新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



社会人は皆知っている読ませるエントリーシートの作り方③自己分析は〇〇だけを意識しろ!

推薦入試を受ける子に頼まれて、僕はよく面接や志望理由の自己分析のお手伝いをします。
なぜその学校をしぼうしているのか?
自分はどんな人なのか?などなど。。。
志望理由を書くことのお手伝いをする場合に、僕は生徒さんにとっての「自分では気付いてはいないけれど、周囲にはそう思われているよ」という部分を重点的に伝えるようにしています。
ジョハリの窓で言うところの「盲点の窓」です。
心理学のツールで、ジョハリの窓というものがあります。
自分で自覚しているか否か、そして周囲に知られているか否かの組み合わせによって「自分とは何か?」というのは4通りに分けられるよねという考えかたです。
自分とは何かということのうち、自分で自覚していて他人も分かっている部分を「開放の窓(open self)」と呼びます。
自分も回りも「こんな人だ」ということが分かっている。
自分が普段仲間内で意識しているキャラクターのようなものです。
自分では分かっているけれど、他人には知られていない部分のことを、ジョハリの窓では「秘密の窓(hidden self)」と呼びます。
周りには見せたくない素の自分や、隠しておきたい少し恥ずかしい部分など。
反対に、自分では気付いておらず、周囲はしっかり認識している部分のことを、「盲点の窓(blind self)」と呼びます。
自分でも全く気付いていない、自分では当たり前だと思っているのに、周りからしたら「凄い」と思ったり、「えっ?」と思ったりする部分。
最後は自分も他人も気がついていない「自分」です。
これは、未知の窓(unknown self)と呼ばれます。
ジョハリの窓にはこの4分類(①開放の窓②秘密の窓③盲点の窓④未知の窓)が存在するのですが、自己分析をする際、このうちのどの自己を掘り下げるかを考えることが非常に重要であるように思います。

自己分析をみていると、上手くいかない人は往々に③や④の自己を追いかけていまいがち。
周りに知られていないけれどもっと知ってほしい「本当の自分」って何だろう?とか、自分も気付いていない自分の良さってあるのだろうかとか、そんな感じ。
僕は、こういった部分を自己分析で知ろうとするのは根本的に間違えているように思っています。
他人には気付かれておらず、自分しか知らない自己なんて、たいていの場合自分の自己満足に過ぎないため、掘り下げたところで生産的な「自分らしさ」なんて発見できないんですよね。
(そう見えていたいという自分を掘り下げる行為ですので、それをするほどに気持ちよくはなりますが…)
同じ理由で、自分も他人も知らないような自己を求めることにもあまり意味がありません。
自分が自覚していなくて他人も自覚していない「自分らしさ」なんて、たいていは自分らしくないから。
仮にそんなものがあるとしても、恐らく全く役に立たない能力であるような気がします。
そんな部分を掘り下げるのも、やっぱりあまり有効な手段ではないように思います。
僕が自己分析に役に立つ部分があるとするならば、ジョハリの窓で言うところの盲目の窓、つまり自分は気付いていないのだけれど周囲が認知している自分らしさを発見するところにあると考えています。

自己分析の最大のメリットは、自分は当たり前に行っていることなのに周囲から見たら凄いと思われているところに気付くことであるというのが僕の持論。
それは「こんな仕事に向いている」だとか、「あなたの性格は〇〇です」見たいに機械的なツールで出てくる類のものではありません。
そもそもそういった診断ツールで出てくるものって、大前提としてユーザーに使ってもらわなければならないため、受けた人が気持ちよくなるようにできているとおもうんですよね(笑)
本来の自己分析って、そういうツールで診断できるものではなく、周囲の人に腹を割って自分のことを話してもらうことで自分が気づいていなかった自分の良さに気付き、それをベースに自分に向いたことを深堀りすることなのです。
「自分はどうしたい」ではなく、「周りは何を評価してくれるのか」

仕事の根本がどんな形であれ社会に価値を与えることにあるとしたら、その世界に飛び込む最初のきっかけである就職活動で求められる力は、「自分は何がやりたいのか?」という願望ではなく、「自分はどう他者に役に立てるか?」という顧客視点です。
そして、エントリーシートで押すべきなのも、当然この部分になってくる。
自分が日頃、他者にどういう価値を与えているかを知る行為が「自己分析」。
そう考えると、どういう自己分析をしなければならないのかがわかってくるように思います。
もちろん他にも方法はいろいろあると思いますが、僕は周囲の人に聞くことだと思います。
できれば身近だけれど正直に語ってくれる友達と、全く知らない初対面の人が持った印象の両方を聞きたいところです。
そして、周囲からのヒアリングの結果支持されていて、その割りに自分は自覚していなかった部分があれば、そこを掘り下げてみる。
俗にいう「自己分析」とは大きく異なりますが、こうしたやり方は結構有効な気がします。

 

顧客視点といえばこの人。

永江一石さんの本

 

 

 

社会人は皆知っている読ませるエントリーシートの作り方②あなたと同じ役職は全国に5万人います

「ナンバーワンにならなくてもいい元々特別なオンリーワン」
「オンリーワンを目指す」という価値観は、SMAPがこう歌って以降、学校の教科書にも乗るくらいにメジャーな価値観になりました。
僕は基本的に勉強や学校でやるスポーツみたいな、限られた分野で必死に競争するのではなく、自分の勝てる分野で勝負する方がいいと思っているため、もちろんオンリーワンという考え方に賛成です。
これはエントリーシートに自分のことを書く際にも同じであると考えています。
多くの人のエントリーシートや自己PRを聞いても面白くないのは、みんな普段はオンリーワン型のポジショニングをしているのに、「面接」となった瞬間にナンバーワン型の』アピールをしてしまうからだと思うのです。
インプットがオンリーワン型であるのにアウトプットをナンバーワン型にしていたら、当然相手に刺さるアピールにはなりません。
自分の勝負する分野を変えるオンリーワン型と数多くいる中でトップを目指すナンバーワン型の戦略は、そもそも真逆の立ち位置のものだからです。

ナンバーワン型のアピールの基本戦略は、ある分野でトップに立った経験を語るところにあります。
このやり方で印象に残るアピールにするには、規模感とそこで上位に登り詰めたという経験が不可欠。
たとえば「起業しました」では何のアピールにもなりません。
だって「起業」自体は誰でもできるし、そこに競り勝った経験は存在しないから。
極端な話、面接官にとっては「私は起業しました」というのは「俺息してます」というアピールくらいにしか聞こえません(笑)
これがナンバーワン型のアピールをしようとしているのに登り詰めた経験が不在のアピールパターン。

もう一つ、規模感の不在パターンもあります。
ナンバーワン型PRで最も重要なことは、上位に登り詰めた分野の規模感です。
人数やプレイヤーの質、市場規模の大きさetc…
同じトップに立っていますでも、さすがに「イオングループの代表です」であればそれだけで当然凄いですが、「ゼミの代表です」ではナンバーワン型のアピールとしては全く意味が無いわけです。
もしこのアピールをしたいのであれば、「〇〇の」の部分がどれくらいの規模感であるのかが決定的に重要になってくる。
もし、これからエントリーシートを書く人が、本当にその分野で1~5番くらいに入る人だったらこのアピールで構わないと思います。
しかし、そうではないのなら、絶対にナンバーワン型のアピールは相手に刺さりません。

オンリーワン型のポジショニング戦略を取ってきた人がナンバーワン型のアピールをしようとしたら、どうしてもそのエピソードはつまらないものになってしまいます。
細分化されたフィールドで活躍するのがオンリーワン型である以上、どうしてもそのエピソードの規模感は大きくなり得ないからです。
オンリーワン型のアピールをすればいいのに、そこでナンバーワン型のアピールをしてしまう。
だから、どこにでもある「サークルの代表」とか「ゼミの代表」、「バイトリーダー」みたいなアピールになってしまうわけです。
仮に現時点での大学数が700(パッと調べて出て来た数字なのでミニマムだと思ってください)で、サークルとゼミの数がそれぞれ10ずつ、役職が代表1人、副代表2人、会計と4枠あるとしても大学関連の役職もちだけで5,6000人いる計算です(笑)
自分がナンバーワン(それに順ずる)だと思ってアピールしていることは、もう5,6000人いるということを自覚しておかなければいけません。
他にもさまざまな経験があるのかもしれませんが、どれも「ナンバーワン」っていうのは概ねこんな感じだと思います。
「自分のムラで一位です」っていうのは全国規模で物事を見ている社会人(特に面接官)には刺さらないんですよね。
だから、エントリーシートにおいて、そもそもナンバーワン型のアピールというのが効果的な方法ではありません。
最初のSMAPの「世界にひとつだけの花」の歌詞に戻りますが、みんなが「もともと特別なオンリーワン」であるのなら、絶対にオンリーワンであることをアピールすべきです。
で、ここまででナンバーワン型のアピールについては多少具体的に書きましたが、「オンリーワン型」のアピールに関しては全く書けなかったので、次の(このテーマの)エントリーで詳しくまとめてみたいと思います。

成績を伸ばす努力をする前に、成績を下げる習慣をなくせというお話

私大入試の結果が、少しずつ出てきています。
今年も関関同立産近佛龍を初め多くの学校の合格を勝ち取ってくれています。
子どもたちの勉強姿を見ていて、やはり勉強を通して実力を挙げて、希望通りの大学に合格できる子は、一定の共通項があるなあと感じます。
というよりも、正確には思うように成績が伸びない子には共通項があるという認識の方が正しいかもしれません。
成績が伸びる子は、「成績を伸ばす努力」と共に、「成績が伸びない習慣」を減らす努力をしています。
逆に、成績が伸びない子は例外なく、「成績が伸びない習慣」を減らす努力をしません。
凄く頑張っているのに成績が伸びない習慣をなくそうとしないものだから、結局いつまで経っても成績が上がらないということになってしまうわけです。
浴槽にドバドバ湯を注いでいるのに、詮をしていないから水が溜まらない。
毎年このタイプの子を見かけます。

成績が伸びない習慣を僕は端的に以下の4つと定めています。
①睡眠時間を削る、または一定の時間確保しない
②スケジュール(学習計画)管理をしない
③積み上げ型のコスト計算をする
スマホリテラシーが低い

睡眠時間を削るというのは、文字通り夜遅くまで勉強しようとか、時間を確保するために睡眠時間を削ろうとすることをさします。
睡眠不足は翌日の生産性を落とすため、長期的に見て非効率です。
たしかに夜気分がのっていて、もうちょっとだけと睡眠時間を削って勉強をしていると、頑張っているように感じます。
しかしそれは「感じる」だけで、結果に繋がりません。
そのため、睡眠時間を削ることは、成績を下げる習慣といえます。
二つ目のスケジュール管理をしないというのも良くあるお話。
1年間を通してどのような勉強をするのか。
そのためには今週はどういった計画で勉強をすればいいのか。
今日は何をどれだけ勉強しなければならないのか。
そういった計画をきちん立てて、その上でそれを実行しようとしないのが、二つ目の習慣です。
これは三つ目の積み上げ型のコスト計算という話にも繋がります。
成績が伸びない人ほどどれだけの時間が必要かという計画を、積み上げ型で考えます。
で、一日ではこなせないと嘆く。
そもそもどれだけやれば確実に受かるなんてことは分からないため、積み上げ型で勉強計画を立てていけば、その計画が一日にこなせる量を超えてしまうのは、火を見るよりも明らかです。
勉強計画は積み上げ型ではなく、時間を確保して、その中でできることを考えていく。
こうした予算制約型のコスト意識が重要です。
最後のスマホリテラシーを端的に言えば、「スマホに生活を支配されるな」ということ。
例えば、ラインでメッセージが着たらすぐに返さないといけないと焦ったり、ゲームのイベント発生に引っ張られてスマホをいじるみたいなこと。
そもそもメッセージやイベントを気にしなければいい話なのですが、仮にそれができないにしても、設定で通知が来ないようにしたり、ゲームを削除したりと、主体的になる方法はいくらでもあります。

以上①~④までの習慣を改善せずにひたすら勉強に打ち込むというタイプが少なからずいます。
そして、このタイプの人は例外なく成績の伸びは芳しくない。
勉強の努力を始める前に、成績を下げる習慣をなくすという意識が非常に重要です。
で、この事は勉強に限らず、あらゆることに当てはまることのように感じています。
例えば、ダイエットや貯金もそう。
運動や過度な食事制限のような痩せる努力をする前に、日常生活から太る要因を減らそうよみたいな話。
就職活動でも同じことが言えます。
「(ありもしない)受かるテクニック」を探す前に、現状の自分を振り返って「ダメな部分」を直すほうがよっぽど効率的です。
勉強に限らず、この辺の4点を意識しておけば、比較的上手くことが運ぶのではないかと思うわけです。

トレジャーハント、してますか?

年明けから受験のため怒涛の授業ラッシュでした。

で、先週末にひと段落ついたので、この数日は東京へ行ったり、大学時代の友達に会ったりと、フラフラしています。

授業ばかりで話のネタが切れてしまったので、おもろいネタをインプットをしています。

 

僕はコミュニケーションにおいて、聴く力とトレジャーハントが大切であると思っています。

トレジャーハントとは、「話し相手が楽しんでくれるような話題を集めること」です。

僕の周りにいる友達で面白い人は、例外なく優秀なトレジャーハンターです。

その人にしか出来ない経験、或いはその人ならではの見方・考え方みたいなもので切り取った日常を語ってくれます。

僕はこのトレジャーハンタースキルには大きく4パターンあると思っています。それが以下の4つ

1.ネタが面白い

2.見方が面白い

3.見せ方が面白い

4.企画が面白い

だいたい面白い人たちはこのどれか(場合によっては複数)に長けています。

そして、必ず顧客視点で話をする。

この辺って、1〜4のどれが自分には向いているかを考えつつネタ収集をして、日常から顧客視点で話をするように心がけていたらすぐにできるように思います(僕が出来ているかはわかりませんが...)

というわけで詳細をまとめていきたいと思います。

 

1つ目のネタが面白い人というのは、やる事なす事全てがぶっ飛んでいるタイプ。

ここに属する人は、どんな行動をしていてもなぜか面白いことを惹きつけます。

行動そのものがネタになる人たち。

 

2つ目は見方が面白い人。

同じものを見ているはずなのに、相手はむちゃくちゃ面白い話をしているということがあります。

いちいち着眼点がユニークであるために、その人を通して出てくる物は何でも面白い。

これが、見方が面白いタイプ。

 

3つ目は見せ方が面白いタイプです。

これは、見方が面白いというのに近いようで違います。

自分のアイデアをそこに載せることで面白い話にしたて上げるプロデューサー気質のスキル。

何かを見たときに、それを面白いものにしてしまえる人はこの部類です。

 

最後の企画が面白いタイプとは、何もない所に「面白さ」を生み出してしまえる人です。

適宜必要な所に人とコンテンツを集められる人はここに属します。

幹事として飲み会を盛り上げたり、何かの企画を作りたい人は大抵このタイプ。

 

という4パターンが僕の分類。

そして、前提として顧客視点を持って会話ができること。

これがあると、トレジャーハンターとしての資質になるように思っています。

もっと、もっと、自分自身のトレジャーハントスキルを磨きたいです。

 

最近飲みながら書いていることが多いので、また文脈がグチャグチャになってしまった(笑)

 

関連エントリです、よかったらこちらもお願いします!

http://column-usukuti.hatenadiary.jp/entry/2016/11/16/100836

 

アイキャッチはトレジャーハンター論の提唱者、マンガ家の山田玲司先生の最新作。

 

CICADA 1 (ビッグコミックス)

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2017年龍谷大学一般入試2/1「戴恩記」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

基俊の歌に対する見地を憎み、とある腹黒い者が、『後撰集』の中にある人々にあまり知られていない悪い歌を自分の歌の中に混ぜて見せた。基俊はそんなことはつゆ知らずそれらの歌に批判を加えて返したところ、この腹黒い者は手を叩き「『後撰集』の歌を批難するということは、あなたは梨壺の五人よりも和歌の名手というのですね。」と言ってあちこちでこのことを言いふらしたと、無名抄で鴨長明が載せた。この腹黒い者よりも、長明のほうが心あさましく、また歌の道の本質を理解していないように見えて、かえって恥ずかしいものである。
 たとえば、歌集を編算するのは、一瓶に花を活けるようなものである。花を立てるといっても、花ばかりを立てるわけではない。どうということはない草木の枝を、あるいは細いものや太いものを、あるいは長いものから短いものまでをそれぞれに適したかたちで配置するものだ。そうやって成り立っている活け花を崩して、花のついていない枯れ木の上の枝ばかりをひとつふたつ手にとって、これも花瓶に活けてあったものだからという理屈で花と呼ぶようなものだ。『後撰集』であるからといって全ての歌が良いものだろうと決め付けるのは、それを言った者が間違えなのだ。秀歌があるのならば、そこに良くない歌もあるということを知るべきだ。どれも、古今の一部は一つの世界を表し、人の一生をかたどっているといえる。どの和歌集もこれに準じる。(中略)人丸や赤人のような和歌の名手の歌にも、決して優れない歌があるということを知るべきなのだ。俊成が『千載集』を選んだとき、「私は人を見ず、ただ歌だけをみるのだ」と言ったのもここに意図がある。あの基俊が、梨壺の五人の名前に、恐れを感じるだろうか、いや、そんなことになることはないだろう。彼が批難した歌たちは、きっとどこかしらに欠点があったのであろう。本来であれば正しいはずであるのに、それを間違えであると後の世まで語り継ぐのは、和歌の道に明るくないことの表れであると言わないではいられない。歌の道は非常に深い部分に秘伝があるからこそ、いつの時代でもそれを知っている人は少ない。知る人が少ないがゆえに、何のいわれもない基俊を罪人とするのである。
 客観的にこの無名抄を、見ると、基俊の間違いを指摘しているところが多く載っていた。その根底には、俊成卿の威勢を妬んで、だからこそその俊成卿を馬鹿にするように思われるものだ。長明ほどの世捨て人でも、本当の君子ではないので、同じ道にいるものを妬む気持ちが消しきれなかったように思う。長明は俊恵の弟子である。その俊恵は俊頼の子どもだ。俊頼と基俊は同じ時代の名匠である。「二人の英雄は必ず争うことになる」という習慣であるので、お互いにその批難すべき点を見つけては文句を言っているように見えた。どちらも道理の通ったことであるのだが、今改めて見返すと、どちらもどうとはない思い込みに過ぎないということが分かった。それでもこれらは、後世にとっては役に立つ論争である。その上、よくよくその時期の書物を読み解くと、今の連歌師を敵のように憎んで、妬んでいるわけではない。
また、仲が悪いとも見えない。和歌の批判に関しては、それぞれの思う理屈を述べているので、お互いに違うと思うとこも好むところも変わるようだ。基俊の俊頼の歌を下手と書いたことも見たことがない。ただ、「俊頼は学が無く、人が言ったことをそのまま正しいものとして、言われたままに歌を詠んでいた。」と批難した。また、古い歌にもない言葉を新しく作り出して、「言葉ぬさ」などと詠み。或いは水に隠れたことを「みがくれ」と古い歌にはあるものを、この俊頼は水の心を捨てて、自身の身を隠すことのように読んだのを、基俊は腹を立てて、「俊頼はこの道を乱す人だ」と言ったそうだ。これらはどれも、道理にあった批判であるので、あながち仲が悪く、妬んで言った言葉とはかならずしも言えないのだろう。

 

伊勢物語は雰囲気イケメンのガイドブックだと思う(前編)

池澤夏樹さんの個人編集で作られた日本文学全集。

これに思い惹かれて、久しぶりに伊勢物語を読み返しています。

もちろん歌物語ですから、原文のままの良さはあるのですが、現代を生きる作家が、今の言葉で語る、その言の葉に、原作とはまた違う良さを感じます。

僕は元々、伊勢物語を色男の指南書と思っています。

在原業平をモデルにしたと思われる色男の所作が、どれをとっても時に雅で、時に浅はかで、そこに妙な色気を感じるのです。

無粋な口上はさておいて、とりあえず僕は伊勢物語を読み返してみて、改めていいなと思う歌がいくつかあったので、その辺を含めて、伊勢物語で詠まれるお気に入りの歌を、紹介したいと思います。

 

1.うぐひすの花を縫ふてふ笠もがな濡るめる人に着せてかへさむ

伊勢物語120段からの引用です。

「男がいた。」というお馴染みの文句から始まるこの物語は、雨に濡れる女を見て、男が読んだとされる歌です。

現代語訳は池澤夏樹さんの日本文学全集から。

(この訳が最もきれいで、心が通じているように思いました。)

「うぐひすの花を縫ふてふ笠もがな濡るめる人に着せてかへさむ」

 

うぐいすが

花から花へ跳びまわるさまを

花笠を縫う、と言います

その笠を

わたくしも欲しいのです

濡れているあなたに

着せかけるために

 

「花笠を縫う」という比喩を使って雨に濡れた女性に気を配りつつ好意を示す。

そんな繊細な気持ちが書かれているように思えて、僕のお気に入りです。

 

 

三段もお気に入りです。

たった数行の段なのですが、そこに出てくる歌がお気に入りです。

「思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも」

 

わたしに対する思いがあるのならば葎の茂るような宿にも寝ましょう。

しきものはわたしの服の袖で十分です。

 

思いさえあればあとは質素でもいい。

言っていることはたったそれだけなのに、こんなにも雅で、お気に入りの歌だったりします。

 

「ならはねば世の人ごとに何をかも恋とはいふと問いし我しも」

38段に出てくる和歌です。

わたし自身が聞いたことも無いので、人と出会う度に私は「恋とは何か」と問うていたのです。そんなわたしがあなたのような人に恋とは何かを教えていたのだとは。

和歌の名手、紀有常がある男から「人を待つのがこんなにもつらいものだとは...」と言われて返したこの歌。

「恋を探していたわたしが『恋』を教えるなんて」と読んだその心意気がお気に入りです。

 

続いては百人一首にも掲載されているこの歌。

「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」

伊勢物語106段に載っているこの歌。

僕の最もお気に入りの和歌の一つでもあります。

神の時代にも聞いたことがありません。こんなにも龍田川が紅葉で赤くそまっているなんて。

ちはやふる」という枕詞(次に続く後を導くための決まった5音の言葉)の本来の意味である、「荒々しくも堂々とそこにある」という意味を考えると一層引き込まれる歌です。

 

45段の亡き女に向けて送った男の和歌も秀逸です。

「行く蛍雲の上まで往ぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ」

宙を漂う蛍、もしも雲の上にまで行くことができるのなら、秋の風が吹いたのだと、雁に告げてあげてくさい。

死んだ女に対して「私の生きる現世には秋が訪れました」と述べる男の今はいないと分かっているのに、尚愛しているということが伝わるのが、凄いなあと思います。

という具合で、お気に入りの和歌を挙げればキリがないので、ちょうど半分くらいのここで切りたいと思います!

 

という

やりたい事をして金を稼ぐという「経験」

以前ツイッターでつぶやきながら考えたマネタイズと価値に関するお話です。

 

好きなことで生きていこうとすれば、好きなことがどうやったらお金になるかを考えることが必要。

で、お金にしようと考えるなら、どの層にどのようにアピールしたら価値を認識してくれるかを考える必要がある。

価値を認知する人が一定数いれば、それは必ずお金になる。

 

たとえばむっちゃ古典が好きな人がいたとして、どうやって好きをお金にすればいいか?

1番分かりやすいのは古典の先生になること。

でも、それ以外だってやり方はいくらでもある。

ここで考えるのが、どうやって価値を届けるか。

古典によって価値を感じる層、或いは価値を感じる見せ方を考える。

 

詳しい解説サイトを作ればそこに「価値」が生じるかといったら、答えはNOだと思う。

その情報で価値を感じる人が明確に想定されていないから。

もちろん、「古典が大好きな人」がターゲットということは言えるけど、それがどのくらいの人数で、具体的にどういう価値を感じるかが分からない。

 

僕が考えつく最も「古典の知識」に価値を感じる層は高校生だ。

彼らには古典のテストという、越えなければならない壁があり、分からないという悩みを持っている場合が多い。

それを解決するような見せ方を作れば、立派な価値を提供したことになる。

では、高校生向けに好きな古典の話を書けばいいか?

 

もちろんそんなことはない。

今度は彼らにとってどう「古典というコンテンツ」を提供するかが重要になる。

例えば、様々な教科書を取り寄せて、多くの学校で使われる古典の作品を徹底的に分かりやすく説明したコンテンツを作る。

そうすれば紛れもなく、特定の人に価値を持つものとなる。

 

まだこの段階ではお金は発生していないのだけれど、そこに「価値」があり、それを求める人がいれば、その価値を欲しがる人が絶対に出てくる。

それはサービスそのものかもしれないし、特定の層を集めているという「現象」それ自体かもしれない。

 

いずれにせよ中心に価値があり、そこに人が集まる状態ができていれば、そこに何らかの形でお金を介在させることは可能である。

僕はこの「価値」と「需要」が揃っている所に「お金」が組み込まれることが「市場化」することだと思っている。

そして、この経験をしている人は、何をやるにしても強い。

 

学生さんを見ていると「ヤリタイコト」をしている人は多く見かけるけれど、「市場化」まで意識している人は驚く程に少ない。

多分それは得手不得手ではなく、そもそも市場化という発想がないのだと思う。

もちろんやりたいことをしていて満足というならそれでいいのだけれど、あくまでそれは消費者。

 

これはあくまで僕の定義だけれど、たとえ人を多く集めていても、たとえ人に感謝されていても、あくまでそれは生産者ではなく消費者だと思う。

誤解のないように弁解しておくと、決して「消費者」が悪いと言いたいわけではない。

ただ、生産者が少ないなら、その経験は色々得だろうというお話。