新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



英文法を解説する連載エントリ「まだ文法で消耗してるの?」を作りました

僕はこのブログに関して、特にマーケティングSEOを意識することなく、ゆるーーく、更新を続けています。

技術に頼らず自分の語感と発想だけでどこまで通用するか試したく、こんなスタイルをとってきました。

だから関連記事のレコメンドや、カテゴリ分けが殆どありません(笑)

そんなほったらかしの状態でも、ありがたいことに3万5千PVくらいは月間でアクセスを稼げています。

ただ、最近になって少しだけアクセスを増やしたいなと思うようになり、コンセプトやテーマ選、タイトルの見直しなど、ちょこちょこと手直しをしています。

そんな中で一つ、昔書いていたエントリの中に面白いコンテンツになるのではと思えるものがありました。

それが「覚えない英文法」シリーズです。

 

3年前、本格的に塾講師として仕事をするにあたり個別指導で英語を教えるために一旦知識を整理しようと書いていたこのエントリ群。

(今振り返って読んでみると的外れな解釈をしているものもあったりなかったり、、、)

途中でいろいろ忙しくなって、結局半分にも行かない段階で放置していたのですが、案外面白いコンテンツになるんじゃないかなと思い、今回新たに名前も変えて続きを書いてみることにしました。

その名も「まだ文法で消耗してるの?」シリーズ(笑)

…完全にイケハヤさんのパクリです。

因みにそもそものコンセプトが、それぞれの文法知識を自分なりに解釈してみようというものなので、一般論とは違う説明や、時には間違えた説明も入っています(特に3年前に書き始めたところは多いかも知れません)。

あくまで「僕の解釈」を勝手に書いているものなので、その点は承知していただいた上でチラシの裏の落書き程度に気楽に読んでいただければと思います。

「アイツ間違ってやがる」みたいな突っ込みはご遠慮下さい(笑)

 

とりあえず、数本載せておきます(随時更新予定!)

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制①動詞の活用は2つだけしかない! - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制②現在形を「今のこと」って考えるからわからなくなる - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制③過去形は「昔のこと」じゃない - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制④完了形を「~してしまった」なんて覚えるからややこしい - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制④完了形を「~してしまった」なんて覚えるからややこしい - 新・薄口コラム

2015年東京大学一般前期~「夜の寝覚」現代語訳

個人的に好きな、15年の東大で出題された「夜の目覚」の全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

※因みに過去問は東進の大学入試問題過去問データベース から入手可能です

 

姨捨山の月は夜が更けるほどに澄んでいくのだが、今見ている月もそれほどにめったにないものであると思いながら、女君は月をみて物思いにふけっていた。

 

(和歌)それまでとは自分を取り巻く境遇が変わってしまったこのつらい世の中に住む私ですが、見上げた空に浮かぶ月の光だけは当時のままなのですね。

 

しばらくは手も触れなくなっていた筝の琴を手元に引き寄せてかき鳴らしていたら、その場の雰囲気も相まって、松に吹く風の音につられるように、しみじみと思いつつ、ことを弾いて胃いた。

どうせ聞いている人もいないだろうと安心して思いつくままに弾いていると、仏の御前にいた入道殿はその音を耳にして、「本当に趣深く、言葉で形容しきれない音色だなあ」とその美しさに聞き入っていた。

あまりの素晴らしさに、入道殿は仏道修行を切り上げて、女君のもとへとやってきた。

女君が、入道のやって来たことに気付き演奏をやめると、「演奏をやめないで下さい。念仏を唱えていたときに聞こえてきた貴方の琴の音色がまるで『極楽の迎えが近いのだろうか』と思うほどに素晴らしく、心がときめかずにはおれず、あなたの部屋を訪ねてきたのです。」と入道は言って、居合わせた少将に和琴を弾かせ、また自身も一緒に琴を弾きながら遊んでいるうちに、気がつけば夜も明けていた。

女君はこのようにして心を慰めながら、一日一日を暮らしていた。

 

(和歌)つらいけれど気にせずにはいられないなあ。あなたの住む山里の時雨の音はどのようかと気になってしまうのです。

いつも以上に雨脚の酷い朝方に、大納言から歌が届いた。

 

雪が降り続く日に、思い出のないふるさとの空までも、雪で閉ざされているのではないかという気持ちになって、さすがに心細く感じ、部屋の端近くに移動して、派手な服装よりもかえって趣深い白い着物を懐かしげに着て、物思いにふけってその日を過ごしていた。

昨年、このように雪が多く降ったときに、大納言と屋敷の端で雪山を作ったことなどを思い出して、いつも以上に落ちる涙を可愛らしく拭い取って

「(和歌)あなた(女君の姉)は思い出すことはないでしょうけれど、私はこの嵐山で暮らすのが心寂しく、降る雪をみて、私のふるさとの景色はどのようだろうと、恋しく思っているのです。

恐らくあなたは私のことを、このようには思っていないのでしょうけれど…」と姉のことを思い出さずにはいられない女君の姿を、対の君は胸をつまらせながら眺めていた。

「苦しく感じながらも今までいろいろと考えていたのですね。さあ御前にいきましょう。」

と、そ知らぬ態度で女君の部屋入っていき、彼女を慰めた。

 

 

 アイキャッチは東大の赤本

東京大学(理科-前期日程) (2015年版 大学入試シリーズ)

東京大学(理科-前期日程) (2015年版 大学入試シリーズ)

 

就活が解禁になったから塾で働く人間が新卒で塾業界を受けるという体でガチの志望動機を書いてみた③

またまた続きになってしまっていたので「今塾業界を志望するならどんなことを言うのか」の続きを書いてみました。

 

21世紀に入り、ものすごい勢いでテクノロジーが発達してきました。

特に教育業界に関しては、ITの技術と人工知能が大きな影響を及ぼすだろうと考えています。

現在、成績管理に補助教材、映像授業や苦手単元を集めたプリントをピンポイントでつくることができるシステムなど、教育のさまざまな場面にIT技術が組み込まれるようになってきました。

これらにより、各生徒に最適化した学びを提供することが可能になり、かつてとは比較にならないほどに効率的な勉強をする事が可能になりつつあります。

また、昨今は人口知能の話題も頻繁に耳にします。

機械が自動的に学習し、最適解を出せるようになれば、現在当たり前のように行われている授業の内容それ自体がいらなくなるのではないかという意見も耳にするほどです。

確かにこのままの速度で技術レベルが進化していけば、まる暗記や反復演習といった、それまでの塾が得意分野としていた「詰め込み型」の学習はいらなくなるかもしれません。

しかし僕は、こうした流れの一方で新たなニーズが生まれてくるのではないかと考えています。

 

IT技術や人工知能が今後広がっていく社会において、最も必要なものはモチベーションであると考えます。

行いたい事がテクノロジーによって何でも実現できる社会において重要な力は、新しいことをしてみたいと思うことができるモチベーションです。

このモチベーションの有無が、今後の社会で必要とされる人材の判断材料になると思うのです。

筑波大の助教授で、現代の魔術師の異名をもつ落合陽一先生は、このことを「モチベーション格差」と呼んでいます。

計算や語学など、あらゆる事が技術で即時に代替されるとしたら、それらのスキルを習得するための努力は価値を持たなくなります。

そうした社会で重要なのは、新たなことに手を出したいと考える姿勢です。

僕は、教育は今後この新たなことに挑戦するモチベーションをいかに身につけるかという方向にシフトしていくと考えています。

 

自身の経験を通して、モチベーションの必要性を非常に強く感じでいます。

7年近く教育に携わってきた僕のモチベーションに対する見解は、「モチベーションの多くが環境に由来する」というものです。

勉強に関わらず、何かに対してモチベーションを持って取り組める子は、どこかのタイミングで、必ず周囲の大人や友人から「努力を褒められた経験」や「何かを認められた経験」をしています。

一方で、モチベーションが低い子の話を聞いていると、そうした経験を殆どしてこなかったという声が返ってくることも少なくありません。

モチベーションを高めてあげるような環境を整えてあげることが、教育にとって最も重要なことであるように思います。

IT技術や人口知能では、動き出した人間の作業を効率化することはできても、最初の背中を押す役割は担えません。

その点は、昔も今もこれからも、周囲の大人の役割であると思うのです。

僕はそうした役割を担う大人として、子どもたちと教育の場で関わっていきたいと考えています。

子どもたちにさまざまな物事に興味を持ってもらうためには、自分自身が多くの経験をしていることが不可欠です。

そのため、僕は塾の他に、NPOで広報を担当したり、フリーランスとしてライターの仕事を受注したり、さまざまな働き方を実践しています。

仕事以外にさまざまな「遊び」をしているのも、突き詰めればここに集約されます。

僕の中で、社会の抱える教育の問題の解消を担いつつ、かつ子どもたちにこれから最も必要となるであろう能力を提示できる存在は何かとかんがえたとき、僕にとってはそれが塾講師なのです。

 

 

っと長々と書いて見ましたが、僕が新卒として今、塾業界を受けるのであれば、ここに書いたような内容を土台にして、800文字程度の自己PRに整えると思います。

後半の自分のことを書くのは飽きてきたので尻切れトンボになってしまいましたが、だいたいこんなことを言うような気がします。

マンガ家の山田玲司先生いうところの「マンガ家は世界の面白さを教えてくれるシンドバット」、中学国語の教科書に出てくる「ぐうちゃん」のように、子どもたちにとって価値観を広げてくれる一番身近で一番面白い兄ちゃんでいようというのは、漠然と僕が大学時代から意識していることです。

たぶん僕が今就職活動をするのなら、この辺の内容を持って、京都の個人塾でトップ校受験をウリにしていないところを受けに行くように思います。

殆ど業種的に役に立たない内容かもしれませんが、誰かの参考になれば幸いです。

 

アイキャッチは今回も藤原和博さん。今日はちょっと扇情的なタイトルのこの本

中くらいの幸せはお金で買える (単行本)

中くらいの幸せはお金で買える (単行本)

 

 

就活が解禁になったから塾で働く人間が新卒で塾業界を受けるという体でガチの志望動機を書いてみた②

志望動機を本気で考えてみると言っときながら、前のエントリではまったく志望動機に入らなかったので、今回はその続きをまとめます。

現在の学校教育について教員の年齢構成を見てみると、50代以上が35%近くを占めています。

和田中学や一条中学の校長として有名な藤原和博さん曰く、50-60代の教員が多かったため、30-40代の教員は非常に少ないそうです。

その反動で20代で採用を増やしたはいいけれど、その分競争倍率は低下していて(東京の初等教育に関しては3倍をきったこともある)いるとのこと。

競争率が低くなれば、採用される率は高くなり、確率的に優秀な人の割合は低下します(個々人の能力を言っているわけではなく、あくまで統計的な話)。

そうした状況の中、多くの小学校では、ベテランの先生は扱いの難しい1、2年生と、内容が高度になる5、6年生に割り振られ、必然的に若手の教員は3、4年生を担当することが多くなります。

一方で、学習内容を見てみると、様々な分野で抽象概念を習い始めるのは3、4年生のころ。

つまり、現状の小学校の教育では、その後の学習に影響を与える、抽象概念の入り口を若手が担わざるを得ない状況になっているといえます。

 

仮に学校で基礎の部分が定着しきれていない部分があるとしたら、それを補うことこそ、私塾の使命だと思います。

しかしながら、特に東京や京都、大阪といった、中高一貫の学校が多い地域であるほど、塾は「中学入試」を売りにしています。

そのため、こうした地域では小学生の塾=中学入試の手段という認識が多く、日常の学習の補完のために通塾させるという認識が薄いというのが現状であると考えます。

これが、僕の考える京都における小学校の学習指導の問題点です。

 

次に中学校を見てみると、違う問題点が浮き彫りになってきます。

京都市にある学校の中学入試の合計定員は約1500人。

それに対して京都市の中学校の1学年あたりの人数は約1万2千人です。

(昔調べたものを思い出しながら書いているので、細かなデータが違っていたらすみません)

もちろん中学入試に通過していることが優秀であることの証明ではないことくらい百も承知ですが、少なくとも中学入試をさせようと思う程度に教育に関心のある家庭ということは言えると思います。

それを踏まえてこの数字を見ると、地元の公立高校に進学するのは、中学入試に関心がある程度に教育熱心な家庭に育った子の15%近くが、まるまる引き抜かれた状態であると見ることもできます。

繰り返しますが、僕はこれをもって地元の公立高校に行く子の学力が低いなんて言うつもりはありません。

しかしながら、こうした数値が地元の公立中学校の子供達の勉強に対するモチベーションの高低に、少なからず影響があるのは事実だと思うのです。

仮に、そもそも勉強に対する意欲が高い層の上位15%がまるまる引き抜かれた状態であるとしたら、そこで集団生活を送る子供達の平均的なモチベーションが低いとしてもその責任を子供たちに求めることはできません。

システムの問題であれば、システムで解決すべきだと思うのです。

そのモチベーションを提供することが、塾の役割です。

 

僕は小学生、中学生と共に、厳しい競争に勝ち抜いて数人を難関校に入れるエリート教育ではなく、中間層の日々の学習に対するモチベーションを維持する教育こそが京都市の子供たちに最も必要な教育であると考えています。

それを提供することこそが、京都に構える私塾の役割だと思うのです。

 

っと、またマクロな視点を書いていたら文字数が増えすぎてしまきました。

また明日にでも、続きを書きたいと思います。。。

 

 

アイキャッチは昨日に続き、藤原和博さんの本

 

 

 

就活が解禁になったから塾で働く人間が新卒で塾業界を受けるという体でガチの志望動機を書いてみた①

この前後輩と飲んでいたら、仮に今から新卒で塾業界を受けるとして、「なぜ学校ではなく塾なのか?」という質問にどう答えるかということを聞かれて、面白かったので思考実験に僕が今塾を受けるのなら何て言うのかを考えて見ました。

 

まず個人的に考える塾の存在意義として、僕は単なる「受験予備校」としての役割以上に社会的な必要性を担っていると考えています。

現在の子育てと教育をとりまく環境を見てみると、いずれも「ワンオペ」が大きな問題になっているのではないかというのが僕の問題意識です。

子育てについて、僕はそもそも1人の子どもを育て上げるのには①両親、②祖父母、③地域の人くらいの人手がかかるものであると思っています。

昔は地域のコミュニティがしっかりしていて、また拡大家族の家庭が多かったため、「周囲のリソース>子育ての負担」でした。

しかし、現在はあらゆる方面で「個人所有」の時代になりました。

例えば、昔は一家に一台のテレビ、電話であったのが、今は1人に一つが当たり前になりました。

その反面で、今まで複数人で共有することで抑えられていたコストが、ひとりひとりが所有するわけなので、その分肥大化します。

この数十年でさまざまな分野でこの「細分化」が起きました。

子育ても同様です。

それまでは複数人の大人で1人の子どもを育てていたものが、核家族化が進み、かつ夫は残業で家に帰るのが遅くなったとすれば、母親は、それまで複数人が分担していた負担を1人で担うことになります。

僕はこれを子育てのワンオペ化と呼んでいるのですが、そもそも子育てはワンオペで機能するようにできていないと思うのです。

あらゆる分野における個人所有の流れで子育てもワンオペ化が常態化し、実質の1人の子どもを一つの家庭で育て上げる負担は大きくなっています。

これが僕の考える子育ての現状です。

 

次に教育現場について見て行きます。

結論からいえば、僕は現在の学校教育の現場は教員が処理できるキャパシティを完全に超えていると考えています。

昔は一人の教員で担え教務がなぜ今は担えなくなったその原因は、教育に流れ込んだ多様化の波と上に書いた子育てのワンオペ化が背景にあります。

良い悪いは別として、昔の教育は今と比べて画一化したものでした。

それは、現在の学校教育の制度が明治維新のときに職場に出向き働くことのできる人材を作るために生まれたという背景からも明らかです。

昔の教育は基本的に誰もが一定の水準に達することを目指してカリキュラムが作られていました(この辺は僕の私見なので意見が異なる人もいるかもしれません)。

教員にとってみれば、全員を同じ方向に向かせるというこうした教育はしやすいものであるはずです。

それが経済成長を終え、日本が成熟社会に突入すると、画一化された人材では世界に通用しないということで、ひとりひとりの個性を引き出す教育というものが叫ばれるようになりました。

これが教育現場に莫大な負担としてのしかかっているように思います。

それまでの一つの方向に引っ張っていく教育であれば、ある程度マニュアル化ができ、教務を効率化することができました。

一方で個性を伸ばすとなると、教務のマニュアル化は不可能です。

画一的に指導できないところにこそ個々人の可能性が眠っているからです。

こうしたトレンドの変化が、僕の考える教員の仕事が激増した内的要因です。

 

教育現場の仕事が増える原因は内的要因に限りません。

家庭での子育ての仕方の変化による外的要因も大きなものがあります。

上に書いたように、家庭における子育てのワンオペ化によりひとりひとりのお母さん(分かりやすくするために子育ての中心が母親にある場合を想定しています)の負担が大きくなりました。

増えた負担のうち処理しきれない部分は教育現場になだれ込みます。

その結果、箸のもち方や雑巾の絞り方みたいな、少し前までなら家庭で身に付けていた生活の知恵のようなものも学校でしつける必要がでてきました。

内部からは多様性を身につけさせるようにというプレッシャーが、外部からは子育てのワンオペ化のしわ寄せがくることで、膨大な仕事量が今の先生にはのしかかっている。

そして、低学年になるほど、それらの負担は1人の先生が担わなければならない。

これが僕の考えるもう一つの問題、教育のワンオペ化です。

 

こうした現状において必要なものは、家庭における子育ての現場と学校における教育現場で裁ききれなくなった余剰を担う存在です。

それまでは地域が担っていたものかも知れませんが、地域のコミュニティが希薄になった(特に都市部では顕著です)現在ではそれは難しいでしょう。

そもそもここまで各家庭での子育てが多様化してしまい、みんな違う習い事をしている状態では、どうしても生活全般にわたるコミュニティは形成できません。

せいぜいあるのは、それぞれの共通する習い事や生活範囲に留まった、いわばアメーバ状にいくつものコミュニティに広く浅く関わるという状態です。

そんな中でかつて地域社会が担っていた機能と、現在教育現場が負担の増加によって裁ききれていない教務指導の機能の両方を同時に分担できる可能性を秘めているのが学習塾だと思うのです。

単なる受験指導ではなく、家庭の子育ての現場と学校の教育現場が担いきれない役割を一緒に背負ってくれる塾。

こういうニーズを鑑みれば少子化が進行いしているとはえ、塾は多きなポテンシャルを秘めているように思うのです。

 

っと、一回で書ききるつもりが、自分の問題意識を書くだけで2000字を軽く超えてしまいました(笑)

もっとマクロな社会に関する考察は後日まとめたいと思います。

 

アイキャッチ藤原和博さんのこの本!

 

 

一言でロジカルと言っても、色々なタイプがあるのではないかというお話

僕はいつも、「キライな食べ物は身体に悪いから絶対に口にしない」と言い続けています。

最初にこれを言い始めたのは中学生のとき。

祖母から「身体にいいから食べなさい」と言われ、とっさに身体にいいとは「誰の身体を指して言っているのと言い返したのがきっかけだったと思います。

僕がその時に立てた説明はこう。

「ばあちゃんのいう『身体にいい』の『身体』が何を指しているのか分からない。確かに世間一般でいう『カラダ』にはいいのかもしれないけれど、僕はそれを食べようとすると吐き気をもよおす。ということは少なくとも僕の『身体』は拒絶反応を起こしていて、僕の『身体』にはいいはずがない。全てに例外を認めないのならそれでいいけれど、そんなことないでしょ?だから少なくとも『僕の身体』にはいいはずがない」

今思えば全くもってクソ生意気な屁理屈だと思うのですが、それなりに筋は通っていたように思います(笑)

これに対して納得できる返答をしてもらえなかったので、僕はそれ以来キライなものは食べていません。

 

最近、「ロジカル」ついてあれこれ考えています。

その中でいくつか仮説ができたので、備忘録としてまとめておきたいと思います。

1つは論理的であることと理屈的であることは違うのではないかというお話。

何かに対して理由をつけて話す人を見ると、僕たちはしばしば「論理的である」という判断を下しますが、実はその多くは「論理的」という表現は適していないのではないかと思うのです。

僕の定義では、論理的というのは「客観的事実に基づき、誰にでも納得できる説明を添えること」です。

何かに対して理由をつけるという行為は、必ずしも「論理的」であるとはいえません。

例えば、僕が冒頭に書いた「キライな物は身体に悪い」という説明。

これは、「キライな食べ物は身体に悪い」という結論を述べるためにしっかりと理由をつけています。

しかし、恐らく殆どの人が納得はしてくれませんよね。

(実際にこれを言ったら祖母はブチ切れていました..)

僕が先に挙げた話の様に、それなりに筋の通っていても、周りを納得させられない説明というものが存在すると思うのです。

 

僕はこれを踏まえて、左脳で考える人のことを①論理的な人と②理屈的な人にわけるようにしています。

(因みに左脳タイプが2種類に分かれるということは右脳タイプの人も2種類に分かれるのではないかと考えて、それぞれ感覚的な人と感情的な人という分類を考えたのですが、これを書くと大幅に内容がズレてしまうので、割愛します。)

論理的な人は、何かを説明する際に客観的事実を持ってきて、誰もが納得できる説明を行います。

それに対して、理屈的な人は何かを説明するとき、ちょうどいい説明を引っ張り出してきて、話の筋が通るように組み立てる。

そこに「誰もが納得しうるか」という視点はありません。

別にどちらがいいとか悪いとかの話ではありませんが、明らかに論理的な人と理屈的な人は違うと思うのです。

 

もう1つ僕がロジカルについて考えていることは、どのレイヤーでロジカルであるかということです。

僕はロジカルとエモーショナルという分類をよく使うのですが、それに加えて、「どの段階でロジカルorエモーショナルなのか」というのが重要であると考えています。

具体的には判断のレイヤーと行動のレイヤーです。

ここに注目すると人のタイプは次の4つに分類することができます。

①ロジカルに判断して、ロジカルに行動する人

②ロジカルに判断して、エモーショナルに行動する人

③エモーショナルに判断して、ロジカルに行動する人

④エモーショナルに判断して、エモーショナルに行動する人

僕の中でそれぞれに該当する人を挙げるとすれば、①に該当するのは西村博之さんやメタップスの佐藤さん。

②は永江一石さんやちきりんさん、キングコングの西野さんあたりだと思います。

③はチームラボの猪子寿之さんやカドカワの川上さん。

④で活躍している人だと橋下さんや小林よしのりさんあたりがここに該当するように思います。

こう見ると①は研究者気質②はマーケッター、③は天才、経営者タイプで④が政治家・アーティストといった毛色が強いのかもしれません。

これも1つ目の論理的か理屈的かの分類同様にどちらがいい悪いのお話ではありません。

単なるタイプ分けの話。

 

ロジカルという言葉を聞くと、僕たちはある程度決まったイメージを持ってしまいがちですが、実際にはかなりいろいろなタイプがいるような気がします。

ここ数日コンテンツを意識して書きすぎたので、今日は頭で考えているアイデアのお話。

 

アイキャッチは日本で1番ロジカルに攻めるおばちゃん、勝間さんのこの本!

(本を検索したら「ロジカル家事」っていうのが出てきた 笑)

 

断る力 (文春新書)

断る力 (文春新書)

 

 

 

 

 

日本酒好きの僕が何周年記念に差し入れしたい、名前に数字がついたお酒を本気で集めてみた

僕はお土産を持って行く際、何かと掛かっているものを好んで選びます。

特に、結婚◯周年とか、お店がオープンして◯年目みたいなときは、その数字に合わせた数字が入っているものを見つけて来るのが好きだったりします。

僕自身が日本酒好きということもあり、ここ最近はもっぱら数字が名前に含まれる日本酒を持って行くのにはまっています。

もちろん単に数字が入っていればいいというのではなく、美味しいお酒であるということが前提。

酒飲みとして、ここは譲れません(笑)

数字だけに注目した記事は検索したら出てきますが、あくまでうまい酒ベースで書かれているものがなかったので、1〜9の数字を持つ上に僕が美味しいと思うお酒をまとめてみました。

 

1周年目・・・「仙禽一聲」

 栃木の仙禽酒造さんのお酒です。

仙禽とは神に使える鶴のことで、「仙禽一聲」は鶴の一声を表します。

飲んだ人に有無を言わさず美味しいと思わせてくれるようなお酒です。

一周年、かつ鶴をモチーフにしたラベルということで、縁起もよくオススメです。

 

 

2周年目・・・「黒龍二左衛門」

 「2」の名前を持つといえば僕の中では黒龍酒造さんの二左衛門しかありません。

ただ、とんでもなく高いので、実際に人に渡したことはありません(涙)

(もっといえば飲んだことも・・・)

ただ、他の黒龍酒造さんのお酒は結構飲んでおり(内の常備酒の1つが黒龍の純米吟醸)、それらがいずれも美味しい印象なので、「2」といえばこれしか思いつきませんでした。

お金に余裕がある人は是非。

あと、誰か僕に飲ませて下さい(笑)

 

3周年目・・・「三井の寿」

 「3」の数字で僕がオススメしたいのは、大正時代から続く福岡の酒蔵さん、三井の寿酒造さんです。

「三」に「寿」なんて、とっても祝いに適しています。

ここのお酒はとにかく飲みやすく、獺祭が好きという人にオススメです。

今回は数字をテーマにまとめたので載せていませんが、ここのお酒はとにかくラベルがおしゃれ!

ポルチーニや冬季限定の活性にごり酒のNeveもオススメです。

 

 

4周年目・・・「笑四季」

数字のついたお酒を探していて1番困ったのが「4」でした。

もともと数字のもつイメージが良くないためか、ほとんど見当たりません。

そんな中で唯一、味は文句なしで、その上「四」の文字を冠しているのが滋賀県のお酒「笑四季」でした。

笑四季酒造さんはワインのボトルのようなデザインが特徴。

また、ボトルデザインだけでなく、かなり尖ったお酒を毎年作っているので、むちゃくちゃ楽しめるお酒です。

ラベルに大きく「4」がないのが残念。

でも、「笑顔で4回目の季節を迎えられました」みたいなとらえたら、素敵じゃないですか?

 

 

 

5周年目・・・「Z five」

5本目は、獺祭、東洋美人、雁木を始め有名な日本酒蔵を数多く抱える山口県の酒井酒造さんから「Z five」です。

本当は「五橋」というお酒がここの看板なのですが、そのビジュアルと手に入りづらさから祝いにはこちらが向いていると思い、「Z ファイブ」シリーズにしました。

 

 

6周年目・・・「新政No.6」

僕の中では「6」といえば秋田県の新政酒造さんの新政No.6しかありません。

新政酒造の特徴は、何と言っても東大卒の経営者が率いていること。

江戸時代の酵母を再現しようといった取り組みをはじめ、様々な実験をしている面白い酒造です。

その中で不動の美味しさを誇るのが、この新政No.6!

僕の中では一口飲んで獺祭を超えました(笑)

 

 

7周年目・・・「七本槍

f:id:kurumi10021002:20170601113807j:image

(http://www.oumi-jizake.com/7hon/7honyari-s.htmさんより引用)

 

7周年目は七本槍です。

実は僕、これを書くにあたって、①あくまで自分が飲んで美味しかったと自信をもって勧められることと、②数字を冠していることの他に、酒蔵が全国に散らばっていることを意識して選んでいました。

で、改めてこれを書くにあたって七本槍を調べるまで、ずっと冨田酒造さんのことを京都の酒蔵さんかと思っていたんですね。

そのため、七本槍と笑四季だけは土地が被ってしまいました。

だからこちらを違うものに差し替えようとも思ったのですが、やっぱり美味しさを考えると外さないと思ったので、7本目はこのお酒になりました。

ノーベル賞晩餐会にも出されたお酒のブランドです!

 

 

8周年目・・・「八海山」

八海山 大吟醸酒 720ml

八海山 大吟醸酒 720ml

 

これは言わずと知れた有名な日本酒なので説明もいらないくらいかもしれません。

新潟県の酒蔵、八海常蔵さんのお酒です。

「八つの海と山を超えた」みたいな印象があり、とても縁起がいいと思ったので、数多くある「八」と名のつくお酒の中から、こちらを選びました。

 

 

9周年目・・・「醸し人九平次

 最後の9周年目を飾るのは、愛知県の酒造、萬乗醸造さんの醸し人九平次です。

15代目の蔵元である九平次さんの自信作。

始めて飲んだ時、新政No.6に負けないくらいの衝撃を受けました。

味はもちろんのこと、箱も綺麗なので喜ばれること間違えなしです!

 

 

というわけで酒好きの僕が実際に飲んで記憶に残っているものの中から、1〜9の名を冠した日本酒を並べてみました。

実際に飲んだ上でのラインナップなので、ネイバーまとめみたいな調べて貼り付けしただけの情報よりは密度の濃いものになったのではないかなと思います(笑)

よかったらお土産に迷った際にご活用ください。

 

関連エントリです。よかったらこちらもお願いします!

「モテる日本酒」の選び方〜獺祭から入った女性にもウケる日本酒をまとめてみた〜 - 新・薄口コラム