新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



炎上は摩擦と多数決で発生する

※だいぶ酔った状態で音声入力したので、誤字脱字や意味が噛み合わない所がありますがご了承下さい(笑)

 

炎上は摩擦と多数決から生まれる。

これが僕の持論です。

これまでずっと当たり前のようにこの言葉を使ってきたのですが、先日知り合いと飲んでいた時に「何を言っているの?」というリアクションをされて、僕が言わんとしていることが全く伝わっていないことに気づきました(笑)

ここ最近の「岡崎体育さんのファン炎上事件」「のぶみさんの歌詞炎上事件」「予備校の先生の入試悪問炎上事件」を見ていて、僕が考えていた冒頭の白のちょうどいい具体例のように思えたので、言語化してみたいと思います。

 

「火事」は摩擦による火種と増幅装置(多数決)によって起こる

炎上は勝つ炎上は摩擦と多数決によって起こるというのが僕の持論ですが、摩擦には①意味言語と感情言語の摩擦、②生産者と消費者の摩擦、③利他的と利己的の摩擦の3種類があります。

 1つ目の意味言語と感情言語の摩擦に関しては、前回のエントリで書いたので詳しい説明は省きますが、言葉には客観情報のみを有する者と主観的な判断を含むものが存在していて、その両者を区別してコミニケーションを取る人々と、すべての言語を感情言語として捉える人がいます。

 1つ目の摩擦は、意味言語と感情言語を使い分けて語った人のツイートを、感情言語の解釈の範囲でのみ理解することによって生じる摩擦です。

 2つ目の生産者と消費者の視点と言うのは、その人がゼロからものを作る立場に立ったことがあるのかどうかと言うものに由来するものです。

仮にAという同じコンテンツであったとしめも作り手の立場に関わっている人と消費するだけの人では、それに対する評価はまるで異なります。

2つ目の摩擦はこれが原因で生じるものです。

最後の利他的と利己的の間の摩擦は、フランスの人が何を求めて行動しているかによって決まります。

例えば日ごろから自分の利益ばかりを考えている人にとっては、全ての行動は自分に還元があることを前提としています。

一方で他者を喜ばせることこそが信用の源泉である、あるいは価値の源泉であると言うことを知っている人は、自分の利益の前に、他者にどのような利益を与えることができるのだろうと言う風に考えて毎日を過ごしています。

 3つ目の自己的と利己的の間の摩擦は、この両者の間に生じるものです。

 Twitterの炎上を観察しているとそのほとんどがこの3つの摩擦をきっかけにしているように感じるのです。

 

C.S1 岡崎体育さん炎上問題

 ミュージシャンの岡崎体育さんがファンクラブの会費をお金で区別しようとしたことによって炎上が起きました。

岡崎体育さんの主張に対して、多くのTwitterユーザが、「お金は払えないけれども岡崎さんのことが大好きです」とか「好きと言うのはお金によって判断されるものなのか」と言うような視点からの批判が殺到しました。

もちろん「ファン」(自称岡崎さんのことが大好きです」とか「好きと言うのはお金によって判断されるものなのか」と言うような視点からの批判が殺到しました。

もちろん「ファン」と自称する人たちの主張がわからないわけではありません。

しかし彼らの言う「ファン」の主張は、極めて消費者的な視点であるように思えて仕方がないのです。

文章でも漫画でもアニメでも、ダンスでもイベントでも構いませんが、何かしらのものをゼロから作ったことがある人であれば、それを生み出すためにかかる費用や手間がどれほどのものであるかを知っています。

当然何かを作るためにはお金がかかるわけです。

「生産者」である人は、このことを見に染みてわかっています。

だからこそ、ファンは大切だけれどもと言う断りを入れた上で、ファンクラブにお金のシステムを導入したのだと思います。

一方でこうしたものを作ったことのない消費者の視点に立ってみれば、「なんで好きという「好意」でその人を見ているのに、それ以上の見返り(お金)を要求されるのか」、あるいは「ある人を応援したいと言う気持ちを持っているだけなのに、それはお金でランク付けされなければならないのか」という気持ちを持つのもわかります。

応援している人は100%その人に対する行為から行動しているわけです。

それをお金と言うわかりやすい形に変えてくれと言われたら腹が立つのもわかります。

一方でこれはあくまで「消費者」の視点です。

仮にどんなに夢を売っている仕事であったとしても「お金」という現実問題が目の前に常に横たわっていると言う事実を避けられないのが生産者。

そのことに意識がいかず消費者の論理で責めたのが今回の岡崎体育さん炎上問題だと思うのです。

このケーススタディーでは、岡崎体育さんと言う1人の生産者に対して数百数千人と言う単位の消費者の人が一斉に食ってかかりました。

この部分が僕が言うところの多数決。

岡崎体育さんの炎上問題は、生産者と消費者の視点の間の摩擦に多数決の論理が合わさって発生したものだと思うのです。

 

C.S2 のぶみさんの歌詞炎上事件

2つ目は絵本作家ののぶみさんが作った、子育てをするお母さんの気持ちを綴った詩の炎上問題です。

この歌が発表されるや否や、様々な人たちから子育てをするお母さんが自分の趣味を我慢して子供のために尽くしているとも取れる歌詞の内容に対して批判が集まりました。

この歌に対して作詞者ののぶみさんを擁護するようなコメントを様々な著名人がしていましたが、その人たちも一緒に炎上しているようなことも少なくありませんでした。

僕はこの炎上問題に関して、意味言語と感情言語の解釈の違いが根本的な理由にあると思っています。

もともと、母性だとかお母さんという言葉は、それ自体には評価や気持ちだとかいった感情が含まれている言葉ではない、つまりただの意味言語に過ぎません。

にもかかわらず多くの人がこの言葉に対して「子育てのおかげで自我を抑制せざるを得ない母親がかわいそう」だとか、「子供は母親が育てるのは当たり前なんて言う思想が透けて見えるような歌詞を書く事は悪である」といったような主観による判断が含まれる、つまり感情言語のロジックによる解釈がこの歌と作者の一連の発言に対して殺到してしまいました。

歌詞を意味言語と感情言語に分けてみると、実は作者の主義や主張といった「感情」が強く前面に出ているところは驚くほどに少ないことがわかります。

一方で、自分の思い込みによって、作者が意味言語として使おうとした言葉を全て感情言語として主観で判断すれば、前に述べたような理由における反感や反発はわからないわけでもないのです。

のぶみさんの歌詞の炎上は、感情言語ロジックで意味言語を解釈してしまう人が集まってしまった(=多数決)ことによって生じたものであると思うのです。

 

C.S3 大学入試、悪問題指摘炎上問題

 最後は、入試問題に関する炎上の事例です。

去年の終わりごろに、大阪大学の入試問題をめぐって、実は不正解のものも答えになるのではないかと言う議論が巻き起こりました。

話題になったおかげで大阪大学がその問題を見直し、それが合否の判断になっていた人々はすべて合格と言う措置が取られました。

これと似た事例は他にもないわけではなく、それに対して、ある予備校の先生が「京都大学も出題ミスがあるのではないか」ということを見つけ、それをマスコミにリークしました。

そのことに対して、「売名行為である」という言葉を始め多くの誹謗中傷が集まっていました。

「売名行為である」として批判した人のロジックを考えると非常に面白いことが分かります。

おそらくこの入試問題の間違いを指摘した先生は、売名行為をしようと思っていたという事はなかったのではないかと思っています。

純粋に、受験生がフェアな入学試験を受けることができるようになって欲しいと言う気持ちから出てきた指摘であると思うのです。

 

マズローの欲求階層説では、承認欲求と自己実現の欲求と言う2つが提示されていますが、このどちらに軸足があるかによって思考が全く変わります。

承認欲求とはあくまで自分を認めてもらいたいと言う欲求です。

ここにとらわれている人にとっては、その人の行動は全て自分の承認欲求を満たすための手段であると映ります。

一方で、自己実現の欲求を追求している人にとっては、自分の行動の原因は力が自分に戻ってくることではなく他者に対して何を与えられるかというところにあることがほとんどです。

おそらく、出題ミスを指摘した予備校の先生は、自己実現の欲求のところに 位置しており、本当に受験業界が自分の指摘によって変わればと思っていたのではないかと僕は思っています。

一方で、全ての行動は自分の承認欲求を満たすためにあるという解釈が当たり前である人にとっては、こうした人の行動は全て売名であったり、自分に有利になるような行動とったと目に移ります。

ここの部分に生まれた差異が、Twitter上では承認欲求を求める人が多かったせいで(多数決)延長と言う事態になってしまったのではないかというのが僕の持論です。

 

 

Twitterの面白いところはあらゆる人々が平等に発信する権限と受信する権限を持っているところにあると思っています。

だからこそ本来であれば交わるはずもなかったトライブにいる人同士(交わってはいけないトライブにいる人同士)が平然と、あたかも対等であるかのように触れ合うことができるようになったからこそ多くの問題が生じているのだと思っています。

炎上と言うのはここに原因の根っこがある。

本来交わるはずもなかった全く異なる価値観で動く人々が、数の力に物言わせて別の考え方の人を断罪する。

そこにあるのは善悪の区別ではありません。

あくまで「摩擦」と「多数決」のみ。 

これが僕の考える炎上という現象です。

 

アイキャッチは炎上の火中ののぶみさんの絵本

 

ママがおばけになっちゃった! (講談社の創作絵本)

ママがおばけになっちゃった! (講談社の創作絵本)

 

 

 

感情言語と意味言語〜ネットの炎上の仕組みを考える〜

僕は言語論を学んだことがあるわけでもないので、もしかしたらもうとっくにそんな区別は存在するのかもしれませんが、僕は言語について感情言語と意味言語の2つが存在すると考えています。

感情言語とは、人によって尺度の変わる主観的な気持ちを表す言葉のことです。

一方で意味言語とは複数の人が同一の判断を下すことができる客観的な情報を扱う言語のことです。

例えば塩と言う言葉に関して、「調味料である」や「白い」(色付きのものもありますが)というのは誰が見ても基本的に変わることがないので意味言語となります。

一方で「しょっぱい」や「おいしい」と言った言葉は、使う人ごとにニュアンスが変わります。

こういったものを僕は感情言語と呼んでいます。

 

「塩」を例にした場合は直感的にわかりやすいですが、これが抽象的な言葉になると区別が急に曖昧になります。

例えば責任と言う言葉。

「責任がある」という言葉がある現象に対して責任を負っていると言う事実を表します。

そこには善悪の判断が介入することがないのでこれは意味言語です。

一方で「悪い」という言葉は人によって解釈が異なるため感情言語と言うことになります。

この2つを合わせると「責任があるから悪い」とうことになるのですが、前者は意味言語で後者は感情言語であるため、それらをそのままイコールで結ぶことは適当ではありません。

本来であれば責任があると言う事実確認の後に、個人の解釈として良いか悪いかの判断がつくはずなのです。

 

誤解を恐れずにあえて言えば、僕はハイコンテクストの社会では、意味言語と感情言語が明確に区別されて利用されていて、ローコンテクストの社会では意味言語と感情言語の区別がないままに使われていると考えています。

これは別にどちらが良いとか悪いとか言う話ではありません。

僕の定義では意味言語と感情言語の区別がある所をハイコンテクストの社会、区別せずに使うことをローコンテクストの社会と呼んでいるだけです。

意味言語と感情言語の区別をする人同士の会話では誤解や問題が生じないのと同様に、意味言語と感情言語の区別がない者同士の会話であれば何の問題も生じません。

問題が生じるのは、意味言語と感情言語の区別をする人としない同士のコミニケーションが発生した時、つまりハイコンテクストとローコンテクストのコミュニティーの人が半ば事故的に出会ってしまった時です。

 SNSが発達した現在こうしたことが頻繁に起こるようになってしまいました。

 SNSにおけるやりとりは所属するコミュニティーやバックグラウンドを共有しない人たちとの出会いを容易に発生させます。

その声で言葉の認識のズレが生じて、そこから炎上が起こるように思うのです。

 

Twitterで意味言語と感情言語を区別して発した言葉を、意味言語と感情言語の区別をしないのが当たり前の人私が聞いたとしたら、発信者の意図しない受け取られ方をされると言う事は容易に起こります。

例えば意味言語と感情言語を区別して使う人が「責任はあるが悪くはない」と発言したとします。

意味言語と感情言語を区別しない人にとっては「責任がある=悪い」ということなので先の意見は成立しないわけです。

そのため、「責任はあるが悪くは無い」と言う発言をした人に対し、あいつは悪いことをした人の方を持つのだという誤解が生じるのです。

昨今のSNS上での援助を見ているとこうした違いが原因となっているものが少なくないように思います。

そしてこれらは根本的な意識の違いによる問題によるものなので(繰り返しますがそれが良い悪いと言う話ではありません)、解決することはないでしょう。

SNSが感情言語と意味言語を区別せずに使う人が大半であるのだから、それに合わせて感情言語中心に会話をするようにか、意味言語と感情言語を分けて考える人自身が、それに対する批判をものともしないメンタルを身に付けるかのどちらかしかないように思います。

少なくともここまでSNSが普及し、またさらに今後普及していくであろう社会では、意味言語と感情言語の区別がない判断をされると言うのが当たり前に少なくともここまでSNSが普及し、またさらに今後普及していくであろう社会では、意味言語と感情言語の区別がない判断をされる傾向が強まることは避けられないことです。

ハイコンテクストで物事を語る人間は、今後ますます公の場(誰でもアクセスすることのできるSNS上)での発信が窮屈になっていくのではないかと思うのです。

 

アイキャッチは炎上を物ともしない2人の対談本

 

 

 

相棒論〜個人の得意な戦い方と、組織の戦力を最大化する組み合わせ〜

年末あたりからビジネスや企画をする人と話をする機会が多くあり、「戦い方」について頻繁に考えています。

何かに成功する人は自分の得意な戦い方を持っているように思うのです。

またそれを組織レベルで考えたとき、違った戦い方を持っている人同士が手を組んだときにその力が何倍にも膨れ上がっているように感じることがあります。

この辺が最近少しずつ体系化することができてきたので、一度まとめてみたいと思います。

性格別、得意な戦い方4分類

僕は戦い方について分野を問わず次の4パターンがあると考えています。

 ①とにかく手数とスピードで勝負をするタイプ

②仲間やオーディエンスを巻き込んで空気感を作って勝負をするタイプ

③自分の持っている技の完成度を極めることによって勝負をするタイプ

④差別化とレバレッジによって勝負をするタイプ

 ①に該当する人はとにかくアイディアをすぐに行動に移します。

そして、ライバルに負けないように次々と手数を打って相手に競り勝っていくのが得意なタイプです。

闘争心の高い人に多い戦い方であると言えるでしょう。

②の周り巻き込んで戦うタイプは、カリスマや仕切るのが得意な人に多く見られる傾向です。

自分1人の実力で戦おうとするのではなく、周囲を巻き込んで、そこに空気感を作ることによって勝ちを勝ち取ります。

③の自分の技術力で勝負をしようとする人は職人やアーティスト気質の人によく見られる戦い方です。

自分の持っているスキルや知識を誰にも真似できないレベルまで高めることによって人に勝とうとするタイプここに該当します。

最後の④ですが、ここに該当する人はルールや仕組みを深く分析することによって自分が勝ちやすいフィールドを作ることに長けた人たちです。

研究者のようなタイプがここに該当する場合が多いといえます。

 

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これらはいずれの戦い方が有利で、特定の高い方が不利であると言うことではありません。

単純に人によって好みの戦い方があって、それに沿った戦い方をすればその人の本来の力が発揮できるし、苦手な戦術をとっている場合は十分に本人の能力が気できないと言うお話です。

何かを立ち上げたり成功したりする人は意識してか無意識のうちにかはわかりませんが、多くの場合自分の得意な戦い方を知っていて、そのフィールドで勝負しているように感じます。

この得意な戦い方については、ベクトルのようなもので、下の図に示したような方向性とその矢印の大きさによって決定付けられると言うのが僕の持論です。

組織の力はベクトル同士の面積で決まる

個人の場合で見たときはその向きと大きさ(ベクトルの概念)で決まる戦い方とその強さですが、これが組織単位になると、急激に大きな力になることがあります。

僕はこの現象をベクトルの面積で捉えることで説明ができると考えています。

例えば次の図のような2人がいたとしてその2人が手を組んだときの能力の大きさは、ちょうど2つの矢印が生み出す三角形の面積になると考えます。

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この面積は2つの矢印の長さに間の角度のsinを掛けて1/2することによって表すことができます。(三角比を用いた面積の求め方)

例えばAさんが やや③よりの④に該当する人であって、Bさんが③よりの①であった場合、 2つの矢印のなす角は90度に近くなります。

この場合面積が極めて大きくなる。

一方でAさんは先ほどと変わらず③よりの④で、Bさんが③よりの①だった場合はどうでしょう。

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仮に2つの矢印のなす角が150度であったとしたら、AとBの能力の大きさ(矢印の長さ)が先程の場合と同じでも、面積は半分になってしまいます。

また2つの矢印が近い方向向いていても面積が大きくなりません。

AとBの戦い方が似通っていて、なす角が30度であったとしたら、やっぱり2人の能力が全く同じ大きさであったとしても最初と比べれば面積が半分になってしまうわけです。

 

 

僕の周りの組織や会社や団体を見ていると、うまく回っているのは、① 2人の戦略が適度に離れていて(上の子と言う所の90度) 、 かつ②組織を構成するトップと、参謀(2番手)のベクトルの大きさが概ね釣り合っている場合です。

ベクトルの大きさに関しては直感的にわかりやすいところですが、案外良い方向に関しては考えていない場合が多いと思うのです。

もしかしたら、ここの能力の大きさはそれほど高くなくても、なす角の大きさが大きいために各上の人が人が書いている場合があるかもしれません。

反対にせっかく2人の能力が高いのになす角の大きさが小さすぎたり、あるいは大きすぎたりする声で2人が作る面積が小さくなってしまい本来の力が発揮できていない場合もあるでしょう。

(僕は結構このパターンをみている)

また今回はトップと参謀どういう組織を引っ張る人材が2人でやる場合を考えましたが、ここに3人目、4人目が入ってくると、ロジックはまた変わってしまいます。

(3人以上の場合は頂点を結んだその総面積が組織の戦略となるというのが僕の仮説です。)

これが僕の最近考えている相棒論(上手くいく組織の観察)です。

まだまだ荒削りで、とても理論だなんて言えませんが、方向性としてはこういう特徴があるように思うのです。

今後も色々な人を見てこの仮説を検証していきたいと思います。

2016年関西外国語大学英語外国語学部英米語一般前期「雨月物語」(上田秋成)現代語訳

古文の現代語訳です。

赤本に載っていないので訳してみました。
急いで訳しているので細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

お堂の裏手の、ごく近いところから「仏法(ぶっぱん)仏法(ぶっぱん)」となく声が聞こえるので、貴人は盃を持って「例のブッポウソウと呼ばれる鳥は鳴くことはなかったのに、(今夜は鳴き声を聞くことができて)今夜の酒宴が引き立つことだ。紹巴だったらこの様子を何と詠むか」と言った。法師(紹巴)は「私のような古臭い風体の短句などではあなたの耳を汚してしまうでしょう。今夜は旅人が泊まっておりまして、彼ならば現代風の俳諧風を詠むことができるでしょう。あなたが聞いたことのないものかと思いますので、旅人をここにお呼びして歌を詠ませます」と言った。貴人が「その者をここに呼べ」と言ったので、若い侍が夢然(旅人)の下へ向かい、「貴人がお前を呼んでいる。近くへ来い。」と言った。夢然はそれが夢とも現実とも分からないような心地で聞いて、おびえながら貴人の前へはい出した。

 

法師は夢然に向かって「前に私に詠んだ歌を是非この貴人にも詠み申し上げなさい」と言った。夢然はそれに対して恐る恐る「私は何かあなたに申し上げたでしょうか。全く覚えておりません。どうか、どうかお許し下さい。」と答えた。法師が繰り返し夢然に対して「『秘密の山』と詠んでくれたではないですか。貴人がその歌を聞きたいとおっしゃっておるのです。早く申し上げなさい。」というと、夢然はいよいよ恐れ多く感じて、「ところでその『殿下(貴人)』と呼ばれているのはどういった方なのでしょうか。なぜこのような山の深い所で夜宴などを開いているのでしょうか。まったくもって不思議なことばかりに思います。」と尋ねた。

 

法師は夢然の問いに「私が殿下と申し上げているのは、関白の秀次公のことでございます。周りにいます人は木村常陸介、雀部淡路、白江備後、熊谷大膳、粟野杢、日比野下野、山口少雲、丸毛不心、隆西入道、山本主殿、山田三十郎、不破万策という者たちです。そして私は紹巴の法橋と言います。あなたたちは不思議な場面に立ち合ったのです。先ほど私に詠んだ歌を申し上げなさい。」と言った。もしも髪の毛が生えていたら震えて逆立つかと思うほどに恐れがはげしく、肝魂が今にも消えそうな心地で震えながらずた袋からきれいな髪を取り出して、震えた手つきでそれに和歌を書き付けて差し出すと、主殿が取り上げて声高く吟じた。

鳥の音も秘密の山の茂みかな

貴人がそれを聞いて「器用なものだ。誰かこれに続く句をつけられないか。」と言ったところ、山田三十郎が進み出て、「私がお詠みしましょう。」と言って、すこしの間頭をもたげて考えると、こう詠んだ。

芥子たき明すみじか夜の床

「いかがだろうか」と紹巴に見せると、「よい歌だと思います」と言って差し出された歌を見て、貴人は「なるほど悪くないな」と面白がって、また酒を飲んだ。

 

 淡路と呼ばれるものが急に顔色を変えてやって来た。淡路が「もう修羅の時刻になったのか。阿修羅たちが迎えに来る音が聞こえます。いそいでここを出る準備をして下さい。」と言うと、一座の人々はたちまちに血の気だって、「いざ、石田、増田の郎党に今夜も一泡吹かせてやろう。」と勇み立って立ち騒いだ。秀次は木村の方を向いて「くだらない者たちに私の姿を見せてしまったものだ。彼らも修羅に連れて行け。」とおっしゃられた。老臣の人々は間に入って声を揃え、「この親子はまだ死人ではありません。いつものような悪ふざけを考えてはいけません。」と諌めた。やがて人の姿も声も遠くなっていき、雲居に消えていくようであった。

 

 親子はしばらくの間気絶していて、死んだようになっていたが、空が明け方に近づく頃に冷たく降る露によって目が覚めた。体験したことを思い返すと未だに恐ろしさを忘れられず、弘法大師の名前をせわしく何度も唱え、やや日が昇ったのを見て急いで山を下り、都に帰って薬や灸で身を供養した。

ある日、夢然が三条の橋を渡った辺りで、悪逆塚のことを思い出して、あの寺を見ながら「昼間ながら恐ろしい気持ちがした」と京都の人に語っていたことを、そのままに書き記した。

 

アイキャッチは「雨月物語

新版 雨月物語 全訳注 (講談社学術文庫)
 

 

ハンターハンターの章に分けて時代を追いかけてみる

週刊少年ジャンプで、ハンターハンターが再開されました。

連載が再開するために内容を思い出すため、昔のストーリーを読み返すのですが、やっぱり非常に面白いなと思います。

特に時代の風潮を映し出すのがずば抜けているように思うのです。

ハンターハンターという漫画は、時代の空気感のようなものを常に先取りしているように感じます。

僕は5年ごとに時代の空気やトレンドのようなものが移り変わっていくと思っているのですが、ちょうどハンターハンター大きな物語の区切りごとにそれらがうまく表れているように思うのです。

 

加熱する競争社会のゼロ年代前半とハンター試験〜ヨークシン編

 

 1,999に連載が始まったハンターハンターは、主人公のゴンがハンター試験を取りに行くと言うストーリーから始まります。

これはマンガ家の山田玲司先生が指摘していたことなのですが、「資格を取りに行く」と言う設定が非常に興味深いです。

ここから13巻14巻あたりに出てくるグリードアイランド編まで、形は変えつつも「競争」がテーマに物語が構成されています。

極めてなるのが難しいハンターを目指して試験を乗り越えるハンター試験編は言わずもがな、その後主人公たちが修行のために行く天空闘技場編も、マフィアたちとのやりとりが描かれるヨークシンでのオークション編も形は違えど競争が描かれています。

天空闘技場は勝って上の解を目指すという意味で競争が描かれ、オークションはより高い金額で商品を競り落としと言う形で競争が描かれます。

グリードアイランド編は単行本で2001年から2002年位の間に始まるのですが、それまでの4年間のストーリーでは競争がテーマに書かれていたのです。

 

一方で2,000年代前半の漫画を見てみると「他人を倒して上に行く」という試験や競争がテーマになっているものが非常に多いということに気づきます。

ポケモンデジモンガッシュベルにメル、或いはバトルロワイアルライアーゲームカイジ辺りは全て競争がテーマです。

 2003年に連載が開始したドラゴン桜も受験競争をテーマにしたマンガでしたし、ナルトではちょうど2000年から仲人試験編が開始します。

 

とにかく 2000年から2005年にかけてこういった競争をテーマにした作品が多かったように思うのです。

ハンターハンターのハンター試験編から天空闘技場辺、そしてヨークシン編にかけては一足先にこうした競争が注目される社会の空気を描いていくと思うのです。

 

 

コンテンツに居場所を求めるゼロ年代後半とグリードアイランド編

 

ハンターハンターでは13巻あたりからグリードアイランド編と言われる新章に突入します。

グリードアイランドとは主人公の父親が作ったゲームで、主人公たちはそのゲームの中に自らが入り込んで(実態を伴っていると言うのがまた面白いところです) そのゲームの攻略を目指します。

これがちょうど2003年から 2年位の間続くのですが、ここで描かれる現実世界と平行世界というモチーフは、そのままゼロ年代後半のトレンドを先取りしていたように思うのです。

 ゼロ年代後半に流行った漫画やアニメを並べてみると、とにかく競争や自己責任を求められる現実を完全に乖離させたようなモチーフの作品が多いように思います。

ちょうど主人公たちが現実世界からゲームの世界に入って行くかのように、僕たちはコンテンツの世界に没入していきます。

競争や先の見えない実社会からつかの間解放されるための逃避行としてのコンテンツというのがゼロ年代後半の特徴ではないかと思うのです。

いわゆる日常系とされるアニメは全てここに該当します。

マンガでも「理想の世界」が描かれることが増えてきます。

極端な例でいえばスポ根マンガの描かれ方の変化がそう。

またスポ根マンガから「汚い汗」が消えたのもちょうどこの辺りからだと思っています。

ちょうどテニスの王子様(テニスの王子様自体はゼロ年代前半から後半にかけての作品ですが、その後の新テニスの王子様、そしてミュージカルが流行ったのがゼロ年代後半ということで僕は後半にカテゴライズしています。)や黒子のバスケになってくると、汚い汗(泥臭い汗)が描かれないのです。

(この辺は読んでいる人にしか伝わらないかもしれません...)

少年マンガにも関わらず、こうしたスポ根マンガが女の人から支持されるのはこの辺が理由であるように思います。

また、こうした例を挙げる以前にインターネットの普及で人々の間にどんどんネットが浸透していきます。

高校生の間でプロフが、社会人の間でレンタルブログが流行りだしたのも確かこの辺りですし、YouTubeが流行りだしたのもこの辺。

期間としては決して長くないグリードアイランド編ですが、ちょうどこの辺りの空気感を察知していたかのように感じられます。

 

 

現実に向き合わなければならない10年代前半とキメラアント編

 

グリードアイランド編が終わると18巻から30巻にかけて、キメラアント編が始まります。

ハンターハンターと言う作品では最初の段階で既に物語が展開する世界の外に広大な世界が広がると言う設定が示されていましたがここにきて初めてその設定が活用されます。

主人公たちが日常を過ごす安全な世界の外に、まだ人類が全く解明できていない混沌とした世界が広がっているのですが、キメラアント編ではそこから未知の生物がやってきて人間を襲うと言うストーリーが展開します。

2004年から2012年にかけて展開されたこの物語は、 ゼロ年代後半から10年代にかけて話題になった進撃の巨人を始めとしたいわゆる「壁」を扱った作品の先駆けと言えるでしょう。

進撃の巨人では一話で人々の生活を守る強固な壁が巨大な巨人によって崩される場面が描かれていますが、僕はこの描写を本人たちが望もうが望ままいが押し寄せる現実に向き合わねばならないという、切迫した僕たちの状況を描いたものだと思っています。

ゼロ年代の終わりから10年代の始まりにかけて、「進撃の巨人」「ワンピース」「フェアリーテイル」「トリコ」果ては「逃げ恥」まで、とにかく壁の内と外という表現が多用されました。

 

こうした壁を題材にした作品にジャンルを超えて共通しているのは、外を遮断して平穏を保ちたいという意識と、一度流れが押し寄せたら元には戻れないという危機感です。

それは実社会でもまるで同じで、僕たちはリーマンショックギリシャ危機、そして東日本大地震で避けられない外からの影響と、「その後」は「その前」に戻ることはできないということを痛感しました。

「壁」という表現は僕らが強く認識したこうした気持ちを端的に表すものだったように思います。

 

 

善悪の二項対立では語れない10年代後半と会長選挙編

 

キメラアント編が終わると会長選挙戦が始まり、そのクライマックスでやっと主人公のゴンは父親であるジンフリークスに出会うことができます。

ゴンとジンの出会いは、「父性の回帰」という意味でも興味深いのですが、あくまでも社会の流れと言う視点からハンターハンター多いかけているので今回は置いておこうと思います。

 

単純な善悪の二軸で語ることができないというテーマは、キメラアント編の後半から既にかなり強く出ていたテーマですが、会長選挙編、それから暗黒大陸の導入編にかけていっそう強く現れます。

元は人類に仇を成す敵として描かれていたキメラアントですが、 最後まで読んでみるとむしろ人間の方がひどいのではないかと思わされるような結末になりました。

またかつて敵として登場したキメラアントの多くが人間と上手く打ち解ける描写も描かれています。

こうして終わったキメラアント編に続く会長選挙編では、単純には割り切ることのできない様々な立場の考えが出てきます。

強あるべきと言うハンター協会の姿を守りたい十二支ん、一見悪者に見えるけれど実は会長が好きだったパリストン。

そのどちらの視点も分かったうえで様々な立ち振る舞いをする主人公ゴンの父親ジンフリークス。

会長選挙と並行して展開するキルアの妹(弟?)アルカを奪還する物語でも、それぞれがそれぞれの正しさを守るために行動していると言うことが強調されます。

そしてゴンが無事元気になって父と初めて出会うのですが、その時に父がゴンに伝えたメッセージも、世界樹という巨大な木を例に出して「常識を常識として捉えるな」というものでした。

 

何かを敵認定してそれを批難する。

スマホの普及とSNSの進化、或いはテレビ番組や雑誌を見ていると、とにかく敵と味方と言う分け方が流行ったのが10年代の中頃だと思います。

一方でそうした時代の空気感に対して疑問を抱く声が間違いなく生まれつつあります。

 まだ10年代は2年残っていますが、10年代の後半はこの数年で行きすぎた善悪の単純化に対する揺り戻しが来るのではないかと思うのです。

 

 

もちろん僕は漫画を読む際に社会動向や時代の空気感なんて考えず、単純に面白ければそれでいいと思っています。

ただ、こういう見方をしようと思えばすることもできなくは無いと思うのです。

ハンターハンターはこういった視点から見ても非常に面白い作品だと思います。

現在の暗黒大陸編は20年代前半の空気感を先取りするように思えてならないのです。

(現状だとお祭り騒ぎをして暗黒大陸に向かった一行が、その後船という限られた空間の中で自分が生き残ろうと策をめぐる姿が、オリンピック後の衰退していく日本に重なりそうで嫌な想像しかないのですが 笑)

ハンターハンターはよく休載するため「けしからん」と言う意見も聞きますが、僕は休載するからこそ時代の空気を敏感に読み取れるのだと思っています。

休載しつつ毎回時代の空気を感じそれを作品に込める。

ハンターハンターにはそんな愛着を持っていたりします。

というわけで、再開したハンターハンター

今回はどこまで続くのかというのと、どういう展開になるのかが楽しみです。

 

 

アイキャッチはもちろんハンターハンター

 

HUNTER×HUNTER 34 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 34 (ジャンプコミックス)

 

 

 

2018年近畿大学一般入試A-1日程(1月27日)心敬「ひとりごと」現代語訳

今年度入試で出題された、古文の現代語訳速報です。
仕事の合間に急いで訳しているので、細かな違い(時に大きな読み間違えがあるかもしれません..)はご了承下さい。
また、あくまで話の筋を追うことを第一に訳しています。
そのため、文法事項や敬語はあえて無視しているところがあります。
随時アップしていく予定ですので、よかったらご参照下さい。

 

さて、この世の出来事は皆まぼろしのようなものであるとはいえ、欲界、色界、無色界のいずれもが火の海のように混乱していて、苦しみに満ちていることは知っているつもりであったのですが、実際にこのような荒れた時代に生まれたことを考えると、あらためてあさましく思うのです。50年くらいまでのことは、はっきりと見聞きして理解することができました。しかしながら、それより後の出来事は、天下が片時も治まることのないほどの荒れ具合だったのです。
 30年のころから思いかけず永亨の乱が勃発して、年月が経つにつれて幾千万人の人が刀で傷つけ合い、互いに死んでいきましたが、未だに全く治まる気配はございません。その後そう日にちも経たないうちに嘉吉の乱が発生した後は、世の中に少しも落ち着いているところがありません。諸家の内でさえ主君と家臣、あるいは同僚が争いあって、さまざまの人が次々に倒れていきました。主君も家臣も互いに自分の国をまとめようと、昼夜を問はず戦っておりましたが、一つに落ち着く場所はありませんでした。その上さらにかつてそのような令が出されたと聞き伝えられている徳政令というものさえ世の中に出されて、年を追うごとに田舎に土民が様々なところから宮中や内裏に乱れ入りて、まるで盗賊が溢れたかのような世の中になり、万人を悩まし、あらゆる人が宝を奪い取ることが絶えることがありません。こういった理由から民は疲れ都も衰え果てて、あらゆる道も一つとして残らない事態となりました。また、それから七年ほど経ったときには長い日照りに見まわれて、そこら中の田畑に稲が一筋もなくなりました。都会に住む人も田舎に住む人も身分に関係なく疲弊して、道に出ては物を乞い、そのまま倒れこんで死んでしまいました人数は、一日で一万人と言っても言い過ぎではないでしょう。まのあたりにする光景は、まるで現世が餓鬼道となり果てたようでした。昔、鴨長明方丈記という草紙に、安元の時代に一年中日照りをして、都では一日に二万人近くの死人が出たと書いています。さらには強風の日に樋口高倉の辺りから出火して、中御門京極まで火が広がり、都が焼け果ててしまったと書いてありましたが、それを読んだ時は恥ずかしながらそんな被害は偽りであると思っておりました。しかしながら、今目の前に広がる世の中を見ていると、仏教で世の中を無に帰す言われる三災はここに極まったと思えてなりません。

 

 

 

心敬連歌論集

心敬連歌論集

 

 

2018年近畿大学一般入試A日程 英文法解答&解説

質問に来た生徒さんが持っていたのでざっと英文法の解答を作ってみました。

授業準備の合間に急いで作ったので、教科書的な内容として見たら解説に至らない点も多々あると思いますがその辺はご勘弁ください。

実際の試験の時に「どうやって考えて正解にたどり着くか?」ということを念頭にまとめてみました。

※あくまで次年度以降の問題分析のための備忘録で書いている上に、急いで書いたため、間違えがあるかもしれません。採点に用いる場合は自己責任でお願いします。

 

(13)動詞の語法[leave O C]
[leave]には[leave O C]の形で(OをCのままにする)という用法があるので、犬がどういう状態であったのかに注目する。
「犬=鳴いている状態」が妥当であるため、正解はウbarking
なお、本問とは関係ないが、[leave]には[leave O1 O2]という形で「O1にO2(ここには通常財産がくる)を残して死ぬ」という用法があるので、覚えておくと便利。

(14)進行形の用法に注目する
進行形には「~している」という用法の他に、The cherry tree is dying.(その桜の木は枯れかけている)のように「~しつつある」という用法や、近い未来を表す用法がある。
(ともに「~している真っ最中」という進行形の意味から派生)
[resemble](~に似ている)は中断・再開できる動詞ではないので進行形にできないが、後ろに[more and more](ますます)という言葉がある事に注目すれば、この文が「だんだん似てきている」という内容であることが分かる。
したがって「~しつつある」の意味を構成するイare resemblingが正解。

(15)接続詞の問題
まずは( )の後ろに注目する。( )の後ろに[he struggled to ~]というようにSV構造が来ているため、前置詞の[despite]、副詞の[instead]はNG。
前半部分が3文型で成立しているため、( )以下は副詞節であることが分かる。
[that]には接続詞と関係詞で用いられるが、今回の場合はいずれも適さない。
したがって譲歩の副詞節を作るイeven thoughが正解。

(16)倒置
前の文を受けて「~もまた」という表現には[neither V + S]と[so V + S]がある。
前の文が否定文の場合は[neither V + S]で「私もまた~ない」となり、肯定文である場合は「私もまた~だ」となる。
今回は「弟は工学の学士号を取得した」という文に「私もまた~」と続くので、ウso did Iが正解。

(17)独立分詞構文
[and]は前の[I need money.]と後ろの文を繋げるための接続詞。
したがって[That(   ) the case, I am going to get a loan.]という部分に注目して考える。
文の形を見るとコンマで2文が結ばれているのに接続詞が存在しないため、(   )を含む節が分詞構文であることが分かる。
今回は主節と主語が異なるために主語が省略されなかった独立分詞構文であると考えられる。
したがって正解は現在分詞の形になっているアとなる。

(18)倒置
(  )の後ろが[had I ~]という倒置形になっていることに注目する。
文中にある否定の副詞[little / hardly / no sooner]などが先頭に来たとき後ろは倒置形になる。
したがって正解はウ。

(19)複合関係詞
(  )を含む[that]節は冒頭の[it]を受ける真主語なので、[that]節の中の文構造に注目する。
[that]節の中の主節は後半の[there is~]の部分で前半は副詞節となっているため、正解は副詞節を作ることができる複合関係詞(イかエ)に絞られる。
また、直後に形容詞[humble](謙虚な)があることに注目し、[whatever +名詞](たとえどんな名詞でも)と[however +形容詞/副詞](たとえどんなに形容詞/副詞でも)という使い方があることを踏まえれば、イが正解ということが分かる。

(20)動名詞
直前の[worth]に注目する。
[worth]は「価値のある」という前置詞(形容詞という場合も…)で後ろには動名詞が来る。
したがってウshowingが正解。
[being shown]では文構造的にNG。また、(  )の直前にあるherは動名詞の意味上の主語である。
[feel like Ving](~したい気がする)なども合わせて覚えておきたい。

 

 

近畿大学・近畿大学短期大学部(一般入試前期〈医学部を除く〉) (2018年版大学入試シリーズ)

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