新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



七夕なので、和歌をテーマにしてAIについて考えてみた

狩り暮らし たなばたつめに 宿借らむ 天の川原に 我は来にけり

―狩をして気がつくと日が暮れてしまった。ここは天の川という名前の土地のようだから、織姫に頼んで宿を借りようか。―

一年に 一度来ます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞ 思ふ

―織姫は一年にたった一度だけ会うことのできる彦星を待っているのですから、私たちに宿を貸してなどくれないのではないですか。―

(現代語訳は僕のオリジナルで、かなり意訳してあります。)

七夕になると、伊勢物語のこの和歌を思い出します。

(たしか)天の川という土地にやってきて狩を楽しんでいた、惟光の皇王たちの読んだ歌です。

文法を説明するときに、「これでなければならない理由」もないため、めったに引用することはないのですが、結構僕のお気に入りだったりします。

7月7日に七夕を思い出す。

そういう生産性や合理的思考では割り切れない「ムダ」を楽しむことって、特に合理化が進む世界で価値を生み出すことを考えたとき、長期的に大きな差別化要因になると思っています。

 

かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜もふけにける

―かささぎが集まって架けた真っ白な橋のように、星たちが集まってまるで銀色の橋が架かったようにみえる空を眺めると、夜がふけたことを実感するなあ―

(先と同じく、現代語訳はかなり意訳してあります)

七夕と聞くと、百人一首の中に収められているこの歌も思い出します。

一見?一読?すると七夕とまるで関係のないこの和歌。

しかし、この歌にもしっかりと「七夕」が織り込まれています。

初句と2句に書かれている「かささぎの渡せる橋」とは、一年に一度、七夕の時期に対岸で互いを思う織姫と彦星が会うために、神様がかささぎをつかって二人のために川に渡してくれる真っ白な橋のこと。

つまり、冒頭の「かささぎの渡せる橋」は単なる霜の降って真っ白な橋の比喩ではなく、織り姫と彦星のエピソードを組んだこちらがメインということになるのです。

それを踏まえて改めて訳すとしたら、「今は冬なのに、まるで織姫と彦星を引き合わせるためにかかるあの橋のような真っ白な橋を星たちが作り、その事が私に夜が更けた事を感じさせるなあ」といった感じになります。

 

先日、知人に相談に乗ってもらったときに、話の流れでAIの話になったのですが、僕はAIが自分たちの環境に溶け込んだときの僕たちがあるべき姿は、上に挙げたような和歌に対峙する姿勢に近いのではないかと思っています。

「事象」をどう解釈するかの部分は(合理的結果から導き出されるものは別として)昔も今もこれからも、ずっと僕たちにしかできないことだと思うのです。

今日、AIは急激な速度で技術が進歩していて、まるで僕たちと同じように思考して解を導いているように見えるアウトプットを出すものも出始めていますが、あくまでその判断は膨大な集合知から導いた「最適解」に過ぎません。

たとえばGoogle翻訳にしても、AI自らが感情を持って「こうあるべき」という意訳を道いいているのではなく、「Xの場合は多くの人がYという訳にしている」という集合知から「人間らしい」意訳を創出しています。

かりに人間と人工知能で同じ訳が生まれたとして、その生み出したプロセスは全く異なるものです。

「私は〇〇だ。」と「私が〇〇だ。」の違いを区別することは機械にできても、そこで生じる受け手への印象を「感じ取ること」は機械にはできません。

単なる記号としても文字列に文脈という意味を見出し、その背景に思いをめぐらすのは獏たちにしかできないと思うのです。

 

僕はAIの問題はここに集約されると思っています。

例えば、上に挙げた「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜もふけにける」という和歌の訳に関してですが、「かささぎの渡せる橋」はどう解釈しても文字情報の上では「七夕」とは結びつかないのです。

明らかにそこから読み取ることができない情報を加えるのは、情報処理型の考え方ではご法度です。

仮にAI(のようなものに)僕の現代語訳を添削してもらうとしたら、恐らくかなりの低評価になるはずです。

あるいは、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」という俳句を例に考えてみるとより明らかです。

この俳句には、亡くした自分の娘に対する一茶の悲しみが読まれています。

しかし、現代の僕たちの文化背景では、どうやったってそんな解釈にはたどり着けません。

これがどれほど悲しみを含んだ歌であるかを味わうためには、一茶が詠んだ当時の「時制」の概念のこちら側が理解し、その範囲で解釈をなさねばならないのです。

(細かな解釈を書くと長くなるので、興味を持って頂けた方がいらしたらこちらをご覧くださいシードゼミ - 「手向くるや むしりたがりし 赤い花」 小林一茶の詠んだ句の中で、僕が最も好きな詩です。... | Facebook)

やはりこちらもAIには難しいのではないかなと思っています。

 

ITやAIが当たり前の環境になった未来を見据えるといったときに、多くの人がAIそのものを知ろうとしますが、むしろ僕たちは反対方向の、極めて人間的な部分に目を向けるべきだというのが僕の意見だったりします。

落合陽一先生が、(たしか)魔法の世紀という著書の中で、「人々はパソコンの中でどのような処理が起こって目の前の現象が起こっているかなんて気にせずに、当たり前のようにそれを利用している」と言っています。

AIに関しても、それ自体の見識を深めてどうやって勝つかみたいな議論ではなく、それが広がった世界を想像し、そこで必要なものを磨くべきだと思うのです。

で、僕なりに競争力になると思うのが「感情」と「文化」という言語化した時点で陳腐化する無形物。

もちろん電極を頭に刺して、感情を電気信号として集積するみたいなことをすれば、そこもAIの領域になるかも知れませんが(笑)、裏を返せばそうでもしない限り、最大の差別化要因として残るように思います。

僕が考えるその一例が上に挙げた和歌の訳なのです。

 

七夕をテーマに書こうと思ったのですが、最近吸収した内容に影響されすぎてしまいました(笑)

 

アイキャッチは落合陽一先生の『魔法の世紀』

 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 

社会に出るときに知っておきたい、自分の戦い方講座

どんな仕事であれ、一定の関わりをしていると自分の得意とする「戦い方」に出会えるように思います。

最近の僕の関心事の一つが、この闘い方論。

ビジネスでも身近な駆け引きでもそうなのですが、僕はその人が何を使って勝負するのが得意なのかで、以下の3パターンに分けられると思っています。

①が殴り合い型で②がシステム利用型、そして③が環境利用型です。

一つ目の殴り合い型とは、どんなフィールドであってもスピードと手数で相手を圧倒するタイプです。

起業家や若手敏腕営業マンみたいな人に多いのがこのタイプ。

このタイプの人はどんな分野であっても、素早く動き、相手より早く結果を出すことができます。

だから周囲から優秀な人、凄い人という評価をされがち。

一方で、速く、手数の多さが最大の持ち味なので、出てくる戦略時代に他には真似できない独自性はありません。

だから、常に先陣で闘い続けないと後続勢に追いつかれてしまいます。

 

2つ目のシステム利用型とは、既存のルールを対極的に理解して、そのルールを用いて有利に戦える方法を模索するタイプです。

ホリエモン高橋洋一さんあたりがこのタイプかと思います。

このタイプの人たちは普通の人が気付かないシステム上の穴を使っての勝負を好むので、しばしば「ズルい」と揶揄されます。

一方で、自分の力だけでなく、システムを見方につける姿から「頭がいい」という評価も受け取りがち。

良くも悪くも評価が分かれるのがこのパターンです。

 

3つめの環境利用型は非常に稀です。

常に俯瞰的に物事をみて、絶対に周囲に追いつかれないという要素をしっかりとそろえてから戦おうとするのがこのタイプ。

最も敵に回すと厄介なタイプです。

僕の中では西村博之さんあたりがこのタイプ。

環境を見方につけるので、最も効率的に自分の本来の能力以上の結果を引き出すことができます。

一方で、そうそう環境要因で勝負できる場は無いので、必然的に手数は少なくなる。

 

こうした3タイプはざっくりとその人の性格で向き不向きを考えることができます。

例えば、人との競争や他人から認められることが生きがいになっている人にとっては、①のタイプが最も向いています。

或いは行動力や熱量には自身がない代わりに、自分の考えた法則やロジックには人一倍自信があるという人は②に向いています。

さらに、自分の野心は殆ど無く、ただありのままの社会を観察したいみたいな人は③の闘い方が向いています。

 

別にこうした3タイプに優劣があるわけではありません。

単純に自分に向いている闘い方があり、違うフィールドで無理して戦うのはしんどいよねとうお話。

みなさんはどんな闘い方を得意としていますか?

AO入試で通過する小論文の書き方(準備編)

ツイッターに書いたものをまとめたので、口調がきついですが、ご了承下さい。

 

僕はこの数年で自分のブログに1000記事近く、塾のコラムで400記事位以上を書いている。

それこそマスコミを目指していた就活時代は原稿用紙の厚さをセンチメートルで測れるくらいには小論文の練習をしたと思う。

だから、小論文指導をする人間の中で書いている「量」には自信がある。

 

そんな、書いてきた人間から学校などで行われる小論文の指導をみると、?となるところが少なくない。

特に、「型」に寄りすぎている気がする。

言うまでもなく、小論文は自分の考えを論理的に伝えるものであるから、意見の引き出しが何より重要なはずだ。

 

現状の小論文指導をみていると、文の「型」の体系化はできていても、アイデアの引き出し方を体系化できている人は殆どいない。

というか書いたことがないから分からないのだと思う。

型ばかりを伝えるのは、バッティングフォームだけ教える野球監督に見える。

フォームの前に筋トレとノックが必要。

 

だから、僕は小論文を教える時に、型を覚える前に作文における基礎体力をつけることが必要ということを伝え、徹底的にネタの引き出しと、自分の意見の出し方を覚えさせる。

小論文を指導するにあたって、僕は必ず持って来させるものが、ノートとスマホだ。

 

ノートには毎日自分の気になったもの、思いついたことなど、とにかく何でも書いて記録する癖をつけてもらう。

(そして慣れてきたらそこに「なぜ?」「だから?」など意見を拡張していく)

このアイデアノートを溜めることで、自分の引き出し(僕は知識の層と書いて知層と呼ぶ)が強化される。

 

ノートに加えて重要なものがスマホだ。

スマホは様々な意見に出会い、瞬時にコメントを付ける練習に最も適したデバイスだ。

例えばTwitterに流れてきた有識者のつぶやきに考えを一言添えて引用リツイートすれば、意見を作る練習になる。

さらにその人からいいねされたらやる気にも繋がる。

 

制限時間の中で自分の意見を書き上げる時、素早く題意を読み取り、意見を構築する力が重要になる。

僕はこれをHUNTER×HUNTERのビスケの言葉を借りて、「戦闘思考力」と呼ぶ。

これを身につけるのにTwitterとニューズピックスは非常に適している。

 

Twitterで100人くらいの社会で活躍する人をフォローし、常に情報のシャワーを浴びる状態にしておくことで、多分野の造詣が深くなり、そこに意見を乗せる力がつく。

反対に1つの記事に多方面で活躍する人が意見を寄せるニューズピックスは、違う角度から意見を出すいい訓練になる。

 

この辺のツールを使って、1日に20くらいのコメントを書きつつ、自分のアイデアノートを毎日見開き1ページでもかけたら、ひと月もすれば最低限の基礎体力はついているはずだ。

 

僕が小論文指導において、こういった部分こそまさに大切なのではないかと思っていて、それなしに表面的な技法を伝えても、上達は望めないと考える。

そして、こうした「筋トレ」の後にバッティングフォームは生きてくる。

 

正しい文の構成には起承転結や序論本論結論、序破急なんていろいろあるが、僕は限られた時間の中でアイデアを構築する小論文においては序論本論結論型が1番向いていると考える。

やはりこれも、マスコミを志望していた時に記者に聞いた意見と、色々な構成で大量に書いて試した時に感じた経験則だ。

 

序論本論結論という3部構成にして、本論を「具体→一般化」という形にしてしまう。

この形で意見を構築する習慣をつけておくと1番安定して文章が書ける(と少なくとも僕は思う)。

因みに起承転結は漢詩節句や4コマ漫画、ドラえもん辺りで学べる。

序破急は読売新聞の一面コラムが好んで使う。

 

1文辺りの文字数に関しては、読みやすいという以上に自分の中で論理矛盾を起こさないように30〜40字くらいでまとめるように意識しておくとよい。

1文の長さを普段から揃えることを意識するのは指定文字数に対応する意味でも有効だ。

例えば800字ならおよそ20〜25文と想定がつくからだ。

 

その他、文の書き方や時間配分など、細かな点をあげればキリはないのだけれど、基本的に型の部分はこうして身につける。

「筋トレ」がしっかりできていて、型が身についていれば、まあ小論文で落ちることはない。

AO入試で必要だからそろそろ勉強をという人は、夏休みにこれを実践してみるといい。

教育現場に本当に必要なものは、労働者と資本家の機会の平等だと思う

ツイッターに書いたものをまとめたので、口調がきついですが、ご了承下さい。

 

最近の僕の教育に対する問題意識として、教育現場における「資本家の不在」がある。
資本主義をプレイする大前提として、資本家と労働者というキャラ選択があるのだが、あらゆる教育の場では労働者というキャラしか教えられない。
そもそも教育現場にいるのが労働者だけだからだ。

 

労働者というキャラしかいない環境では、ハナから労働者から資本家になろうというマインドは生まれない。
だって、知らない夢は描けないから。
となると資本家という選択肢を「知っている」のは親が資本家である、周囲に資本家が多いなどの環境で育った子供だけになる。

 

今の教育のシステムが、前提として資本家を生み出さないものに見える。
僕は結果の平等はゼロでいいが、あらゆる場面で機会の平等があるべきだと考えている。
それでいくと、教育現場は(これでも)労働者として成功する機会は充分にあると思う。
一方で、資本家になる機会の平等がなさすぎる。

 

だから、好きだから教育の前線に立ちたいというような奇特な資本家か、子どもたちに資本家という選択肢を見せる為に資本家をやっている教育者がいる環境を作るだけで、子供たちの視野が広がると思う
資本家と労働者がしばしば雇用・被雇用の関係にある以上、それぞれの「正しい」とするルールは違う。

 

最近頻繁に労働者の価値基準で資本家が非難される機会を見かける。
もちろんその構造上どうしても労働者の権利が抑圧されやすいのだから、労働者の価値基準で非難されるのは然るべきだと思う。
しかし労働者の価値基準で考えている限り、資本家のマインドは生まれず、結果としてそちらには行けない。

 

資本家になりたいのならば資本家的な見方やロジックを身に付けることが第一だと思う。
由緒ある家庭で行われている「帝王学」なる教育(というほどのものではないかもしれないが)は、この見方を養うものだ。
で、僕が資本主義社会の教育で必要なのが資本家の視点と労働者の視点を平等に教えること。

 

もちろんそんなものよりも直近の教育格差を何とかすべきという意見があり、実施にそれが重要なことは100も承知だ。
しかし、グッと視野を広げたとき、現状は資本家になる方法が全く教育の環境にないという事を頭の片隅に留めて置くくらいはいいのではないかと思う。

 

僕が強調したいのは、現状でも自らそちらに関心を持てば充分に情報を得られるが、関心を持つきっかけは教育の環境にほとんどないという事。
だから、資本家という選択肢を教育の環境に整備することが必要だと思う。
多分資本家はもちろん、教育に関わる人もそれを嫌がるだろうけど(笑)

ネットは成功者たたきが増えるもの

僕はネット空間が荒れるようになった最大の原因は生活水準の格差が可視化されるようになったことにあると思っています。

ネットの普及によって、あらゆる人間の仕事やプライベートを知ることができるようになりました。

それにより、今までならば絶対に知ることの無かった生活をしている人たちが目に飛び込んでくるようになったのです。

その結果、今までならば知る由も無かった生活の人々を知り、自分たちとの生活を比べ、そこに妬みや嫉みが生まれる。

これが、有名人を炎上させようとする人たちの基本的な思考回路です。

しかし、単に生活水準の格差が可視化されるようになったというだけでは、説明が不十分です。

僕は上に挙げたことに加えて、ネット空間では、成功をしている人がそこにたどり着くまでにした努力が表出しづらいということも、有名人や成功者が叩かれやすい原因になっていると思っています。

 

一定以上の成果を出した人ならば、そこにたどり着くまでに果てしない努力をしていることを知っています。

だから、表面的に成功している人を見ても、どのような苦労を積み上げた果ての結果であるかが分かるため、そこに嫉妬感情は浮かびません。

しかし、ネットではその性質上自分の表現したい情報を発信者が「編集」して発信しています。

そのため、成功の裏にある要因や、どのような戦略をめぐらせたかといった部分は見えづらくなるわけです。

一方で情報を受ける側は、ネットの普及によって膨大な情報が得られるようになったため、発信者にとっては「編集」した情報であるはずのSNS上の情報を、プライベートのことであるように受け取ります。

結果、成功しているその背景には目が行かず、表面的な部分がその人の全てであるかのように映ってしまうわけです。

そうすると、自分はこんなに頑張っているのに、あの人は努力もせずにズルいという感情が芽生えます。

そして、それが成功者や有名人の足をひっぱるという行為に繋がる。

と言うのが僕が考えるネット空間では成功者を蹴落とそうとする人が増える理由です。

 

ネットの普及により、情報発信者が誰でもできるようになったと言われていますが、そこには依然として生産者と消費者という明確な区分があるように思います。

誰かに読んでもらうことを想定している情報を生産者型の情報発信、ただ自分の書きたいことを書くのは消費者型の情報発信とすれば、生産者型の情報発信を行っている人口は、圧倒的少数です。

SNSが進化し、生産者側と消費者側の距離が近づいても、相変わらず生産者と消費者の割合が変化しなければ、ますます成功者に対する嫉妬の念は増大します。

この流れは避けられないものであるのかなあと、思ったりするわけです…

 

久しぶりに書いたら全然文章がまとまらなかった…

旅人の追いかける「蝶」は何を表しているのか?ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」考察

基本的に同じアーティストはあまり繰り返さないと決めているのですが、ポルノグラフィティは昔からファンだったこともあり、以前取り上げた(「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム)で満足できず、もう一本書いてしまいました。

 

僕がハネウマライダーと並んでポルノの楽曲のなかで好きな作品がアゲハ蝶です。

この作品のメインテーマといえる「蝶」。

僕はアゲハ蝶で歌われる「蝶」は、夢や才能、そして憧れの世界といったもののメタファーとして描かれていると考えています。

昔は好きな人を追いかける物語くらいに考えていたのですが、どうしてもそれでは内容に説明がつかないんですよね。

サビから始まるこの曲では、<ヒラリヒラリと舞い遊ぶように姿見せたアゲハ蝶>というように、不意にアゲハ蝶が登場します。

そして、主人公はその蝶に魅せられて、どこまでも追いかけていってしまうのです。

もちろんこれを、「急に現れた大好きな人」として捉えることもできなくはないのですが、そうすると所々で矛盾が生じます。

それが蝶=才能と考えると、途端に内容が繋がるのです。

1番のAメロでは主人公が旅人にどこに行くのかと尋ねるシーンが描かれます。

そして、その詩人が自分自身であったことに気づく。

歌の流れから、旅人が追いかけているものは蝶であると考えて間違えないでしょう。

<旅人に尋ねてみた どこまで行くのか いつになれば終えるのかと 旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど>

蝶を追い掛ける旅人に、どこまで行くのかと尋ねると旅人はこう答えます。

蝶を夢や才能のメタファーであると考えると、「終わらせることはできる」というのは、あきらめるまでは夢を追い続けると解釈することができます。

<そう・・ じゃあお気をつけてと 見送ったのはずっと前で ここに未だ還らない 彼が僕自身だと気付いたのは今更になってだった>

Bメロの歌詞を見て、蝶を追い掛ける旅人の正体が自分であったことが分かります。

そして、はるか前に蝶を追い掛け始めた自分自身が未だそれを求めて帰ってこないということ気づくわけです。

この時点で、夢や才能に憧れてその世界に足を踏み入れた自分自身が、引き返すこともできず、未だそれを追いかけているということが分かります。

それを踏まえて、次の1番の歌詞に続きます。

 

<あなたに逢えたそれだけでよかった 世界に光が満ちた 夢で逢えるだけでよかったのに 愛されたいと願ってしまった 世界が表情を変えた 世の果てでは空と海が混じる>

僕がアゲハ蝶の中で1番好きな歌詞がこの部分です。

ずっと「好きな人に対して片想いのままでよかった」といっているのだと思っていたのですが、それだとどうしても「世界が表情を変えた」の説明がつかないんですよね。

これを、才能や夢と解釈するとうまく繋がります。

この歌詞の作者の晴一さんにとっての夢や才能に憧れる対象は音楽と考えて間違えないでしょう。

とすると、<あなたに逢えたそれだけでよかった>というのは、ロックに出会えたということになります。

ロックに出会うことで世界がまるで違うように見えたというのが前半の内容。

<夢で会えるだけでよかったのに>というのは、自分もそうなりたいなと漠然と思い、友達とバンドをしている少年時代のようなものだと思います。

それが、<愛されたいと願ってしまった>途端に<世界が表情を変え>るのです。

趣味でバンドをやっていた時は全てが輝いて見えたのだけれど、その音楽に<愛されたい>と思う、つまり本格的にその道に進もうとしたら、急に輝いていた世界が表情を変える訳です。

自分の才能を信じ、音楽の世界へと飛び込んだら、急にその道の険しさに気づく。

このサビで夢に憧れてその世界に足を踏み入れたが故に、その道の険しさを知り、それに絶望する主人公の心境が書かれています。

 

2番のAメロで、私の書いた歌詞があなたに届いて欲しいという歌詞が出てきます。

二人称でかかれるあなたは「蝶」のことでいいでしょう。

そして、蝶は自分が憧れる世界(晴一さんの場合はロックスターの仲間入りをすること?)のことです。

自分が書いた歌詞や歌が憧れの世界に届く、つまり自分の才能が認められることを願うのがこのAメロの意味だと思います。

 

そして、2番のBメロでは、自分の現状を戯曲にたとえて、先に進むことはできないけれど、今更戻ることもできず、どこに行けばいいのか分からなくなっている主人公の気持ちが述べられ、2番のサビに入ります。

 

<あなたが望むのなら この身などいつでも差し出していい>

2番のサビでこう書かれているのは、憧れの世界に行くためなら、自分はどんなこともするという気持ちだと解釈できます。

(因みにそれだけ夢を一心不乱に追いかけていた自分のことを、ハネウマライダーではハンドルもブレーキもないオンボロのバイクとして表現されています。)

どんなことでもするから、あなたの心の隅において欲しいと歌詞は続くのですが、これは僅かでもいいから憧れの世界に自分も入りたいと考えることができるでしょう(やや強引ですが...)

 

そして最後、1番のサビを繰り返した後に転調をして<荒野に咲いたアゲハ蝶 ゆらぐその景色の向こう 近づくことのできないオアシス>と続きます。

アゲハ蝶が自分の夢や才能、オアシスが夢のかなった世界と考えるとここの部分は意味が通ります。

夢や才能を追いかけてきたらその先に自分の行きたい夢の叶った世界が見えているのだけれど、どうしてもそこには手が届かない。

だから<近づくことのできないオアシス>なのだと思います。

この歌詞の段階で、主人公の旅人はひたすら蝶を追いかけているだけで、決して蝶を捕まえることができてません。

これは、才能を信じてずっと夢を追いかけているのに、未だそれが自分には手に入っていないということだと思うのです。

だから、オアシスにはどうしてもたどり着けない。

<冷たい水をください できたら愛してください 僕の肩で羽を休めておくれ>

上の解釈を踏まえて、最後の歌詞を見て行きます。

荒野をさまよう旅人にとって水を恵んでくれる存在は自分に気をかけてくれる存在です。

気にかけてくれるだけでいいと言った直後に、できたら愛して欲しいと言うこの場面は非常にグッとくるものがあります。

冷たい水も才能のメタファーとして考えると、一瞬でいいから才能がふってきて欲しいと捉えることができます。

そして、できるならそんな才能に愛されたいと願い、最後のフレーズ<僕の肩で羽を休めておくれ>となるのです。

羽を休めるのはもちろんアゲハ蝶でしょう。

アゲハ蝶には才能がメタファーとして込められているので、自分の肩に止まって欲しいというのは、自分に才能が欲しいということと解釈できます。

才能がないとオアシスにたどり着けないことは分かっているのだけれど、そのために蝶をどれだけ追いかけても手に入らない。

だから未だ旅人は還ってくることはできず、舞台にひとりで立っているだけなんですよね。

この歌は恋愛の歌ではなく、才能に焦がれ追い求める、1人のアーティスト(を夢見る男)の気持ちをストレートに書いたものであるというのが僕の解釈です。

ロックスターや小説家に憧れてその世界に入ったはいいけれど、そこで初めて自分と夢見る世界の間にある距離を知って絶望する。

たぶん、何かを目指したことがある人は誰もが経験したことのある感情だと思います。

そんな複雑な感情が蝶というメタファーで巧みに隠されながらラテンのリズムに乗せて歌われるため、僕たちは何と無くこの歌から哀愁のようなものを感じ惹きつけられる。

アゲハ蝶の魅力はこういったところにあるように思います。

 

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アゲハ蝶

アゲハ蝶

 

 

 

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法準動詞②不定詞は役割を整理することで攻略できる!

4-2 不定詞の整理①

 

準動詞に関して、殆どのテキストが不定詞→動名詞→分詞の順番で掲載されています。

これは用法別で考えたとき、不定詞は名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法と3種類の使い方があるため、だと思います。

不定詞を覚えるのが大変と感じる人が多いと思いますが、その原因のひとつは、この用法の多さにあります。

この単元は、さまざまな内容が登場しますが、全てを丸暗記しようとすると大変です。

それぞれの知識が一体どの用法のものであるのか、常に足元を確認しながら勉強していくことが、不定詞を攻略するコツなのです。

ということで、今回は不定詞を大まかに分類していこうと思います。

 

そもそも「不定詞ってなに?」と聞くと、多くの人が「to+動詞の原形」と答えます。

これは、中学校の文法で不定詞として最初に出会うのがこの形だからです。

確かに不定詞には「to+動詞の原形」で表されるものもありますが、この形だけではありません。

不定詞にはもう一つ、「何も変化させない」という変化をさせる、原形不定詞というものがあるのです。

例えばMy mother makes me clean my room.(私の母は私に部屋を掃除させる)という文を見てみましょう。

この文はSVOCという形で構成されており、C(補語)の位置で使われているcleanが原型

不定詞です。

まずは、不定詞には「to不定詞」と「原形不定詞」の2種類があるということを押さえてください。

 

上で不定詞にはto不定詞と原形不定詞の2種類があると述べましたが、実際のところ、この単元で文法事項として登場する殆どはto不定詞です。

従って、次にto不定詞について見て行きます。

まず、それぞれの用法をまとめていく前に、to不定詞の基本的な表現の付加方法を確認しておきます。

中学英語までならば、to+動詞の原形という形だけを覚えておけば(概ね)事足りましたが、高校英語からは、少し表現を拡張しなければなりません。

具体的には①意味上の主語を加える、②to不定詞の否定表現、③to不定詞の受身、④to不定詞の進行形表現、⑤to不定詞内容の時制のズレです。

まず、意味上の主語ですが、これは「to+動詞の原形」の前に「for+人(前に人の性質がある場合はof+人)」をつけることで表します。

例えば、「to study English」(英語を勉強すること)という文に「彼が英語を勉強すること」というように主語を加えたいときは、「for him to study English」という形になります。

このfor(of)+人で表すことができるのが、to不定詞の意味上の主語です。

次にto不定詞の否定について。

To不定詞以下の内容を否定したい場合は、to不定詞の直前にnotをつけます。

例えば、「I told him to run in the park」(彼に公園を走るように言った)という文のto不定詞以下の内容を否定して「彼に公園を走らないように言った」としたい場合、to不定詞の直前にnotを加えて「I told him not to run in the park」とします。

このように、to不定詞の直前にnotを加えることで、不定詞以下の内容を否定することができます。

 

残りの③~⑤はtoの後ろを変形させることで表すことができます。

まず③のto不定詞以下の内容を受動態に書き換える場合について。

to不定詞以下の内容を受身にしたい場合、to+be+過去分詞形という形にします。

これはto不定詞がto+動詞の原形、受動態がbe動詞+過去分詞であるため、二つを筆算の要領で足したと考えると理解しやすいかと思います。

to不定詞) to +V原形

受 動 態)   be動詞+過去分詞

→ to +  be   +過去分詞

みたいな感じです。

これと同じ要領で、不定詞と進行形を同時に表したい④のパターンはto不定詞+be動詞+現在分詞という形で表します。

また、時制がズレを表す場合は基本的にhave +過去分詞を用いればいいため、to不定詞内の内容と文全体の内容の時制がズレている場合は、to have 過去分詞という形になります。

例えば、「彼が昨日ケーキを作ったらしい(と言われている)」という文であれば、「~らしい」と噂されているのは現在で、「ケーキを作ったらしい」という噂の内容は過去の話なので、ここに時制のズレが生じています。

したがって、これを英語に直す場合、to have 過去分詞を用いて「He is said to have made a cake yesterday」となるのです。

 

というわけで、今回は不定詞には2種類ある事と、不定詞の意味の拡張の仕方をまとめました。

次のエントリでは、具体的に3用法を整理していきたいと思います。

 

関連エントリです

まだ文法で消耗してるの? | 覚えない英文法準動詞①「動詞っぽいけど動詞じゃない」根本がわかると全てわかる準動詞の基本 - 新・薄口コラム