新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



森鴎外「高瀬舟」考察~現代人がごっちゃにしがちな法とモラルは違うということを教えてくれる作品~

僕が好きな小説のひとつに、森鴎外の『高瀬舟』があります。

高瀬舟は人殺しの罪で島流しにあった身寄りのない喜助という男に同伴した庄兵衛が、舟の上でやりとりを交わす形で進みます。

人殺しの罪でこれから島流しになった喜助は、船中で信じられないほど落ち着いていて、それどころかどこか嬉しそうですらありました。

これから島流しに合うにも関わらず、たいそう落ち着いている喜助を怪訝な様子で見守っていた庄兵衛は、どうしてそんなに落ち着いていられるのだと喜助に理由を尋ねます。

庄兵衛が尋ねたことで明らかになった喜助は身の上は、想像以上に過酷なものでした。

喜助にとってそれまでの暮らしは、その日を越すのもままならない程に貧しいものでした。

そんな喜助は弟殺しの罪で投獄されると、何もしないのに三食を与えられる。

それまでは毎日の食事もままならず、居場所も無かった喜助にとって、たとえ島流しで苦役が待っているといえど、喜助にとってはそれまでよりかはずっといい生活なのです。

喜助が弟を殺めたのも、止むに止まれぬ事情ゆえ。

病気で動けなくなった弟が、自分がいては迷惑をかけるからと、喜助がいないうちに、喉をきって自殺しようとしていました。

喜助が家に着くと死にきれず苦しんでいる血まみれの弟を発見し、弟は喜助に「俺を殺してくれ」と頼みます。

そして仕方なしに喜助は弟を手にかける。

これが、喜助が親族を殺した真相だったのです。

庄兵衛は喜助のこの話を聞いて、自身の立場を重ねながら、さまざまなことを思います。

 

こんな感じで進む高瀬舟

高瀬舟は国語の教科書にも載っているので、ウェブで調べるとさまざまな指導案が出てきます。

圧倒的に多いのは、喜助や庄兵衛の気持ちについて考えようというもの。

もちろんそこも大切なのだとは思いますが、僕が高瀬舟を好きな理由は、少し違うところにあります。

僕が高瀬舟を読んで最も印象に残ったのは、庄兵衛が喜助の話を聞いて、「法」について考えをめぐらすところです。

僕はこの作品を読んだとき「法とモラル」は違うということを改めて考えさせられました。

僕たちはたいてい、法と善悪を同じものと考えます。

法を犯すことイコール悪いことで、法を守ることイコールいい事といった具合です。

確かにたいていの場合、法とモラル(善悪)は一致しているのかもしれません。

ただし、全てがそうであるわけではない。

もともと法は社会を円滑に運営されるためのルールであり、本質的に善悪とは関係ありません。

たまたま、社会を円滑に運営されるルールと善悪が一致している部分が多いというだけ。

そんな当たり前のことに気付かせてくれるのが、この「高瀬舟」という作品だと思うのです。

喜助は確かに法を犯します。

だからこそ裁かれる。

法を犯し、罰を受けることに、喜助は何の不満もなく、全て受けいれています。

自分は「法」を犯した、だから罰を受けるのです。

一方で庄兵衛は喜助のこれまでの経緯を聞いて法で罰せられるとはなんだろうと考えてしまいます。

僕はこの二人の態度の違いが面白いと思いました。

それまでの庄兵衛にとって、法の判断と善悪の判断は完全に一致したものでした。

だから、初めに喜助を見たときには悪人としてみていたし、身の上を聞いた後は喜助が裁かれることに複雑な思いを抱く。

それに対して喜助は終始落ち着いています。

それまでの境遇や弟を失ったことから全てを達観しているようにもみることが出来ますが、僕は喜助のことを当たり前のように法とモラルを区別して考えている人物だと見ています。

だからこそ、罪を犯した自分が罰せられることを受け入れるし、境遇も受け入れているのだと思うのです。

 

現代社会を生きる僕たちにとって、自分自身が「法」を意識することはあまりないので、僕たちはどうしても法の判断と善悪の判断をごっちゃに考えがちです。

法を犯したから悪いという評価や、その逆でモラルに反することをしたから罰せられるべきといった具合です。

高瀬舟』は僕たちに「法とモラルは違うよ」という気付きを与えてくれるという意味で、非常に面白い作品だと思うのです。

 

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 

「運がいい」を科学する~あなたの身近にいる運のいい人について、理屈を組み立てて説明してみた~

「何故かあの人にはいいことばかりが起こる。」「またあの人が美味しい話を拾ってきた。」

周りの友達を見回したときに、何故かやたらと運がいいように見える人っていませんか?
僕の周りには結構な頻度でこういう人がいます(笑)
こういう人たちのことを、長い間持って生まれたカリスマ性みたいなものなのだろうなあと思っていたのですが、よくよく見ていると、最近そうでもないなと思うようになってきました。
「運のいい人」には一定の法則があるように思うのです。
何故かいい話が舞い込んでくる人たちの行動パターンを整理していくと、いくつかの共通項が見出せます。

というわけで早速僕の考える「運のいい人」の共通項をまとめたいと思うのですが、その前に、何をもって「運がいい」とするのかを定めておきたいと思います。
人によって、いい仕事に出会えることを「運がいい」と呼んだり、カワイイ彼女と出会えることを「運がいい」と呼んだりとさまざまだと思います。
こういう特定のジャンルに関する運のよさに絞ってしまうと、まったく共通項がありません。
僕が考える「運のよさ」とは、「自分に喜ばしい出来事が偶然降りかかる」こと。
どのようなジャンルにおける「いい事」であるかはわかりません。
あくまで「自分に喜ばしい出来事が偶然降りかかること」という範囲における「運のよさ」について、共通項をまとめていきたいと思います。

運は常に点在している

「運」、つまりいいことに出合う可能性について僕が立てた仮説に、「運とは常に点在している」というものがあります。
どのような間隔かは分かりませんが、運がいいと感じる出来事は等間隔に並んでいて、そこを自分が通過したときに、「いい事」としてそのイベントに出会うというイメージです。
仮に10kmに一つ、運がいいと感じるイベントが潜んでいるとします。
日常の生活が半径5mですんでいるような人には、どんなに頑張っても、運がいい出来事はひとつしか起こらないことになります。
一方で、常に新しいことにアンテナを張って、いろいろなところに足を運ぶ人にとっては、運がいいと感じる現象に出会う可能性は高くなり、また、その頻度も多くなります。
だから、新しいことに次々と手を出す人たちは、それだけ「運がいい」ように見えるわけです。
また、そう何度も同じ場所で「運のいいイベント」に出会うことはありません。
従って、生活圏が常に変わらない人には、それほど運がいいという経験が舞い込んでこないのです。

出会う運はランダムである

これは最初の「運」の定義にも通じることですが、積極的に行動している結果いろいろな「運」に出会うことは出来ますが、その運が必ずしも自分の求めているものではありません。
理想の彼女が欲しいと思って活発に動いていたけれど、出会った「運」は仕事に関係するものであったとか、そういう感じ。
「運」とは自分にとって紛れもなくプラスに働く偶然ではあるのだけれど、それが自分の最も望んでいるものとは限らないのです。
自分の中で「こういういい出来事に出会いたい」と思っているのは僕たちの勝手ですが、出会う現象は全くのランダムです。
スマホゲームのガチャやポケモンのタマゴではありませんが、出くわす「運のいい事」は様々で、それを自分にとって運のいい出来事であると気付けるかどうかは、自分の姿勢にかかっているわけです。

「運のよさ」は演出できる

「運がいい」と周りに思われている人たちを観察していていつも思うのが、運のよさを演出しているなあということです。
どんなに運がいいようにみえることに巻き込まれているように見えても、実はその出来事はたいしたことではなく、それを解釈した側がさも、運がいいように見せている場合があります。
例えば、試験勉強をして山を張ったところが当たったとかそういう感じ。
ぱっと見ると適当に山を張った部分がテストに出て、その人はついているようにみえるかもしれませんが、実はその招待は、いくつもやった勉強の中で偶然当たった一問に過ぎないかもしれないのです。
何十個も「出るだろう」と思って覚えたものの中から一つ当たったところで、あまり「運がいい」とは思いませんよね?
運がいいと思われる人たちは、こうした「当たり前」のことを、無意識の内に、自分が運がいいというエピソードに仕立て上げるのです。
こうした習慣がある人がたまに本当に「運がいい」出来事に出会う。
それを周囲からみると、本当についているように見えるというわけです。

「運のよさ」に関して、自分からアプローチできることは、せいぜい「よく動く」ということくらいです。
よく動いた上で、出会った非日常な出来事を片っ端から見逃さない。
飲みに行って隣の席の人と気があったらそのまま誘いに乗ってみる。
旅先で面白い出会いをしたら、予定を変更して流されてみる。
こういう「非日常」に乗っかることの繰り返しが、運なるものを引き寄せる方法であるように思います。

タイトルで「『運のよさ』を科学する」とか書いたくせに、全然科学的でなかった(笑)

 

 アイキャッチはマルコム・グラッドウェルのこの本!

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

 

 

今すぐ使える!ベテラン講師の授業のパクリ方

僕は今でこそ塾の先生でご飯を食べているわけですが、学生時代、先生を始めたばかりのころは、授業がヘタクソで、教室に入るときはいつも胃の痛みを感じるくらいの思いをしていました(今も授業がうまいかと言われれば、まだまだ改善の余地だらけですが…)

だから、何とか授業の形を保とうと、当時から今までカリスマ性のある授業を行う先生や噺家、講演会の登壇者などを分析してきました。
これまで、かなり意識的にいろいろな人の話し方や授業・講義の仕方を分析して、その都度メモを取ってきたのですが、やはり、授業(に限らず人前で話すこと)が上手な人にはいくつかの共通点があるように感じます。
ということで、相も変わらず「誰トク?」なエントリですが、僕が分析してきた、「カリスマ性」のある授業を作る先生たちのテクニックをまとめてみたいと思います。

ベテラン講師は授業の前に場を温める

ベテランの先生たちを見ていると、なんであの人はいつも子どもたちをあんなにも惹きつけるのだろう?と思わされる授業を行う方が多々います。
彼らに共通していることは、「授業前に場を温める」ということ。
いきなり内容に入らず、まずは子どもたちの話を聞いて、それをもとにコミュニケーションをとっておき、みんながある程度リラックスしたところで話しに入るんですよね。
だから、スタートの段階ですでに子どもたちが聞く体制になっている。
一方で新人さんほど授業開始と同時に空気を温めはじめる。
どうしても勉強の内容で空気を温めようとすると難易度が高くなってしまいます。
湿気た木で火起こしをする感じ。
そうではなくて、授業に入る前に自分で火種を持っていって先に火をつけておく。
そうすることで開始と同時にグッと子どもたちをひきつけられるわけです。
ベテランの先生は須らくこのポイントを押さえている。
むちゃくちゃ実用的なテクニックだなと思います(そして僕もすぐにパクリました 笑)

ベテラン講師は飛び道具を用意する

有名な語呂合わせや、王道の説明みたいなものがありますが、そういうのとは別にベテランの先生は自分だけの「飛び道具」を持っています。

ここでいう飛び道具とは、その先生ならではの絶対に外さない説明のネタのことです。
ベテランの先生は絶対にコレを複数持っていて、ここぞというタイミングで毎回の授業にはさんでくる。
素数を使ってひと笑い起こしたり、よく間違える単語を使った鉄板ネタをぶち込んだりする。
これは僕の考察ですが、グッと引き込む飛び道具を持っていると、授業に緩急が生まれます。
緩急があることで最後まで集中力が保つようになる。
これは天才肌の先生たちは自然とできていることなのですが、意図的に組み込むことで、うまく教室が回るようになります。

ベテラン講師は線で授業を組み立てる

これは、僕がアルバイトを始めたばかりのときに、当時の研修をしてくれた先生が教えてくれたことです。

「新人は次の授業の範囲で考えるが、それだと連続性がない。だから、全体に目を通し、前後の流れを考えて授業を作れ」
この数十倍言葉は汚かった(笑)ですが、言われたことは本当に的を射ていて、僕の今の授業の基盤になっています。

ベテラン講師は作った教案をバラバラに分解する

これは僕が大学を卒業して、今の塾で教えてもらったこと。

それまでは毎回やる内容を決めていて、そのタイムテーブルどおりに行うことを意識していました。
しかし、それでは「ライブ」授業の意味が無くなってしまう。
「子どもたちの反応をみて融通を利かすのがライブ授業の強みやろ」
そう言われていろいろな先生の授業を分析する中で気付いたのが、この「作った教案を分解する」という作り方です。
当然説明すべき内容は組み立てておきます。
しかし、それを初めから最後まで一本でつなげて置くのではなく、3分、5分10分くらいの尺でそれぞれ説明を分解して用意しておく。
これをその場にいる子どもたちの様子に合わせて(場合によっては順番を入れ替えて)授業を作っていく。
その日に絶対に教えなければならない内容を3つくらい押さえて、あとは教室の空気で内容を取捨選択する。
何を教えるかとともに、何を教えないかも考えられるようになると、ベテランっぽくみえるように思います。


ベテラン講師は子どもを主役に引き揚げる

「カリスマ講師」と呼ばれる先生は、みんな話がうまいように感じますが、実はその多くが、「教室の子どもたちを面白く見せるのが上手い」ということだと思うのです。
みんな、生徒を主人公にしている。
僕が学生時代、新しい先生の適正を見るときの指標の一つとして、その先生が自分を主役にして話すか、生徒を主役にして話すかという部分を見ていました。
自分の「想い」が強い先生ほど、会話の主役が自分になってしまうんですよね。
こういう場合、どこかのタイミングで生徒さんとの気持ちの乖離が生じてしまう。
一方で、徹底的に授業の主人公を「子ども」にできる人がいます。
この人たちは、長期的に信頼関係が積み上げることができ、圧倒的に子どもたちからの人気を獲得できる。
僕が参考にさせていただいているベテランの先生たちは例外なくこれを徹底しています。

ざっと上げただけでもこんな感じです。
しかも、システムとして真似できる部分ばかり。
こんなもの、同業者にとっては当たり前のことなので、あくまで「学生時代に意識していたこと」の備忘録くらいに思っていただければ幸いです。

 

最近お酒を飲むのをやめてしまったので、ブログの中でお酒を楽しみます(笑)

アイキャッチは大好きな日本酒「風の森」

 

 

飲ん兵衛の僕が、お酒の席での「酔わない」ためにしているテクニックを披露してみた

絶賛断酒中の僕ですが、お酒の話題について触れてみたいと思います。
僕はお酒の席について、好き嫌いよりもテクニックが重要であると思っています。
お酒の席でうまく立ち回れるか否かには、実はお酒の好き嫌いはあまり関係がありません。それよりもずっと重要なことは、お酒の席でうまくやりきるテクニックを持っているかどうか。
好みの話ではなく、「技術面」が非常に重要であるように思うのです。

僕は、飲み会の場に行く以上、できるだけその場を盛り上げたいと思ってしまう性分です。
少なくとも、僕がお酒を断ることで場の空気を停滞させるのだけは避けたい。
だから、勧められた酒は絶対に断りませんし、そろそろ限界だなという人がいれば酔ったフリをして代わりに飲んでしまうくらいのことができる余裕はいつも備えていられるように心がけています。
ただ、当然それは気合でどうこうなるものでもないので、激しくなるなと思う飲み会のときには、事前にいくつかの準備をするようにしています。
そのうちのいくつかを紹介します。


1.コースが始まってからではもう遅い!?酔いたくなければ予め胃袋を満たすべし

これは僕が一番意識していることです。
お酒の許容量はその時のコンディションに左右されます。
特に影響を受けやすいのが、その日の体調と空腹度合い。
当然風邪気味のときやストレスで免疫が下がっているようなときには飲めるお酒の量は減ってしまいます。
こちらは常に意識しておくしかない。
重要なことはもう一つの「空腹」にしないということです。
大体の飲み会の場合、ご飯が出てくるとはいえ、みんなで食べているわけなので、一品一品はたいした量ではありません。
そのため、殆どの場合でほぼ空腹の状態でお酒を飲むことになる。
これが酔っ払ってしまう大きな要因だと思うのです。
特にお酒を飲む人は、大人数での飲み会においてお腹いっぱい食べられるということはそう多くありません。
したがって、予め軽食をとっておくことが、酔っ払いすぎないための有効な手段となるのです。


2.限界を超える前に、自発的に吐き出してしまう

「吐く」と聞くと飲みすぎたときに自然と行うことのように思いがちですが、酔っ払いすぎてしまう前に、自分から吐いてしまうということが重要です。
気持ち悪いと思ったときは、たいてい既にアルコールを吸収してしまった状態です。
そうなる前に「これは飲みすぎているな」と思ったら予防として一旦吐いておく(指を喉の奥に突っ込むとたいていうまくいきます)。
こうすることで気持ち悪さを感じることを防げます。

事前策としてお酒を吐くためには、普段から自分のお酒の許容量を知っておく必要があります。
知っておきたいのは、①これ以上飲むと「少し酔っ払ったと感じるな」というライン、②これ以上は飲みたくないというラインです。
②のラインを超えると気持ち悪さで自然とお酒を戻してしまう危険性が出てきます。
したがって、日頃から②の量に達した時点で一度トイレに行き、吐くという習慣を付けておくといいでしょう。
因みに、僕はお酒が好きだからそこにラインを定めていますが、本来お酒なんてそこまでして飲むものではありません(笑)
じっさいには①の量を超えたら飲むペースを落とすくらいにするのがいいと思います。
ただ、いずれにせよ自分の許容量を知っておくことは重要です。
1人で家で確認しておくと良いでしょう。


3.ちゃんぽんはしない、日本酒やワインといった酔いが遅れてくるものは避ける

飲み放題のときだと、ついいろいろなお酒に手を出してしまいがちですが、長時間飲むときのいろいろなお酒のちゃんぽん(様々な種類を頼むこと)は、一種類を続けて飲むのに比べ、酔いが回りやすくなります。
あくまで楽しむ分には好きなものを飲めばいいと思いますが、付き合いで多くを飲まざるを得ない場合、あるいは自分が最後に世話役をしなければならないメンバーでの飲み会のときは、極力一種類だけを飲み続けるようにします。
ここでポイントとなるのは、でいる限りビールは選ばないということです。
ビールを選んでしまうと、一気飲みに誘われやすくなってしまうからです。
同じ理由から、おちょこで一気飲みをしやすい日本酒もオススメできません。
僕のオススメは焼酎のお湯割り。
お湯割りに関してはまず一気飲みさせられることはありません(万が一一気飲みを進められても「熱いので」と断って乾杯に持っていくことができます)。
焼酎を持って周れば、乾杯のたびに一口飲むくらいでやり過ごすことができます。
そういう観点からも、一種類を選択して飲み続けるのなら焼酎がオススメです。

もうひとつ、長時間飲む際には、後から酔いが回ってくるお酒も避けるべきです。
具体的には日本酒とワイン。
この辺のお酒はよく「後から酔いが回ってくる」といわれます(あくまでそういう話をよく聞くというだけなので、エビデンスがあるわけではありませんが)。
これらのお酒はその瞬間は飲みやすく、ついつい飲みすぎてしまうので注意が必要です。


4.家に帰ってすぐに眠らない

これも僕の経験測ですが、二日酔いにならないためには酔った状態で寝てしまわないことが重要です。
お酒が回った状態で寝てしまうと、高確率で次の日に残ります。
そうならないためにも、どんなに飲みすぎて眠りたいときでも、火照りが覚めて意識がある程度はっきりするまで酔いを覚ますことが必要です。
最低でも2時間くらいはゆっくりとお水を飲みながら横にならずにゆっくりしておく。
こうやって寝る前にお酒を抜くことで、翌日に引きずることを防げるのです。

 

まだまだ飲みの席で僕が行っているテクニックがいろいろありますが、分量が増えてしまったので、ここまでにしたいと思います。
もちろん大前提は自分が飲んでいて楽しいこと。
お酒なんて無理して飲むものではありません。
それでも、場の空気を崩したくない、場を盛り上げたいという理由でお酒を飲みたいという人には、こうしたテクニックが有効であるかもしれません。
最後に、これはあくまで僕の主観に基づいた「僕の」お酒の席でのテクニックです。
客観的なデータに基づいた情報では無いので、その点はご了承下さい。

 

アイキャッチは酒好きの間では獺祭より美味しいといわれる山口の地酒「雁木」

 

 

 

僕はこれでお酒をやめた!~何かを制限するときの必殺技「習慣の上書き」~

最近家でのお酒をやめました。

もともと日本酒なら3~4日で一升、ワインなら一日1ボトルでは足りないくらい飲むヘビードリンカー(そんな言葉があるかは知りませんが…)で、最後にお酒を飲まなかった日が8ヶ月くらい前、2日以上お酒を飲まなかったのが1年以上前という具合でした(笑)

体時代は全く問題なかったのですが、これはお酒が好きなのではなく、依存症なのでは?と少し恐くなったので試しにやめてみることにしました。

 

実際にお酒を断ってみて分かったのは、意思だけではきついということでした。

お酒をやめて数日は理性で止めることはできても、お店に入るとついついお酒コーナーに目がつられてしまうことがありました。

依存というより習慣的な理由だと思います。

で、その辺をみると、つい「少しだけなら…」と、買っていきたい気持ちになります。

そんな理性でお酒を買いたい欲求を抑える感じでお酒を断つのは中々難しいんじゃないかなと思います。

既に「お酒を飲む」ということが習慣化してしまっているからです。

習慣化しているものをピタリとやめると、そこがぽっかりと空洞になってしまうので、いつでも再開できる状態になってしまいます。

しかも体が求めているので抗いにくい。

そんなイメージで、この状態だとすぐにお酒を飲むのを再開してしまいそうだと思ったので、僕はそこに別の趣味を入れることにしました。

いわば「習慣の上書き」です。

 

今までの習慣になっているから戻りやすいのであるのなら、お酒と代替可能なもので、かつお酒よりもリーズナブルなものを空いた生活習慣の中に組み込めばいいのではと思ったのです。

僕は何か作業をするとき、とにかく飲み物を飲んでいます。

それが僕のお酒を飲みすぎてしまう根本的な理由の一つです。

また、「いろいろな種類が存在する」というのも、僕がお酒を好きな大きな理由の一つです。

だから、その「飲み物を常に口にしていたい」という欲求と「豊富な種類を楽しめる」という欲求を代替できるものを新たな習慣として組み込めばいいのではないかと思ったのです。

この二つの欲求に合致するものと考えたとき、僕が真っ先に思いついたのがミネラルウォーター。

というわけで、試しにミネラルウォーターを趣味にすることにしました。

 

実際にこれを試してみたところ、思った以上の効果が。

もともとお酒は好きなのですが、普段家で飲むときは(さすがに毎日「獺祭」のようなお酒をのむわけにはいかず 笑)ほぼ惰性で安上がりのお酒を飲んでいました。

だから、こだわって「美味しいものを選ぶ」という点で、ミネラルウォーターが飲酒よりも自分にとって優先順位を高めることができました。

それによって苦しむことなくお酒を断つことに成功しました(少なくとも今は…)

 

というわけで何かをやめるためにはまず、習慣化している状態を何かで代替することが重要なのだと思います。

そして、徐々にそのものに対する興味が薄れていくのを待つ。

ダイエットをする場合であれば、今までおなかが空いたときに食べていた脂質やタンパク質をやめるのではなく、おなかがすいたら野菜を取るようにするといった具合です。

何かを断つ際に有効な「習慣の上書き」。

ぜひご活用下さい。

 

アイキャッチは僕の大好きな焼酎「一尚」

 家で飲むのを辞めただけなので飲み会は絶賛受付中です!!どんどん誘ってください(笑)

 

 

 

「何がしたいか」という判断軸は仕事の適正を見誤らせる

何で読んだのかは忘れましたが、天職の定義について、二つの言説が印象に残っています。

ひとつは「人が気付かないような部分にまで気付いてしまう分野が、あなたにとっての理想の仕事だ」というもの。

そしてもうひとつは「自分があたり前のように没頭しているだけなのに、周囲から見たら努力しているように映るものが天職だ」というものです。

人の気がつかない分野に気付くことができて、当たり前のこととして没頭できるのが、その人にとっての天職であるように思います。

僕は驚くくらいに営業の適正がありません。

好き嫌い以前に、人が当たり前に気付くところに気がつけないのです。

たとえば、プレゼンの資料を作ったとして、営業がうまい人は当たり前のようにミッションが正しく表記されているか、数値の「,」の使い方はどうか、フォントは組織で統一されているかということに気がつきます。

しかし、僕の場合は、そういうところが重要であるという「認識」そのものがない。

だから、僕にとって営業面の細部は気がつかないのではなく、そもそも「目に写らない」のです。

一方で、使っている文字ひとつひとつがとても気になってしまいます。

LINEで会話をしていても「て」「に」「を」「は」一つまで気になってしまう。

だから、何かで言い争いをするときには、ついつい「あそこで無意識に『も』って言っていたけど、どういう意図があるの?」というようなことを聞いてしまう。

先ほど言った営業がものすごく上手な友人は、反対にこういった部分に無頓着です。

彼にとっては「彼が」も「彼は」も対して違わない。

その違いが目に写っていないのです。

彼は文字を扱うことに対してはそれほど得意ではないのだと思います。

あるいは、音楽に適正がある人であれば、同じ曲を聴いたとしても、全ての楽器の音が認識できます。

一方で音楽に適正が無い人にはそもそも細かな違いは「聞こえ」ない。

デザインが得意な人には当然のように見えているも文字の背景の影や視線誘導の導線も、苦手な人にはそもそも見えていないし、映画監督に適正のある人には気になって仕方がないカメラワークやカットの部分も、興味の無い人には認識すらできない。

これが、「人が気付かないような部分にまで気付いてしまう分野が、あなたにとっての理想の仕事だ」という言葉の真意であるように思います。

 

もう一つの「自分があたり前のように没頭しているだけなのに、周囲から見たら努力しているように映るものが天職だ」という言葉も凄くしっくり来たことを覚えています。

僕はよく、新しく出た参考書や入試問題が載っている問題集を自腹で買って休日の暇なときに解いたりノートにまとめたりしています。

あるいは仕事終わりに飲み屋の席でお酒を飲みながら、新しいプリント作りをしている。

昔友人と飲んでいて、「何で仕事時間外でそんなことしているの?」と言われて初めて気がついたのですが、僕にとって新しい入試情報を調べてまとめるというのは、全く苦痛ではないんですよね。

だから、「勤務時間外に仕事をしている」という実感が全く無い。

逆に、事務的な雑務を頼まれたときは一分でも勤務時間を超えたらやりたくない。

後ちょっとだけみたいに頼まれると、強制されているという意識が強くなり、明らかにパフォーマンスが落ちる。

逆に、僕の友人でエクセルの入力みたいな作業には没頭できるのに、デザインのようなものになると全く進まなくなるという人がいます。

 

「細部に気がつく」という能力と、「没頭できる」という能力。

どちらか一つでも備えている仕事であれば、その人にとって向いている仕事であるのだと思います。

「何がしたいか」みたいな軸が、必ずしも自分に向いている仕事を選ぶ判断基準になるとは限りません。

「細部に気がつく」ことと、「没頭できる」ことという2軸による仕事の適正の判断は意外と重要であるように思います。

古典と落語の境界線

ツイッターで連続ツイートした内容についてまとめました。

普段と違う書き方であるので、その点はご了承下さい。

 

僕は、立川談志の「源平盛衰記」がとても好きだ。
平家物語を題材にした落語(というか殆ど講釈なのだけど..)で、平家一門の繁栄から衰退までを、一気に話あげる。
そのテンポと談志の小気味いい江戸弁のおかげで、30分を超える演目なのに、全く飽きさせない。

 

平家物語というと、多くの人が学校の古典の授業を思い出すと思う。
古文を教える身としては残念なのだけれど、恐らく学生時代に学んだ平家物語は、退屈な一コマに過ぎなかったという人が殆どではないかと思う。
どうして同じモチーフを扱うのに、落語は面白く、授業は退屈なのか。
そこが興味深い。

 

かくいう僕も、学生時代に習った平家物語は退屈という印象しかなかった(ごめんなさい...)
それが談志の源平を聴いて面白いと思ったのには、次の特色故だろう。
1.談志独自の解釈で語られる
2.キャラクターが作り込まれている
3.ギャグを盛り込んでいる

 

もちろん、正しく古典作品に触れることを目的とした古典の授業と落語はそもそも目的がちがうのであるから、比較することがそもそもナンセンスだ。
しかし、落語家が芸を磨く一環で文献を紐解くのと同様に、教師が落語に学ぶことのできる点はあると思う。

 

僕はここ数年、テスト対策の時などに、実験的に「内容を楽しんでもらう説明」というのを試みている。
学校ですでに「正しい読み方」は習っているのだから、噺家のそれと同様に、楽しさと分かりやすさに重きを置いた説明だ。
自分自身が多くの資料にあたり、1番しっくりくる解釈で訳を構築する。

 

そして、それぞれの登場人物のキャラクターを明確にイメージして、彼らを物語の中で動かす。
ちょうど、僕が書き上げた台本をキャラクターたちに渡して、その役割を演じてもらうような印象だ。

 

僕の中で和泉式部はその気はない男の子にも平気でハートマークを送ってしまうような無自覚な男垂らしだし、菅原孝標女は妄想恋愛に浸る海月姫
・・・自分で書いていてかなりキモい(笑)
とまあ、説明のために登場人物のキャラや輪郭を、できる限り明確に頭に浮かべて説明する。

 

そうすると、自然と行間にリアリティが出てくる。
そして語り手の立ち位置の僕が時々、メタ視点のナレーターとして、作品世界にツッコミを入れるという形でギャグを挟む。
これでは古典作品の素晴らしさが味わえないのでは?というお叱りも受けるかと思うが、僕はまず作品を楽しいと思って貰いたい。

 

だから、二股をかけた大和物語の女なら矢口真里をネタにするし、出家がテーマなら清水富美加をイジリ倒す。
「古文的」な正しい解釈や、美しい文を堪能するというのはその後でいい。
(もちろんそういう説明も用意している)

 

もちろん価値観の問題で、このやり方に賛否はあるだろうけれど、少なくとも僕は、テストで一定の結果が出て、かつある程度は好評価を頂いている(はずだ)から、教え方の一つのスタイルとしてアリだと思っている(受験指導は毛色が違うのでこの限りではない)。

 

源平盛衰記のように、落語のような笑えてためになる古典のネタ(教案)作り。
これが、ここ数年の講師としてでなく、1人の古典ファンとしての研究テーマだったりする。