新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



地方都市でマンション建てるべきか?

帰省中ということで地元のお話を。。。

地元の知り合いで、小さい頃から非常によくしてもらっているお金持ちのおばちゃんがいるのですが、以前帰省した時に新しくマンションを建てるという話をしていたので(僕は買えないので)面白いなと思って色々話を聞いていました。

で、その話を聞いた率直な感想は、「それはやめた方がいいだろう」です(笑)

 

おばちゃんがマンションを建てると決めた一番のきっかけは「その話を持ってきてくれた人は信頼できる」だそう。

一応話を聞いた上で僕は(パッと手に入るものではありますが)数値を見せてやめた方がいいのではという話をしたのですが、人に対する信頼は無機質な「数値」よりもはるかに強いらしく、結局マンションを建てることにするそうです。

数値に基づくアドバイスは聞かないとなると、僕ができるアドバイスはないので、あとは単純に「マンションを建てる人のロジックはどういうものなのか」ということと、「地方都市でのマンションの営業マンの売り込みロジックはどういうものなのか」という二点に絞られたため、ほぼインタビューみたいな形で色々な話を聞いていました。

 

おばちゃんの話を聞いて一番強く感じたことは、数値云々の前に、「相対化」するという概念がないのだということです。

例えば、僕は高校卒業と共に関西に引っ越し、滋賀県草津市京都市にそれぞれ同じくらいの長さ住んでいたので、地方都市の浜松市、都心に近い草津市、観光地の京都市の「土地勘」のようなものがあります。

人が流入する街のイメージと、人が流出する街のイメージが身体感覚として感じます。

だからこそ、マンションを建てるという話を聞いた時に僕の頭にはマンションを建てる/建てないという軸の他に、縦軸として人口流出都市/人口流入都市というものが出てきて、4象限で考えてしまいうわけです。

で、比較したいから数値を調べて納得するということになる。

 

一方でおばちゃんは生まれも育ちも生粋の浜松市民。

外に住んだことはありません。

だから、他の都市と比較するという視点がないわけです(それが悪いという訳ではななく)。

おばちゃんの話を聞いていると、浜松市の人口というパイ自体が減っていくという「視点」がありません。

浜松市という(地方の)中心都市には70〜80万人の人がいて、彼らに対して魅力的(=新しい)マンションを建てて提供するといった感じでした。

なんていうか、遊園地に新しいアトラクションを増設するようなイメージが近いのかなと思います。

増設したらそりゃ利用者増えるじゃん!という感じ(笑)

そもそも遊園地自体の集客が減っていくという想定をしていないわけです。

 

遊園地の例になぞらえるのなら、地元を離れて数年かを過ごした人は、いわば別の遊園地を知った状態です。

例えば生まれてこの方浜名湖パルパル(僕の地元の遊園地)しか行ったことがない人にとっては、確かにそこは面白い場所なのですが、ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンを見てしまったら、「それと比較して」という視点が生まれるはずです。

(もちろんこれは浜名湖パルパルがつまらないという話ではないです。)

僕は地元が嫌いではないですし、面白ところもたくさんあると思っていますが、同時に頭には常に「今住んでいる京都と比較したらどうだろう」という視点があります。

 

浜松市の人口推移を見ると、この30年で2/3まで落ち込むというデータが出ています。

これは全国の平均と同じ水準。

東京や大阪のように殆ど人口が減らない地域もある中で全国平均と同じというのは、地方にしては頑張っているということではあるのですが、絶対値として減っている中で立地的に優位性のない場所にマンションを建てるのはやはり悪手だと思います。

何より、「浜松は都市だ」と周囲の地域と比較してそう認識してしまっているおばちゃん(とそう説得している営業マン)の視点がヤバい。

ミクロな地域での人口の奪い合いでうまくいける規模と、そんなんではどうしようもない規模があると思うのですが、マンションに関しては明らかに後者です。

タイタニックの中で生き残ることができる場所を探しても、その船自体が沈んだら意味がないよねというお話。

(ただこの辺は市区町村別に分けた分析をしたときの人口の推移を見た訳ではないので断言できませんが。もし浜松市の人口が3/2になっても、その区の人口増加率が2/3以上ならまだいいかもしれませ)

 

という訳で、おばちゃんのマンションの話を聞いていろいろ気づきがありました。

そもそも国語の先生がマンションについて語るのもおかしな話ですが(笑)

(もちろんそういう断りと、素人意見という前置きはしました)

 

アイキャッチは上念司さんのこの本。

こんなん貼ったら大工の棟梁だったじいちなんに怒られる(笑)

 

家なんて200%買ってはいけない!

家なんて200%買ってはいけない!

 

 

 

思考の長さは周辺環境に規定され、「長さ」こそが長期的に価値になるという仮説

僕は極度のスマホジャンキーで、仕事中でも(授業の時以外は)常に片手にスマホを持っているというような感じだったのですが、この半年くらいで、意識的にそれを止めるようにしました。

思考をするにあたって、ウェブ検索などこちらから情報にアクセスする系のものであればともかく、ラインやメッセンジャーのように、即時性が求められるものに関しては非常に厄介であると感じたからです。

ラインやメッセンジャーでメッセージが送られてきて、それに返事をしようとすると、どうしても一旦そこで思考が途切れます。

この「一旦途切れる」が10年20年スパンで見た時に、非常に大きなデメリットになるような気がするのです。

 

とあるデータで、今の20代は一日あたり平均50〜60回スマホを見ると言っていました。

仮に一日8時間の仕事をして、6時間の睡眠、食事や準備諸々に2時間を費やし可処分時間が8時間であるとして、それを60回で割れば、思考のスパンは480÷60で8分という計算になります。

(もちろんトーク系アプリの利用率には時間ごとの濃淡があるはずなので、一概には言えませんが、ならしてみると現代を生きる20代の自由時間における平均的な思考の「長さ」は8分ということができます。

例えば多くの受験生が時間が足りないというセンター試験の数学でも60分×4問で一問あたりの思考時間が15分はあるわけですが、上の数字はそれよりも少ないということになります。

 

僕はこれを以って「だからスマホをやめるべき」とか、「そういう環境になったのだからそれに適応すべき」とかいう「べき論」を語りたい訳ではありません。

ただ、事実としてそうだよねというお話をしたいだけ。

その上で、どんな時でも希少性=価値であると思っている(これは僕の考え)ので、全体的に思考のスパンが短くなっているのなら、長期的に見た時に長い思考を積み上げたことが差別化に繋がるのではないかと思い、意図的にメッセンジャーから距離を取るようにしています。

ビジネス書や仕事術の記事を読むと、優秀なビジネスマンほど「直ぐに・的確な」返答をするというようなことが書かれています。

もちろんこれは正解で、早く、手数が多く、グイグイと売り込むことが勝つための要因になる今の時代を生きる人と横並びの競争したときはこうした人が「優れている」と評価されます。

しかしここに縦軸を入れて考えると、即時性の競争に身を投じたことで失われる深い思考の蓄積で差別化をするという戦い方が出てきます。

深い思考を積み上げた先に得られる自分だけのロジックは、後から気づいたとしても得るのに同じだけの時間がかかります。

そして、「そんなものは見つけた人のロジックを使って手数とスピードで上回ればいい」という戦い方をする人がいて、確かにそれは正しいのですが、少なくともロジックを提供する「胴元」にはなれません。

ロジックそのものを提供したりする側には、こうした深い思考が不可欠です。

今の「できるビジネスマン」的な振る舞いの先には、こうした「胴元」的なポジションは無いように思います。

 

20代の方が時間があると言われていて、しかもその20代の思考のスパンが短くなっているとしたら、10後、20年後の同世代との勝負を見据えたときに強い武器を持つために「今」の勝負を降りる。

これが僕の基本的な考え方です。

よく、「勝ちたいという欲がないの?」と言われることがあるのですが、「今」の戦いに本当に興味がないのはここ辺が影響しているように思います。

仮説を立てて10年単位で実行して、それがうまくいった方が面白い。

思考のスパンの差異による差別化は、その実験の1つだったりします。

 

アイキャッチは僕の大好きな西村博之さんの最新本

 

無敵の思考 ――誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21

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世界観のレンジの違いと炎上のメカニズム

最近ツイッターを見ているとやたらと炎上をしている人を見かけます。

或いは、炎上までいかなくとも、心無いリプライや誹謗中傷が集まっていたり...

なぜ炎上したのか?や誰が悪いのか?には興味はないのですが、その炎上のメカニズムについては非常に気になったので、多くの「炎上」的なリプライを集めるツイートを眺めていました。

で、色々なツイートを見ていて思ったのが世界観のレンジの違いによる「気持ち悪さ」や「常識ズレ」のようなものが原因になっているのではということでした。

 

僕は実家に帰ると家族や親戚の人から「お前は車を買わないのか」という話を始め、違和感のある「当たり前の疑問」を受けます。

これを聞くたびに僕は「世界観のレンジの違い」を感じていました。

どの地域に住んでいて、どれくらいの生活圏で暮らしているかによって、「当たり前」はまるで異なると思うのです。

 

例えば僕の地元である静岡県浜松市は、鉄道は東西にJR、中心地から北は一本の私鉄が走り、バスは遠鉄バスという一社のみが運行しています。

そして大型商業施設が中心地から10km圏内くらいに点在し、かつ最寄りの大都市名古屋までは100km以上離れているので、自ずと生活パターン離れてその大型商業施設に囲まれたエリアになります。

一方で僕が住んでいる京都はJRの他に市営地下鉄、阪急線、京阪電車京福電車、叡山鉄道など、多くの鉄道が走っていて、バスも市バスと京阪バスなどがかなり細かな移動網を引いています。

そして四条烏丸河原町に密集した繁華街があり、50kmくらいの範囲に大都市としての大阪がある。

浜松市という環境にとっての「便利」は、京都市という環境にとっての「不便」であるということはザラにあるわけです。

(だって、生活のロジックが違うわけなので)

 

上の例で行けば、浜松市京都市の両方を知っている僕にとっては、浜松市にとっての常識と京都市にとっての常識があることが分かっています。

浜松市の場合は(一人暮らしであっても)車がない生活様式は考えられませんが、京都市の場合は(むしろ一人暮らしの場合は)車を持つことが多大なコストになりうるのです。

一方で、浜松にしか住んでいない親族にとっては「車が必須の生活」が当然で、それがデメリットになる生活様式たいうものを体験したことがありません。

仮にそれを口で説明したとしても身体感覚としてそれが理解できず、どうしても認識にギャップが生まれてしまうわけです。

これが僕の考える、思考のレンジというお話です。

浜松市から出たことのない人にとっての思考のレンジは半径10kmくらいで、浜松市出身で京都に住む僕は浜松と京都の両方を結んだものがレンジとなります。

これが日本中を飛び回る人であれば思考のレンジは日本全体となるわけですし、仕事で世界を飛び回る人にとっては仕事でのレンジは世界全体となります。

そして思考のレンジによる理解の差異は、常に一方方向に生じるわけです。

 

対面であれば思考のレンジの差があっても、会話の中でそれを修正することができる一方で、ツイッターのような文字情報を基本に行うコミュニケーションでは、思考のレンジの修正がしにくくなります。

会話の場合は話し手と受け手の間には常に文脈が存在しますが、ツイッターの場合はAという情報が投稿された後に、特定の個人がそれを発見し、自分の元に受け取るわけなので文脈が存在しません。

文脈が無いと100%自分の価値観のレンジの中で情報を処理することになるので、大きな思い違いと、それを前提にした誹謗中傷が発生するわけです。

 

例えば数学の問題で「次の場合のaの値がどうなるか?」という問題があって、その答えが「a=bである」となった時にそれを批判する人はいません。

はっきりと前提となる情報が共有され、文脈が理解されているからです。

しかしもし、a=bを何の前提もなく理解したらどうなるでしょう。

仮にこの問題の出題者は世の中全てが[a=bである]といっているなんて解釈をしたら、次に現れるのは「ならばこの出題者は[baby]という単語は[bbby]とでも言いたいのか」みたいは誤解が生じる訳です。

 

数学の例で書けば「そんなバカな」と思うかもしれませんが、実際に炎上の起きているつぶやきを見れば、これと同レベルの現象が平気で起きています。

そしてこれは価値観のレンジの差によってもたらされるわけです。

僕はツイッターのようなSNS潜在的にこうした誤解を生むシステムを内包していると思っています。

そしてその誤解を防ぐことはできません。

最近の炎上は有名人が不用意な発言をしたことでも悪いことをいったのでもなく、単にここの差異に原因があると思うのです。

 

アイキャッチは中川さんのこの本。内容は好きでは無いけれどタイトルがぴったりだったので(笑)ほ

 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

 

 

ミスチル「未来」考察~ヒッチハイクする車のメタファーを探る~

ミスチルの桜井さんの書く歌詞について、その韻の踏み方の凄さに注目して語られる記事をよく見かけます。
「ダーリン ダーリン」「半信半疑」「カレンダーに」(しるし)、「最高のGIFTを」「渡すとき時ふと」「胸に聞くと」(GIFT)をはじめ、確かに面白いなという言い回しがたくさんあり、実際に僕も旋律と意味と文字面の3方向からしっくりくる歌詞だと思いますが、そういったテクニック以上にメッセージ性が凄いと思うことが多くあります。
特に『未来』という曲では、この事を強く感じました。

僕は最初に買ったCDはポルノグラフィティの『ハネウマライダー』でした。
中学3年生のときにTVのライブを見て、カッコいいと思ったのがきっかけで、そこから音楽を聴くようになりました。
当時は単純にカッコいいと思っていた『ハネウマライダー』ですが、20代後半に差し掛かったあたりで聞きなおして、改めて歌詞の内容に気付いてすきになるという経験をしました。
こんな風に、歌の意味が理解できるようになって改めて曲が好きになったという経験は誰にでもあるように思います。
僕にとってミスチルの『未来』も同じ感覚でした。

僕はこの『未来』という曲を昔は単純に女の人と出会って分かれるという曲だと思っていました。
しかし、改めて聴いてみると、この曲は桜井さんが自分の人生を振り返った歌、というかアーティストを目指す男の足跡を綴ったものではないかと思うようになったのです。
ということで、「夢を追いかける男の気持ちを描いた曲」という視点から、『未来』について考察していきたいと思います(※あくまで僕の「読み方」なので、これが正しいと思っているわけでは御座いません)

この曲を聴くと、どうしても2番の「女」が印象に残りすぎて恋愛の曲のように思ってしまうのですが、改めて歌詞をみてみると、驚くほど「恋愛」的な描写が少ないことに気がつきます。
この歌を、整合性をもって理解しようとすると、「夢を持った男の生き様」として捉えたほうがいいと思うのです。
〈名前もない路上でヒッチハイクしている 膝を抱えて待ってる〉から始まるAメロには、当時ミュージシャンになろうと思った少年の桜井さんが投影されています。
〈名前もない路上〉というのは成功モデルが分からない夢のメタファー。
例えば学校の先生であったら大学に行って教員免許をとってといったようにはっきりとした成り方=道がありますが、ミュージシャンにはそんなものはありません。
そしてこの歌の主人公はそんな「路上」でヒッチハイクしながら車を待っているわけです。
車はそのまま「チャンス」のメタファーと考えるのが妥当です。

Aメロの冒頭で主人公の状態が述べられたあと、状況の説明が続きます。
主人公が〈ヒッチハイク〉している場所は〈荒れ果てて〉いて、〈誰も通らない〉ところだそう。
2番目のAメロに入ると今度の内面に目が向かいます。

〈進入禁止だってあらゆるもの拒絶して追い払ったのは僕だから 誰も迎えにこないちゃんと分かってるって だけどもう少し待っていたい〉
〈進入禁止〉といって主人公が〈追い払った〉のは周囲の「こうした方がいい」というアドバイスかと思います。
周囲の人がいろいろなアドバイスをくれたけれど自分を曲げたくないからそれらを拒んだ。
当然周りの人がもたらしてくれたかもしれないチャンスを自ら手放したわけなので、そんな所に〈車(チャンス)〉が来ないことなんて本人は十分に分かっているのですが、それでも自分の才能を信じたい。
〈だけどもう少し待っていたい〉にはそんな心情が投影されているように思います。

Bメロの〈生きてる理由なんて~〉と始まる部分には、自分のやり方を貫こうとしたけれど上手くいかない時に感じた心情が描かれています。
このままやったって結果が出ないのなら生きている意味がない。
そう思って漠然と毎日を過ごしているというのがここの場面でしょう。
そしてサビに入ります。

〈生まれたての僕らの前にはただ 果てしない未来があって〉
ここに描かれているのは夢をもって憧れていた幼少期の主人公の気持ちだと思います。
音楽の道を目指した時には絶対になってやると思っていた。
そんな夢に向かってひたむきに頑張っていたころを回想していると考えられます。
これに続くサビの歌詞では現在の自分の気持ちが描かれます。
〈そして今僕の目の前に横たわる先の知れた未来を信じたくなくて ~〉
絶対にミュージシャンになってやると思ってその道に入って、周りの助言も跳ね除けて自分のやり方を信じてきたのだけれど、その結果行き詰まりを感じて、それを受け入れたくて〈目を閉じて過ごしている〉というのがここの場面です。
2番になるとこんな主人公の下に「女」が現れます。
主人公が待っている「車」を「成功」のメタファーであるとすると、主人公を拾うこの「女」はチャンスを自分の前にもたらす「女神」の比喩のようなものになるのですが、どう考えても文字数が多くなりそうなので、後半は後日まとめようと思います。

 

知識の「ゲリ」的使用と、知識の「アルコール」的使用

ここ最近、メモの取り方を大幅に変えました。

前は全てを一冊にまとめていたのですが、大きなノートを取り出すのが邪魔なことも多いので、手に収まるサイズの瞬時にまとめる用のメモと、溜めたメモを思考に落とし込む思考用のノートの2冊持ちにしています。

で、これが案外うまくいくのでオススメです。

 

ノートの取り方を変えて、知識の収集と思考を分割してみたときに、「知識のゲリ化」と「知識のアルコール化」ということが頭に浮かびました。

「知識のゲリ化」とは、膨大な量の知識を吸収したとして、それをそのままアウトプットに反映させている状態です。

(知識のことをよりにもよって「ゲリ」なんてワーディングで表現するのもどうかと思ったのですが、イメージが最も近いのでゲリとしました 笑)

確かに優れたロジックやアイデアをすぐにアウトプットに応用すればスピード感をもって成果物を生み出すことができますが、どうしても似たり寄ったりになってしまいます。

このやり方で差別化をしようとしたときに行うのが、アイデアやロジック同士を組み合わせる「パッチワーク型」の思考です。

既存のアイデアを組み合わせることで「新しいもの」っぽくみせる。

単純に得た知識をそのまま使う「ゲリ化」の先にあるオリジナリティは「パッチワーク型の思考」になります。

 

一方で僕が知識の「アルコール化」と呼んでいるのは得た知識を一旦寝かせて、そこから独自の視点を生み出すような方法です。

例えばという化学式で表されるように、ブドウ糖からアルコールができる([C6H12O6→2C2H5OH+2CO2])ように、知識や思考も何かしら化学変化的なことが起こると思うのです。

アルコールはブドウ糖が変化したものですが、性質はまるで違います。

知識も、材料は全く同じでも、それを寝かせることで全然違う分野での思わぬ見識として役に立つものが生まれると思うのです。

こうして生み出す思考を「ゲリ化」の「パッチワーク型」に対して「発酵型」とでも呼ぶとしっくりきます。

例えばアメリカにあった西欧型の音楽理論や楽器の数々とアフリカから連れてこられた黒人奴隷の持つ民族音楽が混ざり合うことで生まれたジャズのように、発酵型の思考では、それまでとはまるで違う物が生まれる可能性があります。

 

「ゲリ化」なんていうとあまりいいイメージを抱かないかもしれませんが、別に僕は「ゲリ化」型の知識の利用やパッチワーク型の思考に否定的なわけではありません。

むしろ、これだけ膨大な情報が溢れる社会では「ゲリ化」状態で優れたロジックや知識を使用した方が上手く行くだろうし(ホリエモンや落合陽一さんはこっち派のような気がします)、パッチワーク型、組み合わせを無限に提示できる方が求められることは多いと思います。

一方で、「アルコール化」の方を主戦場にする人がいてもいいと思うのです。

思想家や芸術家(もちろんウォーホルやデュシャンのような人もいますが)みたいな人はこっちの思考をしています。

 

僕は自分の行動原理を基本的に「逆張り」と決めています。

そして今は知識のゲリ的な使用とパッチワーク型の思考をする人が多い(というか社会の時間感覚が加速度的に上昇していてそちらでないと成功できない)。

だから短期的には成果がでないし、その戦略を取っている人も少ない知識のアルコール的利用と、発酵型の思考を心がけています。

こういう化学反応的に思考を生み出すことと、化学反応式を1つでも多く生み出すことが振り返って自分の武器になるような気がします。

 

酔っていて文章がまとまらなかった(笑)

 

アイキャッチはメモの取り方を変えるきっかけになった前田裕二さんの本

人生の勝算 (NewsPicks Book)

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性怠説

ここ最近、「やる気」という言葉についてあれこれ考えています。
僕はよく教育に関わる人たちと飲みにいくことがあり、そこであれこれと議論をしたりするのですが、「やる気」ということが議題になると、そもそも前提が違うのではないかという「すれ違い」感を感じることが少なくありません。
それで考えていたのですが、「やる気」という言葉には、「性善説」と「性悪説」の立場の違いのような根本的なスタンスの違いがあるように感じたのです。

僕はこのやる気における「性善説」「性悪説」のような違いを、「性活説」と「性怠説」と名づけました。
人の本性は生まれながらに活動的であるというのが「性活説」、人は生まれたままの状態では怠惰であるというのが「性怠説」です。
アクティブラーニングや動画授業を推す人は、人は元来やる気を持っていて、それをITやさまざまなコンテンツで引き出すことが重要であるという、どこか「性活説」が前提にあるような気がするのです。
孟子が人の本性はさながら水が下へ流れるのと同じように、外部からの影響がなければ膳であるといっています。
これと同じように、本来は誰もが「やる気」を持っていて、それを引き出すのが教育であるというのが僕のいう「性活説」の立場です。
もちろん、この考え方が間違えであるなんていうつもりは毛頭ありません。
ただ、「性活説」の前提そのものを疑うという議論もあるのではないかと思うのです。

孟子の「性善説」に対して荀子が「性悪説」という反対意見を述べています。
それと同じように「性活説」に対応する「性怠説」のようなものもあると思うのです。
荀子の「人之性悪」になぞらえて「性怠説」を述べるなら、以下のようなところでしょうか。

人の性は怠なり、其の活なる者は偽なり。
今人の性、生まれながらにして安を好む有り。
是に順ふ、故に消極生じて、積極亡ぶ。
生まれながらにして惰性有り。
是に順ふ、故に怠惰生じて、勤勉亡ぶ。
生まれながらにして安楽の欲有り、受動を好む有り。
是に順ふ、故に不精じて、進取果敢亡ぶ。
然らば則ち人の性に従ひ、人の情に順はば、必ず消極生じて、退嬰優柔に合して、楽に帰す。
故に必ず将に師法の化、能動の道き有りて、然る後に積極に出で、果敢に合して、働に帰せんとす。
此を用つて之を観れば、然らば則ち人の性は怠なること明らかなり。
其の活なる者は偽なり。

荀子をもじって僕が作った「性怠説」を要約すれば、「人は生まれながらに怠けたいという気持ちを持っており、自然状態ではやる気なんて生じるわけがない。外部からの刺激を受けることではじめてやる気は生じるものである。」という意味になります。
人には必ず何かしら興味関心をもつものがあり、それを見つければ自然とやる気がでるのだから、やりたいことをとにかくやって、やる気の出るものを突き詰めようというのが「性活説」的な教育に対するスタンスです。
一方で「性怠説」の立場に立った教育はやる気はそもそも本人の中には存在せず、やりたいことをやればいいと言われて丸投げされても困るから、対象は何でもいいから外部の影響でやる気を感じる経験をさせてあげることが大切であるというものです。
やる気を感じるコンテンツが重要であるという「性活説」と、何にでもやる気を感じられるようになる訓練が重要であるという「性怠説」。

孟子荀子のどちらが正しいかが決められないのと同じように、「性活説」と「性怠説」のどちらが正しいというのはないと思います。
(実際僕自身はやや「性怠説」に近いですが、「性活説」の言い分も分かるつもりです)
ただ、大切なのは選択肢として両方の考え方が存在していることで、今の社会をみると、どうしても「性活説」に立った意見が多いように思ったので、「性悪説」というのを考えました。
立川談志さんが「落語とは人間の業の肯定である」と言い、「家族や友人を捨ててでも忠義を守る赤穂浪士をたたえるのもいいが、死ぬのが恐くて逃げ出すやつらを肯定してやるのが落語だ」といっていました。
「やる気」に関しても同じ事がいえて、人一倍「やる気」を持っている人を賛美するのはかまわないし、やる気がある人が成功するのも事実だけれど、それが「やる気」を持てない人を否定することに繋がるのは間違えだと思うのです。
まさに岡原正幸「求ム、癒されるべき身体」で述べていた「昨今の「勝ち組」の自己称揚や自己賛美や自己正当化に見られるように、優越とは一から十までその個人のなせる業とされる。それも専門的な能力や技能という、目に見える具体的な資質の有無に関わるというより、一層曖昧で、捉えどころのない、場合によっては訓練しようのない、たとえば、モチベーション、企画力、行動力、コミュニケーション能力、企業マインドといった特性(こともあろうに「人間力」とも呼ばれる)を身につけていることが謳われたりする。そしてもちろん、その裏面、人生の挫折や失敗、社会的評価を受けにくい境遇やライフスタイル、これらの劣等と不成功もまた個人のなせる業、なにか曖昧模糊とした特性の欠如のため、という扱いを受けることになろう。」ということを危惧しています。
「やる気」を肯定するロジックとともに、「やる気のなさ」を肯定するロジックも存在している。
それが「教育」には健全なように思うのです。

 

 

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

 

 

 

音声入力とEvernoteの組み合わせによる、情報管理を試してみた。

ここ最近、音声入力にハマっています。

ずっと前に音声入力でブログを書こうと思ったことがあったのですが、僕は文章を書く際に荒れ狂っ構成を考えながら僕は書くので、どうしてもしゃべった思考過程がそのまま文章になってしまうやり方では書けませんでした。

今でもそれは変わらないのですが、情報収集と言う意味ではむちゃくちゃ便利な使い方を発見してしまったのです。

 

僕は基本的に本を読む際、線をひいたり重要だと思う箇所を都度メモ帳に書き記してありと言う事が煩わしいので、読んでいて気になるページはドッグイヤーをしておいて後からまとめてノートにまとめると言うスタイルをとっていました。

このスタイルではどうしてもを止めて本を読んだときに重要部分を巻き起こす作業が多すぎてどうしたものかと悩んでいました。

 Kindleのマーカー機能を使って、重要部分を効率的に収集することをやっていたのですが、僕が重要だと思う箇所があまりに多すぎて、引用できる限度に引っかかってしまいました。

何とかして読んだ本の内容を効率よくまとめることができないかと考えていた時にたどり着いたのが音声入力でした。

 

ここ最近僕は毎晩、Evernoteを開いてかつて読んだ本のドッグイヤーの箇所を音声入力により記録しています。

このやり方が、非常に効率よく情報を整理することができるのです。

ずっと前に読んだ本でドッグイアをしているページを開きます。

そしてその中で気になった箇所を音読する。

ざっと誤字脱字目を通して特に問題がなければすぐに保存。

こうすることで今まで1時間以上かかっていた読んだ本の内容をまとめる作業が10分近くで行えるようになりました。

 

僕も基本的に思考過程をこうすることで今まで1時間以上かかっていた読んだ本の内容をまとめる作業が10分近くで行えるようになりました。

 

僕も基本的に思考を記録するには物理的なノートを好みます。

いろいろな考えたアイディア同士をつなげて、新たな角度から物事を考える上では文字ベースよりも図やイラストの自由度のあるノートのほうが描きやすかったからです。

(タッチペンでの入力も考えたのですが、少なくとも僕にとっては紙の方が自由に思考が展開するように感じます。)

思考過程に関してはこのように紙のメモで事足りていたのですが、一方で文章を書く際の引用だったりアイディアの検索だったりと言う事ではノートなど様々な苦労があります。

それに対しEvernoteを使った場合はキーワード検索、あるいはあるワードで検索をかけると、それまでに自分が収集したデータに一瞬でアクセスすることができます。

文章を書く際の材料を集めるためにはデジタル上に情報を整理しておくことが非常に有利なのです。

 

そんなわけで現在ものすごい勢いで今まで僕が読んだ本を音声入力によりEvernoteに保存しています。

特に僕の場合は現代文の入試問題で1度だけ出会った文章のようなものも大量にあるため、このように正確な文章の形でのアーカイブと、そこに対して瞬時にアクセスすることができる環境というのが非常に面白い強みになると思うのです。

デジタルによる情報収集のまだまだ始めたばかりなのでどのような成果が出るかわかりません。

しかし数カ月後には何かしらアウトプットに影響与えているのではないかと考えています。

その辺も含めてまたレポートできたらと思います。

ちなみに最近は音声入力に慣れてきて特に思考を必要としない文章であれば音声で書けるようになってきました。

今回はそのやり方で書いて1,500字位でおよそ10分弱。

内容がペラペラになってしまうのが気になりますが(そもそも普段から内容があることを書いているかといえば疑問ですが...)、それでも書き方の方法としてこれもアリなのかなと思っております。

音声入力かスマホ入力か、あるいはパソコン入力なのかiPad入力であるのか。

この辺によって文章にどのような差異が出てくるのか、思考過程がどのように変化するのか。

その辺も含めて検証してみたいと思います。

 

アイキャッチEvernoteの使い方。

 

 

Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術

Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術