一人の方が教えてくれたのは会社によって、案件を立ち上げてからのフォローが全然違うということ。

あるサービス(名前は出すなと言われました…)では立ち上げに殆ど費用はかからないのだけれど、その分どうやれば成功するみたいなフォローも全然ないとのこと。

逆に、費用はかかるけれど「クラウドファンディングを成功させる情報」みたいなものを細かく教えてくれるサービスもあったということです。

そういう面でも単に案件の立ち上げやすさではなく、サービスを見てえらぶことが大事なのだとか。

僕は全くクラウドファンディングをする予定もないのですが、むちゃ参考になりました。

 

もう一人の方から聞いたのはサービスごとの思想の違いというお話。

やはり同じクラウドファンディングといっても、資金調達に主眼を置いているサービスもあれば、あくまでクラウドファンディングをする人の「夢」をかなえることに特化したサービスを提供する企業さんも多いとのことでした。

話の中で具体例として出て来たのはモーションギャラリーさん(こちらは名前を出してもいいとのことだったので企業名で…)という会社。

企業の方針として、単なる資金集めではなく、活動の意義を重視しているのだそう。

ちょうど、僕が考えていたクラウドファンディングの使われ方と一致していました。

やっぱりすでにそういう企業さんがいたみたいです。

 

クラウドファンディングはファンを作る装置としてこそ真価を発揮するというのが僕の持論なのですが、具体的にどのようなプロジェクトに向いているのか。

これはもう、「ファンを作ることが最大の武器になるもの」に尽きるのではないかと思います。

先に挙げた本の出版はもちろんのこと、映画なんかもそう。

本来ならば「世の中に発信→ファンの獲得」であったのを、クラウドファンディングは「ファンの獲得→世の中に発信」という順番に逆転させてしまいます。

これって、かなり大きな出来事だと思うんですよね。

そしてそれは、予算規模が大きければ大きいほど効果を発揮します。

プロジェクトの規模感=ファンを集められる規模感といえます。

たとえば、「東京の劇団を応援したい」では、ファンを募れるのはあくまで足の運べるせいぜい関東圏に留まりますが、映画や書籍みたいな全国規模なものであれば、潜在的なファンはそのまま全国にいるということになります。

2016年後半にかけて大ヒットした「この世界の片隅に」とかは、まさにここに該当します。

その意味で、映画を初めとする、全国規模でファンを獲得する潜在力のあるプロジェクトに関しては、ファン獲得の装置としてクラウドファンディングを提供するサービスとは相性がいいように思います。

これは完全に僕の肌感覚ですが、「この世界の片隅に」やキンコン西野さんの絵本「えんとつ町のプペル」の成功例に倣って、今後さらにファン獲得の側面を生かしたプロジェクトが増えてくるような気がしています。

そんな期待感も込めて追いかけているのがクラウドファンディングという「装置」だったりします。

 

 アイキャッチは川上さんのネット論

 

 

 

2017年佛教大学一般入試A日程2/2「大和物語」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

問.次の文章を読んで、後の問に答えよ。

貞峯の少将は旅の道中で、五条あたりについたとき、ひどい雨に見舞われたため、近くにある荒れた門のところに立ち隠れて、中を覗いたところ、五間ばかりの檜の皮で覆われた屋根の下に、土蔵はあるけれど、特別に人などがいる様子ではなかった。中に入ってみると、階段を覆う屋根の間に、たいそう趣深い梅が咲いていた。鶯も鳴いている。不意に、人がいるとも思えないような御簾の内側から、薄色の衣の上に濃い衣を着て、背丈・風貌などが非常に良い人で、髪の毛の長さが背丈ほどになるかと見える人が、
よもぎ生いて荒れたる宿をうぐひすの人来と鳴くやたれとか待たむ
(蓬の葉が咲くくらいに荒れている宿に「人が来る」と鳴いているなあ。しかし誰が来るのを期待して待っていればよいのでしょう。)
などと独り言のように言った。少将はこれを聞いて、
 来たれどもいひしなれねばうぐひすの君に告げよと教へてぞ鳴く
 (私はここに来たのだけれど、あいにく女性に声を掛けなれていないので、鶯は私に向かって、主人にやってきたことを告げなさいと鳴いてくれているのです。)
などと趣深い声で言った。女はこれに驚いて、「人がいないと思っていたのに、恥ずかしい姿を見られてしまったことだ」と思って、何も言わず黙ってしまった。男は縁に登って座った。「どうして何も言ってくれないのですか。雨が降ってきてしまったので、止むまでこうしていようかと思います。」と男が言えば、「雨漏りのせいで、大路よりも濡れてしまうかもしれません。ここは却って…」と女が答えた。時は一月の十日ほどのことだった。女は、御簾の内側から、男に向かって敷物を渡した。男はそれを引き寄せて座る。簾もこうもりに所々食われ、なくなってしまった箇所もあった。部屋の中の様子をみると、昔の様子が忍ばれるように、畳などはよかったのだけれど、みすぼらしくなってしまっていた。日もだんだんと暮れてきたので、男はそっと部屋に上がって、女が奥に入ってしまわないように引き止めた。女は悔しいと思ったけれど、それを制する術もなく、どうしようもなかった。雨は一晩中降り続き、翌朝になると少し空は晴れていた。男は女が室内に入っていこうとするのを、「ただ、このままで」と言って入れさせない。日が高くなると、この女の親は、少将たちにご馳走を用意する手段も持ち合わせていなかったため、少将の付き添いの小舎人童には塩を肴に酒を飲ませ、少将には広い庭に生えている菜を摘んで、蒸し物にして茶碗に盛って、端には梅の花の多く咲いた枝を折って添えて、その花びらにたいそうかわいらしい女の筆跡で、こう書いたそうだ。
君がため衣のすそをぬらしつつ春の野にいでつめる若菜ぞ
(あなたのために服の裾を濡らしながら、春の野に出て摘んできた若菜でございます)

 

 

大和物語(上) (講談社学術文庫)

大和物語(上) (講談社学術文庫)

 

 

2017年京都産業大学一般入試「今昔物語集」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。
問.次の文章は『今昔物語集』に収められている話である。中将は清水寺で、若く美しい女性と出会う。いかにも身分の高い良家の娘がお忍びで来ている風なので、従者に後を付けさせると、家は市中ではなく山里にあった。訪れてみると、堅固な土塁と堀がめぐらされていたが、室内の調度は由緒ありげで、清らかに住みなしている。中将は女にひかれ、やがて二人は恋仲になり末永い愛を誓い合う。読んで、後の問いに答えよ。


そうしている間に、中将はここ数日抱いていた気持ちをこめて、末永い愛を誓って寝ていると、この女はたいそう思い悩んだ様子で、こっそりと泣いているように見えた。中将は不審に思って、「どうしてそのように思い悩んだ様子でいるのか」と尋ねた。女は、「ただしみじみとしているだけでございます。」と返したが、中将はその言葉をいっそうあやしく感じた。「今はお互いこのような関係になったのだから、今更何事も隠す必要はありません。何を思っておられるのですか。これほどまでに尋常ではない悩みようではないですか…」と無理に中将が聞いたところ、女は答えた。「私もあなたに言いたくないわけではないのですが、あなたに言うのがとてもつらいことですので。」泣きながらこう答えた女に中将は「とにかくお言いなさい。それを聞くことで私が死ななければならないとでもいうのでしょうか。」と言うと、女は「本当にあなたに隠していいことではありません。」「私は京都にある何々という人の娘です。両親が死んでしまったので、一人で暮らしていたのを、私が今住んでいるこの家の主は、乞食からたいそう裕福になって、ここに長年住んでいるようなのですが、私が京都にいたのをさらってきてここで育てたのです。時々私を着飾らせて清水に参拝をさせるのでございます。そうして同じく参拝に来ていた男が私に声をかけて来ると、あなたがここにいらっしゃったのと同じように、ここにおびき寄せろというのです。そして、寝ている隙に天上から矛を下ろしてくるので、それを私がおびき寄せた男の胸に刺して殺させて、その着物を剥ぎ取り、さらにはお供の人びとを堀の外にある家でみな殺しにして、その着物を剥ぎ、乗り物まで奪わせます。私は今までにもう、このようなことを二回も行ってきました。これから先も、主人の命令に従って、このようなことをさせられ続けるのでしょう。こうした事情があるからこそ、今回は私があなたの代わりに矛にさされて死のうと思っていたのです。どうかあなたはすぐにお逃げ下さい。お供の人はもうすでに殺されていることでしょう。ただただ、あなたにもう会えないことだけが悲しいのです。」と言い、流した涙は留まることがなかった。
中将はこれを聞くと、何も考えられなくなってしまった。なんとか気持ちを抑えて「本当に驚いたことだなあ。あなたが私に代わって死のうという気持ちは、めったに無いほどにうれしいものなのですが、そんなあなたを見捨てて一人逃げるなどというのは悲しいことです。それならば一緒に逃げましょう。」と言う。女はこれを聞いて「何度もそのことは考えましたが、矛に手ごたえがなければ、きっと急いで天井裏から降りてきて、二人がいないことを確認したら、必ず追いかけてきて二人とも殺そうとするでしょう。ただあなた一人で生き延びて、私が死んだ後の弔いをして下さい。これよりあとも、どうして私は罪を重ねていいことがありましょうか。」と言った。中将が「あなたが私に代わって死んだとなれば、どうして功徳を積んで恩に報いないことなどございましょう。それにしても、どうやって逃げればよいだろう。」と女に返すと、女は「堀の橋はあなたが先ほど渡ってきた後、すぐに引き上げられてしまっていることでしょう。だから、向こうにある遣戸から出て、堀のむこうにある狭い岸を渡って下さい。そこの築垣(塀)に小さな水門があります。そこからなんとか這い出して出て行ってください。すでにその時刻に近づきました。矛が下りてきたら、私が自らの胸にさして、刺されて死のうと思います。」と言った。そう言っているうちに、奥のほうから人が来る音がしたので、恐ろしいというのさえ言葉に足りないほどだ。
中将は泣く泣く立って、衣ひとつだけを着て、女が密かに教えてくれた遣戸を出て、岸を渡り、水門から命からがら這い出した。

 

 

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

非喫煙者は喫煙者の「お前はいない」という態度にムカついている

「路上禁煙区域」で吸う人の論理|日経ビジネスオンライン
江戸川区日台親善議員連盟会長、前江戸川区議会議員の田中けん氏に聞く
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/020100231/

 

タバコに関していつも思うことなのですが、大多数の人が「吸う」か「吸わない」なので、両者の立ち位置を強く押した意見になだてしまいがちなように思います。

因みに元喫煙者も、喫煙者の気持ちは理解できるものの、吸わなくなった成功体験がある分、大抵は「吸わない」人に大きく振れているように思います。

 

僕は凄く中途半端な立ち位置で、そこにタバコがあって、吸った方が会話が弾むなと思う場合は吸うけれど、そういう場合を除いてはほとんど吸わないというくらいの立ち位置です。

高校の保健の授業で言っていた、一本吸ったら辞められなくなるから絶対吸うなみたいな言葉がずっと気になっていて、大学時代に吸ってみたのですが、全く辞められなくはならなくて、それ以降はあれば吸うみたいな感覚です。

ちょうど飴玉やガムと同じイメージ。

そんな立ち位置なので、僕は吸う人の意見も吸わない人の意見もわからないではありません。

特に路上喫煙に関しては、お互いの言い分がなんとなく思い浮かびます。

 

まず、路上喫煙をする人に関して。

もちろん禁止区域とされているところで喫煙をするのはそもそも違反行為なのでやってはいけないというのは当然なのですが、それでも吸っているのは、潜在的に「何が悪いか納得していない」からなのだと思います。

これがもし、おが屑やティッシュペーパーが積もった狭い部屋の中ならば、絶対に吸わないと思います。

何故なら発火の危険性が明らかに認識できるから。

或いは、自分の大好きな人や子供が大病を患って咳き込んでいる病室のベッドの横でも、相手の身体に及ぼす影響を考えて、やはりタバコは吸わないでしょう。

よほどの中毒者でもない限り、喫煙者だってその辺の分別はわきまえています。

そんな喫煙者でも、路上喫煙禁止区域では吸ってしまうのは、本質的に「路上で吸うことは、危険性もなければ誰かに害を与えていない」と思っているから。

そもそも、周囲の迷惑を省みないとかではなく、「周囲」そのものが視界に入っていないのです。

そして、非喫煙者が怒っているのは、タバコの煙でも火そのものでもなくて、そんな「私たちを視界にすら入れていない」というような喫煙者の態度そのものなのだと思います。

マーケティング等をしている永江一石さんがブログで、電車で化粧をしている女性に腹をたてる理由というエントリをあげていました。

その中で触れられていたのがこの理論。

化粧は周りに美しく感じてもらいたいが故にするもの。

その過程を見せるという行為はその場にいる人に「相手にすらしていない」というメッセージを与えている。

だから電車で化粧をしている人を見ると無意識にそれを感じ取って不快になる。

タバコに関して受動喫煙などの様々な理由が挙げられますが、根っこの部分は「無いものとあしらわれた上に迷惑を被っている」ということに関する不快感になるような気がします。

 

僕はタバコを持っているときでも、その空間に子供がいる場合、少人数でご飯に行くときに1人でも非喫煙者がいる場合、隣に座った人がタバコを吸わない場合は絶対にタバコを吸わないと決めています。

それは、僕自身も他人のタバコの煙が嫌だから。

因みに知り合いとご飯に行ったときにタバコを吸われるのは全く不快に思いません。

気を許している相手なので、その煙が顔にかかっても、汚いとは思わないんですよね。

逆に、見ず知らずの人の煙はむちゃくちゃ気になります。

特に禿げ散らかした人相の悪いおっさんの煙とかはムリ(笑)

こういう人って少なく無いと思うんですよね。

この視点が中々理解してもらえないという喫煙者の方には、煙を全部唾液だと考えてみてもらうとイメージが近いかもしれません。

その人の口から出てきた(タバコの先の煙は違いますが、そんなの吸っていない人間には関係ありません)ものが顔や身体にかかる。

咳で飛んだ唾液の飛沫は目に見えないですが、煙の場合はさながら全て可視化されたような印象を受けます。

見ず知らずの汚いおっさんに唾を吹っかけられたらそりゃ嫌じゃないですか(笑)

外でタバコを吸う場合は非喫煙者にとって、タバコの煙を浴びるのは、そのくらいの事だと認識して吸っておくのが喫煙者の配慮として必要な気がします。

 

僕は喫煙問題を解決する方法は、喫煙者の側の配慮をもっと高めることに尽きると思います。

昔ご飯を食べに行ったとき、カウンターの1番奥でタバコを吸っていたおっちゃんと話していたのですが、子連れの親子が入ってきた瞬間に、その人はすっと火を消しました。

その親子は全然離れた所に座ったのに、結局おっちゃんは一本も吸いません。

その姿勢に対して、本当にカッコいいなと思ったのと同時に、こういう喫煙者は嫌がられないのだろうなと思いました。

非喫煙者が嫌っているのは喫煙することそのものというよりは、喫煙者の「私たちを見ていない」と伝わってくる態度である。

実際にそうなのかは分かりませんが、少なくともこの前提で気を配っていると、だいぶ喫煙者の振る舞いも変わり、非喫煙者の認識もよくなるように思います。

2017年関西大学2月1日入試「紫式部日記」現代語訳

 今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。

仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。

また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。

そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。

随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

問.次の文章は『紫式部日記』の一節である。これを読んで、後の問いに答えよ。

 

 全ての女性の有様は、穏やかで落ち着いていればこそ、品格や振る舞いにも趣深さを感じるものだと思います。もしくは、色好みで心が移り変わりやすい性格であっても、生まれつきの人柄にくせがなく、周りの人に対して付き合いにくいような態度さえせずにいれば、憎くは思われないでしょう。「私こそは特別だ」というような様子で、周囲と違った態度を取る人は、立ったり座ったりというちょっとした動作につけて、自分では気を使っていたとしても、周囲の人の目についてしまうものです。一度でも人の目につけば、必ず何か言った言葉の中にも、やってくるときの振る舞いにも、立ち去る後ろ姿にも、周囲からあら捜しをされるようになるものです。話の整合性が取れていない人や、他人の身の上をけなすような人は、まして目も耳も立てられることになるのです。弱みの無い人たちは、どうにかちょっとした批難の言葉も人に言わないようにと謹んで、お世辞の情をかけたく思うものなのです。
人が進んで憎いことをしたときはもちろん、間違えて悪いことをしたときでさえ、それを笑うことに対して人びとは気後れしないものです。とても心が広い人であれば、たとえ自分が憎まれたとしても人のことは憎まないかもしれませんが、そのようなあしらいはどなたでもできるものではありません。あの慈悲深い仏であっても、仏教における三宝の悪口をいう罪は軽いものであろうか、いやそんなはずがないとおっしゃっています。まして、このように邪なことが多いこの世に住んでいる私たちならば、不遜な態度を取る人には、同じく不遜な振る舞いをすることでしょう。それを、自分が言い負かしてやろうとひどい言葉を浴びせて、向かい合って非常に悪い態度でお互いを見合うことと、そうではなく気持ちをおさめ、上辺の表情はなだらかにしているのでは、その人物の懐の深さが推し量れることです。
左衛門の内侍という人がいます。何のいわれもないのに不思議と私のことをよく思ってはいなかったようですが、そのことは知りませんでした。それが、聞くに心地よくない罵詈雑言が多く私の元に伝わってきたのでございます。
内裏の、私の仕える主人が「源氏の物語」を周囲の人々にお話になりながら私のことをふと、「この人は日本書紀を初めとする歴史書を多く読んでいるのでしょう。本当に博識です。」と言ってくれたのを、ふと聞いて思いついたのでしょう、「非常に博識な女房がいる」と殿上人などに言いふらして、その上私に「日本紀の御局」などとあだ名をつけたのだそうです。本当に滑稽だといわざるを得ません。私の故郷の女たちの前でさえ、こうしたことは表に出さないようにしているのに、宮中のような恐れ多いところでどうして才能をひけらかしたりなんてしましょうか。
私の兄弟の式部の丞と言う人が子供のときに漢書を読んでいたのを近くで聞いていたところ、この式部の丞は読み取るのも遅く、忘れるところもあったのに、私は自分でも驚くほどにすっと入ってきましたので、それを見た漢書に造詣の深い親に、「残念でならない。お前が男でないのが不幸でならない。」と言われるほどだったのです。
それを、「男でさえも才能をひけらかす人はどうであろうか。見栄えのしない行為でありましょう。」などと、少しずつ周りの人に言われるようになってからは一という字すらも書かないようにして、学の無いように装っていたのです。以前読んだ漢書などには目も留めないようになって後、ますます周囲から私が学をひけらかすなどという悪口を聞くようになりまして、私は屏風に書かれた文字さえも読めないような顔をして過ごしておりました。そんな折、中宮彰子さまが御前で私に白氏文集などをところどころ読ませたりなどして、その内容を知りたいような御様子でいらしたので、お忍びで、人のいないときを狙って、一昨年の夏ごろから、楽府という漢書を2巻ほど、おぼろげながら教えて差し上げていたのです。これも私は隠しておりました。中宮彰子さまもそのことを隠してくれていたのですが、殿も内裏もその様子をお知りになって、漢書などを書かれて殿が彰子さまに渡しなさるのです。それを彰子さまが私に読ませなさることなどは、私を悪く言うあの内侍はまだ聞いていないでしょう。もしこのことを知ったならば、どれほど悪くいわれることかと思うと、全くもって世の中というのは嫌なものでございます。

 

 アイキャッチはもっさい紫式部が表紙の本

人生はあはれなり… 紫式部日記

人生はあはれなり… 紫式部日記

 

 

「忙しさ」の異文化理解〜仕事型の忙しさと研究型の忙しさ〜

入試が近づくと毎年そうなのですが、ここ最近、問題研究に追われています。

特に今年は受験生が異様に多いので、(ありがたいことに)寝ても覚めても問題の事を考えているみたいな感じです。

この前夢に光源氏が出てきました(笑)

で、問題研究をしていて、「研究」的な忙しさと、いわゆる「仕事」的な忙しさとでは、全く毛色が違うんだなあということを強く感じました。

営業や企画みたいなマルチタスクを行うタイプの忙しさって、まとまった時間が取れないタイプの忙しさなんですよね。

だから、うまく仕事を回そうとすると隙間時間をいかに使うかというお話になってくる。

まとまって「○○時間」みたいなのは無理だけれど、細かな時間は工夫して捻出することができますというのが「仕事」タイプの忙しさ。

それに対して、研究職の仕事の忙しさって少し違います。

研究において最も重要なことはまとまった時間を1つの案件に投資するということ。

つまり、ある程度まとまった時間を捻出することはできるけれど、細切れの時間を作るのが難しいわけです。

1つのことにずっと没頭しなければならない時に、定期的にノイズが入ってくると、その度に集中が切断されてしまいます。

だから、どこかでまとまった時間を取ることはできるけれど、細かなやり取りが難しいというのが「研究」タイプの忙しさであるように思います。

そして、それぞれ「仕事」タイプの忙しさを感じている人と「研究」タイプの忙しさを感じている人は基本的に違うタイプの忙しさを理解することができない。

 

塾の先生といえば授業をしているイメージですが、授業の準備の方が数倍も手間がかかっています。

昔、「講習大変でしょ?」と言われたことがあるのですが、どちらかといえば講習そのものが大変というよりは、その準備が大変というのが塾に関わる多くの人の意見だと思います。

極端な話、授業準備さえできていれば、後はそれを「話すだけ」ですので。

そんなわけで、僕は塾講師は研究職のような側面が強い仕事だと考えています。

大学入試の問題研究をしようとしたら、解く所から、傾向や特徴を掴むところまでを含めると、どうしても2.3時間のまとまった時間が必要です。

(少なくとも僕の場合は)

で、研究なんて基本的に知識と情報の積み上げが命なので、他のノイズが入って来ない状態を長時間取ることができればそれだけアウトプットの精度は高まるように思うのです。

僕は常々「電話が嫌い」と言っているのですが、その最大の理由はここにあります。

状態を分析しているときにその集中力が分断されて、アウトプットの精度が下がるのがとにかく嫌なのです。

文理を問わず、また職種を問わず、何らかの研究的な要素があることを仕事にしている人ならば、少なからず共感して頂けるところだと思います。

あとは研究職意外にも、文章を書いたり、プログラムを作ったり、デザインを作ったりする人もこの感覚に近いんじゃないかなあと思います。

 

僕は昔、営業としてバリバリ仕事している友達にこの時期は忙しいと言われて「じゃあ空いた時間にゆっくり電話させて」と言ったら、「だからその時間がとれない!」と怒られたことがあります。

僕にとって忙しい=まとまった時間を邪魔されたくないなので、むしろ集中してパフォーマンスが発揮できる時間が終わったあとの枠を貰えたらという意味で言ったのですが、彼にとっては逆に細かなLINEには直ぐに返信できるけど、電話みたいな時間が拘束されるのは勘弁ということだったみたいです。

この辺、僕には全く理解ができない視点でした(ゴメン...!)

後で聞いた話では、忙しい時はマルチタスクをガンガン回しているから、寧ろ細切れの時間なら取りやすいとのこと。

これが「仕事」型の忙しさです。

 

仕事型の忙しさにしろ研究型の忙しさにしろ、「忙しい」という事実は変わりません。

しかし、それぞれの忙しさの毛色は全く違い、むしろ一方にとっての暇な時の対応の仕方が、もう一方にとっての忙しさになる。

この辺はすごく面白い現象であるように思います。 

多分この辺って、その人の向き不向きにかなり営業を与えているはず。

だから、仕事選びの際にどちらの忙しさが自分には向いているのかという視点で考えてみるのもいい視点なのではないかと思います。

まとまらなくなってしまったのでこの辺で、、、

 

アイキャッチはちきりんさんの生産性の話