新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



量より質のウソホント

しばしばブログ界隈では、アクセス数を増やすためには記事の質なんて考えないでとにかく数を書けという主張とロクでもない文章を投稿しても誰も見ないのだから渾身の記事を投稿すべきという真逆のアドバイスを見かけます。

因みに僕自身は量より質が大事と考えています。

ただし、ここでいう「質」というのは今書いている一本にとことん時間をかけて...というのとは少し違います。

僕が考える質の高い文章とは、大量に書き出したアイデアの中でいいものだけを選りすぐって、それを更に磨いたものという意味です。

つまり、選定の段階で「量」はこなしている。

 

質より量が大事という意見には、どんなコンテンツが受けるかは分からないのだから、とにかく数を書こうという意味が含まれていると思っています。

また、量を書けば自ずと技術が上がるという意味もあるのでしょう。

後者の利点はいうまでもありませんが、前者に関しても基本的にはたくさん投稿すること自体に価値があるのではなく、たくさん書く中で質の高い記事が生まれるというところに価値を見出している言葉です。

つまり、アイデアを多く出してその中からいいものを選ぶという「質」の求め方と基本は同じです。

例えば、広告のコピーライター養成講座などでは1つの商品に関して100くらいのコピーを考えるなんて課題があると聞いたことがあります。

その中で1番よい一本だけを人前にお出しする。

そりゃいいものが出てくるはずです。

 

一方で、ひとつひとつに質の高さを求める人は、自分が生み出したたったひとつのものをよりよくしようとしがち。

しかし、いくら技術や手間でアイデアを磨き上げようとしたところで、それには限界があります。

どんなに「盛れる」プリクラ機にも限界があるように、どれだけとり繕おうが、元のアイデアそのものが磨かれていなければ到達できる「質」には限界があるのです。

(すごい失礼な言い回し・・・)

逆に、アイデアがしっかりしたものならばそれだけである程度の質は担保されます。

すごい美人さんが写ったプリクラならば全く落書きや修正が入っていなくても可愛く見えるのと同じです。

(・・・すみません)

で、質のいいアイデアを揃えるには、やっぱり数多くのアイデアを生み出すしかないよねという話。

5人の中からプリクラ映えする人を探すよりも100人の中からプリクラ映えする人を探したほうが、確実にクオリティの高いものが撮れるじゃないですか。

(・・・マジですみません)

 

別にプリクラに恨みがあるわけでも、ましてプリクラが好きな女の子に恨みがあるわけでもありませんが、現実問題として、質を求めるにはやはり「数」というのが重要になってくると思うのです。

その中で思いついた全てを表に出すのではなく、特に輝くひとつを選び出すという印象。

質にこだわらなければ100本くらいは書けたという日の目を見なかったコンテンツ群の中から光る渾身のネタを選ぶからこそ、質は保証されるのです。

量で勝負というのは、その辺の選定を読者に任せているように思うんですよね。

 

おそらく、日頃から仕事などで「質」を求められる人たちは、その過程に膨大な「量」を通っていることを知っているのだと思います。

だからこそ、一本の光るネタを見せる時に、その背後にある努力の後を見せない。

そしてそんな「質」を求める人たちをみて、その努力を知らない人たちは1つのものにこだわれば「質」のいいものができると考えてしまう。

で、結局本当の意味での「質」を追求したコンテンツは生み出せないのだと思います。

 

本当の意味で「質」を求めるとは、1つに極限までこだわることではなく、膨大に生み出した平凡なアイデアをもったいないと思わず切り捨てた上で、そこから生まれた優れたアイデアに磨きをかけることだと思うのです。

 

 

アイキャッチはアイデアについて書かれたこの本!そ

 

ここらで広告コピーの本当の話をします。 宣伝会議

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授業の形態における差別化戦略をサプライサイドから考えた

僕は普段、何を考えているのか分からないと言われてしまうことも少なくないのですが、教育に関してはかなりいろいろと考えている方だと(自分では)思っています。

特に、ここ最近GWの間はずっと、ある授業形態においてでしかできない授業の在り方というものを考えていました。

反転授業とか、演習中心とかいう授業の形式は除いて、あくまで教師と生徒の関係という「授業形態」でみたとき、今の塾業界には様々な形態が存在します。

家庭教師、個別指導、集団指導に映像授業etc...

授業形態を特徴で分類して、それぞれどこが競合しているのか、またどの部分で差別化戦略を取れるのかを考えてみると、僕の中で面白い分類ができました。

僕の作った分類は①個別指導群②集団指導群そして③非インタラクティブ指導群の3種類です。

さらに僕の中では①の個別指導群には家庭教師と1:1の個別指導が含まれ、②の集団指導群に1:2〜4の個別指導、少人数集団指導、大人数集団指導が含まれ、③に映像授業が含まれるというわけ方になります。

(個別指導の分類が少し特殊ですが、これについては後々説明します。)

 

まずはそれぞれの指導群の強みについてはまとめたいと思います。

①に該当する指導方法は完全に1人の子に焦点を絞ります。

そのため、スポーツのインストラクターのように、文字通り手取り足取り指導することができる。

極端な話、野球のノックのように、応答の繰り返しで一問一答のような覚え方をさせることだってできてしまうわけです。

これは1人の生徒さんを相手にするスタイルでしかできません。

僕は他の指導群に比べ①が持つ最大の強みは、この「覚える過程踏み込める」点にあると考えています。

それに対し②の指導群はライブ授業であることが最大の強みだと考えています。

目の前に複数の生徒がいて、生徒と教師のインタラクティブなやりとりの中で授業が組み立てられる。

思わぬ気づきや、その瞬間ならではの教わり方というのは②群にしかない強みです。

Googleの翻訳制度がここ数年で著しく高度になっていますが、その理由は間違えの蓄積にあると言われています。

集合知で臨めるライブ授業は、こうした蓄積に大きな威力を発揮します。

最後の③非インタラクティブ指導群に関してはテクノロジーの進化が最大の強みでしょう。

理解が十分でないとき、何度も見直すことができるというのは、映像授業でしかあり得ません。

例えば、テキストに細かく時間が書かれていて、分からなかった場所に関しては何度も見直せるみたいな授業作りは、非インタラクティブだからこそです。

以上が①〜③群の、形態別の差別化です。

 

次にそれぞれの指導群内の差別化戦略について考えます。

一つ目の個別指導群は、担当と生徒が完全1:1という定義にしました。

1人の教師が1人の生徒を教えるのと、2人以上を教えるのとでは、上に書いたように、全く意味合いが違うと考えたからです。

この分類にすると、完全1:1の個別指導と家庭教師が競合関係にあたります。

従って家庭教師と1:1個別指導の両者にとって、両者が相対的に武器とし得る強みを考えることにします。

まず、個別指導にできて家庭教師にできないことを考えていきたいと思うのですが、最も簡単にできる差別化戦略といえば、授業外学習指導の時間の有無につきるでしょう。

家庭教師は家に教えに行くことが大きな利点です。

逆にいえば、質問対応はその場でしかできません。

対して塾の個別指導であれば、原則(担当でないにしろ)塾に行けばいつでも先生が待っています。

そのため、質問対応がしやすい。

また、補修や呼び出しみたいな付加価値で家庭教師と差別化することもできます。

従って、家庭教師との差別化を考えるのなら、この辺に特化することが重要でしょう。

一方で、家庭教師が個別指導と差別化をできるところは何か?

1番の強みは「毎回家に行く」という部分にあると思います。

家庭に顔を出すということは、保護者の方とのコミュニケーションの度合いにおいて、個別指導を圧倒している。

したがって、学習状況の共有や進路相談といった、保護者とのコミュニケーション密度の部分で差別化を図るのが有効といえるでしょう。

 

次に②群内での差別化です。

僕はここに属する授業形態にはA演習密度とB体系化して伝えられるという2つの軸があり、対象とする人数により、それぞれの比率が異なって行くと考えています。
例えば、1:2の個別の場合、一人当たりに目を向けられるA演習密度は50%とかなり大きくなります。
反対に演習を見ることに軸足を置いている分、体系化して知識を教えられる割合は少なくなる。
これに対して100人クラスの場合、Aの一人当たりに向けられる意識は1%になりますが、代わりにBの体系化された授業の完成度という観点では非常に大きな数値になる。
②群においてAとBはトレードオフの関係です。
また、雇われる側の給料という観点からみれば、当然一人当たりの持つ人数が多いほど多くの給与を支払うことができ、より腕のいい教師である可能性が高くなるでしょう。
予備校が日本を飛び回るようなカリスマ講師を雇うのはこういう仕組みです。
こうした構造を踏まえるのなら少人数であるほどに面倒見の良さを売りにすることが有効で、大人数になる程講師の腕やブランド、あるいは知識の体系化という部分での差別化が有効といことができるでしょう。

 

最後に③ですが、ここに関しては僕の勉強不足もあり、そもそも③群内での差別化があまり思い当たりません。

もちろん同じ形態での差別化はいくらでも考えられますが、そこに関しては他の群と違うレイヤーのお話になってしまうので、今回は触れません。

あえて言及するのであれば、1.いかにインタラクティブを取り入れるか2.映像の尺による工夫3.価格帯や付加価値の充実といったところになるでしょう。

 

ということで、授業を「売る側」にとっての差別化戦略について、あれから考えたほんの「さわり」の部分だけまとめてみました。

これが塾選びに役に立つのかどうかは甚だ疑問ですが、1つの指標になれば幸いです。

 

アイキャッチはさんざん勉強についてかいたクセに山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

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Twitterスラム論③新機能の追加がスラム化に歯止めをかける

僕は5年くらい前から、Twitterスラム論というのを持論として言っていました。

現実社会でのコミュニケーションには基本的にその人の信用が紐付いているため、社会的信用にあまりに開きがあるもの同士では、そもそも基本的にコミュニケーションは生まれない。

それに対してウェブの世界ではそうした信用を超えて(一方的に)どんな人物にもアクションをかけることができる。

また、ウェブ上のやりとりに関しては時間が多い方が圧倒的に優位であり、現実社会で信用が多い人ほど空き時間は少なく、社会的信用が低い人ほど空き時間は多い。

とすれば、ウェブ上におけるやりとりは社会的信用の少ない人にほど有利である。

僕はこれをもってネットが荒れると言いたいのではありません。

むしろこれ自体はネットの性質として面白い部分だというのが僕の意見です。

問題はこの先にあって、社会的に信用度が高い人間が、時間のある人ほど優位なシステムの中で、わざわざ対等に時間をとってくれるのかという部分です。

今のまま、社会的にそれほど信用が高くない人々が信用が高い人を批判し続けていれば、やがて彼らにとって利益よりも損害の方が大きくなり、そうなったときにそもそもウェブ上のコミュニケーションの場からいなくなってしまうのではないか。

そして、彼らは有料なり一定の社会的に信用が担保された人しか利用できないSNSのようなものを生み出し、自由闊達なやりとりはそこで行い、Twitterのような場には「宣伝」としての一方的な情報しか落とさなくなるだろう。

これが僕の考えるTwitterスラム論。

ここ数年で、サロンというサービスや、フェイスブックの友達しかコメントできないような機能が、出てきて、こちらにシフトしつつあるなあと思っていました。

 

しかし、ここ最近Twitterに新たな機能が追加されて、ちょっと違う方向に行くのではないかと思い始めています。

それが、不適切なつぶやきを報告できる機能です。

自分に対する不適切なつぶやき、あるいは他人に対する不適切なつぶやきを発見したら、それを運営側に報告して、ひどい場合にはアカウントを凍結できるという機能です。

詳しい仕組みは分かりませんが、どうやら多くの人から悪質と言われるつぶやきを連続する人や、悪質なコメントを連投する人に対してはたとえ1人からのクレームであっても場合によっては凍結される場合もあるのだそう。

僕はこの装置が非常に面白いなと思いました。

 

僕はこのサービスを、それまでは(少なくともTwitterには)存在しなかった、信用という尺度を導入したものと見ています。

たとえば、仮にひどい悪口を有名人に浴びせる人がいたとして、その有名人にフォロワーが大勢いれば、一斉に「不適切」と報告することができます。

フォロワーという信用力が、自分の自衛装置になる例です。

また或いは、たとえ自分にフォロワーがいなかったとしても、誹謗中傷をしてきた相手が日常的にそういった攻撃的なつぶやきをしていたとしたら、一発でブロックされるというのは、「信用力の低さ」が評価に反映されているという例でしょう。

新しく実装されたこの機能は、信用力が高い(=フォロワーが多い)人に武器を与え、信用力が低い(日頃から信用を失墜させるような発言が目立つ)人にはペナルティーが与えられるという点で、Twitterにそれまではなかった自浄作用を備えさせるように思います。

しかも、できたばかりのアカウントからのマンションは非表示にするという機能もあるので、これらを使えば凍結→新規アカウントの作成→嫌がらせということもできません。

 

もちろん、こうした機能のせいで、様々な立場を超えてコミュニケーションができると思っていた人にとっては、その魅力が失われたように見えるかもしれません。

実際に今回の追加機能は、信用力が大きい人に有利になるもので、「全てが平等である」ことをネット空間の良いところと考えていた人からすれば、納得のいかない制約かもしれません。

しかし、そうした自由な空間の行き着く先は閉鎖コミュニティとスラムという完全に断絶されたものだと思っていた僕にとっては、たとえある程度の制約があっても、部をわきまえた上でならリアルな空間とは違う人間関係を結べる可能性のあるネット空間の方が少なくとも僕はいいなと思います。

そんなわけで僕が言い続けてきたTwitterスラム論に関しては、意味がなくなったということで、Twitterが今後どういう方向に進んで行くのが、楽しみに見ていきたいと思います。

 

アイキャッチは最近はまっている東浩紀さん

 

関連エントリもお願いします。

 Twitterは日本の未来のスラム街 - 新・薄口コラム

 

春は学校で詩を扱う事が多いから、「詩」の指導案を久しぶりに確認してみた

今の塾にお世話になりはじめたとき、塾長に「子どもたちとのレスポンスの中で授業をしなければライブでやる意味が無い」といわれ、それ以降僕は意図的に教案を作るのをやめました。
とはいえ当然思いつきで授業をしている訳ではなく、大まかな流れと、そこで説明に使う「ネタ」はしっかりと仕込んでいます。
(もちろん教材研究や見せ方の研究も欠かしません)
ただ、学生時代にやっていた、板書の行数まで意識して完全に授業内容を組み上げていくスタイルを辞めたというだけのお話。
今でのバイト時代の後輩と会うと、冗談で「模擬授業をやってください」なんてことを言ってもらうことがあるのですが、たぶんもう、当時のようなパッケージになった「見せるため」の授業は出来ないように思います。
なんというか、それまでの授業案がしっかりと細部まで書き上げられた脚本のようなものであったのに対し、今の授業案はざっくりとこれだけは伝えなければと思う内容をト書きにした、司会者のような形です。
そんな訳でカチッとした内容をまとめる機会はめっきり減ってしまったのですが、そうはいっても定期的に知識を時系列で話す「型の確認作業」のようなことをしておかないと、必要な部分で必要な知識を引き出せないようになってしまうので、GWを利用して、僕が組み立てた授業の流れを久しぶりに(ひとり寂しく)総整理しています。
その中でも比較的詩の技法の説明に関してはカチッとしたものなので、この機会にブログで総整理をしてみることにしました。
ということで以下は僕の「詩」の説明のベースにしている指導案です。
因みに直感的な分かりやすさを優先しているため、多少の知識の間違えがありますが、そこはご了承下さい。
また、本来会話で行うものを文字に起こしているので、酷く言葉足らずですがその点も多めに見てください。
前置きだけで1000字近くになってしまった(笑)

そもそも「詩」って何なの?
僕は詩の説明をするとき、第一に「そもそも詩ってなんなの?」という部分から話すようにしています。
国語の扱う分野には、小説、論説文、古文、漢文、文法といろいろありますが、僕が最後まで好きになれなかったのが「詩」という分野でした。
「みんな違ってみんないい」とか、だから何?としか思えなかったんですよね。
で、何でそんなに「詩」が好きになれなかったかというと、そもそも楽しみ方が分からなかったからだと思うんです。
恐らく正しい教え方は、詩を読んでその楽しみ方を自然と感じ取ろうというものなのでしょうが、そもそも興味が無ければそんなの無理(笑)
だから僕はまず、要するに詩ってなんなの?ということと、その楽しみ方を先に伝えてしまいます。

少なくとも僕にとっての詩とは「作者だけが知っている世界のイイ所を言葉で伝えようとしたもの」です、たぶん。
たとえば、殆どの人が気にもかけることが無い「わた毛」だけど、よく見たら飛んでいく姿って美しいよねとか、春の朝、日が昇る直前の紫色の空って、よく見たらきれいじゃね?とかそういう感じ。

少しふざけているように見えるかもしれませんが、今世界で1番有名なイカついおっさん、ピコ太郎さんのPPAPだって、詩として成立しています。

「私はペンを持っていて、私はリンゴを持っている」

この二つを繋げると「アップルペン」になる。

普通はリンゴにペンが刺さっていたら、それは「ペンの刺さったリンゴ」ですよね?

でも、ピコ太郎は違う。

それは「ペンの刺さったリンゴ」じゃなくて、「リンゴが付属したペン」なのです。

PPAPにはしっかりと、ピコ太郎にとっての「俺には世界がこう見える」が書かれているから、あれは立派な詩です(笑)
「言われてみれば確かにそうかも」という世界の美しさみたいなものを届けてくれるのが詩のよさなのです(というか僕はそう解釈して初めて詩を楽しめるようになりました。)

詩には非常に多くのパターンがあって、それは(よせばいいのに)似たもので分類訳がされています。
そのわけ方は大きく2つ。
一つ目が使われている言葉によるわけ方で、もう一つが文の構造によるわけ方です。
今でこそ僕たちは話し言葉と書き言葉が一緒(実は違うけれど口語文と口語の話はメンドクサイ上に複雑になってしまうので興味がある人は後で聞いて下さい)ですが、ちょっと前まで、はなし言葉と手紙などで使う書き言葉は違っていました。
詩はこの書き言葉で書かれているのか、それとも話し言葉(っぽいもの)で書かれているのかで分けられます。
書き言葉で書かれているものが「文語詩」、はなし言葉で書かれているものが「口語詩」です。
で、そもそも「文語」って何なんだって話ですよね。
口語は普段僕たちがラインやツイッターで使っている(完全に単語で送るやつはここに含めないけれど)ので分かりやすい。
それに対して文語文はそもそも普段見かけないので分かりづらいと思います。
基本的に文語文が出てくることはあまりないので、基本は口語文と思って置けば大丈夫です。
ただ、一応の判断が出来るようにしたいので、一つだけ文章を覚えておいて、それに近ければ文語文と考えて下さい。
というわけで一つ例文を・・・
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきも徒なり。」
これは森鴎外ってオッサンのかいた有名な小説の冒頭なのだけれど、意味わからない(笑)
こんな風に、昔は文章を書くときにはそれようの言葉を使っていました。
「~し候」とかも同じイメージです。
因みにこれを口語に直すとこんな感じになります。
「石炭ももう積み終えてしまった。中等室のテーブルはとても静かで、白熱灯の光が点けっぱなしでまぶしいだけである。」
昔の大先生が書いた文章に「分かりにくい」なんてダメだしした上で勝手に訳すなんて、とても恐れ多いことですが、こちらの文章ならば恐らくイメージが伝わるのではないでしょうか。
これが文語と口語の違いです。
見分けるときは、上のどちらに近いかで判別して下さい。
で、迷ったときはとりあえず口語にしておく。


詩の構成による分類

使われている言葉の他に、詩がどんなルールで書かれているかということで仲間わけされます。
次はそのルールについてみていきましょう。
詩の構成には①自由詩②定型詩散文詩の3種類があります。
まず一つ目の自由詩ですが、これを考える前に、一度詩をみて不自然な部分を考えて下さい。
皆さんは文章を書くときのルールとして、一番下の行までいったら次の行に移るというように習っているはずです。
それを踏まえて詩を見てください。
この作者たち、好き勝手なところで改行しています。
これ、夏休みの読書感想文とかでやったら怒られるやつです。
詩は、内容だけでなく、言葉のリズムなども重要な役割を果たしています。
だから、改行なども作者が自由に行うことが殆どです。
この、作者の感覚に合わせて改行が自由にされているものを「自由詩」と呼びます。
殆どの詩がここに含まれるので、とりあえず特徴が無ければ「自由詩」と考えておけばいいでしょう。

一方で、あえて厳しいルールの中で表現しようとする「詩」も多く存在します。
例えば、五・七・五の文字数の中で季節を表す語を一つ含め、自分の美しいと思った世界を表そうというのが俳句。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
こういったルールに縛られた中での書かれた詩を「定型詩」と呼びます。
定型詩としては短歌や俳句が有名ですが、短歌から季語を抜いたら狂歌、俳句から季語を抜いたら川柳などがあります。
「誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ-(シルバー川柳)」とか、「わんこより 安い飯代 ワンコイン-(サラリーマン川柳)」みたいなものは五・七・五だけれど季語が無いので川柳となります。
「トドラッコ アシカアザラシ オットセイ」
ただ似たような動物を並べただけで全く意味は無いけれど、これだって一応五.七・五になっているので、自分が強引に言い張れば川柳です。
因みに、ルールが決まったものというのであれば、上から読んでも下から読んでも意味が変わらない読み方に「回文」と言うのがあります。
五・七・五のルールにこれを加えたものをいくつか紹介します。
「役人に 知り合い在りし にんにく屋(やくにんにしりあいありしにんにくや)」
因みにこれは「知り合いありし」と文語を用いているので一応文語定型詩(笑)
他にも「ダメ男子 モテ期が来ても 死んだ目だ(だめだんしもてきがきてもしんだめだ)」なんてのがあります。
これが僕の知っている川柳で一番面白い。
他にも、中国の詩に五音×四行で書いて、二句目と四句目の最後を同じ音にしなければならないという縛りで作られた五言絶句というようなものもあります。

そして最後が散文詩という奴ですが、これは殆ど出てこないので特に覚えなくても構いません。
それよりも自由詩と定型詩の区別がつくほうがよほど重要です。
一応説明しておくと、普通の文章で書かれたものということになります。
「普通って何やねん!」という話だと思うのですが、自由詩の説明で触れたように、詩は基本的に筆者が言葉の響きを大切にして、好きなところで改行をしたりします。
細かくは違いますが、ひとまずはそういうことをせずに普通の文章のルールに従って書かれているものが散文詩、自由に改行されているのが自由詩と思っておけばいいでしょう。

っと、ここら辺で僕が昔作った詩の説明の前半くらいなのですが、あまりに長くなってしまったので、後半に分割したいと思います。。。
思いの他文字でやると時間がかかった(笑)

 

 アイキャッチは2年生の教科書に載っている「見えないだけ」を貼ろうと思ったら出て来た「あなただけ見えない」(笑)

あなただけ見えない〈上〉

あなただけ見えない〈上〉

 

 

「ウェブでお金を稼ぐのは簡単」という言説は正しいのか?

ウェブを見ていると「(ウェブで)お金を稼ぐことなんて難しいことではない」なんて記事をよく目にします。
僕はこうした記事を読むたびに確かにその通りだと思う半面で、全ての人にそういうのはちょっとどうかなと思います。
人によって、「努力の最低基準」は異なり、それぞれが自分の文脈の中で受け取ってしまうため、勘違いする人が多く出てくるように思うからです。
例えば、目的のためならば一日10時間くらい寝食を忘れて没頭するのが当たり前という人にとって、その程度のことは努力でも何でもありません。
一方で、ロクに何かに打ち込んだことの無い人にとっては、たった2時間何かに打ち込んだ程度であったとしても、「努力」したと感じるかもしれません。
努力とはこのように動作主の主観(というかそれまでの経験)に非常に左右されるものです。
だから、具体的などのくらいの努力(それも適正がある分野であるという前提がある上での)が必要かを伝えないのはあまり誠実ではないように感じてしまうのです。

島田紳助さんが、『紳竜の研究』というDVDの中で、才能と努力はそれぞれ5段階あって、結果はその掛け値で決まるという話をしていました。
恐らくブログを初め、ウェブ上のコンテンツで生活が出来ている人は、この掛け値が25ある人であるように思います。
これは僕の肌感覚ですが、きっと月に数万円レベルでも掛け値は16以上、たとえ数千円レベルでも合計12くらいは必要な気がします。

僕のブログで大体ひと月で数千円のお金が入ってきます(祇園でちょっといいランチを食べられるくらい)。
そもそも僕はブログでマネタイズするつもりはなく、ターゲットを絞るといったようなマーケティング的なことも殆ど行っていないので、「努力」としてはそれほど多いほうではないでしょう。
それでも、月に30本程度(このブログは15~20本くらい)の文章は書いています。
分量としては一本あたり1500~2000字くらい。
このくらいの分量を仮に努力値として表すなら、せいぜい3,5くらいでしょう。
で、書く才能に関しても、それほどあるようには思っていません。
僕はなんだかんだで中学生くらいのころからブログやらを書いていて、そこそこ周りの友人や知り合いに「面白い」と言われて喜んでいるとかその程度。
現在は半年に一度くらい、文章の寄稿依頼やお仕事の依頼が舞い込んでくる程度なので、大学時代にレポートを量産しており、卒業論文で一定の分量を書ききったくらいの普通の社会人を3とすれば、それよりは多少上手い程度で大きめに見積もって3.5くらいかなと思っています。
というわけで、僕の場合は才能×努力の値はギリ12超えくらい。
僕は興味が無いのでしませんが、仮にマックスで努力し続けた場合、まあ数万円なら稼げるんじゃないかなあと思っています。
逆にいえば、どうあがいてもそれで生活できるレベルは無理だと思っています。

僕がここで考えたいのは、「1500~2000字くらいの文章を月に30本程度」という量が多いと思うか少ないと思うかという話です。
(もちろん、内容の密度みたいなことを加味すれば話が変わってきますが、それは複雑になりすぎるので、今回はあくまで文字数という「数値化」できる分野に絞って考えます。)
僕の知り合いでライターさんとして活躍している方は、ライターになるまでに毎日1万字以上は最低でも書き続けたといっていました。
また、ブロガーとして有名なイケダハヤトさんは、有名になるまでに一日に10本くらいの更新はしていたと書いています。
彼らが月に10万文字以上書いているのに対して、僕は大体月に5~6万文字。
これは全然努力しているとはいえません。
実際に僕も、「それほど頑張らなくても書ける分量」がこのくらいだと思って書いています。
で、問題となってくるのはこの分量が多いと感じるか少ないと感じるかということです。

以上を踏まえて、最初の「(ウェブで)お金を稼ぐことなんて難しいことではない」ということについて考えてみたいと思います。
僕にとって、つまり月に5万字くらい書くことが当たり前の人にとっては、月数千円をウェブで稼ぐことは確かに全く難しいことではありません。
おそらく、僕と同じ位の文章力で、僕の倍くらい書くことが苦にならない人にとっては、ウェブで数万円稼ぐことは簡単なのでしょう。
これがイケダハヤトさんレベルになると、生活するのも簡単というようになります。
ただし、これが「簡単」と考えるかどうかは、完全にその人の「あたりまえの基準」に依存します。
1000文字くらいの文章を一本書くのも大変という人には、恐らくウェブでお金を稼ぐことは非常に難易度の高いことだと思うのです。

僕は、「〇〇なんて簡単」という言葉は安易に信じるべきでないと思っています。
大前提として、それをいえる「成功者」はその分野において十分な適正と才能を持っていて、その上で「当たり前の基準」がものすごく高い。
そもそも全く向いていない分野に挑戦しても、あるいは「当たり前の基準」が高くない人が彼らの言葉を信じて「自分の範囲で頑張ってみた」としても、そこには絶対に到達できません。
何かに挑戦するときには自分の「当たり前の基準」と適正を大まかでもいいので相対的に数値化して考えることが必要だと思うのです。
他人の基準で言われた「〇〇は簡単」という言葉を鵜呑みにするのは危険なのではないかなあというお話。。

 

アイキャッチ中川淳一郎ウェブはバカと暇人のもの

 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

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ファッションインテリの作り方~何でも知っている風に見える方法を考えた~

人と飲んでいると、ときどき、この人は本当に何でも知っているなあと思う人に出会うことがあります。
もちろん、本当にどんな分野においても造詣が深い人もいるのでしょうが、大部分の人は、(意識無意識は別に)何でも知っている風に装っているだけのように思います。
本当の「博識」には膨大な時間がかかりますが、周囲に「何でも知っている」と思われるだけならば、ある程度はテクニックでどうにかなるはず。
僕はこうした「何でも知っている風に見える人」のことをファッションインテリと呼んでいます。
僕自身、塾講師という職業柄、最低限の物事は知っているようにみえなければ子供たちから信頼が得られません。
とはいえ、まだまだ若造なので、当然ベテランの先生たちの持つ、人生とともに積み上げたような知識に勝てるはずもない。
そんなときに僕が意識的に行っていたのが、「物知りに見える人の研究」です。
何でも知っているように見える人には一定の共通点があるというのが僕の持論。
そのうちのいくつかをまとめてみたいと思います。

ファッションインテリは自分の知識でしゃべらない

この人はあまり物事を知らないなあと感じる人は、得てして自分のフィールドで話してしまいがち。
マンガに詳しいから何でもマンガのフィールドで話すとか、本に詳しいから本の話になれば急に饒舌になるとか、そんな感じです。
もちろん、共通の趣味を有していて、狭い分野の中での知識の深さを伝えたいのであればそれでいいと思います。
しかし、それでは「物知り」には見えない。
一般的な「物知り」の定義は、恐らく「多方面に詳しい」ということになるでしょう。
特定分野に詳しいではここにあてはまりません。

他分野に豊富な知識を持っているように見えるために重要なことが、「自分の知識でしゃべらない」ということです。
この言い方では少しニュアンスが違うかもしれません。
正確には相手の文脈の中で自分の知っている知識を披露するというイメージ。
あまり多方面に造詣は深いように見えない人は、会話の相手がA→B→Cという順序で話しているときに、いずれもそれほど詳しい分野ではないからと、自分の得意分野であるDという分野をかぶせてきます。
一方で何でも知っているように見える人は会話の相手がA→B→Cと話しているとしたら、自分が知っている範囲の知識で相手の話題に乗ることができないだろうかと考える。
たとえば、A,B,Cのいずれにも相手ほど詳しくなかったとしても、Bに関しては少しの知識をもっているとします。
その場合、相手の文脈に合わせてB’の話題を出す。
相手にとっては自分のフィールドの中で会話が繰り広げられたように見えるので、いろいろなことを知っているようにみえるというわけです。


ファッションインテリはマウントしない

物知りに見える人におけるもう一つの大きな共通点が「マウントをしない」ということです。
「これも知っている?」とか、知識量に物を言わせて相手を屈服させるとか言うことをしません。
ただ、相手の会話に合わせてその場に適切な知識を引き出すだけ。
何かしらの説明をようするときでも、説教口調にはなりません。
あくまで自分の視点であるということを重視する。
自分にとってはこういう意味があるというスタンスで語ることで、嫌味のない言い方になるのです。


ファッションインテリは自分の知っている範囲で話す

島田紳助さんが以前、自分の話術に関して「俺は何でも知ってんのとちゃうねん。知っている話をしているだけやねん」と言っていました。
実は、何でも知っているように見える人の殆どがこのパターン。
確かに、一つ、或いは二つくらいの分野について人よりも深い知識を持っている場合が少なくありません。
しかし、彼らは決して全部の分野に関してそのレベルで精通している訳ではなく、むしろ他分野に関しては殆ど知らない場合だってあります。
それでも自分の得意分野ではない部分に関して話すことができるのは、「知っていること」しか話していないからです。
マクロとしてはあまり詳しくなかったとしても、ミクロな事象において、一点詳しいものがあれば、その話題になったときだけ語るようにします。
そうすると、あたかも全体に詳しいように見える。

重要なことは、全体を知っている分野を一つは持っておき、それ以外に関してはミクロなことに関して詳しい知識をもっておくということ。
そうすることでいろいろな話についていくことができるのです。

というのがざっくりとした僕のファッションインテリの特徴です。
果たして日常生活において何でも知っている風に見せることが役に立つシチュエーションがどれほどあるのかは甚だ疑問ですが、必要な人はこの辺を意識してみると言いように思います。

帰ってきたドラえもん考察~ジャイアン映画ではいい奴問題と科学への皮肉を成長プロットに転化した凄さ~

あらためて僕が説明するまでもないことかもしれませんが、帰ってきたドラえもんって凄い映画だったなあと思います。
小さい頃ドラえもん映画は数多く見ていましたが、やっぱり一番印象に残っているのはこの映画です。
あの一時間くらいの中篇物語の中でしっかりと起承転結を入れた上で、のび太の成長を描ききっている。
当時小学生だった僕は、感動して涙したことを覚えています。

タイトルで結末を示した上で感動させる演出の凄さ

僕がこの映画を改めて凄いなと思ったきっかけは、何気なくタイトルを見ていたときでした。
「帰ってきたドラえもん」って、タイトルの段階で、どういう結末で終わるかを伝えてしまっているんですよね。
普通、エンディングをタイトルになんて絶対にしません(というかできません)。
そんなネタバレを堂々とタイトルで行い、その上でしっかり映画を見た人を感動させられる。
これって凄い挑戦だと思うのです。

道具が予想外の事故を引き起こすテレビシリーズのドラえもん

テレビシリーズのドラえもんは、日常ものに分類されるアニメです。
テレビシリーズでは、困難に直面したのび太がその解決手段として安易にドラえもんの道具を頼り、一旦は解決したように見えるのだけれど、調子に乗ったのび太が道具を好き勝手使うことにより、別の問題が生じ、結果として上手くいかなかったというプロットでストーリーが展開することが多いドラえもん
テレビシリーズでは、安易に技術に頼ることに対する皮肉が軽妙に描かれています。
日常ものでは、基本的に登場人物の成長は描くことができません。
その世界の登場人物たちは、いつまでも変わらないからこそ、日々のドタバタを途切れることなく描けるのであり、そこに「成長」という時間の流れを含むコンテンツを入れてしまえば、そもそも「日常もの」として成立しなくなってしまいます。
その特性を踏まえて「安易に技術に頼る主人公が、上手くいくようで結局失敗しておしまい」という文脈を取り入れたのは本当に上手いなと思います。

そして、そこにさりげなく背景に目を向けず安易に技術にたよる現代人への皮肉を潜ませている。

映画版ジャイアンがいい奴になる理由

テレビで流し、見たい人だけが楽しむというアニメに関しては「成長しない物語」というのは非常に相性がいい反面、有料で、何時間か劇場に観客を拘束することで成り立つ映画の場合、観客は登場人物に何らかの変化を求めます。
だからあらゆるアニメが、劇場版になると何かしらの「成長」を描きます。
たとえば、クレヨンしんちゃんであれば家族の絆を深めるという形で「成長」を描いたり、名探偵コナンの場合は服部平次と一葉の恋愛の進展においてみたりという具合です。
ドラえもんの場合、家族愛を描くことも恋愛を描くこともありません。
そのため何かしらの変化を描こうとしたら、友情か個人の成長くらいしかないのです。
映画版ジャイアンがいつもいいやつになるのはこれが理由です。
そういった「変化」がなければ、そもそも映画のストーリーとして成立しないのです。
帰ってきたドラえもんの場合は、その「変化」がのび太の成長という形で表現されています。

テレビシリーズのプロットを裏返すことで感動にもっていったストーリー

僕が「帰ってきたドラえもん」のストーリーで最も凄いと思っていることは、映画に求められる「変化」を演出するに当たって、テレビシリーズのプロットを反転させることで上手く組み込んでいる点です。
前にも述べたように、テレビシリーズでは「安易に技術に頼る主人公にしっぺ返しがくる」というプロットが多用されます。
そして、毎回安易に道具に頼り、調子に乗ってそれを使いすぎ、別のところに新たな問題が生じるという形で、「成長しない日常もの」として成立させています。
帰ってきたドラえもんでは、これを全て逆転させることで、のび太の成長を描きます。
ドラえもんのび太のもとを去る際に、最後に一つだけ助けてあげられる道具を残します。
テレビシリーズでは最初に道具に頼るのび太が、この映画では最後の最後でしか道具に頼らない。
普段の「道具に頼る→問題を解決しようとする」が「問題に立ち向かう→道具に頼る」となるわけです。
構成を端的にまとめると、帰ってきたドラえもんは、のび太は1人で立ち向かい(=成長し)→最後の最後で道具を使い→その結果道具のおかげで意図しないうちにドラえもんが戻ってくるという構造になっています。
まさにテレビシリーズとは真逆の構成。
自分でやれることをしているからこそ、道具のおかげで予期しない(いい事態)が起きるというストーリー展開です。
一見するとありがちな感動物語ですが、よくよく考えると非常に練りこまれている。
だからこそ、タイトルでハッピーエンドを堂々と示していても、観客を感動させられるのだと思います。


こんな風に見ていくと、むちゃくちゃよく出来ていることがわかる『帰ってきたドラえもん』という映画。
僕の中でかなり印象に残っている作品です。

 

アイキャッチはもちろんドラえもん