新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」②「貧困」の定義を考えることで筆者の主張を追いかける

以前のエントリで、『南の貧困/北の貧困』を一言で表すと「それって本当に正しいの?」という問いかけになるという話を書きました。
さすがにこの書き方だけでは何が言いたいのか分からないと思うので、実際に文章内容を追いかけてみたいと思います。
『南の貧困/北の貧困』は世界銀行で用いられている貧困の定義を紹介するところからはじまります。
その定義によれば1日あたりの生活費が1ドル(2017/10/19の時点だと1ドル約113円です)が貧困ライン、1日あたり75セント(1日あたり約85円)で暮らす人を極貧層とされています。
本文から少し離れてしまいますが、一旦110円で1日を過ごすことを想像して下さい。
コンビ二で買うならせいぜい安い菓子パンひとつ。
こんなんじゃとても生活できないですよね?(笑)
僕たちの生活に照らし合わせると1日1ドルはとても生活できない「貧困」ラインなので、この世界銀行の定義は正しいように思いますが筆者は「貧困のこのようなコンセプトは正しいだろうか?」と言っています。
これが冒頭で述べた「それって本当に正しいの?」という問いかけです。
僕たちからするとまるで疑問を持たない「1日1ドル」という貧困ライン。
筆者はここから、僕たちが「当たり前」と思うこの「貧困」の定義についてさまざまな具体例を用いて説明をしていきます。

ここからの内容を読み進める前に、一度「貧困」という言葉について整理をしておきたいと思います。
皆さんは「貧困ってなに」と聞かれたらどうやって答えますか?
恐らく「お金がないこと」とか「生活ができないこと」とか、さまざまな答えが返ってくると思います。
この「さまざまな答えが返ってくる」というのがポイントです。
複数人に聞いたらいろいろな答えが返ってくるように、「貧困」にはさまざまな要因があるのです。
その中で一番計測しやすいのが「お金」です。
あくまで1要素でしかないのに、それを絶対的な数値として扱うのはどうなの?他の可能性にも目を向けようよと言っているのが筆者の言いたいことなのです。

本文に戻ります。
少し上に書いたように、貧困(というより人々の生活の豊かさ)を測る指標はお金ばかりではありません。
お金以外の生活の豊かさの例として紹介されているのが中国の巴馬瑶(パーマーヤオ)族です。
本文で筆者も「長寿が幸福とは限らないが、九十代くらいまでは元気で『悩みがない』ということは、よい人生だと想像するほうが素直だろう。」といっている通り、巴馬瑶族の長寿は豊かさの一つの指標といえます。
この視点からみれば、巴馬瑶(パーマーヤオ)族は決して「貧困」ではありません。
しかし彼らの生活を「お金」という尺度から見たら1日あたり0.13ドルという生活水準で、世界銀行の定義する数値でいけば紛れもなく「貧困」に分類されるのです。
これって本当に正しいのでしょうか?
次段落ではアメリカの先住民の例がつづきますので、次回はその辺から筆者の主張について迫っていこうと思います。

 

 

アイキャッチは『ブラックジャックによろしく』(Amazonでは「ブラックジャックによろちんこ」)の作者で度々議論を巻き起こす佐藤秀峰先生の『漫画貧乏』

 

漫画貧乏

漫画貧乏

 

  南の貧困/北の貧困について解説した関連エントリです

テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」が難しく感じる理由と理解のしかた - 新・薄口コラム

AO・推薦入試で周りに差をつける視点①受かる人は「顧客視点」と「コンセプト」がはっきりしている

AO入試公募推薦の面接や志望動機について、毎年生徒さんから添削を頼まれます。
添削をする際、「素材をより良くする」が僕のスタンスです。
だから、まずはその生徒さんが書いた志望動機(箇条書きでも何でもいいので、まずは自身の考えたもの)を用意してもらうところからはじめます。
で、実際に読んでみて僕が持つ感想は、大体「分からない」と「もったいない」です(笑)
ごく稀に、一発目で僕が添削して手を加えるなんて恐れ多いというようなものを書いてくる人もいますが、たいていは上の二つの感想に落ち着きます。
(もちろん、何もアドバイスをしていないので当然ですが…)

面接の内容や志望動機を考える際、僕はまず「顧客視点」と「コンセプト」を持てという話からはじめます。
コンセプトは後に語るとして、まずは分かりにくい「顧客視点」から。
顧客視点とは、相手が何を求めているのかを考えるということです。
誤解の無いよう断りを入れておくと、ここでいう顧客視点とは「相手が何を求めているのかを考える」ことで、決して「相手が言って欲しいことにあわせる」ということではありません。
「相手の意図を考える」ことと「相手に合わせる」ことはまるで違います。
面接で話す内容にしても、志望理由書の内容にしても、それを課した学校側の意図に頭をめぐらせているか否かで、伝わる情報の密度は全く異なってしまうのです。

大学側が面接や志望理由書で見たいことは、その学校がAO入試なり公募推薦入試をどういう位置づけと考えているかで2つに分かれます。
一般入試で募集定員の何倍もの志願者が集まる学校の入試課の先生になったつもりで、公募推薦入試やAO入試でどういう生徒が欲しいか考えて下さい。
一般入試で十分な人数を確保できる場合、公募推薦AO入試で人を確保するという緊急性はありません。
そうした状況で公募推薦AO入試を設定する必要性があるのは、一般入試では確保することのできない学生、つまり筆記試験では測れない優秀な学生が欲しい場合でしょう。
したがって、上位~中堅国公立や人気の私立大学の公募推薦入試やAO入試では、他の受験生と比較したときにはっきりと印象に残る内容を組み立てる必要が出てきます。

毎年募集定員の何倍もの志望者が来る学校がある一方で、大半の学校はそう何倍もの志願者が出てくるわけではありません。
そうした学校における公募推薦AO入試の位置づけを考えてみてください。
志願者が殺到するような学校で無い場合、公募推薦AO入試は「母数の確保」という側面が出てきます。
この場合に学校が求めるのは、どこの学校からも引く手数多な輝かしい実績ではなく、勉強意欲があるということや大学を辞めないという安心感です。
毎年何千人と入学する総合大学ならともかく、手厚いフォローを売りにする小規模の大学にとっては、意欲がなく学校に来なくなる学生や入学したはいいけれどすぐに退学してしまうような学生が数人出るだけで大打撃です。
そういったことにならないかをしっかり見定める役割があるのが小規模大学の募推薦入試やAO入試です。

これが僕のいう顧客視点です。
顧客視点を持ってしっかりと相手が何を求めているのかを考えることができたら、次はコンセプトです。
しばしば、自己PRを見ていると自分の良さとアピールしている内容が全く違う人を見かけます。
ちぐはぐな志望理由になるのはコンセプトがブレッブレになってしまっていることが原因です(笑)
次回は自分のアピールの核となる「コンセプト」についてまとめたいと思います。

 

アイキャッチはそこらの大学入試の面接本より断然役に立つ就活の本(笑) 

内定力

内定力

 

僕たちは場に立たせようとする人に牙を向く

テレビの最大のタブーは特定の芸能プロダクションの批判でも韓国批判でもスポンサーの批判でもなく、視聴者をバカにすることである。

大分前に岡田斗司夫さんが自身の番組で語っていた言葉なのですが、本当にその通りだと思います。

芸能人プロダクションの顔色を伺うのは、芸能プロに権力があるからではなく、視聴者の関心のある芸能人を提供してもらえなければ困るから。

お金を出してくれるスポンサーも確かに大切ですが、そのスポンサーがお金を出してくれるのは、テレビが「視聴者」という商品を持っているからです。

テレビは出演者に拒否されても、スポンサーに離れられてもビジネスモデルは維持できますが、視聴者を敵に回して誰も見なくなってしまえばモデルが壊れてしまうんですよね。

だから、視聴者をバカにすることは絶対に避けなければないことなのです。

 

僕の大好きな言論人に、今回の選挙戦に関して投票を棄権するという署名をしたことで絶賛炎上中の東浩紀さんがいます。

僕は今回の炎上に関して、根っこのところには上に書いたテレビにおける最大のタブーと同じ構造が見られるのではないかと思っています。

政治に関して、様々な主張や様々な批判を目にします。

そのほとんどで、批判の矛先歯は政治家やメディアといった「権力」に向いています。

様々な意見を述べている「僕たち」は、そのフィールドに立っていません。

ところが東さんの主張は違います。

あくまで僕の解釈なので、東さんの言わんとするところと違うかもしれませんが、東さんは選挙を集団で棄権することによって国民が今の政治に辟易としていることを示そうといっています。

ここには政治に対する自分たちの意思表明と同時に、選挙というルールそのものを疑ってみたらどうなの?という、国民に対する問題提起も含まれています。

 

僕は東さんの今回の主張が、政治家でもメディアでもなく僕たち自身を対象としている点で他の選挙に関する意見とは決定的に異なっていると考えています。

東さんの選挙棄権の呼びかけは、選挙に行って投票することが「当たり前」だと思っている僕たちに対して、そもそも「選挙に行くこと」を疑ったらどうなの?と言ってきているのです。

やや大げさに言えば、僕たちの投票態度に対する「批判」と考えることもできます。

また、ただ投票という行為は選択肢の中から選ぶだけなのに対し、投票を棄権するというのは自らの意思を表明しなければなりません。

投票は「審査員」でいられるのに対して、棄権は「プレイヤー」にならなければいけないのです。

僕たちに「お前ら前提を疑ってみることくらいしたら?」と言った上に、審査員というある種責任の生じない安全な位置であることを降りさせプレイヤーになることを求める。

もちろんそんな風に考えて東さんを批判している人は多くないと思いますが、少なからずそうした「雰囲気」を無意識に嗅ぎ取って気を逆立てているというところはあるのではないかと思うのです。

 

アイキャッチ東浩紀さんのゲンロン0

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」が難しく感じる理由と理解のしかた

高校生の現代文で登場する見田宗介先生の『南の貧困/北の貧困』。
この文章のあたりから急に内容が難しくなったと感じる人も多いよう思います。
もちろんいろいろな原因はあると思うのですが、最大の理由は「主張が直感的に分かりにくい」ところにあるのではないでしょうか。
それまでの現代文で扱う文章ならば、途中に多少難しいことが書いてあっても、比較されている内容であったり筆者の言いたいことだったりを読めば「ふ~ん」と理解することができました。
例えば『水の東西』ならば、「西洋は〇〇、日本は〇〇」と言われれば、「確かにそうかも!」という感じです。
ところがこの作品のあたりから、だんだんと主張だけ見ても直感的には理解できなくなります。
これが、『南の貧困/北の貧困』くらいから急激に難しくなる理由です。

僕は『南の貧困/北の貧困』が読めるかどうかのポイントは「それって本当に正しいの?」という視点があるかどうかだと思っていて、それを直感的に理解してもらうために、次の2つの例を出して説明します。
①背が高いと女の子にモテるから、牛乳をいっぱい飲みなさい。
②背が高いと女の子にモテるっていうけど、それって本当なの?
高校入試に出てくる文章や、これまでの現代文で習ってきた文章の多くは①のように「AだからB」という書かれ方をしているものが殆どです。
それに対して『南の貧困/北の貧困』では、「Aって言われるけど、それって本当に正しいの?」というように前提自体に疑問が投げかけられています。
それまでルールを前提に話が進められる論説文しか読んだことがなかったのに、急にルール自体が正しいのかについて書かれてしまうから、何が言いたいのか分からなくなってしまうわけです。
昨日まではミーティングでサッカーの試合に勝つための戦略を話し合っていたのに、今日顔を出したらいきなり「サッカーのルールってこれでいいのか?」という議論をし始めたみたいな感じ(笑)
『南の貧困/北の貧困』を理解するためには、まずは筆者が何に対して「それって本当に正しいの?」と言っているのかを理解する必要があります。

見田宗介先生が『南の貧困/北の貧困』で「それって本当に正しいの?」と言っているのは「貧困」についてです。
一般には「1日1ドル以下の生活をしている人は貧困でかわいそうだから、仕事を作って助けてあげよう」って言われるけど、本当にそれで貧しい人は救われるの?
細かな部分に目を瞑ってざっくりと説明すれば、筆者が言いたいことはこんな感じです。
(あくまで文章を直感的に理解するのを目的として、非常に大まかな解釈で説明を書いていますので、専門知識がある方の知識に関するツッコミはご遠慮ください 笑)

「途上国人は収入が少なくてかわそうだから仕事を作って助けてあげようっていうけど、アイツら自分で食べ物作ってるし、お金を稼げるようにすることが大切だとは限らなくない?」
これが(雑にいえば)筆者の主張です。
ドミニカやアマゾンの先住民の中には確かに1日1ドル以下で暮らしている人たちがいます。
もし日本で生きている僕たちが1日1ドルならば、毎日買えるのはコンビ二おにぎり一つくらい。
当然こんなんじゃ生きていけません。
この価値観で「1日1ドル」と聞くと、むちゃくちゃ貧しい生活に思います。
しかし、実際には彼らはご飯を買わなくても自分で作物を育てたりしています。
ドミニカやアマゾンの先住民たちには、そういった「お金で買う必要のない」生活の手段があるわけです。
お腹が空いたらスーパーやコンビニに買い物へ行かなければならない人にとっての「1日1ドル」と、食料などの生活に必要なものは自分たちで作った上での「1日1ドル」では勝手が違います。

では、そんな人たちに対して「君たちは貧しいから働き口を作ってお金を稼がせてあげよう」ということをしたらどうなるでしょうか。
たとえば、1ドルを稼ぐためにドミニカやアマゾンの先住民たちが1日8時間働くようになったとします。
そうすると、それまでやっていた農業を手放さなければならなくなるので、1ドルの稼ぎができた替わりにそれまで「無料」で手に入っていた食料は作れなくなってしまうのです。
確かに名目上は1ドルの収入が増えたことによって「貧困」は脱出できたということになりますが、彼らは食料を作れなくなった分を手にしたお金で買わなければいけません。
これでは意味がありませんよね?笑
「貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。」
「貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。」
こういった筆者の言葉は、上に挙げたようなことをいっていると解釈すればいいでしょう。

今回は『南の貧困/北の貧困』の大まかな主張についてざっくりとまとめました。
(いつになるかは分かりませんが)次回以降は段落ごとの内容について見ていきたいと思います。

 

南の貧困/北の貧困について解説した関連エントリです
テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」が難しく感じる理由と理解のしかた - 新・薄口コラム
テスト前日に確認したい「南の貧困/北の貧困」②「貧困」の定義を考えることで筆者の主張を追いかける - 新・薄口コラム

 

アイキャッチは『南の貧困/北の貧困』が収録されている見田宗介さんの「現代社会の理論」 

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

 

 

「名づけ」の観点から更木剣八の斬魄刀解放を読み解く〜斬魄刀に名前を「与えて」しまった死神〜

寄稿依頼を受けた記事のために、ここのところ「名づけ」というテーマで様々なマンガを読んでいました。

そちらの文章では複数のマンガを比較したために書くのをやめたのですが、「名づけ」という観点から非常に興味深いシーンがありました。

BLEACH』の更木剣八斬魄刀を解放するシーンです。

もともとBLEACHに出てくる剣の名前を呼ぶことで解放するという設定が「名づけ」という観点から非常に面白く思っていたのですが、特にこの場面は「名づけ」に関して様々な考察ができるように思うのです。

 

更木剣八斬魄刀の解放を考察するには、副隊長の草鹿やちるとの関係を整理することが欠かせません。

もともと剣八は名前は自分の出身地(非常に治安が悪く、スラムの最下層のような場所です)「更木」と、当代最強の死神に与えられる「剣八」の異名を組み合わせたもの。

もともと剣八呼ばれる名前を持っていませんでした。

ある日、同じく「更木」同様にスラムのようなひどく荒れた地域で、1人の少女に出会います。

その少女に名前を訪ねても答えない(=名前がない)ということで、剣八が自分の尊敬する人の名ということで「やちる」という名を、そして出会った地域の「草鹿」という姓を授け、そこから2人は行動を共にするようになります。

これが更木剣八草鹿やちるの出会い。

 

僕はこの出会いのシーンが、後の剣八の刀の解放シーンの壮大な伏線になっていたのだと思っています。

剣八が自身の斬魄刀「野晒」を解放する直前のシーンで、やちるの回想シーンがあります。

「あたしはそこで血以外の色を見たことがない〜あなたはあたしの血まみれの世界を一瞬で切り刻んでそしてあたしに名前をくれた〜あの時あなたが現れなければ今のあたしはここにない」

このやちるの台詞が、剣八斬魄刀「野晒」の解放と非常に密接に関係していると思うのです。

結論から言うと、僕はやちるは剣八斬魄刀だと思っています。

剣八とやちるの初めての出会いのシーン。

あれは、剣八が自分の斬魄刀と初めて出会ったシーンだったと思うのです。

通常であれば、斬魄刀から名前を聞き、その名前を呼ぶことで刀が解放されます。

しかし剣八は出会った女の子(=自身の斬魄刀)に自ら名前を与えてしまった。

その結果、本来の解放とは違う形の、特殊な解放になってしまったのではないかと思うのです。

 

斬魄刀が使用者に名前を教え、その名を呼ぶことで力が解放されるというのが通常ですが、これまでにも例外が出てきています。

綾瀬川弓親の斬魄刀「瑠璃色孔雀」です。

使用者の弓親は通常時に刀を解放するとき、本来の名前である「瑠璃色孔雀」ではなく、「藤孔雀」と呼んでいます。

意に沿わない名前(嫌いなアダ名みたいなもの)で呼ばれた斬魄刀は、本来の力ではない中途半端な解放をします。

弓親の斬魄刀と同様に、剣八斬魄刀も、本来の名前ではない呼ばれ方をされたために、通常とは違った解放形態になったというのが僕の解釈です。

本当ならば初めの出会いの段階で、思わぬ形で名前を授けられ、その名前を気に入ってしまったために、本来とは違う草鹿やちるという少女の形で解放されてしまった。

剣八と過ごすうちにやちるは本来の名前に気づき、最後の場面で剣八を救うために自らの名前を教えた。

それが、「野晒」という剣八斬魄刀だと思うのです。

 

剣八は初めて一護と戦った時に、「俺は霊圧が強すぎて刀を封印できない」と言っていますが、これは(本人も気づかぬうちに)やちるという名前を斬魄刀に名づけてしまったために、封印できなくなっていたのだと思うのです。

また、作中で何度か剣八斬魄刀の名前を知ろうとして、それが叶わない場面が描かれますが、それも自ら斬魄刀に「名づけ」をしてしまっているために、そもそも名前が知れない状態であったと考えることができます。

既にある名前を捨て、新たな名前で呼ぶということは、それまでの全ての関係が一度断たれることだと考えれば、自ら「名づけ」をしてしまった剣八斬魄刀の本当の名を知ることができないのも納得がいきます。

 

BLEACHの最後の戦いには、隊長と副隊長のそれまでの関係が断たれる場面が多く出てきます。

剣八の場面はそれが斬魄刀の解放です。

「野晒」という本来の名前で呼ばれ、それに呼応してしまえば、それまでの副隊長草鹿やちると隊長更木剣八という関係には戻れません。

やちるが「野晒」という名前を教える場面は、剣八を救うためにそれまでの関係を断つシーンであるように思うのです。

 

恩人が「名づけ」をしてくれた名前を返上し、自分の本来の名を教える。

更木剣八斬魄刀解放シーンには、そんな意味合いが込められていたのではないかと思うのです。

 

アイキャッチはもちろんBLEACH

 

BLEACH 22 千年血戦篇3 渇望 (SHUEISHA JUMP REMIX)

BLEACH 22 千年血戦篇3 渇望 (SHUEISHA JUMP REMIX)

 

 

 

僕たちは自分で思っているほど論理的ではないと思うんだ

「目の前にAとBの選択肢があります。あなたはどちらを選びますか?」
本来なら他の選択肢があるはずの場面で、特定の候補を並べられると、ついついその選択肢の中から選んでしまうということがよくあります。
あるいは手品の技法に、マジシャンズチョイスといって、これと似た現象を利用したものがあります。
相手に自由に選択してもらっているのに、結果的にマジシャンの意中のカードを選ばせる。
これは選択と判断を分離することで行うテクニックです。
観客は選択を行うけれど判断はしない。
ある観客が行った行動の結果生じる行動はマジシャンが決めているのです。

上に挙げたような「論理遊び」は日常でよく見かけます。
さりげなくこうしたことをやっている人をみると、凄いなと思います。
反対に、本人も自覚がないうちに論理を飛躍させてしまう人もよく見かけます。
最近、有名人に対するTwitterのリプライ観察にハマッているのですが、特に炎上している人に対するリプライを見ていると、こうした「自覚無き論理の飛躍」を多く見かけます。
で、結果どんどん議論?がおかしな方向に流れてしまう。
僕がリプライを追いかけている中で、頻繁に見かけるパターンがあります。
それが以下の6つ。
①全体の傾向の話をしている時に個別具体的な事例をあげる
②Aという前提で話しているときにBという視点から反論をする
③正誤の判断と好みの判断が一致していると思っている
④Aの最大値とBの最小値を比較する
⑤いくつも重ねたロジックをかいつまむ
⑥情報を引用する際に無自覚に自分の解釈を加える
(論理というわけではないものも含んでいますが、Twitterで多い思い違いのパターンとでも思っていただければ幸いです…)

①の全体の傾向の話をしている時に個別具体的な事例をあげるというのはデータを示している人に対するリプライでよく見かけます。
「自分の周りはそれに該当しないから、データ自体が疑わしい。」或いは「A(客観的な内容)という場合も確かにあるが、B(個別具体的な内容)という場合もある。」みたいな感じです。
僕たちが身近な体験ほどリアルに感じるのはある意味で当然であるため、それだけバイアスがかかっているということを意識しておく必要があります。

②のAという前提で話しているときにBというのは、格差等の社会問題について語られる場合に多く見かけます。
発信者は「Aで見ればBである」と言っている人に対して、「CでみたらDだから間違いだ」という具合です。
この場合、そもそも論点を明確にするために特定の前提に基づいた意見を発信している訳なので、その前提の外から意見を投げられても、受け取った側は反論できないという状態になってしまいます。

③はニュースに関連するようなつぶやきに見られる傾向です。
発信者は自信の好みとは別のところで「考え」を述べているだけなのに、そこに本人の好みが乗っかっていると考えてしまうタイプがここに該当します。
仮に「A,B,Cという要素から希望の党が多くの議席数を獲得するだろう」と言っている人がいて、それがそのまま本人の好みであるとは限りません。
希望の党が勝つと思う」と「希望の党に勝って欲しい」はまるで違う内容です。

④のAの最大値とBの最小値を比較するというのは、特定の事柄に思い入れが強い場合に発生しやすい傾向です。
一番美味しい中華料理と一番マズイフランス料理を比較して「やっぱり中華がいい!」と言っても誰からも共感が得られないように、Aのメリットを述べたいときに、Bのデメリットを比較対象に出す人がいますが、これでは正しく比較できているとは言えません。
もし正しく比較するのであれば、AのメリットとBのメリットを、あるいはAのデメリットとBのデメリットを比較すべきです。

⑤のロジックをかいつまむというのは「1→2→3→4→5」という論理を説明している意見を「1→4→5」だと解釈するみたいなイメージです。
これは、大きく炎上している発信者に対して、反射的なリプライが増えると増加するパターンです。

最後の⑥情報を引用する際に無自覚に自分の解釈を加えるというのは、人の意見を引用するときに多くあるパターンです。
ニュースサイト等が引用をする際にも時々見かけます。
原文では「100人増えた」と単に事実を述べているだけなのに、引用の際に「100人も増えた」というように「解釈」が加わってしまう。
これは無意識に付け加えられている場合が多く、それが原因でやりとりに齟齬が出るというパターンが多いように思います。

論理が飛躍しているパターンとして①~⑥を挙げましたが、僕は別に、これを以って上記に該当するようなリプライをする人が論理的でないと批難したいわけではありません。
Twitterの性質上、そういったミスを誘発しやすいというだけのお話。
それこそ、分析と主張は違います(笑)

「炎上」という現象は、SNSが普及し、誰もが発信者となり得るからこそ生まれたことだと思うので、引き続き観察したいトピックだったりします。

 

アイキャッチは論理の人、西村博之さんの新作です!

 

無敵の思考 ――誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21

無敵の思考 ――誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21

 

 

 

 

ムダという「努力」が価値になる

テキストを作り、学校説明会に出つつ、テスト対策を行いetc...

また塾以外の関わらせてもらっていることも含めて、この二ヶ月くらいガラにもなく仕事に打ち込んでいました(笑)

ほぼほぼ仕事オンリーの生活です。

で、明らかに感じるのがパフォーマンスの低下。

別に休んでいないから効率が下がっているとかそういうお話ではなく、アウトプットの質が落ちているなというお話です。

元々僕は仕事柄授業時間以外はだいぶ自由な生活をしていて、朝起きてお昼まで本を読んだり情報を集めたりとインプットをしながら、ブログを書いてみたいなことが日課でした。

で、お昼からまた少し本を読んだりして、気が向いた時間に出社(笑)みたいな。

多分ここにタイムテーブルを書き出したら定時で働いている人には怒られるような生活です。

1日の大半がムダでできている(笑)

 

ただ、僕はそうした「ムダ」が結構大切であると思っています。

ムダがあるからこそ、アウトプットに個性が生まれるからです。

僕はある人が仕事でもプライベートでも何かしらのアウトプットを生み出す時にアイデアが出てくる場所を、タネを植えて目がでる土壌のようなものと考えて、「知層」と呼んでいます。

それまでに溜め込んだ膨大な知識がアウトプットの肥やしになるから知識の層で知層。

この知層を耕すには、ムダな部分が必要不可欠だと考えるのです。

 

もちろん仕事に打ち込んでいれば、仕事めんの知識や経験が膨大に積み上がり、様々な見地が得られます。

しかし、それらが蓄えられて作られる知層はかなり偏ったもの。

また仕事に打ち込んで、アウトプットも仕事関係ばかりになると、知層に埋める「タネ」も同じものばかり。

こうなってくると単作で同じ作物ばかりを育てていたら畑が痩せてしまうのと同様に、知層もどんどん貧しくなってしまいます。

僕が肌で感じているのはまさにこの部分。

 

ここ最近の僕の生活をパーセンテージにしてみると、70%が仕事で20%が人とのコミュニケーション、残りの10%がインプットという感じです。

今までは60%が仕事で35%がインプット、5%がコミュニケーションという具合。

何か興味のあるものを掘り下げたり、自分の中でグルグルと思考を巡らすインプットの時間が極端に減ったため、自分自身ではっきり分かるくらいにアウトプットに「らしさ」がなくなります。

ここ最近ブログ(や諸々の書き仕事)が書けなくなっていたのはまさにこれが理由。

自分「らしい」アイデアをひねり出すまでに、非常に時間がかかるようになってしまっていました。

 

どんな作業であれそれが仕事である以上「価値を生み出す」という部分は共通していて、その意味ではそこに差別化はありません。

価値を生み出さない部分、つまりムダにこそその人の差別化の要素があると思うのです。

ここ最近の社会では、ロジカルシンキングとか合理化といったことがもてはやされています。

もちろんそれは短期的(数ヶ月〜数年)な結果を出すためには有効な手段かもしれません。

しかし長いスパンで見たとき、徹底的にムダを省くそれらの手法は差別化という点でかなり危うい戦略に感じるのです。

論理的思考や合理的な行動が短期的な結果を出しやすいのは、他の人がする少しずつのです「ムダ」を徹底的に排することで、人より早くゴールにたどり着くことができるから。

裏を返せば、勝負の要素から「スピード」を外してしまえば何の価値もないということです。

例えばxというアウトプットを得るのにAさんは1週間、Bさんは2週間かかるとすれば、周囲に重宝されるのはどう考えてもAさんです。

しかし、スピードという視点を退けて2人の成果物を見たとき、xという成果物を出したという点ではどちらも同じ。

成果物自体に差別化の要因は含んでいないのです。

一ヶ月というタイムスパンで考えればAとBが成果物にたどり着くまでの7日という差は非常に大きなものですが、20年くらいで見たときには殆ど誤差の範囲です。

 

論理的思考と合理的な行動を突き詰めれば、行き着くのは誰が出しても同じ結論になるというのが僕の持論

「スピード」が関係ない視点でみたときに、それらに頼った結果の出し方を武器にした戦い方は非常に危ういものになります。

スピードという枠をとっぱらった時に勝敗を分けるのが、成果物自体の差別化で、その差別化を生む基盤となるのが知層。

ムダが豊かな知層を作るのだとしたら、論理的・合理的に考える際に切り捨てる「ムダ」な要素こそが最大の強みになり得ると思うのです。

当然スピードが勝負の大きな要因になっている今の社会においては、論理的・合理的な戦い方こそが勝ちパターンだと思います。

ただ、その勝負が永遠に続くかといえばそんなことはないだろうし、僕はその終わりは案外早く来るだろう(20年以内くらい)と考えています。

(速さが有効なのはあらゆる指標が右肩上がりである社会においてだと考えるからです)

 

そんなことを考えて行動を設計しているつもりだったのに、ここ最近、目の前の面白い仕事にかまけてムダを作ることをサボりがちになっていました。

日常生活にもっとムダをたくさん取り込まなければなあと反省する今日この頃です。

 

アイキャッチは「業の肯定」を唱えた談志師匠の「現代落語論」

 

現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)