新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



RADWIMPS「おしゃかしゃま」考察~仏教的・キリスト教的世界観を「解く」~

ここ最近、宗教にハマっています 笑
といってもヤバイ感じの意味ではなく、純粋に物語として興味を持ったという意味です。
神教、キリスト教、仏教、イスラム教etc..と好奇心の赴くままに本を読み漁っているのですが、そんな中でふとRADWIMPSの『おしゃかしゃま』を思い出しました。
おしゃかしゃま』が発表されたのは僕が学大学1年生だったころ。
その時は単に神様の位置に人間を置いた人類の文明批判の歌くらいの印象でした。
しかし、改めて歌詞を見ると、キリスト教的な世界観と仏教的な世界観が混在していて、非常に面白い作品だと思うのです。

この歌の歌詞を見ていくと歌詞の中に仏教的な考え方とキリスト教的な考え方が混ざって登場します。
歌詞を追っていくと1番でAメロが3回繰り返され、その一度目は〈~けど人類は増えても増やします〉というように、人間中心主義について歌われます。
続いて2回目のAメロでは崇め奉っていた神のように人類が振る舞い始めたと歌われていますが、まずは「神」に関する具体的な表現だけを追っていきたいのでひとまずここは無視。
3回目のAメロで神に関する具体的な表現が出てきます。
〈僕は見たことはないんだ あちらこちらの絵画で見るんだ さらに話を聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ〉
このフレーズから『おしゃかしゃま』のこの時点で述べられる神は、多くの絵画でモチーフとして扱われたもので、人の形をしているということがわかります。
宗教画といって最初に思い浮かぶのはやはり、聖書の内容をテーマにした作品でしょう。
実際に「創世記」では神は自分に模して人を作ったとされており、また続くBメロで最後の晩餐などで有名な「ダヴィンチ」という名前も出ているので、ここはキリスト教的な神を想定するのが妥当でしょう。

〈来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ〉
1番のサビの段階で「来世」という死生観に言及します。
死んだら生まれ変わるという輪廻転生の死生観を持つのは、完全に欲望を捨て解脱できるまで何度も生まれ変わるとされる仏教です。
一方でキリスト教では死ぬと魂は天国か地獄か煉獄に行くとされています。
〈来世があったって 仮に無くたって〉という表現は、仏教的な死生観に立ったとしても、キリスト教的な死生観に立ったとしてもという意味で読むことができます。
次の〈生まれ変わったって 変らなくたって んなこたぁどうだっていいんだ〉という歌詞も基本的には前と同じ。
どういう世界観に立つかは関係なく、欲望を貪欲に追い求めるのが人間だと歌います。

〈もしもこの僕が神様ならば〉と始まる2番のAメロはキリスト教の世界観で描かれます。
〈7日間で世界を作る〉というのは創世記に書かれている神が世界をどう作ったかというエピソードのこと。
仏教における天地創造は阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)の中に書かれており、仏教は本来創物主や絶対神のような存在を持っていないとされています。
仏教的な世界の形成をものすご~~~~くざっくりと書けば、初めに何も無い空間にカルマが働きかけることで微かな風が起こり、それが次第に大気の層のようなものになり、その上に水の層ができるとされます。
そうしてできた水の層にカルマによる風が吹くと、さながらミルクに張る「膜」のように新たな黄金の層ができ、それが大地になったとされます(キリスト教との違いを指摘するために簡単に挙げた説明ですので、細かな部分の間違いや説明不足はご容赦ください)。
このように仏教の世界観では神が世界を作ったとはされていないので2番のAメロはキリスト教について述べていると考えるのが妥当です。
続く〈増やして減らして~だから1,2,3で滅んじゃえばいいんだって〉という部分も恐らくノアの箱舟について書いたもので、これもキリスト教的な世界観を描いています。

Bメロに入ると再び仏教的な世界観が登場します。
〈馬鹿は死なないと直らない なら考えたって仕方がない さぁ来世のおいらに期待大 でも待って じゃあ現世はどうすんだい〉
ここではっきりと「現世」「来世」という言葉が出ていることから、仏教的な世界観の話であると分かります。
そして2番のサビ、Cメロ、最後のサビに続く。

上で見てきたように、『おしゃかしゃま』の歌詞は仏教的世界観とキリスト教的世界観が交互に出てきて、その合間で人間の愚かさを描きます。
では、一体この歌を通して作者の野田さんは何を言いたいのか?
この曲に関して、パッと聞くと人間の愚かさを歌っているようにも聞こえますが、僕はもう少し違う意図があると考えています。
ただの文明批判なら、キリスト教と仏教を両方出す必要はありません。
むしろ仏教的な考え方を入れてしまえば、神の位置に人間を置き換えることによって発達したされる近代を否定しづらくなってしまう。
僕は野田さんがあえてキリスト教も仏教も持ち出してきた理由は、どちらの宗教でも語られる考え方そのものに対する問題提起の意味があると考えています。
仏教では来世でよりよく生まれ変わる、果ては欲を捨て解脱するために今を清く生きることを、キリスト教では死後の世界で天国に行くために正しく生きることを説きます。
どちらも死後のために今の行き方を示すという点では共通しているといえます。
一方でそれは、今は将来のためにあるのだと割り切って苦しみに耐えるということで、多くの人間はそんなに強くないし、目の前で困難にあった人を必ずしも救えるとは限りません。
野田さんはこの曲を通して、来世や死後の世界を信じて生きられない強くない人間がどう生きたらいいのかという不安や怒りみたいなものを表現したかったのではないかと思うのです。

先ほど飛ばしたCメロと最後のサビを見てみます。
〈ならば どうすればいい? どこに向かえばいい いてもいなくなっても いけないならばどこに〉
〈来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ〉
〈天国行ったって 地獄だったって だからなんだって言うんだ〉
ここには、仏教の神もキリスト教の神も将来のことを導いてくれているけれど、多くの人たちにとって肝心の「今」はどうしろというのだという不満や不安といった感情が書かれていると解釈することができます。
この曲が発表された2009年はITバブル後、リーマンショックで暗い空気が漂っていたとき。
おしゃかしゃま』には、「未来のために今を生きる」ではなく、「今を乗り切るため」の方法を教えてくれという心の叫びのようなものが込められているように思うのです。

 

アイキャッチは『おしゃかしゃま』が収録される「アルトコロニーの定理

アルトコロニーの定理

アルトコロニーの定理

 

 

宇多田ヒカル「花束を君に」考察〜「花束を贈る」という行為に込められた想いを読み解く〜

高校生の頃、エリック・クラプトンの『Tears in heaven』を効いて以来、この曲は僕のお気に入りになりました。

もともと好きだったベートーヴェンの『ソナタ悲愴(第2楽章)』と似た空気を感じたのです。

後になって、そのころの僕には分からなかった音楽理論を知ることで、これらは悲しい歌なのに長調で構成されているという共通項に気がつきました。

明るい曲調で悲しみを歌い上げた曲。

宇多田ヒカルさんの『花束を君に』は僕の中では『Tears in heaven』や『悲愴』と同じ明るい悲しみを表したジャンルにカテゴライズしています。

 

花束を君に』が収録されているFantomeというアルバムは、宇多田ヒカルさんの母親が亡くなった時期に制作された作品なのですが、全編を通して母への思いが感じられます。

特に『花束を君に』は、単体で聞くと好きな人への気持ちを伝えるような歌にも聞こえるのですが、このアルバムの文脈で聞くと、まるで違う見え方になる楽曲であるように思うのです。

 

僕は『花束を君に』を、母への思慕と母からの解放の思いが込められた歌であると考えています。

以前「母への想いを託した曲~宇多田ヒカル「真夏の通り雨」考察~ - 新・薄口コラム」というエントリでも書いたように、宇多田ヒカルさんの母、藤圭子さんは、圧倒的な才能を持つミュージシャンで、ある意味で宇多田ヒカルさんにとって、追いつきたいと憧れていたであろう存在です。

一方で私生活は様々な噂が流れるほどに奔放で、それによって宇多田ヒカルさんが苦労したというエピソードも、雑誌の記事などを読んでいるとみかけます。

いつか追いつきたいと思う一方で呪縛から解放されたい存在。

それが宇多田ヒカルさんにとっての母だったのではないかと思うのです。

 

花束を君に』を祝福の歌として効いていると、いくつも違和感のある表現にたどりついてしまいます。

しかし亡くなってしまった母への「献花」、そして母への思慕と母からの解放という複雑な感情をそのまま描いた楽曲として聞くと、歌詞が繋がるのです。

 

<普段からメイクしない君が薄化粧した朝>

こう続くAメロが一見すると結婚式の日の朝のように感じられるため、この曲を「結婚の曲」と読む人も多いと思うのですが、僕はこれが御葬式の出棺の儀に聞こえました。

普段はメイクをしない母が、「薄化粧」をして眠っている。

結婚式ならば「薄化粧」である必要がありません。

棺で眠る母が化粧を施された。

その表情を見て<始まりと終わりの狭間で 忘れぬ約束した>というのが僕のAの解釈です。

 

そしてそのまま突入するサビの部分。

花束を君に贈ろう>

こういった直後に愛しい人と言っているのですが、5〜8小節目で<どんな言葉並べても 真実にはならないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に>と、何か含みのある表現になっています。

僕は<どんな言葉並べても真実にはならない>という所には、宇多田さんが「君」に対して抱く複雑な感情が込められており、そしてそれが母への(からの)思慕と解放だと思うのです。

ようやく母から解放されたという気持ちの一方で慕っていた、背中を追いかけていた母を失った喪失感。

そんなものとても言葉にできないので、今はただ送り出したい。

<今日は贈ろう 涙色の花束を君に>という歌詞に描かれているのはそんな気持ちなのではないかと思います。

 

2番のAメロでは、「苦労や悲しみがなく楽しかったことだけなら愛を知らずに済んだ」というような気持ちが歌われます。

ここには、苦労もしたけれど楽しいこともあったので、「君」を愛してしまったという気持ちが現れます。

これが宇多田ヒカルさんの気持ちを歌ったものだと仮定したら、「君」は楽しいことだけでなく苦労や淋しさを与える存在ということになります。

そしてその両方を送ってくれた人だからこそ、今愛情を感じてしまっている。

Aメロの終わりの<愛なんて知らずに済んだのにな>という表現には、「君」からの愛情を知りたくなかったというニュアンスが伺えます。

そしてそれは、「君」を失ったからこそ出てきた感情だというのが僕の解釈です。

 

2番のサビでは、<花束を君に贈ろう 言いたいこと言いたいこと きっと山ほどあるけれど 神様しか知らないまま 今日は贈ろう 涙色の花束を>と続きます。

言いたいことは山ほどあるけれど神様しか知らないままというのは、言いたいことことの真実は神様しか知らないままであなたを贈り出すという意味だと思うのです。

やはりここでも、1番のサビにあった「君」に対する複雑な心境が描かれています。

色々な真実や聞きたいことは山ほどあむたけれどそれはあえて聞かないでおくことにした、というか突然死んでしまったあなたに聞きたいことがあったけれどそれは今は忘れよう。

そんな気持ちが読み取れます。

 

2番のサビでは自分の本当は確かめたかった複雑な感情を描いた一方で、3番のサビで「君」への感謝が描かれます。

<君の笑顔が僕の太陽だったよ 今は伝わらなくても 真実には変わりないさ>

ここは自分の抱いた「君」(僕の解釈では母)へのある意味で懺悔のようにも感じられます。

「君」のことを本当はとても慕っていたのに、その気持ちを伝えられなかった。

だから伝わらなくても真実だといって気持ちを伝える。

そして<抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に>と続きます。

歌詞に読点を用いることの少ない宇多田ヒカルさんがここで用いた読点には、思わず気持ちが溢れる様が投影されているように見えます。

「抱きしめてよ」そう気持ちを言った途端に目の前の現実が目の前に現れる。

<さよならの前に>からは、本当は君と別れる前に一度本心を伝えて、抱きしめて欲しかったという気持ちが読み取れます。

ここにきて(そしてここだけに)初めて、「悲しみ」が描かれるのです。

そして最後のサビに向かう。

<どんな言葉並べても 君を讃えるには足りないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に

最後はあなたを讃えるにはどんな言葉でも足りないから、様々なニュアンスを「花束を贈る」という行為にこめて伝えることにする。

そうやって歌が綴じられます。

 

相手への祝福、門出に対する餞けetc...

「花束を贈る」というのは様々な場面で行われますが、それらのいずれもが、「特別な人に気持ちを伝える」という目的のための行為です。

宇多田ヒカルさんは、母に対する気持ちを正直に言ってしまえばネガティヴなものもでてきてしまう。

だからといって嫌いなわけはなく、憧れていたし好きだった。

そのどちらか一方を表現しても嘘になってしまうから、どちらも伝えられる歌にしたかった。

その手段として選んだのが「花束を贈る」という行為をテーマに選ぶことだったのではないかと思うのです。

もちろん僕は宇多田ヒカルさんの実生活を知っているわけでなく、どんな人かなど知らないので、歌詞から受け取った印象をそのまま言葉にしただけです。

だから、本当は全く違う歌なのかもしれません。

ただ、Fantomeというアルバムの文脈で聞くとこういうようにも聞くこともできると思うのです。

色々な解釈の余地のあるこの歌。

皆さんはどのように聞きますか?

 

他の曲の歌詞考察です。よかったらこちらもお願いします。

 ・母への想いを託した曲~宇多田ヒカル「真夏の通り雨」考察~ - 新・薄口コラム

「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム

鬼束ちひろ「私とワルツを」考察〜とても深い女性の優しさを描き切った歌〜 - 新・薄口コラム

ゴダイゴ銀河鉄道999考察~英語詩と日本語詩の対比から見る映画のその続き~ - 新・薄口コラム

 

花束を君に

花束を君に

 

 

 

野良猫奇譚

f:id:kurumi10021002:20170907024940j:image

珍しく人なつっこい我が家の飼い猫ソラ(上)と逃げはしないケド嫌悪感をあらわにする母の実家の飼い猫ナナ(下)

 f:id:kurumi10021002:20170907024946j:image

 

久しぶりに母方のばあちゃんの家に行った。

ばあちゃんの家にはナナというネコがいる。

爪を切るために病院に行けば自ら手を前に出し、お客の腕の中ではいつまでも大人しくしているという事で近所で礼儀のいいと評判のネコだ。

 よく僕の実家にいるソラと比較される。

自分で言うのもなんだがソラは行儀が悪い。

ケガをして倒れていたのを母が拾ってきたのだがうちに来たばかりは野良猫そのものだった。

父があげようとしたエサには見向きもせず、ひょいと食卓に飛び乗って父のサンマを取って逃げていく。

そんなのが当然だった。

あの時の父の切ない顔は今でも覚えている。

ときが経つにつれ幾分大人しくなりはしたが、それでも未だに行儀が悪い。

ソラは人が食事をしているとすぐによこせと言ってくる。

食べ物を渡さないとすぐに噛み付く。

 

高2の時あまりにも噛み付くので指先にアロエを塗って待っていたことがある。

案の定ソラはオヤツをあげなかった僕の右手に噛み付いた。

その時のソラの顔は今思い出しても面白い。

有吉並に顔のパーツが近づいていた。

5年間ソラと暮らしていて唯一の白星だ。

まあそんなソラと比べると一層ナナの大人しさが際立つ訳だ。


本当にナナは行儀がいい。

周りの人びとはナナは一度も怒ったりした事がないと思っている。

しかし僕は一度だけ,本当にその時だけだがあの何をされても怒らないナナが本気で怒ったところをみた事がある。


それは夏の暑い日の午後だった。

ばあちゃんが廊下で股を広げて寝ていた。

その広げた股の間でナナは丸くなっていた。

すやすや眠っていたように思う。

やがてばあちゃんの頭の方からすさまじいいびきが聞こえ始めた。

僕と母のいびきのうるささはきっとここから来ているのだろう。

そんないびきに迷惑そうに目を覚ましたナナだったがそのときは怒りもせずそこでじっとしていた。


時が経ちばあちゃんの地鳴りは収まった。

そしてしばらくすると
「ぷぅぅぅっ~」 という音が聞こえた。

もちろん頭でなく尻からだ。

同時に 「ニャッッー!!?」 という叫び声が廊下に響いた。

股に挟まっていたナナには相当こたえたのだろう,振り向いた時にはナナの牙がばあちゃんの太腿に食い込んでいた。

今度は 「ぎゃっっー!!?」 という悲鳴があがる。

ばあちゃんが痛みで跳び起きた。

その時のばあちゃんは何が起こったのかわからないという表情をしていた。


それ以来ナナの怒った姿は誰も見ていない。

おそらく理由まで含めて怒ったナナを知っているのは自分だけだろう。

ナナを抱きながら僕はふと思いだし笑いをした。

 

受験勉強で有利に戦うための「超」基本スキル

「受験勉強に最も有効なものは、社会人の1年目に習う超初歩の仕事スキルである」というのが僕の持論です。
恐らく、普通の仕事をしている社会人の人ならば、並の高校生と同じだけの勉強量を積めば、たいていの場合行きたい学校にいけると思うのです。
裏を返せば、それくらい社会人と高校生の仕事(受験生の場合は勉強)のマネジメントのスキルに差がある。
だからこそ、社会人が当たり前のようにやっている仕事管理を受験に持ち込めば、非常に有利な戦いができると思うのです。

僕が思う受験勉強が有利になるための社会人の仕事スキルはコスト意識とマルチタスク・マネジメントとKPIの設定。
これに加えて日頃から生産性の意識を持っていたら尚良し。
この辺を普段の学校生活で身につける機会はほとんどないため、これらをしっかりと意識することでかなりの勉強効率の改善が見込めます。
コスト意識とは、限られた予算の中で何をするのが効果的であるかと考える思考です。
受験勉強の場合、予算に該当するのが「時間」です。
勉強計画を立てさせると、殆どの子が「数学に〇時間、英語には×時間必要で国語には△時間…」というように計画を立ててしまいます。
で、いざやるべきことを書き出した時点で、その計画は履行不可能である事に気がつく。
これを僕は予算積み上げ型の学習計画と呼んでいます。
仮に使えるリソースが無尽蔵に存在しているのであればこういう計画でもいいかも知れませんが、仕事の上では殆どの場合使えるリソースは限られています。
だから社会人はそのリソースの中で何ができるかを考える。
一方で学生さんはこうした考え方になれていません(というかむしろ学校の中でコスト積み上げ型の計画ばかりを見てきている傾向がある)。
勉強の計画を立てる上で重要なのは「限られた時間の中で最大限の効果を発揮する手段」を考えること。
コスト意識の有無は、勉強の結果に非常に大きな影響をもたらします。

次に僕が重要であると思っていることがマルチタスク・マネジメントです。
受験生を見ていると、やる気に任せて無計画に勉強をしている人を多く見かけます。
もちろんモチベーションは大切ですが、多くの場合、受験では複数の科目の実力が必要になってきます。
であるならばやはり、複数の仕事を上手くさばくためにマルチタスク・マネジメントを意識する必要があります。
ちきりんさんが以前ブログで書いていましたが、社会人になると殆どの職業において様々な仕事を同時並行で進める必要があります。
どれか一つができてもあとの全部が期限切れでは仕事は成り立たないわけです。
勉強も全く同じ。
やる気や好き嫌いで動くのもいいですが、結果他の科目の実力が伸びなければ意味がありません。
そのため、雰囲気やその場の感情に流されず、複数の科目を同時に学習できるようにしっかりと計画を立て、それに基づいて勉強を進めていく必要があります。

3つ目に重要なことがKPIの設定。
どうしても学校生活では成果をすぐに求められることがほとんど。
そのためこちらも学校ではあまり身につかない考え方です。
受験勉強は大体1年以上をかけた戦いです。
もちろん途中で模擬試験が何度もありますが、全内容が出題範囲である試験で毎回明確な成果を出し続けることは容易ではありません。
そのときに重要になってくるのが、KPI(Key Performance Indicator)の設定です。
KPIを受験勉強に当てはめるのであれば、短期的な勉強の結果を数値で判定すこととなるでしょう。
例えば何月までに単語を何語覚えるとか、いつまでに〇〇という単元はセンターの過去問で間違えないようになるといった形。
何となく頑張るというような抽象的なことではなく、あくまで数値で達成の可否が測定可能で、かつ測定手段のある指標で目標を立てる。
長いスパンでの勝負となる入試の勉強では適切にこの計画が立てられることが非常に重要になってきます。

コスト意識を持っていて、マルチタスク・マネジメントができ、自分でKPIを設定できて、1年くらいの猶予があれば、まあ行きたい大学にいけるように思います。
さらに勉強に対して生産性の意識を持って取り組むことができればさらに合格は現実的になります。
これらはいずれも社会人としてはごくごく当たり前のスキル。
1年目に習う、というかそれがなければとても仕事で使い物にならないくらいに重要な考え方だと思います。
ただそれは、利益や成果を求められる環境に身を置かねばなかなか教えてもらえません。
だからこそ受験生でこれら全てを一定水準で持っている人は少なく、だからこそ、こうした考え方を受験勉強に取り入れることで周囲に大きな差をつけることができると思うのです。
受験勉強はそれまでの「学び」というよりも会社における「仕事」に近いものです。
だからこそ「仕事」の論理で向き合うことが有効な戦略となるのです。

 

アイキャッチは英語のカリスマ関正夫先生の参考書

 

 

10年前と比べて、女の子の見た目とラーメンの味って格段に進化していると思う

日本の最大の強みは、外からパクってきたものを芸術の域まで押し上げること。

昔何かの番組でコメンテーターが言ったこの言葉に、思わず膝を打った記憶があります。

確かに、天ぷらにせよすき焼きにせよ、元は海外から入ってきたものなんですよね。

それが日本という風土の中で独自の進化を遂げる。

その変化が非常に面白い気がします。

 

先日、某大手会社のマーケティング部で働く先輩とご飯を食べた時、「ラーメンってこの10年で進化したよな」という話になりました。

彼曰く、俺らの子供の頃と比べて、明らかにラーメンのクオリティが上がっているとのこと。

これを聞いて、先ほどの「日本の最大の強みは外からパクってきたものを芸術の域まで押し上げる」という言葉を思い出しました。

天ぷらもすき焼きもすでにある程度進化をした後の物なのに対し、ラーメンは現在進行形で芸術の域まで押し上げられようとしている料理。

そういう意味で、非常に面白い料理であるように思うのです。

 

僕らが小さい頃(10年くらい前)のラーメンといったら、醤油ベース(あってもせいぜい味噌か塩)のスープに卵とメンマと薄切りチャーシュー、それにナルトが乗っているというのが一般的なイメージです。

f:id:kurumi10021002:20170829064126j:image

(浜松市 「楊子菜館」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829064218j:image

(京都市 「ラーメン壱番館」さん)

どちらも僕が好きなラーメン屋さんの写真ですが、見た目はとても普通です。

10年くらい前までのラーメンといえば、これが当たり前だったように思います。

 

 

ゼロ年代半ばになってくると、鶏ガラや豚骨、そしてこってり系ラーメンやつけ麺、魚介系ラーメンといったものが流行り出します。

f:id:kurumi10021002:20170829064654j:image

(大阪市 「博多ラーメンげんこつ」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829064740j:image

(京都市紫野 「楽楽楽」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829075755j:image

(鹿児島 「鹿児島ラーメン豚とろ」さん)

あくまで僕の肌感覚ですが、この辺りから途端に味のバリエーションが広がったように思います。

ITが普及して食べログのようなサービスができたことで、珍しい(もちろん美味しい)お店があると、瞬く間に噂が拡散するようになったことが、ラーメン店のバリエーションが増えたことの一因ではないかと思っています。

 

 

ラーメンのバリエーションが多様化するという流れは、SNSが広がった辺りからより顕著になります。

SNSの普及により、より口コミの力が強化されることで、様々なお店が発見されやすくなります。

僕が富山の「富山ブラック」や青森の「味噌カレー牛乳ラーメン」を始めとした、地方のラーメンを知ったのは完全にSNSがきっかけ。

f:id:kurumi10021002:20170829070106j:image

(富山ブラック 富山市「西町大喜」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829070206j:image

 (味噌カレー牛乳ラーメン 青森市「味の札幌」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829071515j:image

 (岡山市 「ぼっけゑラーメン」さん)

尖ったラーメンや、インパクトのあるラーメンは口コミで拡散されやすくなります。

90年代半ばにできてゼロ年代に広がり始めたとされる家系ラーメンですが、本格的に広がり出したのは、実はこの辺りで、きっかけはSNSによる学生界隈での口コミの拡散にあるのではないかと思っています。

f:id:kurumi10021002:20170829070530j:image

(一乗寺 「夢を語れ」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829070548j:image

(草津市 「風花」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829065731j:image

 (草津市 「にぼ次郎」さん)

 

そして、スマホの写真機能が発達し、インスタを始めとした写真を投稿するサービスが広がった現在は、さらにラーメンのバリエーションが多様化してきました。

味や独自性に加えて、その「見た目」も重要になってきました。

f:id:kurumi10021002:20170829070832j:image

(熊本ラーメン 草津市「せからしか」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829070853j:image

(牛骨ラーメン 京都市「長しま」さん)

f:id:kurumi10021002:20170829070933j:image

(ハマグリラーメン 十三「クソおやじ最後の一振り」さん)

 

 

もちろんデバイスがでてきたから、それにあったラーメンが作られるようになっただなんて思っていません。

あくまで今回はすでにあるラーメンを時系列に並べただけ。

ただ、こうしてみて見ると、間違えなくこの10年で新しいラーメンが開発されているように思います。

学生時代に中国へ留学したとき、本場のラーメンを楽しもうと思いお店に入ったら、あまりの違いに驚いたことがありました。

f:id:kurumi10021002:20170829072337j:image

(中国大連 「?????」さん)

 これはかなり日本の味に近いものですが、実際はもっとシンプルで、僕たちの知っている「ラーメン」とはかけ離れたものでした(それはそれで美味しかったですが 笑)

 外からパクってきたものを芸術の域まで押し上げる。

それが現在進行形で行われている(しかも様々な外部環境を踏まえて進化している)ラーメンというジャンルは、観察対象として非常に面白いように思います。

倉木麻衣『渡月橋~君 想ふ~』考察~「想う」と「思う」の使い分けと本歌取りの意図を読む~

千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平

さまざまなことが起こったという神の世界でもそんなことは聞いたこともありません、まるで唐紅のくくり染めに見えるほどに紅葉が竜田川を真っ赤に染め上げるだなんて。

 

百人一首の中に収録されているこの歌。

倉木麻衣さんの『渡月橋~君 想ふ~』を聞いて、久しぶりにこの和歌を思い出しました。

今年の春に公開された映画版名探偵コナンの主題歌であった『渡月橋~君 想ふ~』。

初めて聞いたときは、何で渡月橋を流れる桂川が紅葉で真っ赤に染まるのか分からないという印象だったのですが、先日用事で嵐山に行った時に、ふと別の解釈もできることに気がつきました。

で、そのためには「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の和歌の背景を知っておくことが重要ということで、冒頭で引用しました。

まずこの歌と和歌は本当に関連があるのかと言うことですが、それはこの歌をエンディングに起用した劇場版名探偵コナンの重要なヒントの一つとなっていたこと、歌詞に「から紅」「水くくる」という言葉があることから、この和歌を意識して作られたと考えるのが妥当でしょう。

ということで、以後、この歌は「千早ぶる~」の和歌を元に作られているという前提で考察していきます。

 

「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」の和歌は、在原業平が屏風絵を見て詠んだものとされています。

屏風絵に描かれた紅葉の葉っぱで真っ赤になった龍田川。

それを見て、在原業平が「そんな素晴らしい光景は神々がいた時代でさえも聞いたことがない」と表したものです。

僕はこの「神々がいた時代でさえも聞いたことがない」という部分が、『渡月橋~君 想ふ~』を理解する上で非常に重要だと考えています。

 

渡月橋~君 想ふ~』の歌詞を見てみると、3つの時間軸が入り混じって構成されていることが分かります。

ひとつ目が冒頭の〈寄り添う二人に 君がオーバーラップ〉から始まる、主人公がいる現実の時間軸。

そして次が1番のBメロ〈君の言葉忘れないの〉や2番のAメロ〈いにしえの景色 変わりなく〉というところに表れる、当時「君」と一緒だった過去の時間軸。

そして最後がサビの中に出てくる、「から紅」の和歌によって表される架空の時間軸です。

僕はこの歌について、この3つの時間軸をいったりきたりしながら主人公が「君」の事を想っていると考えることで、自分なりに納得のいく理解をする事ができました。

 

まず一番のAメロ、現実の時間軸で主人公は寄り添って歩くカップルを(おそらくかつて「君」と歩いた嵐山で)見かけて、そこに当時の「君」との思い出をオーバーラップさせています。

その姿をみてさまざまなことを思い出すのが1番のサビの手前まで。

そしてサビに入ると未来へと思いを馳せた場面に移行します。

1番のサビで和歌に関する背景が生きてきます。

〈から紅に染まる渡月橋 導かれる日願って〉という部分は、もしも渡月橋からみえる川の景色がから紅に真っ赤に染まったのなら、もう一度「君」に会いたいと主人公が願っていると捉えることができます。

と、同時に「千早ぶる~」の和歌では、上の句で「神代もきかず」と言っているように、そんなことは現実世界ではありえないということをこの主人公は知っており、その上で、もし渡月橋が真っ赤に染まったなら、「君」に会いたいと願っていると捉えることができるのです。

これらの要素から、一番のサビには、もう会えないと分かっている主人公が、それでも「君」に会いたいと想い続ける心情が読み取れます。

 

2番のAメロは、再び過去の時間軸で情景が描かれています。

〈いにしえの景色変わりなく 今この瞳に映し出す 彩りゆく季節越えて Stock覚えていますか?〉

初めて聞いたとき、僕はこの部分をはるか昔のこととして捉えていたため、どうしても意味が繋がりませんでした。

しかし、〈いにしえの景色〉を「君」と一緒にすごした日々と考えると、内容が繋がります。

かつて一緒に見た景色を、季節が変わったけれど「君」もまだ覚えてくれていますか?

〈Stock覚えていますか?〉にはそんなニュアンスが込められているように解釈できます。

そしてBメロでは再び主人公が会いたいという心情を吐き出し、2番のサビへと繋がります。

 

2番のサビでは再び和歌に重ねていつかあなたにまた会いたいという思いを歌っています。

〈から紅に水くくるとき 君との想いつなげて〉

ここは紅葉の葉が川を括り染めのように真っ赤にすることがあったなら、「君」と想いをつなげて欲しい。

やっぱりここには和歌の上の句にある「千早ぶる 神代もきかず 龍田川」の部分に出ている「そんなこと神様がいた時代にも聞いたことがない」というニュアンスが言外に含まれています。

そして〈いつも君を探してる〉と結ばれる。

 

そのあとCメロで再び自分の心情を語り、最後のサビに繋がります。

1,2番のサビが「千早ぶる」の和歌になぞらえた未来の時間軸であったのに対して、最後のサビは現在の自分の視点で描かれています。

〈から紅の紅葉たちさえ 熱い思いを告げては ゆらり揺れて歌っています〉

この歌詞で注目すべきは「思い」という言葉です。

それまでは「想い」であったのに、最後だけは「思い」となっています。

(僕が見た歌詞サイトの誤植である可能性は捨て切れませんが…)

「想い」という言葉には、「心に思い浮かべたもの」という意味があります。

それに対して「思い」の場合、しっかりとした意思のようなニュアンスが出てくる。

それまでは和歌の上の句をにおわすことで、「君」と再び一緒になることを「不可能なこと」として、自分の中で「想う」だけであったのに対し、最後のサビでは〈から紅の紅葉たちさえ 熱い思いを告げては〉と、「思い」を告げることに言及しています。

つまりこの歌の主人公は、現在の景色を見たり過去を回想したりする中で、「君」のことを考え、最後は「想い」を秘めるだけでなく、「思い」として伝えようとしているのです。

そして、初めの勇気の無い主人公を伝えるために和歌の一部を本歌取り(和歌の技法の一つで、ある歌の一部分を歌の中に引用することで、その歌の言外にある筆者の意図を伝えようとすること)の要領で引用している。

っというのが僕の『渡月橋~君 想ふ~』という曲に対する解釈です。

もしかしたら全く以って的外れかもしれませんが、あくまで見方の一つとしてまとめてみました。

 

いかがでしたでしょうか?

(↑この前、永江一石さんがこの締め方をするウェブの記事をディスっていたので、便乗して使ってみました 笑)

 歌詞はこちらから(渡月橋 ~君 想ふ~ 倉木麻衣 - 歌詞タイム

 

アイキャッチはもちろん渡月橋~君 想ふ~』

渡月橋 〜君 想ふ〜 (初回限定盤) (DVD付)

渡月橋 〜君 想ふ〜 (初回限定盤) (DVD付)

 

 

「正しい」で語る人、「正しさ」で語る人。

僕はこの数年、「自分の主義主張を優先しない」を、モットーに生きています。

これは決して自分の意見がないだとか、主体的でないというわけではありません。

そうではなくて、ひたすらに「正しい」を正確に捉えたいと思っているからです。

あらゆる物事を判断する際に、僕は「正しい」と「正しさ」があると思っています。

「正しい」とは物事のありのままを捉えることで、「正しさ」とは自分がそうあるべきと信じる物にのっとって捉えることです。

例えば、人種差別に関して、「正しさ」で言えば「人種差別はなくなるべき」となりますが、「正しい」でいうと、「そうはいってもみんなどこかで差別意識を持っている」というようになります。

言葉の対比の観点から便宜上「正しい」と言っていますが、どちらかというとニュアンスとしては「現状」に近いかもしれません。

 

僕は基本的にあらゆる場面で、仮にそれが自分の意見と異なっていても「正しい」を選択するようにしています。

問題解決の大前提は、物事を正確に把握することだと思うからです。

何かについて議論していると、たまに自分の意見を守ることが(無意識に)前提となっている人に出会います。

自分の意見を守ることが先に来ている人はどうしても出てくる解決策の部分が弱くなってしまう。

入り口の時点で「現実はこんなもんだよね」という部分が置き去りになっているからです。

「正しさ」で語る人は、現状をこう変えたいという、自らがゲームメイカーになって動かしていく場合には非常に強さを発揮しますが、逆に、自分が大きなルールの中で勝負していくような場面では、判断を誤りやすくなってしまいます。

 

僕が最近よく考えるものの1つに、TOP&NO.2論があります。

組織でもチームでもプロジェクトでもいいけれど、あらゆる複数人が関わって進めていく物事において、どういうポジションの人が先頭に立っているとうまくいくかというお話です。

TOPとNO.2の考え方を「正しさ」と「正しい」の2つで分類すると、構成は次の4パターンになります。

①TOP→正しさ NO.2→正しさ

②TOP→正しさ NO.2→正しい

③TOP→正しい NO.2→正しい

④TOP→正しい NO2→正しさ

もし①のようにお互いに正しいことを信じるタイプであったとすると、主義主張が非常に近しい場合は別として、基本的には意見が対立し、空中分解を起こします。

また仮に、主義主張が近いとしても、あまりにそれを優先するあまり、現実を捉え間違えて、誰に刺さらないアウトプットを生み出すことになりかねません。

次に③を見てみると、この場合だと「正しい」ことを選択するため、手堅いけれどスケールしないものが生まれやすくなります。

 また「正しい」は徹底的に自分の意見を排除する必要があるため、物事を動かすための推進力が生まれづらくなり、組織が展開しにくくなります。

まずいのは④のTOPが「正しい」を追求し、NO.2が「正しさ」を追求する場合です。

本来TOPを支えるために的確なアイデアを提示するのがNO.2の役割。

それが自分の主義主張を優先し始めると、組織としての方針がブレ始めます。

また、TOPは「正しい」を優先しているため、いちいち主張が食い違い、NO.2の不満を増やしてしまいます。

結果として組織全体が常に不満の爆発しやすい危険性を孕むことになるわけです。

僕が最も理想的な組織の形であると思っているのが、②のTOPが「正しさ」を追いかけ、NO2が「正しい」を大切にする場合です。

この形だと、TOPが推進力を担保し、一方でそのために弱くなった戦略性をNO.2が補えるようになります。

 

僕は個人として動く場合にはそれなりに自分の「正しさ」を大切にしますが、人のプロジェクトに参画する場合は、徹底的に「正しい」側に寄るようにしています。

そして、「正しい」から導いた自分の意見を決して押し通そうとしない。

自分自身がTOPに立つことが好きではないということもあって、僕はTOPの人に重宝されるNO.2というものをよく考えています。

現時点でのその答えが「正しい」を追求する人なのです。

大抵の場合、熱量のある人ほど上の立ち位置になるので、勢いのある組織ほど①になりがち。

だからこそ、そこで自分の意見は一旦棚上げして、「正しい」を正確に把握できる人材は、(特にTOPに)重宝されると思うのです。

そんなわけで、ひたすら正確に「正しい」を捉えることができるように物事に向き合う今日このごろ。