新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ネットは成功者たたきが増えるもの

僕はネット空間が荒れるようになった最大の原因は生活水準の格差が可視化されるようになったことにあると思っています。

ネットの普及によって、あらゆる人間の仕事やプライベートを知ることができるようになりました。

それにより、今までならば絶対に知ることの無かった生活をしている人たちが目に飛び込んでくるようになったのです。

その結果、今までならば知る由も無かった生活の人々を知り、自分たちとの生活を比べ、そこに妬みや嫉みが生まれる。

これが、有名人を炎上させようとする人たちの基本的な思考回路です。

しかし、単に生活水準の格差が可視化されるようになったというだけでは、説明が不十分です。

僕は上に挙げたことに加えて、ネット空間では、成功をしている人がそこにたどり着くまでにした努力が表出しづらいということも、有名人や成功者が叩かれやすい原因になっていると思っています。

 

一定以上の成果を出した人ならば、そこにたどり着くまでに果てしない努力をしていることを知っています。

だから、表面的に成功している人を見ても、どのような苦労を積み上げた果ての結果であるかが分かるため、そこに嫉妬感情は浮かびません。

しかし、ネットではその性質上自分の表現したい情報を発信者が「編集」して発信しています。

そのため、成功の裏にある要因や、どのような戦略をめぐらせたかといった部分は見えづらくなるわけです。

一方で情報を受ける側は、ネットの普及によって膨大な情報が得られるようになったため、発信者にとっては「編集」した情報であるはずのSNS上の情報を、プライベートのことであるように受け取ります。

結果、成功しているその背景には目が行かず、表面的な部分がその人の全てであるかのように映ってしまうわけです。

そうすると、自分はこんなに頑張っているのに、あの人は努力もせずにズルいという感情が芽生えます。

そして、それが成功者や有名人の足をひっぱるという行為に繋がる。

と言うのが僕が考えるネット空間では成功者を蹴落とそうとする人が増える理由です。

 

ネットの普及により、情報発信者が誰でもできるようになったと言われていますが、そこには依然として生産者と消費者という明確な区分があるように思います。

誰かに読んでもらうことを想定している情報を生産者型の情報発信、ただ自分の書きたいことを書くのは消費者型の情報発信とすれば、生産者型の情報発信を行っている人口は、圧倒的少数です。

SNSが進化し、生産者側と消費者側の距離が近づいても、相変わらず生産者と消費者の割合が変化しなければ、ますます成功者に対する嫉妬の念は増大します。

この流れは避けられないものであるのかなあと、思ったりするわけです…

 

久しぶりに書いたら全然文章がまとまらなかった…

旅人の追いかける「蝶」は何を表しているのか?ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」考察

基本的に同じアーティストはあまり繰り返さないと決めているのですが、ポルノグラフィティは昔からファンだったこともあり、以前取り上げた(「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム)で満足できず、もう一本書いてしまいました。

 

僕がハネウマライダーと並んでポルノの楽曲のなかで好きな作品がアゲハ蝶です。

この作品のメインテーマといえる「蝶」。

僕はアゲハ蝶で歌われる「蝶」は、夢や才能、そして憧れの世界といったもののメタファーとして描かれていると考えています。

昔は好きな人を追いかける物語くらいに考えていたのですが、どうしてもそれでは内容に説明がつかないんですよね。

サビから始まるこの曲では、<ヒラリヒラリと舞い遊ぶように姿見せたアゲハ蝶>というように、不意にアゲハ蝶が登場します。

そして、主人公はその蝶に魅せられて、どこまでも追いかけていってしまうのです。

もちろんこれを、「急に現れた大好きな人」として捉えることもできなくはないのですが、そうすると所々で矛盾が生じます。

それが蝶=才能と考えると、途端に内容が繋がるのです。

1番のAメロでは主人公が旅人にどこに行くのかと尋ねるシーンが描かれます。

そして、その詩人が自分自身であったことに気づく。

歌の流れから、旅人が追いかけているものは蝶であると考えて間違えないでしょう。

<旅人に尋ねてみた どこまで行くのか いつになれば終えるのかと 旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど>

蝶を追い掛ける旅人に、どこまで行くのかと尋ねると旅人はこう答えます。

蝶を夢や才能のメタファーであると考えると、「終わらせることはできる」というのは、あきらめるまでは夢を追い続けると解釈することができます。

<そう・・ じゃあお気をつけてと 見送ったのはずっと前で ここに未だ還らない 彼が僕自身だと気付いたのは今更になってだった>

Bメロの歌詞を見て、蝶を追い掛ける旅人の正体が自分であったことが分かります。

そして、はるか前に蝶を追い掛け始めた自分自身が未だそれを求めて帰ってこないということ気づくわけです。

この時点で、夢や才能に憧れてその世界に足を踏み入れた自分自身が、引き返すこともできず、未だそれを追いかけているということが分かります。

それを踏まえて、次の1番の歌詞に続きます。

 

<あなたに逢えたそれだけでよかった 世界に光が満ちた 夢で逢えるだけでよかったのに 愛されたいと願ってしまった 世界が表情を変えた 世の果てでは空と海が混じる>

僕がアゲハ蝶の中で1番好きな歌詞がこの部分です。

ずっと「好きな人に対して片想いのままでよかった」といっているのだと思っていたのですが、それだとどうしても「世界が表情を変えた」の説明がつかないんですよね。

これを、才能や夢と解釈するとうまく繋がります。

この歌詞の作者の晴一さんにとっての夢や才能に憧れる対象は音楽と考えて間違えないでしょう。

とすると、<あなたに逢えたそれだけでよかった>というのは、ロックに出会えたということになります。

ロックに出会うことで世界がまるで違うように見えたというのが前半の内容。

<夢で会えるだけでよかったのに>というのは、自分もそうなりたいなと漠然と思い、友達とバンドをしている少年時代のようなものだと思います。

それが、<愛されたいと願ってしまった>途端に<世界が表情を変え>るのです。

趣味でバンドをやっていた時は全てが輝いて見えたのだけれど、その音楽に<愛されたい>と思う、つまり本格的にその道に進もうとしたら、急に輝いていた世界が表情を変える訳です。

自分の才能を信じ、音楽の世界へと飛び込んだら、急にその道の険しさに気づく。

このサビで夢に憧れてその世界に足を踏み入れたが故に、その道の険しさを知り、それに絶望する主人公の心境が書かれています。

 

2番のAメロで、私の書いた歌詞があなたに届いて欲しいという歌詞が出てきます。

二人称でかかれるあなたは「蝶」のことでいいでしょう。

そして、蝶は自分が憧れる世界(晴一さんの場合はロックスターの仲間入りをすること?)のことです。

自分が書いた歌詞や歌が憧れの世界に届く、つまり自分の才能が認められることを願うのがこのAメロの意味だと思います。

 

そして、2番のBメロでは、自分の現状を戯曲にたとえて、先に進むことはできないけれど、今更戻ることもできず、どこに行けばいいのか分からなくなっている主人公の気持ちが述べられ、2番のサビに入ります。

 

<あなたが望むのなら この身などいつでも差し出していい>

2番のサビでこう書かれているのは、憧れの世界に行くためなら、自分はどんなこともするという気持ちだと解釈できます。

(因みにそれだけ夢を一心不乱に追いかけていた自分のことを、ハネウマライダーではハンドルもブレーキもないオンボロのバイクとして表現されています。)

どんなことでもするから、あなたの心の隅において欲しいと歌詞は続くのですが、これは僅かでもいいから憧れの世界に自分も入りたいと考えることができるでしょう(やや強引ですが...)

 

そして最後、1番のサビを繰り返した後に転調をして<荒野に咲いたアゲハ蝶 ゆらぐその景色の向こう 近づくことのできないオアシス>と続きます。

アゲハ蝶が自分の夢や才能、オアシスが夢のかなった世界と考えるとここの部分は意味が通ります。

夢や才能を追いかけてきたらその先に自分の行きたい夢の叶った世界が見えているのだけれど、どうしてもそこには手が届かない。

だから<近づくことのできないオアシス>なのだと思います。

この歌詞の段階で、主人公の旅人はひたすら蝶を追いかけているだけで、決して蝶を捕まえることができてません。

これは、才能を信じてずっと夢を追いかけているのに、未だそれが自分には手に入っていないということだと思うのです。

だから、オアシスにはどうしてもたどり着けない。

<冷たい水をください できたら愛してください 僕の肩で羽を休めておくれ>

上の解釈を踏まえて、最後の歌詞を見て行きます。

荒野をさまよう旅人にとって水を恵んでくれる存在は自分に気をかけてくれる存在です。

気にかけてくれるだけでいいと言った直後に、できたら愛して欲しいと言うこの場面は非常にグッとくるものがあります。

冷たい水も才能のメタファーとして考えると、一瞬でいいから才能がふってきて欲しいと捉えることができます。

そして、できるならそんな才能に愛されたいと願い、最後のフレーズ<僕の肩で羽を休めておくれ>となるのです。

羽を休めるのはもちろんアゲハ蝶でしょう。

アゲハ蝶には才能がメタファーとして込められているので、自分の肩に止まって欲しいというのは、自分に才能が欲しいということと解釈できます。

才能がないとオアシスにたどり着けないことは分かっているのだけれど、そのために蝶をどれだけ追いかけても手に入らない。

だから未だ旅人は還ってくることはできず、舞台にひとりで立っているだけなんですよね。

この歌は恋愛の歌ではなく、才能に焦がれ追い求める、1人のアーティスト(を夢見る男)の気持ちをストレートに書いたものであるというのが僕の解釈です。

ロックスターや小説家に憧れてその世界に入ったはいいけれど、そこで初めて自分と夢見る世界の間にある距離を知って絶望する。

たぶん、何かを目指したことがある人は誰もが経験したことのある感情だと思います。

そんな複雑な感情が蝶というメタファーで巧みに隠されながらラテンのリズムに乗せて歌われるため、僕たちは何と無くこの歌から哀愁のようなものを感じ惹きつけられる。

アゲハ蝶の魅力はこういったところにあるように思います。

 

関連エントリです、こちらもお願いします

「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム

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アゲハ蝶

アゲハ蝶

 

 

 

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法準動詞②不定詞は役割を整理することで攻略できる!

4-2 不定詞の整理①

 

準動詞に関して、殆どのテキストが不定詞→動名詞→分詞の順番で掲載されています。

これは用法別で考えたとき、不定詞は名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法と3種類の使い方があるため、だと思います。

不定詞を覚えるのが大変と感じる人が多いと思いますが、その原因のひとつは、この用法の多さにあります。

この単元は、さまざまな内容が登場しますが、全てを丸暗記しようとすると大変です。

それぞれの知識が一体どの用法のものであるのか、常に足元を確認しながら勉強していくことが、不定詞を攻略するコツなのです。

ということで、今回は不定詞を大まかに分類していこうと思います。

 

そもそも「不定詞ってなに?」と聞くと、多くの人が「to+動詞の原形」と答えます。

これは、中学校の文法で不定詞として最初に出会うのがこの形だからです。

確かに不定詞には「to+動詞の原形」で表されるものもありますが、この形だけではありません。

不定詞にはもう一つ、「何も変化させない」という変化をさせる、原形不定詞というものがあるのです。

例えばMy mother makes me clean my room.(私の母は私に部屋を掃除させる)という文を見てみましょう。

この文はSVOCという形で構成されており、C(補語)の位置で使われているcleanが原型

不定詞です。

まずは、不定詞には「to不定詞」と「原形不定詞」の2種類があるということを押さえてください。

 

上で不定詞にはto不定詞と原形不定詞の2種類があると述べましたが、実際のところ、この単元で文法事項として登場する殆どはto不定詞です。

従って、次にto不定詞について見て行きます。

まず、それぞれの用法をまとめていく前に、to不定詞の基本的な表現の付加方法を確認しておきます。

中学英語までならば、to+動詞の原形という形だけを覚えておけば(概ね)事足りましたが、高校英語からは、少し表現を拡張しなければなりません。

具体的には①意味上の主語を加える、②to不定詞の否定表現、③to不定詞の受身、④to不定詞の進行形表現、⑤to不定詞内容の時制のズレです。

まず、意味上の主語ですが、これは「to+動詞の原形」の前に「for+人(前に人の性質がある場合はof+人)」をつけることで表します。

例えば、「to study English」(英語を勉強すること)という文に「彼が英語を勉強すること」というように主語を加えたいときは、「for him to study English」という形になります。

このfor(of)+人で表すことができるのが、to不定詞の意味上の主語です。

次にto不定詞の否定について。

To不定詞以下の内容を否定したい場合は、to不定詞の直前にnotをつけます。

例えば、「I told him to run in the park」(彼に公園を走るように言った)という文のto不定詞以下の内容を否定して「彼に公園を走らないように言った」としたい場合、to不定詞の直前にnotを加えて「I told him not to run in the park」とします。

このように、to不定詞の直前にnotを加えることで、不定詞以下の内容を否定することができます。

 

残りの③~⑤はtoの後ろを変形させることで表すことができます。

まず③のto不定詞以下の内容を受動態に書き換える場合について。

to不定詞以下の内容を受身にしたい場合、to+be+過去分詞形という形にします。

これはto不定詞がto+動詞の原形、受動態がbe動詞+過去分詞であるため、二つを筆算の要領で足したと考えると理解しやすいかと思います。

to不定詞) to +V原形

受 動 態)   be動詞+過去分詞

→ to +  be   +過去分詞

みたいな感じです。

これと同じ要領で、不定詞と進行形を同時に表したい④のパターンはto不定詞+be動詞+現在分詞という形で表します。

また、時制がズレを表す場合は基本的にhave +過去分詞を用いればいいため、to不定詞内の内容と文全体の内容の時制がズレている場合は、to have 過去分詞という形になります。

例えば、「彼が昨日ケーキを作ったらしい(と言われている)」という文であれば、「~らしい」と噂されているのは現在で、「ケーキを作ったらしい」という噂の内容は過去の話なので、ここに時制のズレが生じています。

したがって、これを英語に直す場合、to have 過去分詞を用いて「He is said to have made a cake yesterday」となるのです。

 

というわけで、今回は不定詞には2種類ある事と、不定詞の意味の拡張の仕方をまとめました。

次のエントリでは、具体的に3用法を整理していきたいと思います。

 

関連エントリです

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法準動詞①「動詞っぽいけど動詞じゃない」根本がわかると全てわかる準動詞の基本 - 新・薄口コラム

英文法を解説する連載エントリ「まだ文法で消耗してるの?」を作りました

僕はこのブログに関して、特にマーケティングSEOを意識することなく、ゆるーーく、更新を続けています。

技術に頼らず自分の語感と発想だけでどこまで通用するか試したく、こんなスタイルをとってきました。

だから関連記事のレコメンドや、カテゴリ分けが殆どありません(笑)

そんなほったらかしの状態でも、ありがたいことに3万5千PVくらいは月間でアクセスを稼げています。

ただ、最近になって少しだけアクセスを増やしたいなと思うようになり、コンセプトやテーマ選、タイトルの見直しなど、ちょこちょこと手直しをしています。

そんな中で一つ、昔書いていたエントリの中に面白いコンテンツになるのではと思えるものがありました。

それが「覚えない英文法」シリーズです。

 

3年前、本格的に塾講師として仕事をするにあたり個別指導で英語を教えるために一旦知識を整理しようと書いていたこのエントリ群。

(今振り返って読んでみると的外れな解釈をしているものもあったりなかったり、、、)

途中でいろいろ忙しくなって、結局半分にも行かない段階で放置していたのですが、案外面白いコンテンツになるんじゃないかなと思い、今回新たに名前も変えて続きを書いてみることにしました。

その名も「まだ文法で消耗してるの?」シリーズ(笑)

…完全にイケハヤさんのパクリです。

因みにそもそものコンセプトが、それぞれの文法知識を自分なりに解釈してみようというものなので、一般論とは違う説明や、時には間違えた説明も入っています(特に3年前に書き始めたところは多いかも知れません)。

あくまで「僕の解釈」を勝手に書いているものなので、その点は承知していただいた上でチラシの裏の落書き程度に気楽に読んでいただければと思います。

「アイツ間違ってやがる」みたいな突っ込みはご遠慮下さい(笑)

 

とりあえず、数本載せておきます(随時更新予定!)

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制①動詞の活用は2つだけしかない! - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制②現在形を「今のこと」って考えるからわからなくなる - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制③過去形は「昔のこと」じゃない - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制④完了形を「~してしまった」なんて覚えるからややこしい - 新・薄口コラム

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法時制④完了形を「~してしまった」なんて覚えるからややこしい - 新・薄口コラム

2015年東京大学一般前期~「夜の寝覚」現代語訳

個人的に好きな、15年の東大で出題された「夜の目覚」の全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

※因みに過去問は東進の大学入試問題過去問データベース から入手可能です

 

姨捨山の月は夜が更けるほどに澄んでいくのだが、今見ている月もそれほどにめったにないものであると思いながら、女君は月をみて物思いにふけっていた。

 

(和歌)それまでとは自分を取り巻く境遇が変わってしまったこのつらい世の中に住む私ですが、見上げた空に浮かぶ月の光だけは当時のままなのですね。

 

しばらくは手も触れなくなっていた筝の琴を手元に引き寄せてかき鳴らしていたら、その場の雰囲気も相まって、松に吹く風の音につられるように、しみじみと思いつつ、ことを弾いて胃いた。

どうせ聞いている人もいないだろうと安心して思いつくままに弾いていると、仏の御前にいた入道殿はその音を耳にして、「本当に趣深く、言葉で形容しきれない音色だなあ」とその美しさに聞き入っていた。

あまりの素晴らしさに、入道殿は仏道修行を切り上げて、女君のもとへとやってきた。

女君が、入道のやって来たことに気付き演奏をやめると、「演奏をやめないで下さい。念仏を唱えていたときに聞こえてきた貴方の琴の音色がまるで『極楽の迎えが近いのだろうか』と思うほどに素晴らしく、心がときめかずにはおれず、あなたの部屋を訪ねてきたのです。」と入道は言って、居合わせた少将に和琴を弾かせ、また自身も一緒に琴を弾きながら遊んでいるうちに、気がつけば夜も明けていた。

女君はこのようにして心を慰めながら、一日一日を暮らしていた。

 

(和歌)つらいけれど気にせずにはいられないなあ。あなたの住む山里の時雨の音はどのようかと気になってしまうのです。

いつも以上に雨脚の酷い朝方に、大納言から歌が届いた。

 

雪が降り続く日に、思い出のないふるさとの空までも、雪で閉ざされているのではないかという気持ちになって、さすがに心細く感じ、部屋の端近くに移動して、派手な服装よりもかえって趣深い白い着物を懐かしげに着て、物思いにふけってその日を過ごしていた。

昨年、このように雪が多く降ったときに、大納言と屋敷の端で雪山を作ったことなどを思い出して、いつも以上に落ちる涙を可愛らしく拭い取って

「(和歌)あなた(女君の姉)は思い出すことはないでしょうけれど、私はこの嵐山で暮らすのが心寂しく、降る雪をみて、私のふるさとの景色はどのようだろうと、恋しく思っているのです。

恐らくあなたは私のことを、このようには思っていないのでしょうけれど…」と姉のことを思い出さずにはいられない女君の姿を、対の君は胸をつまらせながら眺めていた。

「苦しく感じながらも今までいろいろと考えていたのですね。さあ御前にいきましょう。」

と、そ知らぬ態度で女君の部屋入っていき、彼女を慰めた。

 

 

 アイキャッチは東大の赤本

東京大学(理科-前期日程) (2015年版 大学入試シリーズ)

東京大学(理科-前期日程) (2015年版 大学入試シリーズ)

 

就活が解禁になったから塾で働く人間が新卒で塾業界を受けるという体でガチの志望動機を書いてみた③

またまた続きになってしまっていたので「今塾業界を志望するならどんなことを言うのか」の続きを書いてみました。

 

21世紀に入り、ものすごい勢いでテクノロジーが発達してきました。

特に教育業界に関しては、ITの技術と人工知能が大きな影響を及ぼすだろうと考えています。

現在、成績管理に補助教材、映像授業や苦手単元を集めたプリントをピンポイントでつくることができるシステムなど、教育のさまざまな場面にIT技術が組み込まれるようになってきました。

これらにより、各生徒に最適化した学びを提供することが可能になり、かつてとは比較にならないほどに効率的な勉強をする事が可能になりつつあります。

また、昨今は人口知能の話題も頻繁に耳にします。

機械が自動的に学習し、最適解を出せるようになれば、現在当たり前のように行われている授業の内容それ自体がいらなくなるのではないかという意見も耳にするほどです。

確かにこのままの速度で技術レベルが進化していけば、まる暗記や反復演習といった、それまでの塾が得意分野としていた「詰め込み型」の学習はいらなくなるかもしれません。

しかし僕は、こうした流れの一方で新たなニーズが生まれてくるのではないかと考えています。

 

IT技術や人工知能が今後広がっていく社会において、最も必要なものはモチベーションであると考えます。

行いたい事がテクノロジーによって何でも実現できる社会において重要な力は、新しいことをしてみたいと思うことができるモチベーションです。

このモチベーションの有無が、今後の社会で必要とされる人材の判断材料になると思うのです。

筑波大の助教授で、現代の魔術師の異名をもつ落合陽一先生は、このことを「モチベーション格差」と呼んでいます。

計算や語学など、あらゆる事が技術で即時に代替されるとしたら、それらのスキルを習得するための努力は価値を持たなくなります。

そうした社会で重要なのは、新たなことに手を出したいと考える姿勢です。

僕は、教育は今後この新たなことに挑戦するモチベーションをいかに身につけるかという方向にシフトしていくと考えています。

 

自身の経験を通して、モチベーションの必要性を非常に強く感じでいます。

7年近く教育に携わってきた僕のモチベーションに対する見解は、「モチベーションの多くが環境に由来する」というものです。

勉強に関わらず、何かに対してモチベーションを持って取り組める子は、どこかのタイミングで、必ず周囲の大人や友人から「努力を褒められた経験」や「何かを認められた経験」をしています。

一方で、モチベーションが低い子の話を聞いていると、そうした経験を殆どしてこなかったという声が返ってくることも少なくありません。

モチベーションを高めてあげるような環境を整えてあげることが、教育にとって最も重要なことであるように思います。

IT技術や人口知能では、動き出した人間の作業を効率化することはできても、最初の背中を押す役割は担えません。

その点は、昔も今もこれからも、周囲の大人の役割であると思うのです。

僕はそうした役割を担う大人として、子どもたちと教育の場で関わっていきたいと考えています。

子どもたちにさまざまな物事に興味を持ってもらうためには、自分自身が多くの経験をしていることが不可欠です。

そのため、僕は塾の他に、NPOで広報を担当したり、フリーランスとしてライターの仕事を受注したり、さまざまな働き方を実践しています。

仕事以外にさまざまな「遊び」をしているのも、突き詰めればここに集約されます。

僕の中で、社会の抱える教育の問題の解消を担いつつ、かつ子どもたちにこれから最も必要となるであろう能力を提示できる存在は何かとかんがえたとき、僕にとってはそれが塾講師なのです。

 

 

っと長々と書いて見ましたが、僕が新卒として今、塾業界を受けるのであれば、ここに書いたような内容を土台にして、800文字程度の自己PRに整えると思います。

後半の自分のことを書くのは飽きてきたので尻切れトンボになってしまいましたが、だいたいこんなことを言うような気がします。

マンガ家の山田玲司先生いうところの「マンガ家は世界の面白さを教えてくれるシンドバット」、中学国語の教科書に出てくる「ぐうちゃん」のように、子どもたちにとって価値観を広げてくれる一番身近で一番面白い兄ちゃんでいようというのは、漠然と僕が大学時代から意識していることです。

たぶん僕が今就職活動をするのなら、この辺の内容を持って、京都の個人塾でトップ校受験をウリにしていないところを受けに行くように思います。

殆ど業種的に役に立たない内容かもしれませんが、誰かの参考になれば幸いです。

 

アイキャッチは今回も藤原和博さん。今日はちょっと扇情的なタイトルのこの本

中くらいの幸せはお金で買える (単行本)

中くらいの幸せはお金で買える (単行本)

 

 

就活が解禁になったから塾で働く人間が新卒で塾業界を受けるという体でガチの志望動機を書いてみた②

志望動機を本気で考えてみると言っときながら、前のエントリではまったく志望動機に入らなかったので、今回はその続きをまとめます。

現在の学校教育について教員の年齢構成を見てみると、50代以上が35%近くを占めています。

和田中学や一条中学の校長として有名な藤原和博さん曰く、50-60代の教員が多かったため、30-40代の教員は非常に少ないそうです。

その反動で20代で採用を増やしたはいいけれど、その分競争倍率は低下していて(東京の初等教育に関しては3倍をきったこともある)いるとのこと。

競争率が低くなれば、採用される率は高くなり、確率的に優秀な人の割合は低下します(個々人の能力を言っているわけではなく、あくまで統計的な話)。

そうした状況の中、多くの小学校では、ベテランの先生は扱いの難しい1、2年生と、内容が高度になる5、6年生に割り振られ、必然的に若手の教員は3、4年生を担当することが多くなります。

一方で、学習内容を見てみると、様々な分野で抽象概念を習い始めるのは3、4年生のころ。

つまり、現状の小学校の教育では、その後の学習に影響を与える、抽象概念の入り口を若手が担わざるを得ない状況になっているといえます。

 

仮に学校で基礎の部分が定着しきれていない部分があるとしたら、それを補うことこそ、私塾の使命だと思います。

しかしながら、特に東京や京都、大阪といった、中高一貫の学校が多い地域であるほど、塾は「中学入試」を売りにしています。

そのため、こうした地域では小学生の塾=中学入試の手段という認識が多く、日常の学習の補完のために通塾させるという認識が薄いというのが現状であると考えます。

これが、僕の考える京都における小学校の学習指導の問題点です。

 

次に中学校を見てみると、違う問題点が浮き彫りになってきます。

京都市にある学校の中学入試の合計定員は約1500人。

それに対して京都市の中学校の1学年あたりの人数は約1万2千人です。

(昔調べたものを思い出しながら書いているので、細かなデータが違っていたらすみません)

もちろん中学入試に通過していることが優秀であることの証明ではないことくらい百も承知ですが、少なくとも中学入試をさせようと思う程度に教育に関心のある家庭ということは言えると思います。

それを踏まえてこの数字を見ると、地元の公立高校に進学するのは、中学入試に関心がある程度に教育熱心な家庭に育った子の15%近くが、まるまる引き抜かれた状態であると見ることもできます。

繰り返しますが、僕はこれをもって地元の公立高校に行く子の学力が低いなんて言うつもりはありません。

しかしながら、こうした数値が地元の公立中学校の子供達の勉強に対するモチベーションの高低に、少なからず影響があるのは事実だと思うのです。

仮に、そもそも勉強に対する意欲が高い層の上位15%がまるまる引き抜かれた状態であるとしたら、そこで集団生活を送る子供達の平均的なモチベーションが低いとしてもその責任を子供たちに求めることはできません。

システムの問題であれば、システムで解決すべきだと思うのです。

そのモチベーションを提供することが、塾の役割です。

 

僕は小学生、中学生と共に、厳しい競争に勝ち抜いて数人を難関校に入れるエリート教育ではなく、中間層の日々の学習に対するモチベーションを維持する教育こそが京都市の子供たちに最も必要な教育であると考えています。

それを提供することこそが、京都に構える私塾の役割だと思うのです。

 

っと、またマクロな視点を書いていたら文字数が増えすぎてしまきました。

また明日にでも、続きを書きたいと思います。。。

 

 

アイキャッチは昨日に続き、藤原和博さんの本