新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



カリスマは、近しい人を不幸にする。

「カリスマは近くにいる人を不幸にする。」

僕のライフワークは「天才を作ること」で、そのためのサンプルとしてカリスマ性を持つ人たちの話をよく聞きます。

また、イベントを立ち上げたり、一緒に活動をしたりということも少なくありません。

その度に感じるのが、カリスマは広範囲の人を楽しませる代わりに、身近な人を不幸にしているなということ(笑)

岡田斗司夫さんはこれを「原子力発電所」と呼んでいましたが、まさにそんな感じ。

遠くにいる人たちにまで多くのエネルギーを供給してくれるけれど、身近な人には少なからず被害があるし、何か癇癪を起こした時に大変。

僕が知る限り、カリスマ性のある人はその規模は別として、例外なく周りに迷惑を撒き散らしています。

ただ、これはある意味当然のことで、そうでなければ何かをゼロから立ち上げたり、何もないところに人を惹きつけることなんてことはできないんですよね。

人並み以上のエネルギーがあるからこそ、多くの人を惹きつける。

で、あるならば、そのエネルギーを直に浴びるような距離にいる人は、当然受け止めなければならない負担が大きくなる。

カリスマの近くにい続けるには、その覚悟が必要なのだと思います。

 

 

また、カリスマ性があって人を惹きつける人は、たった1人の人を幸せにするみたいな人間づきあいができません。

僕はこれを少年漫画原理と呼んでいるのですが、カリスマ性のある人は「大切な人だからこそ1番後回し」にしてしまうのです。

これは決してぞんざいに扱っているわけではありません。

「お前は1番大切だから、俺と一緒に辛い目にあってくれるよな」というようなマインドからきています。

例えば、何かを企画したりしたとして、そこに来てくれた人々を丁重に「お客さま」として扱う。

だからこそ当然近しい人の扱いは、それと比べれば雑になります。

なぜなら近しい人たちは「お客さま」てはなく「身内」だから。

この辺を意識せずに、お姫様願望でカリスマ性のある人に近づくと、かなりの割合でうまくいかなくなります。

カリスマにとって「お客さま」と「身内」は明確に違うものだから。

 

カリスマ性を持つ人たちの2つの特徴を踏まえると、カリスマの横に立つことのできる人、あるいはカリスマの横に立っても飲み込まれずに戦える人のタイプは自ずと決まって来ます。

まず大前提で、ファンではなく、身内として接することができるということが必要です。

カリスマ性のある人に好かれたいとかだと絶対にムリ。

そういう人は彼らにとって「いいお客さま」なのです。

そんなポジションのまま「身内」ぶられるのが1番嫌われます。

カリスマ性のある人の近くにいるにはまず、その人に好かれたいという気持ちを振り払って、その上で「その人のカリスマ性が多くの人に伝わること」を自分の目標にしなければなりません。

これが大前提。

その上で、カリスマ性を持つ人の大きすぎるエネルギーに向き合う術を持っていなければなりません。

僕はこの手段には2つあると思っていて、1つは膨大なエネルギーを受け止めるだけの懐の深さを持っていること。

他の人よりダイレクトにエネルギーが降りかかるのだから、人並み以上の許容力があればいいわけです。

僕はこれを弥勒菩薩タイプと呼び、この方法でカリスマの側近を勤めている人を何人も知っています。

もう1つの方法は、どんなに強いエネルギーに当てられてもブレないくらいに大きなエネルギーを自分自身が持っている場合です。

この場合、どんなにエネルギーに当てられても、流されたり潰れたりすることもなくやっていくことができます(まあしばしば揉め事になりますが...)

僕はこの手の人を不動明王タイプと呼んでいる。

 

弥勒菩薩不動明王

このいずれかならば、カリスマの持つカリスマ性に接してもうまくやっていけます。

逆に言えばそうでない場合、必ず大なり小なり不幸になる。

太陽に憧れて近づきすぎて翼が燃えた、イカロスのようになってしまうわせです。

そういう人はカリスマの横に立とうとしないで、観客席の最前列くらいで見ておいたほうがいいです。

カリスマの横にいるのは途轍もなく人生が楽しくなるけれど、想像以上に大変だよ。

そんなことは重々承知という人でなければ、カリスマの隣にたつ最愛の人や参謀は務まらないのだと思います。

 

「密集した文化」を楽しむという観光資源がアツいんじゃないかというお話

密集していると文化が生まれ、文化がある地域はそれがコンテンツとなり人を集める。

ここ最近、僕が考えているコミュニティ論、コンテンツ論です。

きっかけはNPOのお仕事で東京に行ったこと。

これは東京に行くたびに思うことなのですが、1つ1つの都心部が非常に近いんですよね。

僕たち関西に住む人間にとっての河原町と梅田の距離が、東京では銀座と新宿くらい(分かりにくい表現ですみません)

関東組に対して、僕たちは関西という枠組みで、京都、大阪、神戸の3都市に跨ってNPOの活動しています。

だからこそ、何か打ち合わせをするとして、「会おう」というハードが東京では異常に低いんだなということをひしひしと感じました。

これって、密集していることのメリットだと思うのです。

ネットが繋がっていれば起業なんてどこでもできるなんてことを聞きますが、やっぱり東京は全然ちがうと思います。

グッと狭い地域に凝縮されているから、そこで発生する偶然の繋がりとか、集まるエネルギー量とかが違ってくるんですよね。

 

出会いの数やエネルギー量というだけでなく、密集しているところはコンテンツとして外部に発信するときもとても便利です。

これは京都に住んでいるからこそ思うことなのですが、京都って観光地があちこちに存在するため、とにかく来た人に魅力を伝えやすいんですよね。

とりあえず「京都」という場所にさえくれば、あとは好きなところを見て回れる。

そこに行って、あとは好きに動けばいい。

僕はこれをビュッフェスタイルの観光地と呼んでいます。

京都の場合、とりあえず来さえすれば無数に観光できる場所があるので、あとは本人が行きたいところを満足するまで回ればいいんですよね。

それに対して、その地域に売り出せる観光地が1つしかないという地域も多々あります。

例えば鳥取砂丘伊勢神宮

僕の出身地、浜松もそんな感じです。

これらの地域の場合、確かにその観光地の知名度は非常に高いかもしれませんが、1つの観光スポットが目的となるため、観光客の期待は全てその観光地が背負うことになるんですよね。

言ってみれば高級レストラン。

メニューも出される順番も決まっていて、それを粛々と味わうタイプの観光。

ビュッフェスタイルか高級レストランか。

一生に一度は行ってみたいと思うのは間違えなく高級レストラン型の観光地ですが、何度も足を運びたくなるのはビュッフェスタイルの観光地です。

僕はビュッフェスタイルの観光地に必須の条件は、実際に行ってみたら自分が調べたものよりもずっと多くの観光地が存在すること。

これにはやはり、狭い地域に密集していることが不可欠です。

 

1つ1つの観光地ではなく、一定の地域にあるものを自由にみて回るという意識になると、その地域の空気を味わうことができます。

1つの非常に大きな観光地を売り出すのを点の観光資源としたときに、複数から自由に選ぶ観光は面の観光資源ということになるわけです。

面の観光資源の場合、その地域一帯が観光資源として売り出されることになります。

そうすると、単なる建造物や名物店という「ハコモノ」の用意された魅力だけでなく、来た人が肌で感じる空気感みたいなものもコンテンツとなり得ると思うのです。

これが、面のコンテンツの最大の強みです。

最近僕は京都の一乗寺にあるラーメン店街と大阪の天満にある飲み屋街にハマっています。

一乗寺であればラーメン店が、天満であれば居酒屋が密集しているので、その空気感自体がコンテンツとして面白いんですよね。

そこで僕が楽しんでいるのは、行こうと決めていたお店ではありません。

むしろ、その場にいって空気を楽しむことです。

こういった楽しみ方ができるのは、極めて狭い地域に店が密集しており、そこに独自の文化が根付いている場合だけなんですよね。

で、そんなところそうそう見つからない。

だからこそ、それを持っている地域は、コンテンツとして非常に優秀なものを非常に優秀なものを有しているということになると思うのです。

 

この辺を踏まえて最近僕が考えているのが、実はジャンルに関わらず、こういう密集した文化に触れるのが好きな観光客が一定数いるのではないかということ。

であるならば、全国の密集地帯を紹介した観光マップみたいなものを作ったら、一定数の需要があるような気がするのです。

家具屋さんが密集して作られている文化圏はココ、◯◯という地域にはチョコレート屋さんがひしめき合っています!みたいな感じ。

少なくともそんなマップがあれば僕はヘビーユーザーになる(笑)

特定の観光資源に頼るのではなく、地域全体が文化圏として観光資源になり得る場所。

なんとなく、この辺がここからの観光産業としてはアツいような気がするのです。

 

アイキャッチは観光学入門

観光学入門―ポスト・マス・ツーリズムの観光学 (有斐閣アルマ)

観光学入門―ポスト・マス・ツーリズムの観光学 (有斐閣アルマ)

 

 

 

社会人は皆知っている読ませるエントリーシートの作り方⑥話のデキは「ネタ×調理×出し方」

今回はエントリーシートの書き方ではなく、面接のときのポイントについてまとめて行きたいと思います。中学生・高校生の子たち、あるいは職場やプライベートで学生の人たちと話をしていると、「もっとこうやって話せば言いたいことが伝わるのになあ」と思うことがあります。
「見せ方」の部分を工夫しないがゆえに、相手とのコミュニケーションで誤解が生じたり、キチンと意思が伝わっていないという場合が多いのです。
就活の場合であれば、面接で自分の言いたいことが伝わらないという状態。
僕はこの原因には技術面が大きく関わっていると考えています。
技術面、つまり話のテクニックです。

僕は学生時代のアルバイトも含めると8年間塾の先生として人前で話をする仕事をしています。
顧客視点を心がけるとか、会話の比率を心がけるとか、意識面でもさまざま気を使っていることはありますが、それとは別に、技術的な面で「ネタ・調理・出す順番」というのをかなり考えています。
話の面白いかつまらないか(相手に聞いてもらえるかどうか)はこの3つの割合で決まってきます。
特に就活の面接に焦点を絞っていえば、殆どの学生さんが「ネタ」の部分に意識がいきがち。
どんなに高級な食材を使っていたとしても、その調理方法がダメならちっとも美味しくないのと同じように、良いエピソードでも、見せ方が悪ければまったく響きません。
「〇〇という団体でリーダーをしていました」みたいなアピールは、さながら1kgくらいのOZビーフを素焼きにしてデーンと目の前に出された感じなんです(笑)
学生さんなら大量の肉を出されたら食べきれるかもしれないけれど、社会人のおじさんたちには、1kgを焼いただけのOZビーフよりも、キレイに調理されたほんのちょっとの牛フィレ肉のほうがありがたい。
「どんな凄いエピソードを持っているか」ではなく、「それをあなたはどのように受け止めたか」のほうが重要なのです。
これが調理の部分。

もう一つ、出す順番も重要です。
あれもこれもと言いたいことを詰め込んだ話も相手に情報がうまく伝わりません。
一品一品が美味しくても、それを何の配慮も無く提供されたら、やっぱり胃がもたれてしまいます。
これはちょうどバイキングみたいな状態。
やっぱり学生さんならおなかいっぱいに食べられるかもしれませんが、面接官はバイキングを求めているわけではないのです。
どちらかといえばフランス料理のコースみたいなやつのほうがいい。
言いたいことを詰め込んだものではなく、一つのコンセプトに沿って、一貫した説明ができる内容の方が、間違えなく印象には残るのです。
これが出す順番というお話。

僕も塾の教え子やかつての後輩さんから良く相談をうけるのですが、はりきっている学生さんほど、「ネタ」の部分で勝負しがち。
比率で言えばネタ:調理:出す順番=8:1:1くらいです。
極端な場合、10:0:0という人だっています。
しかしながら、実際に就活で面接をする友達に聞いたり、自分自身が採用に携わった経験から言えば、ネタ:調理:出す順番で意識している比率は2:6:2くらいです。
驚くくらいに凄いエピソード(と学生さんが思うこと)には興味がない(笑)
だって、そもそも就職活動は、就活生の凄いアピールを聞くのが目的なのではなく、一緒に働きたい人を探す場ですから。
「今後この人と一緒に働きたいかどうか」を判断するとき、瞬間最大風速的なエピソードを話されても、何も判断ができません。
これは、付き合う人を決める場合を考えてもらえれば分かるでしょう。
自分の凄い自慢をばかりする人と、自分と気が会う人だったらどちらを選ぶかという話。
前者を選ぶ人、あんまりいないですよね?(笑)
就活は「凄い人」を選ぶのではなく、「一緒にいたい人」を選ぶものなのです。
この視点がないと、スタートの段階で大きくベクトルが外れてしまう。
自分だったらどうだろう?
面接の原案を作ってみたあとに、一回この視点で見直してみることが大切です。

月3万アクセスになるまでの超具体的なやり方を振り返ってみた

ここ最近結構いろいろな方面の方々から同じタイミングでブログのアクセス数の話が出て来たので、調子に乗って、僕もアクセス数について開示してみたいと思います。

そもそもこの「薄口コラム」というブログは、テーマを揃えているわけでもなければ、何か目的があって書いているわけでもありません。

カテゴリ分けだってほとんどしていない。

ただ、漠然と数値目標みたいなものは定めていて、少しずつ拡大できればとは思っています。

一応今年度の頭に立てた目標は、月のアクセスが良くて5万、4万くらい行けたらいいなというものでした。

しかし実際には3月9日時点の一月分のアクセス数は約3万5000。

もう少し更新をがんばればよかったなあと、ちょっと反省しなければならない結果でした。

ただこの一年で、自分の中でアクセスを増やすノウハウみたいなものがだいぶ分かりました。

また、寄稿依頼も舞い込んできたので、数値以上に収穫は得られたと思っています。

 

実際にまったくアクセスのない状態からこのくらいのアクセス数になった(まだまだノウハウを振りかざすようなpv数ではありませんが)のを振り返ると0→300にしたとき、300→1000にしたとき、1000→3000にしたとき、3000→10000になったとき、そして35000くらいの現在とで、それぞれアクセスを増やすのには違う段階があったように感じています。

まず、0→300くらいのフェーズはそれほど難しくありませんでした。

ただただ毎日書けばいいだけ。

どんな拙い文章でも、5アクセスくらいは来ます。

従って、毎日欠かさずに書きさえすれば、ここは容易にクリアできるのです。

また、SNSで更新したことを知らせれば、さらに簡単にいきます。

1000アクセスくらいになってくると、新しいエントリの更新による普通の流入だけでは届かなくなります。

一度の更新で大きなアクセスを期待できるタイトルや話題設定が必要です。

僕がこの辺を突破した時のエントリは、(超簡単!自発的に女の子がスカートを短くするのと男子の制服着崩しをやめさせる方法 - 新・薄口コラム)とか。

投稿時のインパクトで初動のアクセス数を増やすみたいな形で、ここらへんの壁は突破しました。

 

1000アクセス以上を目指そうとすると、新たなエントリ投稿時の初動だけではどうにも立ち行かなくなります。

ここからはエントリへの検索流入が必要になってる。

この時期に僕が意識していたのは、話題の時事ネタに触れるということです。

時事ネタが入っていると、検索で引っかかって訪問される場合がでてきます。

僕の場合こういう訪問による、エントリ投稿時以外の流入が手に入るようなって、1000アクセスを超えてきました。

とはいえこのやり方でも限界があって、月3000アクセスくらいのところで頭打ちになりました。

時事ネタの検索流入は鮮度が命なので、どうしても長い間検索で読まれ続けるみたいにはいかないわけです。

僕のブログの場合は、それが3000アクセスくらいでした。

ここから先にアクセス数を伸ばすには、話題性に頼らない検索がされる言葉での検索流入確保が必要です。

このあたりから僕が始めたのが、有名なアニメやマンガの考察エントリです。

(魔女の作画や歌詞の伏線などの表面的な尖りで隠れたまどかマギカの演出上の凄さ - 新・薄口コラム)や(学芸員を求めて〜宮崎駿が風立ちぬに散りばめたオマージュを読み解く - 新・薄口コラム)はまさにこの辺を狙って書きました。

アニメ以外だと、(Mr.Children「しるし」考察〜とんでもなく深い!桜井さんが込めた冒頭2行のインパクト - 新・薄口コラム)みたいな歌詞考察もなかなかアクセスを稼いでくれます。

こういったエントリを積み上げることで、10000〜15000アクセスは到達しました。

 

僕の中で一つ大きな壁となっていたのは、ここからスケールさせることでした。

12000アクセスくらいから急に伸び悩む。

定期的に検索される内容を書けばアクセスは増えるとはいっても、月に10アクセスくらいしか来ないものではどれだけ投稿すればいいんだという話になってしまいます。

この辺からはかなり意識的に2つの戦略をとるようになりました。

1つは、爆発的にアクセスを稼げるであろうネタに乗っかること。

前に書いた3000アクセスに到達したときのように、単に話題のネタに触れるのではなく、その話題を深掘りして、アクセスを総取りしにいく。

ほかのブログで同内容を書いている強豪との正面対決です。

僕の中でそれがうまくいったのがハンターハンターが連載再開されたときに書いた(HUNTER×HUNTER考察〜ヒソカVSクロロはヒソカの負けしかあり得ない〜 - 新・薄口コラム)とか逃げ恥のヒットに乗っかった(「恋ダンスのガッキーが可愛すぎる」問題について雰囲気イケメンの五大法則から考えた - 新・薄口コラム)とか。

この辺は絶頂期で面白いくらいのアクセスを運んでくれました(笑)

もう1つ、僕が意識しているエントリがあります。

それが、「毎年決まった時期に爆発的に検索されるようになるネタ」を書くことです。

f:id:kurumi10021002:20170315041433j:image

こういうジャンル。

このジャンルって案外狙っている人が少ないみたいで、うまくいくと、毎年その時期になると、何もしていないのに数千から1万アクセスくらいをもたらしてくれます。

 僕のエントリでそれが最も上手くいっているのが(高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い① - 新・薄口コラム)です。

毎年10月と2月はすごいことになる(笑)

こういう定期的にアクセスがくるエントリを、かなり意識的に書くようにし始めて、アクセスはかなり増えるようになりました。

あとは、単発で勝負できそうにない強豪の多いジャンルでは同じテーマを何度も扱うみたいなことも効果的でした。

就活で面接官が読みたくなるエントリーシートの書き方④メンタルをロジックで切らない - 新・薄口コラムをはじめとして毎年就活について書いているのにはこういう意図があります。

 

っと上に書いたような流れでなんとか今のアクセス数までいったというのが僕なりのブログ運営ノウハウです。

もちろん、このやり方が全てではないですし、そもそもこの程度のアクセス数でノウハウ論を書くことさえもおこがましいのですが、それでも1つの区切りとして書いておきたかったのと、むしろこの程度のアクセス数を求める需要があるのではという邪推から、まとめてみました。

こちらからSNSで売り出すということもしなければ、マーケティングを意識しているわけでもないこのブログ。

僕の中でエントリの工夫だけでアクセスを増やしたいという思いがあって、そんなふざけた運営をしています。

そのため、普通のブログの何倍も成長速度が遅いのはまぎれもない事実です。

ただ、同時にそんなやり方でも確実にアクセス数は上がり続けているので、少なからず読んでもらうに堪え得る内容を書けているのかなとも思っています。

今年度は目標に達しませんでしたが、引き続き目標設定をしたいと思います。

来年度の目標は月8万アクセス。

なんとなく僕の肌感覚で、4万アクセスくらいのところに、また新たな工夫が必要になる気がしています。

これまで以上にいろいろなことを扱おうと思いますので、これまで同様に、薄口コラムをよろしくお願いします。

社会人は皆知っている読ませるエントリーシートの作り方⑤自己PRで必要なのは「信用」の創出度合い

仕事でも何でもそうですが、何かを行う上で「信用」というのが非常に大事になってくるように思います。
何かやりたいこと、あるいは欲しいものがあったとして、それがお金で手に入る機械は、実はそれほど多くありません。
もちろん売っているものであればお金を出して手に入りますが、本当に珍しいものは、そもそもお金で解決してくれる「市場」に出回らない場合さえあります。
しばしば農家が一番おいしいお米は農協に出さず、自分と周囲の人に配って終わりという話がありますが、まさにこれなんて典型例。
僕も、よく行く日本酒バーがあるのですが、そこのマスターが偶然手に入れた、むちゃくちゃレアなお酒は、たいてい常連さん向こうから提供してくれます(それも無料で)。
これは「お金をくれる」から貴重なものを手に入れられるのではなく、「いつも来てくれてありがとう」と、マスターからの「信用」を得ているからこそ手に入るものなんですよね。
「お金がある」だけでは手に入らないものって案外たくさん存在します。

消費の場合のお話をしましたが、これが生産の側になるとますます顕著になります。
そもそも信用が無ければお客さん自体が集まらないのもありますが、それ以前に「信用」がなければやりたいことを形にすることさえ困難です。
何をするにも信用は欠かせません。

そんな「信用」に関して、僕は貯蓄と消費と投資という3つのアプローチがあると考えています。
まずは分かりやすい信用の「消費」と「投資」から。
信用がある人は、それを用いて様々なことができるといいましたが、その人の振舞い方によって、その信用の使い方は二つに分かれます。
「消費」とは文字通り、自分がそれまでに溜めてきた信用を食いつぶすことによって何らかのリターンを得る方法です。
一番分かりやすいのが「ちょっとお金貸してくれない?」というやつ(笑)
仮にその人がそれまで莫大な信用を築いて来ていたとしたら、お金を貸してくれる人は現れるでしょう。
しかし、何度も頼んでいたら、いずれお金を貸してもらえなくなる。
或いは、自分が積み重ねてきた人脈や関係を利用して、自分都合に融通を利かせてもらう。
これも初めは好意で行ってくれる人はいるかもしれませんが、やがて相手をしてもらえなくなります。
こうしたパターンが、信用を消費するということです。

一方で、自分の持っている信用を使って、さらなる信用を生み出すという場合もあります。
これが信用の「投資」です。
たとえば何かしらのイベントを企画したとして、それを実現するために様々な方面に頼みごとをする。
しかし、そのイベントの結果、頼みごとをした人たちにもリターンが返り、かつ自分も使った以上の信用が得られるというやり方です。
これは別に、何かを企画する場合に限りません。
一緒に遊んでいるときなどであっても、こちらが誘って、別れしなに相手が「楽しかった」と思ってもらえるのなら「投資」したことになります。
投資はレバレッジをかけた状態ですので、うまくやれば当然信頼の量はどんどん増えていきます。
自分が現在持っている信用を元に、さらなる信用を創造しようと心がけること。
これが信用の「投資」です。
世の中で成功している社会人は例外なくこれがうまい。

さて、今ある自分の信用を利用して、信用の総量を上げることが「信用の投資」であるといいましたが、それでは元の「今ある自分の信用」はどのように集めればいいのでしょう。
信用の投資は、1を100にする作業であり、その前段階として0を1にする過程が必要になってきます。
僕が「信用の貯蓄」と呼んでいるのはまさにこれ。
後にレバレッジをかけて信用を増やすために使う「タネ銭」となる信用を集める作業が大切になってきます。
信用の貯蓄に関して、これはもう、細かな感謝の積み重ねでしかありません。
人が面倒に思うことを進んで引き受ける、求められることをしっかりとこなす。
「自分にしかできない」みたいな特別なものではなく、誰でもいいような地味なことの積み重ねが信用の貯蓄をする唯一の方法です。


よく、あの人はみんなに慕われているなあと見える人がいますが、彼らはすでにそのコミュニティにおいて貯蓄を終え、投資の段階に入っているのです。
だから簡単に信用が拡大しているように見える。
これはたとえ別の人が同じように振舞ったとしても決してうまくはいきません。
なぜなら、「タネ銭」がないから。
レバレッジをかけようが、元の数値が小さければ結果となって表れることはないのです。
学生さんや新入社員の人で「こんなことをやりたい!」と意気込んだはいいけれど、いざ身を投じてみると急にやる気がなくなったり、そんなはずじゃなかったと思ってしまうのはみんなこのタイプ。
地味で時間のかかる貯蓄段階をすっとばして、レバレッジをかける「かっこよくて」「自分にしかできない」みたいなことばかりをしようとしているわけです。

さて、やっとここからが就活のお話。
これは僕の印象論ですが、就職活動において、この「信用の貯蓄」という概念があるのとないのとでは、試験官に伝わる印象がまるで違います。
これは一度でも社会を相手にしたことがある人なら、その人が「信用の貯蓄」をしてきたのかそうでないのかは、ちょっと話すだけでわかる。
裏を返せば、「信用の貯蓄」をしている風な話し方が身につけば、それだけで大きな評価が得られるのです。
エントリーシートだってもちろん同じです。
どんなに輝かしい実績(と自分で思っている)ことであっても、それが創出した価値(=信用)が低いものであれば、評価されることはありません。
逆に、パッとしないような日常的なエピソードであっても、周囲からの信用をしっかり積み重ねていることが分かるものであれば見てくれる。
「凄い」ことではなく、周囲に対して信用を積み上げていることが大切なのです。 
この切り口で自分の経験を振り返ってみると、案外自分でも気付いていなかったようないい部分をはっけんすることができるかもしれません。
「信用」という尺度を、ぜひ意識してみてください。

母への想いを託した曲~宇多田ヒカル「真夏の通り雨」考察~

宇多田ヒカルさんが活動再開後に最初に発表したシングル曲の「真夏の通り雨」。
僕にとってこの曲は、彼女の楽曲の中で最も印象に残っている作品です。
真夏の通り雨」を披露するため、NEWS ZEROに登場した宇多田ヒカルさん。
彼女の髪型が母親の藤圭子さんに重なったのです。
どこか「愛する人との別れ」をテーマにしているように感じる歌詞。
そして、母親に面影の重なる髪型で登場した宇多田ヒカルさん。
僕には「真夏の通り雨」という楽曲が、2013年に自殺と思われる形で亡くなった母を思う曲に聞こえました。

僕がこの曲を聴いたとき、真っ先に宇多田ヒカルさんの母が頭に浮かんだのは、〈揺れる若葉に手を伸ばし あなたに思いはせる時〉という歌詞があったからでした。
「若葉」とは文字通り、芽吹いたばかりの葉のこと。
これは、生まれたばかりの命のメタファーであると考えることができます。
そして、それにそっと触れることで思い出す人。
ここには、萌え出でたばかりの若葉に触れたときに、母親が自分に対して抱いていた愛情をなんとなく推し量ることができたという宇多田さんの気持ちが歌われているように感じます。

〈汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ〉
そう捉えるとその一つ前、一番のAメロの意味も自ずと定まってくる。
Aメロだけならば、この部分は少し官能的に捉え、恋人がそっと自分を抱き寄せて、いろいろな事を教えてくれたと考えることもできます。
しかし前で挙げたように、直後に続くサビとのつながりを考えると、ここのいろいろなことを教えてくれる存在は、母親であると考えるのが妥当です。
幼少期の自分をいつも安心させてくれて、かついろいろなことを教えてくれた母親。
「若葉」に触れながら、きっとあなたは当時こんな気持ちだったのでしょうと思いをめぐらせている。
一番のAメロからサビへの流れから、僕はこんな気持ちを感じました。


真夏の通り雨」は夢から急に目覚めるという形で曲が始まります。
一度目覚めてしまったから、再び眠って同じ夢を見ようと思ってももうそれは叶わないというのがこの曲の歌いだし。
この歌い出だしには、突然に目を覚まし現実に引き戻されたように、突然に母の死が目の前に訪れたことが重なります。
昨日までの母親がいるのが当たり前であった日常に戻りたいけれど、目が覚めてしまった夢と同じように決して戻ることはできない。
僕はこうした意味があるのだと感じました。


例によって著作権があり、あまり引用を増やしたくないので、2番はざっと大枠で捉えたいと思います。
2番はどれくらいの月日が流れたら立ち直れるのだろう、周りの人に支えられていて耐えられないわけではないけれど、どこか寂しい。
2番のAメロには、そんな気持ちが歌われています。
僕が最も注目しているのは、ここから。
2番のサビの部分です。
〈勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々〉
ここは僕の勝手な解釈ではあるのですが、この歌が「母への思い」を綴ったものであるとするならば、ここでいう勝てない戦というのは、ミュージシャンとしての自分が、同じくミュージシャンとしてかつて大活躍した母親を越えようと追いかけていた姿と解釈できます。
大ヒットを何作も出したけれど、1人のアーティストとして、圧倒的な歌唱力で人々を魅了した自分の母との間にはまだ圧倒的な差があった、と宇多田さん自身がずっと感じていた。
だからこそ「勝てぬ戦」であり、同時に追いつきたいからこそ「あなたに身を焦がした」なのかなと思っています。
(因みに「身を焦がす」は一般的に異性に対しての愛情みたいなものですが、ここでは「尊敬」の上位表現くらいの使われ方なのかなと思います。)

ここから先は基本的にずっと、あなたのことが忘れられないという気持ちを表した歌詞が続きます。
しかしながらそんな中で1フレーズだけある〈自由になる 自由がある〉という歌詞。
素晴らしいアーティストであった一方で、藤圭子さんは大変な浪費家であったということでも知られています。
一部では家族との関係がギクシャクすることがあったという噂も。
あなたを忘れられないという思いの中に一つだけ含まれたこの「自由になる」というフレーズには、ほんの僅かではあるけれど、こうしたことから開放されたという感情が表れているようにも見て取れます。


ここまでずっと歌詞についてみてきましたが、最後に「真夏の通り雨」というタイトルについて考えてみたいと思います。
ここでもやはり、藤圭子さんが亡くなったのが8月であったことを考えると、母を連想せずにはいられません。
通り雨とは不意に降ってきて、さっと上がる雨のこと。
「突然に見舞われる」ということ、そして歌詞中に出てくる「雨が止まない」という言葉を考えるとやはり、僕には母に対する思いを歌った曲であるようにしか思えないのです。
また、「ずっと止まない」ということは、コード進行からも感じ取ることができます。
この曲では一貫して、出だし、サビの終わり、Aメロの終わりにD#7(D#メジャー7)が用いられています。
この曲はマイナーコードで書かれているため、メジャーコードは違和感を与えるのに役立ちます。
そんなD#7が曲の節目節目に使われているのが印象的。
本来であればそのパートが終わる部分であるはずの最後の部分に違和感のあるコードが置かれてしまっているため、「真夏の通り雨」はそれぞれのパートがキレイに終わったように感じません。
その結果、ずっと繰り替えされているように感じてしまう。
歌詞の内容だけでなく、曲の展開からも、「降り続く雨」が表現されているわけです。

「亡き母への思い」がどこまでも丁寧に描かれた歌、それが僕にとっての「真夏の通り雨」という楽曲です。

 

 

 意外とアクセスの多い、歌詞考察シリーズです。よかったらこちらもお願いします!

column-usukuti.hatenadiary.jp

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真夏の通り雨

真夏の通り雨

 

 

社会人は皆知っている読ませるエントリーシートの作り方④素人の「情熱大陸」は誰も見たくない

エントリーシートの自己PRに関して、僕はよく「一般人の情熱大陸なんて誰も見ないという」話をします。
例えば、みなさんはそこら辺にいるくたびれた会社員が自分で「これは凄い!」と思っている部分をディレクションしたドキュメンタリー番組に興味があるでしょうか?
少なくとも僕はそんなもの興味がない(笑)
新進気鋭のベンチャー社長さんや、世界的なヒット商品を開発したメーカーの社員さんなどの話であれば聞きたいという人が多いと思います。
しかしくたびれたスーツを着て、フツーに満員電車に揺られて、毎日会社勤めをしているだけのサラリーマンの話は興味がない。
一般人の自慢話って、これくらいに興味を持ってもらえません。
まして、学生さんのエピソードの場合、普通のサラリーマン以上に凡庸である場合がほとんど(すみません。。。)
だって、サークルやゼミの代表は学校っていうサービスの中での話ですし、バイトで頑張ったというエピソードもあくまで「バイト」という枠組みの中の話だから。
そこでのあらゆるエピソードは、社会に出て、生産者という立ち位置で日々活動している社会人には殆ど刺さらないんですよね。
ではどのようなエピソードが有効か?

どこにでもいる素人が出ている番組でも、一つだけ多くの人が見るものがあります。
それは、素人の人がいじられる系統のバラエティ番組です。
どこの誰かも分からない人の自称「一大エピソード」をまとめたドキュメンタリーには誰も興味はないですが、どこの誰かも分からない人がいじられるバラエティ番組はみんながみるんですよね。
なぜドキュメンタリーは誰も見なくて、バラエティなら見られるのか。
僕はその理由には2つあると思っています。
その中でも最大の理由は「面白い」か「面白くないか」(笑)
基も子もない言い方ですが、よほど大きな成果を残したわけでもない人の自慢交じりのエピソードはつまらないんですよね。
それに対していじられている姿ならその人の経験抜きに面白い。
面白ければ注目が集まるし、面白くなければ誰も見ない。
自己PRでも基本的には同じです。

「面白い」か「面白くないか」という話ではさすがに納得してもらえないこともあるかと思うので、もう少し客観的に、素人がいじられる姿なら見てもらえるという理由を書いてみたいと思います。
バラエティ的ないじりであれば素人のそれでも見られるもう一つの理由は、その人のキャラクターが見えるからです。
いじられているときには、そのいじられ方、あるいはリアクションの取り方にその人らしさ、つまりキャラクターが反映されます。
いじられるというのは、自分が万全に準備をしてきたものではなく、即座に返さなければならないものだからです。
先ほど、一つ目の理由として「面白い」と言いましたが、決して「いじられている姿」が面白いと言っているわけではありません。
「いじられている姿」が面白いのではなく、「キャラクターが見える」から面白いんですよね。
素人のドキュメンタリーはしょうもないエピソードを見せられるからつまらない、素人のバラエティはキャラクターが見えるから面白い。
僕は、エントリーシートを書くときに、この認識が非常に重要であると思っています。

エントリーシートは見る側が好きに選べるテレビではないのだからと思われるかもしれませんが、何百もあるエピソードに目を通さなければならない中で試験官の印象に残ってもらうという意味で、つまらないか面白いかというのは非常に重要です。
内容を書くときに役職や経験、「その時〇〇はこう思った」みたいな情熱大陸ばりの心境の吐露ではなく、できる限り具体的な動作や行為、そしてキャラクターが前面に出るようにエピソードを書く。
この事が非常に重要だったりします。