就活が解禁になったから塾で働く人間が新卒で塾業界を受けるという体でガチの志望動機を書いてみた①
この前後輩と飲んでいたら、仮に今から新卒で塾業界を受けるとして、「なぜ学校ではなく塾なのか?」という質問にどう答えるかということを聞かれて、面白かったので思考実験に僕が今塾を受けるのなら何て言うのかを考えて見ました。
まず個人的に考える塾の存在意義として、僕は単なる「受験予備校」としての役割以上に社会的な必要性を担っていると考えています。
現在の子育てと教育をとりまく環境を見てみると、いずれも「ワンオペ」が大きな問題になっているのではないかというのが僕の問題意識です。
子育てについて、僕はそもそも1人の子どもを育て上げるのには①両親、②祖父母、③地域の人くらいの人手がかかるものであると思っています。
昔は地域のコミュニティがしっかりしていて、また拡大家族の家庭が多かったため、「周囲のリソース>子育ての負担」でした。
しかし、現在はあらゆる方面で「個人所有」の時代になりました。
例えば、昔は一家に一台のテレビ、電話であったのが、今は1人に一つが当たり前になりました。
その反面で、今まで複数人で共有することで抑えられていたコストが、ひとりひとりが所有するわけなので、その分肥大化します。
この数十年でさまざまな分野でこの「細分化」が起きました。
子育ても同様です。
それまでは複数人の大人で1人の子どもを育てていたものが、核家族化が進み、かつ夫は残業で家に帰るのが遅くなったとすれば、母親は、それまで複数人が分担していた負担を1人で担うことになります。
僕はこれを子育てのワンオペ化と呼んでいるのですが、そもそも子育てはワンオペで機能するようにできていないと思うのです。
あらゆる分野における個人所有の流れで子育てもワンオペ化が常態化し、実質の1人の子どもを一つの家庭で育て上げる負担は大きくなっています。
これが僕の考える子育ての現状です。
次に教育現場について見て行きます。
結論からいえば、僕は現在の学校教育の現場は教員が処理できるキャパシティを完全に超えていると考えています。
昔は一人の教員で担え教務がなぜ今は担えなくなったその原因は、教育に流れ込んだ多様化の波と上に書いた子育てのワンオペ化が背景にあります。
良い悪いは別として、昔の教育は今と比べて画一化したものでした。
それは、現在の学校教育の制度が明治維新のときに職場に出向き働くことのできる人材を作るために生まれたという背景からも明らかです。
昔の教育は基本的に誰もが一定の水準に達することを目指してカリキュラムが作られていました(この辺は僕の私見なので意見が異なる人もいるかもしれません)。
教員にとってみれば、全員を同じ方向に向かせるというこうした教育はしやすいものであるはずです。
それが経済成長を終え、日本が成熟社会に突入すると、画一化された人材では世界に通用しないということで、ひとりひとりの個性を引き出す教育というものが叫ばれるようになりました。
これが教育現場に莫大な負担としてのしかかっているように思います。
それまでの一つの方向に引っ張っていく教育であれば、ある程度マニュアル化ができ、教務を効率化することができました。
一方で個性を伸ばすとなると、教務のマニュアル化は不可能です。
画一的に指導できないところにこそ個々人の可能性が眠っているからです。
こうしたトレンドの変化が、僕の考える教員の仕事が激増した内的要因です。
教育現場の仕事が増える原因は内的要因に限りません。
家庭での子育ての仕方の変化による外的要因も大きなものがあります。
上に書いたように、家庭における子育てのワンオペ化によりひとりひとりのお母さん(分かりやすくするために子育ての中心が母親にある場合を想定しています)の負担が大きくなりました。
増えた負担のうち処理しきれない部分は教育現場になだれ込みます。
その結果、箸のもち方や雑巾の絞り方みたいな、少し前までなら家庭で身に付けていた生活の知恵のようなものも学校でしつける必要がでてきました。
内部からは多様性を身につけさせるようにというプレッシャーが、外部からは子育てのワンオペ化のしわ寄せがくることで、膨大な仕事量が今の先生にはのしかかっている。
そして、低学年になるほど、それらの負担は1人の先生が担わなければならない。
これが僕の考えるもう一つの問題、教育のワンオペ化です。
こうした現状において必要なものは、家庭における子育ての現場と学校における教育現場で裁ききれなくなった余剰を担う存在です。
それまでは地域が担っていたものかも知れませんが、地域のコミュニティが希薄になった(特に都市部では顕著です)現在ではそれは難しいでしょう。
そもそもここまで各家庭での子育てが多様化してしまい、みんな違う習い事をしている状態では、どうしても生活全般にわたるコミュニティは形成できません。
せいぜいあるのは、それぞれの共通する習い事や生活範囲に留まった、いわばアメーバ状にいくつものコミュニティに広く浅く関わるという状態です。
そんな中でかつて地域社会が担っていた機能と、現在教育現場が負担の増加によって裁ききれていない教務指導の機能の両方を同時に分担できる可能性を秘めているのが学習塾だと思うのです。
単なる受験指導ではなく、家庭の子育ての現場と学校の教育現場が担いきれない役割を一緒に背負ってくれる塾。
こういうニーズを鑑みれば少子化が進行いしているとはえ、塾は多きなポテンシャルを秘めているように思うのです。
っと、一回で書ききるつもりが、自分の問題意識を書くだけで2000字を軽く超えてしまいました(笑)
もっとマクロな社会に関する考察は後日まとめたいと思います。
一言でロジカルと言っても、色々なタイプがあるのではないかというお話
僕はいつも、「キライな食べ物は身体に悪いから絶対に口にしない」と言い続けています。
最初にこれを言い始めたのは中学生のとき。
祖母から「身体にいいから食べなさい」と言われ、とっさに身体にいいとは「誰の身体を指して言っているのと言い返したのがきっかけだったと思います。
僕がその時に立てた説明はこう。
「ばあちゃんのいう『身体にいい』の『身体』が何を指しているのか分からない。確かに世間一般でいう『カラダ』にはいいのかもしれないけれど、僕はそれを食べようとすると吐き気をもよおす。ということは少なくとも僕の『身体』は拒絶反応を起こしていて、僕の『身体』にはいいはずがない。全てに例外を認めないのならそれでいいけれど、そんなことないでしょ?だから少なくとも『僕の身体』にはいいはずがない」
今思えば全くもってクソ生意気な屁理屈だと思うのですが、それなりに筋は通っていたように思います(笑)
これに対して納得できる返答をしてもらえなかったので、僕はそれ以来キライなものは食べていません。
最近、「ロジカル」ついてあれこれ考えています。
その中でいくつか仮説ができたので、備忘録としてまとめておきたいと思います。
1つは論理的であることと理屈的であることは違うのではないかというお話。
何かに対して理由をつけて話す人を見ると、僕たちはしばしば「論理的である」という判断を下しますが、実はその多くは「論理的」という表現は適していないのではないかと思うのです。
僕の定義では、論理的というのは「客観的事実に基づき、誰にでも納得できる説明を添えること」です。
何かに対して理由をつけるという行為は、必ずしも「論理的」であるとはいえません。
例えば、僕が冒頭に書いた「キライな物は身体に悪い」という説明。
これは、「キライな食べ物は身体に悪い」という結論を述べるためにしっかりと理由をつけています。
しかし、恐らく殆どの人が納得はしてくれませんよね。
(実際にこれを言ったら祖母はブチ切れていました..)
僕が先に挙げた話の様に、それなりに筋の通っていても、周りを納得させられない説明というものが存在すると思うのです。
僕はこれを踏まえて、左脳で考える人のことを①論理的な人と②理屈的な人にわけるようにしています。
(因みに左脳タイプが2種類に分かれるということは右脳タイプの人も2種類に分かれるのではないかと考えて、それぞれ感覚的な人と感情的な人という分類を考えたのですが、これを書くと大幅に内容がズレてしまうので、割愛します。)
論理的な人は、何かを説明する際に客観的事実を持ってきて、誰もが納得できる説明を行います。
それに対して、理屈的な人は何かを説明するとき、ちょうどいい説明を引っ張り出してきて、話の筋が通るように組み立てる。
そこに「誰もが納得しうるか」という視点はありません。
別にどちらがいいとか悪いとかの話ではありませんが、明らかに論理的な人と理屈的な人は違うと思うのです。
もう1つ僕がロジカルについて考えていることは、どのレイヤーでロジカルであるかということです。
僕はロジカルとエモーショナルという分類をよく使うのですが、それに加えて、「どの段階でロジカルorエモーショナルなのか」というのが重要であると考えています。
具体的には判断のレイヤーと行動のレイヤーです。
ここに注目すると人のタイプは次の4つに分類することができます。
①ロジカルに判断して、ロジカルに行動する人
②ロジカルに判断して、エモーショナルに行動する人
③エモーショナルに判断して、ロジカルに行動する人
④エモーショナルに判断して、エモーショナルに行動する人
僕の中でそれぞれに該当する人を挙げるとすれば、①に該当するのは西村博之さんやメタップスの佐藤さん。
②は永江一石さんやちきりんさん、キングコングの西野さんあたりだと思います。
④で活躍している人だと橋下さんや小林よしのりさんあたりがここに該当するように思います。
こう見ると①は研究者気質②はマーケッター、③は天才、経営者タイプで④が政治家・アーティストといった毛色が強いのかもしれません。
これも1つ目の論理的か理屈的かの分類同様にどちらがいい悪いのお話ではありません。
単なるタイプ分けの話。
ロジカルという言葉を聞くと、僕たちはある程度決まったイメージを持ってしまいがちですが、実際にはかなりいろいろなタイプがいるような気がします。
ここ数日コンテンツを意識して書きすぎたので、今日は頭で考えているアイデアのお話。
アイキャッチは日本で1番ロジカルに攻めるおばちゃん、勝間さんのこの本!
(本を検索したら「ロジカル家事」っていうのが出てきた 笑)
日本酒好きの僕が何周年記念に差し入れしたい、名前に数字がついたお酒を本気で集めてみた
僕はお土産を持って行く際、何かと掛かっているものを好んで選びます。
特に、結婚◯周年とか、お店がオープンして◯年目みたいなときは、その数字に合わせた数字が入っているものを見つけて来るのが好きだったりします。
僕自身が日本酒好きということもあり、ここ最近はもっぱら数字が名前に含まれる日本酒を持って行くのにはまっています。
もちろん単に数字が入っていればいいというのではなく、美味しいお酒であるということが前提。
酒飲みとして、ここは譲れません(笑)
数字だけに注目した記事は検索したら出てきますが、あくまでうまい酒ベースで書かれているものがなかったので、1〜9の数字を持つ上に僕が美味しいと思うお酒をまとめてみました。
1周年目・・・「仙禽一聲」
栃木の仙禽酒造さんのお酒です。
仙禽とは神に使える鶴のことで、「仙禽一聲」は鶴の一声を表します。
飲んだ人に有無を言わさず美味しいと思わせてくれるようなお酒です。
一周年、かつ鶴をモチーフにしたラベルということで、縁起もよくオススメです。
2周年目・・・「黒龍二左衛門」
「2」の名前を持つといえば僕の中では黒龍酒造さんの二左衛門しかありません。
ただ、とんでもなく高いので、実際に人に渡したことはありません(涙)
(もっといえば飲んだことも・・・)
ただ、他の黒龍酒造さんのお酒は結構飲んでおり(内の常備酒の1つが黒龍の純米吟醸)、それらがいずれも美味しい印象なので、「2」といえばこれしか思いつきませんでした。
お金に余裕がある人は是非。
あと、誰か僕に飲ませて下さい(笑)
3周年目・・・「三井の寿」
「3」の数字で僕がオススメしたいのは、大正時代から続く福岡の酒蔵さん、三井の寿酒造さんです。
「三」に「寿」なんて、とっても祝いに適しています。
ここのお酒はとにかく飲みやすく、獺祭が好きという人にオススメです。
今回は数字をテーマにまとめたので載せていませんが、ここのお酒はとにかくラベルがおしゃれ!
ポルチーニや冬季限定の活性にごり酒のNeveもオススメです。
4周年目・・・「笑四季」
数字のついたお酒を探していて1番困ったのが「4」でした。
もともと数字のもつイメージが良くないためか、ほとんど見当たりません。
そんな中で唯一、味は文句なしで、その上「四」の文字を冠しているのが滋賀県のお酒「笑四季」でした。
笑四季酒造さんはワインのボトルのようなデザインが特徴。
また、ボトルデザインだけでなく、かなり尖ったお酒を毎年作っているので、むちゃくちゃ楽しめるお酒です。
ラベルに大きく「4」がないのが残念。
でも、「笑顔で4回目の季節を迎えられました」みたいなとらえたら、素敵じゃないですか?
5周年目・・・「Z five」
5本目は、獺祭、東洋美人、雁木を始め有名な日本酒蔵を数多く抱える山口県の酒井酒造さんから「Z five」です。
本当は「五橋」というお酒がここの看板なのですが、そのビジュアルと手に入りづらさから祝いにはこちらが向いていると思い、「Z ファイブ」シリーズにしました。
6周年目・・・「新政No.6」
僕の中では「6」といえば秋田県の新政酒造さんの新政No.6しかありません。
新政酒造の特徴は、何と言っても東大卒の経営者が率いていること。
江戸時代の酵母を再現しようといった取り組みをはじめ、様々な実験をしている面白い酒造です。
その中で不動の美味しさを誇るのが、この新政No.6!
僕の中では一口飲んで獺祭を超えました(笑)
7周年目・・・「七本槍」
(http://www.oumi-jizake.com/7hon/7honyari-s.htmさんより引用)
7周年目は七本槍です。
実は僕、これを書くにあたって、①あくまで自分が飲んで美味しかったと自信をもって勧められることと、②数字を冠していることの他に、酒蔵が全国に散らばっていることを意識して選んでいました。
で、改めてこれを書くにあたって七本槍を調べるまで、ずっと冨田酒造さんのことを京都の酒蔵さんかと思っていたんですね。
そのため、七本槍と笑四季だけは土地が被ってしまいました。
だからこちらを違うものに差し替えようとも思ったのですが、やっぱり美味しさを考えると外さないと思ったので、7本目はこのお酒になりました。
ノーベル賞晩餐会にも出されたお酒のブランドです!
8周年目・・・「八海山」
これは言わずと知れた有名な日本酒なので説明もいらないくらいかもしれません。
新潟県の酒蔵、八海常蔵さんのお酒です。
「八つの海と山を超えた」みたいな印象があり、とても縁起がいいと思ったので、数多くある「八」と名のつくお酒の中から、こちらを選びました。
9周年目・・・「醸し人九平次」
最後の9周年目を飾るのは、愛知県の酒造、萬乗醸造さんの醸し人九平次です。
15代目の蔵元である九平次さんの自信作。
始めて飲んだ時、新政No.6に負けないくらいの衝撃を受けました。
味はもちろんのこと、箱も綺麗なので喜ばれること間違えなしです!
というわけで酒好きの僕が実際に飲んで記憶に残っているものの中から、1〜9の名を冠した日本酒を並べてみました。
実際に飲んだ上でのラインナップなので、ネイバーまとめみたいな調べて貼り付けしただけの情報よりは密度の濃いものになったのではないかなと思います(笑)
よかったらお土産に迷った際にご活用ください。
関連エントリです。よかったらこちらもお願いします!
「モテる日本酒」の選び方〜獺祭から入った女性にもウケる日本酒をまとめてみた〜 - 新・薄口コラム
消えていく下人は何を表しているのか?羅生門で芥川が言いたかったことを考察する
ドストエフスキーの罪と罰に森鴎外の高瀬舟、そして芥川龍之介の羅生門は僕の中で三大「罪とは何かを考える」作品です。
貧しさの中自殺しようとした弟を仕方なく殺めてしまった喜助に、選民思想から強欲な金貸しの老婆を殺してしまった貧乏学生のラスコーニコフ。
これに並んで、自らの命のために老婆から服を剥ぎ取った下人は、それぞれテーマは全く違いますが、「罪」を考える上で非常に有効であるように思います。
僕は羅生門について説明するとき、いつも「ウシジマくん」という漫画を思い出します。
ウシジマくんの主人公は10日で5割という法外な利率で貸し付ける金貸しで、毎回様々なテーマでお金を借りなければならなくなってしまった人たち、借金の返済のために堕ちていく人たちが描かれます。
僕は羅生門を読むたびに、初めは死人から物を奪おうとしていた老婆を弾糾しようとしていたのに、その老婆から「わたしも生きるために必死なのだ」という話を聞いてついには老婆から服を剥ぎ取ることになる下人の姿が、ちょうどウシジマくんに登場する、その日を生きるために必死な最底辺を生きる人たちに重なるのです。
世の中が不況になり勤め先から暇を言い渡された下人は、ボロくなった羅生門で死体の髪をむしる老婆に出会います。
死人から物を奪う老婆に侮蔑の目を向けながら「何をしているのか」と問うと、老婆は自分が生きるために死体から金になりそうなものを盗っているのだと答えます。
下人は初め、罪を犯すくらいなら餓死した方がマシだと考えているのですが、老婆の話を聞くうちに、少しずつ態度が変わってきます。
老婆は、「自分が生きるためには仕方がない」「今私が髪をむしっている女だって悪事を働いていたのだから、自分にこのくらいのことをされても仕方がないはずだ」と、自分が死体からものを奪う行為の正当性を主張します。
老婆のこうした話を聞くうちに、「盗みをするくらいなら潔く死を選ぶ」と考えていた下人には、「生きるためなら悪事も仕方がない」という気持ちが芽生えます。
そして、最後に下人は「おれも生きるために仕方がないのだ」と、老婆が述べた理屈をそのまま返し、老婆から服を剥ぎ取って街の中に消えていく。
僕はこの、「罪を犯すくらいなら潔い死を選ぶ」という態度であった下人が、老婆と出会うことで「自分が生きるために他者から物を奪うのもやむを得ない」と考えるようになる変化が非常にうまいなと思っています。
「罪を犯すくらいなら潔く死ぬ」というのは、僕たちのような、本当の貧しさを味わったことのない人のロジックなんですよね。
いわば、ウシジマくんと全く縁のない人たち。
下人はそれまでは人に仕えてしっかりと報酬を貰っていた人間でした。
明らかに「ウシジマくん」的な世界の外にいる人間です。
それに対して、羅生門の2階で出会う老婆は、まさにウシジマくんに出てくるような今日を生きるのに必死な人たち。
老婆は「人間として」なんていう綺麗事をいう前に、何でもしなければ今日も生き延びられないというような生活を送っています。
人間としての潔白さなんかのよりも今日を生きるためには何でもしなければならないという理屈の世界で生きる人間に、下人はここで初めて出会います。
そして、老婆とのやりとりを通して、自分もこらからはそちらの世界で生きていかねばならないことを悟り、その決心をする。
僕は羅生門に描かれるストーリーはこうした場面ではないかと解釈しています。
下人がそれまで生きてきた世界と、老婆が当たり前のように生きている世界はまるで違う理屈で回っています。
通常、この全く違う理屈で回っている世界は交わることはないのだけれど、世の中が不安定になったせいで、下人は仕事を失い、それまでは無縁であった、それどころか軽蔑していた老婆が生きるような世界と接し、自分がそちらの世界で生きていかねばならないことを受け入れる。
下人の行動と一連の心境の変化を通して、こうした世界が描かれているように思います。
だからこそ、僕は羅生門の副読本としてウシジマくんを勧めています。
あれを読むことで、老婆が生きる、そしてこれから下人が生きていくことになる世界がどういう論理で回っているのかがより身体感覚を持ってわかると思うのです。
「下人の行方は、誰も知らない。」
これはちょうど、下人が僕たちの知らないような、ウシジマくん的な「あちら側の世界」に行ってしまったことを示しているように思うのです。
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高校生を悩ます『水の東西』はスーパーマリオを思い出すと理解が100倍早くなる!?
<「鹿おどし」が気だるさを感じさせる>という、何とも印象的な文句から始まる山崎正和さんの『水の東西』という文章。
多くの高校で1番初めの国語の授業で扱われます。
毎年テスト前になると生徒さんから「結局何が言いたいの?」とよく聞かれるので(笑)、僕なりの『水の東西』の楽しみ方をまとめてみたいと思います。
この文章を何よりも端的にまとめたものが見たいのであれば、2007年のセンター本試験で出題された、『日本の庭について』という文章の冒頭をみて欲しいと思います。
確か<日本の庭は時間とともに変化し、変化することが生命なのだ>みたいに書かれていました。
初めて見たとき、「山崎さんが30文字で片付けられている!」と笑いそうになりました。
『水の東西』の中に書かれる日本の庭について聞かれたら、とりあえずこの文章を言っておけば「コイツは分かってる」と思われるように思います(笑)
とはいえ、端的にまとまったものを丸パクリするだけでは全く理解したことにならないので、もう少し噛み砕いてみようと思います。
『水の東西』では、「同じ「庭」なのに日本と西欧の物って全く違うよね」、というところから、日本人と西欧人の感覚の違いが書かれています。
その代表が日本の「鹿おどし」と西欧の「噴水」です。
いろいろな子から話を聞いていると、鹿おどしに関して緊張の緩和が云々という説明が出てきた辺りから苦手意識を持ってしまう人がいるように感じるのですが、あれは動画と写真の違いで考えて貰うと理解がしやすいと思います。
鹿おどしは、動画で見ると動きがあるんですよね。
一方で西欧の噴水は何時間動画で見ていても同じ放物線を描いて水が吹き出しているだけ。
鹿おどしは時間が流れる中で変化を楽しむもので、写真で切り取ってしまえばあんな竹筒面白くもなんともありません。
一方で、西欧の噴水はいつ、どの習慣にみても同じ美しさがあるため、写真で見たときのような綺麗さがある。
一方で、時間とともに変化するわけではないので、動画でみても面白くありません。
ブリュッセルの小便小僧が動画で見たときに動きがあったら、それはもうホラーです。
写真のように永遠不変の美しさがそこにあるのが西欧の噴水、動画のように時間の流れのなかで初めて良さを感じるのが日本の鹿おどし。
こんな特徴を抑えておくと、『水の東西』は読みやすくなるように思います。
『水の東西』では時間の変化が盛り込まれた日本式の庭と、永遠不変の美しさを追求した西欧の庭が並べられていますが、「庭」について語られるときにもう1つのよくある比較に、日本の回遊式庭園と、西欧の風景式庭園という比較があります。
(確か2005年の京都の公立高校の入試問題がこんな題材だったと思うので、興味のある方はググっていただけたらと思います。)
日本の庭は動きながら順番に景色を楽しむものであるのに対し、西欧の庭は正面からみて楽しむものであるみたいな違いです。
こうした特徴を、チームラボの猪子寿之さんが以前、日本の庭は水平方向の移動に強く、西欧の庭は垂直方向の移動に強いという表現で語っていました。
確かに日本の庭は、(猪子さんはこの言い方を嫌いますが)レイヤー構造になっていて、正面からの視線にめっぽう強いので、鑑賞者が横に動いて楽しむ作りになっています。
龍安寺の石庭の、移動しても絶対に全ての石が見えないみたいな仕組みはまさにこの典型です。
それに対して、パースペクティブに作られた西欧式の庭は、横方向の動きにめっぽう弱い反対に、実際に真ん中から庭の中に入っていって鑑賞することができます。
いろいろな「庭論」をみたことがあるのですが、僕は猪子さんのこの説明が1番しっくりきました。
猪子さんの西欧と日本の庭の比較の話は、ここからスーパーマリオの特徴へと繋がります(笑)
僕たちは赤いオーバーオールのオッさんが横スクロールで動くのを当たり前のように楽しんでいますが、あれを初めてみた西欧の人にとっては、平面的な風景の画面を主人公が横に動くのは非常に衝撃的な作りであったそうです。
確かに言われて見れば欧米のゲームはシューティングゲームでもレーシングゲームでも、画面=プレイヤーの視点となり、そこから奥に向かっていくものがおおいように思います。
猪子さんはこれを水平方向の視線移動を計算して作られた日本の回遊式庭園と、垂直方向の視線移動に強い西欧の風景式庭園の違いと重ねて説明していました。
曰く、「水平方向の視線移動が極めて多い京都という土地に根ざした任天堂という会社が、横スクロールのゲームを生み出したのは当然のことである」とのこと。
(例によって詳しい言い回しは忘れましたが...)
『水の東西』を説明するつもりで話がグッとそれてしまいましたが、日本と西欧の庭を比較すると案外違うところが多く、それを追いかけていくとスーパーマリオにまでたどり着く。
そんな風にゆるーく『水の東西』という文章を捉えてもらえたら幸いです。
テスト勉強のために検索をかけてこのエントリにたどり着いたという人がいたら、全く役に立たないと思います(すみません...)
アイキャッチはよくわからないけれど猪子さんで検索したら出てきたインパクトのあるこの表紙(笑)
芸術こそ学問が不可欠ではないかというお話
ここ最近藤原和博さんの話術、というか会場の人たちを巻き込む話し方を真似したく、四六時中彼の公演動画を見ています。
(そのせいで、先週やったNPOのイベントの司会がやたら「先生」っぽくなってしまった 笑)
そんなわけで片っ端から彼の公演動画を漁っているわけですが、そんな風にしている中で1つ気になる動画に出会いました。
それは、藤原さんとのトークセッションの中で下村元文部科学大臣が新しい学習指導要領の話を東京芸術大学の学長としたということで話したエピソードです。
下村さんは、確かに基礎学力は大切だけれども、芸術分野には学力では測れないものがあるのではないのか?というような話をしたとのこと。
基本的に僕は下村さんは好きですし、これは決して批判ではないと断りを加えておきたいのですが、その上で下村さんのこの発言を見て、多分この人は芸術畑の人ではないのだなあと感じました。
というのも(これはあくまで僕だけの見方なのかもしれませんが)芸術は極めて「学問的」だと思うからです。
たとえば、あらゆる絵画をみていると、しっかりと人間の骨格を「解剖学」的に見ていることがわかります。
実際にレオナルドダヴィンチは絵を描くために解剖学を学んでいるほど。
ピカソをはじめ、相当崩している人たちでさえも、正確な認識をした上で自分の解釈を加えています。
武道でいうところの守破離の世界です。
音楽の世界でも同じです。
バッハの平均律はもちろんのこと、一流のアーティストの人たちは「音」を極めて学問的に捉えています。
たとえば、指揮者やピアニストなインタビューをみると、度々「倍音」という言葉を見かけますが、これは物理の「波」のお話です。
あるいは、ロックミュージシャンの志磨遼平さんはロックについて、その歴史的に辿るとともに、そのリズムの乗せ方について、極めてロジカルに説明していました。
もちろん直感的なインスピレーションこそ芸術であるという人や、ウォーホルのそれまでにない価値観の提示こそが芸術であるという考えもあると思いますが、それだって緻密な解釈の上に存在するものであり、背景には、極めて豊富な知識や学問が潜んでいるように思うのです。
もちろん、芸術家の人には学校で習うような広く浅い知識なんて必要ないかもしれません(そしておそらく下村さんはここを以って先の発言をしたのだと思います)。
ただし、それは全くもって学問的な知識がいらないというわけではなく、寧ろ単元によっては普通の受験をする人よりも遥かに知識をもっていなければならないかもしれません。
芸術という言葉を聞くと、どうしても感性や直感の産物であるように聞こえてしまいがちですが、実際は極めて論理的。
新しい美の価値観を提示するためには、それまでの作品の意味を正しく理解しておく必要があり、そのためには勉強が不可欠です。
だから、芸術に勉強は必要ないみたいな言葉をみると、本当に?と思ってしまうわけです。
むしろ、芸術こそ勉強かなあと。
スポーツとは違って、あまり語られない芸術分野ですが、むしろ勉強と非常に親和性が高いのが芸術であるような気がします。
子どもたちの発想力や論理力、空間能力の低下を「大人の責任」として考える
スマホが普及した社会における子どもの教育で、僕は読書と物づくりが大切になるとおもっています。
生徒さんの話や、子育てをしている方の話を聞いていると、やはり子どもたちの生活のかなりの部分にスマホが入り込んでいるのだなあと実感します。
別に僕はスマホが子どもたちの生活に浸透していくことは全く反対ではありません。
新しいテクノロジーに触れることで、僕たちの世代なんかと比べ物にならないほど新しい世界に触れる可能性が増えたことは事実ですし、そもそも子どもたちが「おもちゃ」としてのスマホをどう使うかは本人の自由だと思っているから。
ただ、スマホの性質とその普及率からして、小さいころから「こうやって過ごしていたら有利になるよね」という意見はあって、あくまでもスマホが普及した社会における差別化戦略として考えているのが「読書」と「物づくり」です。
僕はスマホが子どもたちの生活に浸透したことにおける最大の変化は、活字と空間認識の衰退があると思っています。
これらはしばしば「スマホに奪われた」と言われることがありますが、僕はその言い方ではあまりしっくりこないような気がします。
「奪われた」というよりは「必要がなくなった」というイメージ。
スマホの画面の中にもっと面白いものがあるから、わざわざ文字を読んで世界を想像する必要もなければ、スマホがいくらでも面白いゲームを提供してくれるから、わざわざブロックのようなもので遊ぶ魅力を子供たちは感じなくなったと思っています。
一方で頭の柔軟性や発想力を鍛えるためには、こうした訓練が非常に重要です。
昔の子どもたちが当たり前のように身に付けていた能力が今は「必要性」がないために小さい子供たちはよほど意識しなければ身につけられない。
これが今の子どもたちが置かれた現状であるように思います。
僕は想像力や空間認識能力を身につけるうえで重要な娯楽が、読書と物づくりであると考えています。
読書をすることで文字情報を読んでそこから世界観を頭の中に想像する力を鍛えることができます。
あるいはレゴブロックで遊んだり、外で走り回ったりすることで立体的に物事を捉える力を鍛えることができます。
これらはスマホの中の映像やゲームアプリでは絶対に身につかない能力です。
昔の子供たちは遊びの中で当たり前のように身に付けてきたこれらの力が、今の子どもたちの遊びの中では身につきません。
一方で、こうした力は今まで以上に社会に求められるようになってくる。
だからこそ、これらの能力を幼いころから身に付けておけば、それだけで希少性の高い人材になり得ると思うのです。
では、公教育の中でこれらの力を育めばいいのかといえば、僕はそういうわけではないと思っています。
というか、そんなことは不可能というのが僕の考え。
これまでの子供たちは、遊びの中にこうした能力を養う機会が内在されていました。
だから、彼らは自然とそれらを身に付けてきたのです。
別に努力したわけでもなんでもない。
そんな風に身に付けてきた能力を、たとえ今は意識しなければ身につかないからといって強制させたところで、絶対身につくはずはないと思うのです。
だから僕はこれらの力を必須のものではなく、差別化要因として捉えています。
気付いた子どもたちだけが、あるいはこの子は可能性があると僕が感じる子どもたちだけが先を見据えてこれらの能力を身につければいいというのが僕の正直な考えです。
厳密には僕の生徒だけがこうした能力を身に付けて優位に戦って欲しいという感じ(笑)
想像力を身につけるような遊びも空間認識能力を身につける遊びも、スマホを持った子どもたちが必要性を感じていないのであれば、どうしたらよいのか。
これに対して僕は、周りにいる大人がいかにスマホよりも面白くて、かつ想像力や空間認識能力を身につけられる遊びを教えられるかがポイントだと考えています。
今の子どもたちにとって、自分で見つけてくるそれらの能力を要する遊びが、スマホの中にある映像やゲームよりも面白いから、スマホに向かうわけです。
で、あるならば、近くにいる大人がスマホよりも面白い遊びを教えてあげればいい。
そんな「遊び力」のある大人が身近にいることが、子どもたちに想像力や空間認識能力を身につけさせてあげる最良の方法であると考えています。
そうなるとここからは僕たち大人の問題です。
たとえば、今子育てや教育に関わっている大人のなかで、どれだけの人が子どもたちにスマホよりもワクワクする「遊び」を提示することができるでしょうか?
残念ながら、大半の人が想像する子どもに教えてあげる「遊び」はスマホに遠く及ばないように思います。
僕たち大人があまりにも遊びを知らなすぎる。
たとえば、目の前で鉄クズのカタマリから自在にロボットを作るようなおっちゃんがいたり、目の前に何気なく置いてあるピアノで超一流のジャズからクラッシックの演奏をしてくれる姉ちゃんがいたり、一緒にイベントを立ち上げて人を巻き込んでいくような兄ちゃんがいたら、おそらく子どもたちは自分もやってみたいと思うはずです。
そしてその時の欲求は、スマホのディスプレイに映る娯楽から得られるワクワクをはるかに超えたものであるはず。
それが手品でも、一流のトークでも、大工の棟梁の家作りでさえもいいと思います。
とにかく大人が自分たちも熱中するような遊びをして、それに子どもを巻き込んであげる。
そういった能力を持つ大人こそが、子どもの想像力や空間認識能力を育てるのだと思います。
「どうやったら子どもが自主的になるか」とか、「どうやったら子どもに能力をつけられるか」とか、教育の場面ではしばしば主語を「子ども」にして語られがちですが、僕はこれが非常に無責任であるように感じています。
「子どもがどう」ではなくて、自分たちがどれだけ子どもたちにワクワクする世界を見せてあげられるか。
ここが一番重要であるように思います。
「あの人の周りには絶えず面白いことが溢れている」
そんな風に思われる大人の存在こそが、子どもたちの想像力や空間認識能力には不可欠であるように思います。
アイキャッチは 僕の中で「楽しむ大人」ランキングでかなり上位に食い込む西野さんのこの一冊!