新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



時間を売る仕事と時間「以外」を売る仕事

最近学生さんとご飯に行く機会が多く、バイトのことだったり、勉強のことだったり、将来のことだったりを聞く機会が多いのですが、僕は圧倒的にバイト(下世話な言い方をすればゼニ稼ぎ)の話に興味があったりします。

色々なバイト事情(+特殊な稼ぎ方をしている人の話)を聞いていると、「時間を売る働き方」をしている人と「時間以外の働き方」をしている人で、全然思考法や将来に対する考え方が違うように思うのです。

 

僕はあまりお金には興味がないタイプですが、振り返って見たら小さい頃からなんだかんだで「何かを売る」という経験をしてきました。

1番始めは多分小学校のころ。

手芸が趣味で、筆箱のチャックの部分にビーズアクセサリーで作ったアクセサリーをつけていたのですが、それをみたクラスの女の子が「それ名札の飾りに欲しい」と言ってくれたことがきっかけで、名札をデコレーションするアクセサリーなる謎のアクセサリーを作ったことがありました。

(多分彼女たちにとって、男子が学ランの裏ボタンでオシャレするみたいなイメージだったのだと思います)

で、それが思いの外流行り(笑)、別のクラスの人からも欲しいと言ってもらえるようになり、6年生の終わり頃は材料を買いに行き、翌日に作ったものを並べて選んでもらうみたいなことをしていました。

たしか材料費+100円くらいで売っていたと思うのですが、小学生の僕にとっては結構な額であったのと、何より自分の趣味で人が喜んでくれるのが嬉しくて(しかも女の子!笑)、毎日制作に没頭していたのを覚えています。

 

中学に入ってからはビーズアクセサリーなんてめっきり作らなくなったのですが、遊戯王カードにはまっていて、カードのパックを売る商売をしていました。

当時は売っている商品の中から好きなパックを選ぶことができ、「サーチ」というレアカードを選ぶテクニックが横行していていました。

で、僕はどうせ買うのなら当たりカードが入っているパックがいいと、必死にその技術を開発していて、ほぼ100%当てる事ができるまでになっていたのですが、その技術は上級生や高校生の中では当然多くの人が持っていて、自分たちの学校の周りではいくらカードを買ってもレアカードがそもそも存在しないという状況でした。

だから、僕は発売日や仕入れたばかりのお店、或いは遠方のコンビニまで足を運び、とにかくレアカードの入ったパックを仕入れてきて、それを何倍かの値段で友達に売るみたいなことをしていたのですが、これも結構なお小遣い稼ぎになっていました。

 

高校ではそういうカード熱も冷めて、自分のカードや、近くの大型リサイクルショップで全く価値のわからない売り方をしていたカードを買い集めて、ネットの掲示板で販売したりということをしていましたが、受験になってそれも終了。

大学に入って、塾のバイトを始め、社会人になりそのまま塾の先生をしたり、時々人のお仕事を手伝ってお金を頂いたり、ライターの仕事をしたりという感じで生活を送っています。

それが良いことか悪いことかは別にして、あまり意識はしていませんでしたが、僕は(利益はいずれも微々たるものですが)「時間を売る」以外の仕事の仕方をやった事があったのでお金が欲しい=時給を見てバイト選び一択というのに疑問があったりします。

誤解の無いように断っておくと、時給バイトが悪いと言いたいのではなく、あくまで選択肢の1つだよねという意味です。

 

もちろん上に書いたような超マイクロビジネスとでも呼ぶべきものは、沢山のお金が欲しいという、あくまで「お金」目的の人には向いていません。

そういう人は、引越しとかキャバクラとかのバイトをすればいい。

(因みに知り合いのキャバクラで働いていた友人たちはそこそこ高級な上に、トークや仕草などむちゃくちゃ色々なスキルを身につけていて羨ましかったです 笑)

ただ、本当に身近な人に向けた超マイクロビジネスをすると、振り返ってみて様々な事が学べたなあと思う事があるのです。

ようやく本題に入れた。。。

 

例えば小学生の時にやったアクセサリー販売は、材料を仕入れ、手を動かして付加価値を生む典型的な職人工。

仕入れコストをはらみながら商売をするというタイプです。

中学校時代のトレカに関しては物理的な差や情報の差を利用した、いわば商人みたいな商売といえます。

自分で作るわけではないので、コスト自分の労働力のみ。

高校生のネットでの販売はいわゆる「せどり」に近いもので、これも中学校時代と同じ感じです。

で、大学に入って塾講師のバイトを始めたのですが、これはいくらコマ数を増やしたくても、一定以上は先生や子供達からの信頼がないと増えないという点で、成果給みたいな働き方でした。

自分の技術や経験が仕事を増やすというのを学んだ気がします。

一方でシフト制で事務やビラ配りみたいな時間給の仕事をさせられたこともあり、僕にはこれが向いていませんでした。

で、社会人になってからは塾の傍らライターの仕事を頂いて行うこともあったのですが、これは自分の経験をベースに発注される仕事(だと思いたい)です。

純粋に時間給で仕事をする以外にも、お金をもらうという手段は案外あるように思います。

 

他にも諸々やってはいましたが、具体例ばかりになっても仕方がないのでそれらは割愛。

上にあげたものを並べると、お金を貰うには①自分の時間をお金に変える以外に②材料を商品に加工してお金に変える③情報・物理的な差をお金に変える④信頼や経験をお金に変える⑤自分の技能をお金に変えるという手段があるという事ができます。

①の場合の時間給は単位時間当たりにどれだけの仕事量を詰め込めるかによって決まるため、作業内容はどんどん過酷になるし、単位時間当たりに詰め込める作業量は限界があるので、どれだけ時給が上がるといっても限界がある。

②の場合は需給で値段が決まるので価格の上限がない代わり、自分の作業量が上限になる。

③は値段の上限もなく、一回あたりの仕入れ数をあげれば作業量の上限もないけれど、資源の枯渇(ルールが変わる)とその瞬間に利益がゼロになる恐れがあります(僕のトレカの場合は、次々にサーチ禁止になり、自然消滅しました)。

そして④と⑤に関しては生産性に価値の源泉があるため、自身の技量を磨き続ければ(そして需要さえあれば)青天井で価値が上がります。

僕は性格的に②や③が好きだから、見つけてはちょこちょこ手を出すのですが、もし長期的に上手くいきたいと思うのなら④か⑤を選ぶべきだと思うのです。

そして、それをするのなら早い方がいい。

僕が塾の先生をしている理由はいくつかありますが、その中の1つには18歳の頃から④をしてきたので、同世代に比べて勝算が高いと踏んだというのがあります。

こんな風に考えると、一口に「バイトしたい(以下では「金を稼ぎたい」と同義として捉えてください)」にも色々な戦略があると思うのです。

仮に一回生(もっといえば中高生)のころからこれを意識していたら、恐らくそのレバレッジはとんでもないことになっています。

当時の僕はアタマが悪くて(今も悪いですが...)、そんな計算が立ちもしませんでしたが、今学生に戻るなら、こんなことを意識してバイトを選ぶように思います。

 

っと、バイトの話を何人かの人から聞いた雑感。

 

 

アイキャッチは上の話が1000倍論理的にまとまっている藤原和博さんの本。

 

 



国民性は言語が規定する~「幸福」と「楽」という言葉に見る日本人の精神性~

ソシュールの言うように言語が世界を文節するのだとしたら、それを使う僕たちの思考は、その言語の文節に影響を受けるということになります。
例えば日本語では違う生き物として「文節」されている蝶と蛾は、フランス語ではどちらもパピヨン、日本語では兄と弟と分ける「血の繋がった男兄弟」を表すこれらの言葉は英語の場合ともに[brother]となってしまいます(『言葉についての新しい認識』池上嘉彦より)。
あるいは英語では羊と羊肉を、[Sheep]と[mutton]と区別するのに、フランス語では羊も羊肉もともに[mouton]と呼ぶ(『寝ながら学べる構造主義内田樹)とか、こうした例は枚挙にいとまがありません。
このように言語によって特定の概念(ここでは動物なども「そういう生き物である」という概念として考えています)が規定されるのであれば、それを使って行う思考にも、そしてその先にある僕たちの行動様式にも、言語による世の中の文節の仕方が影響を与えると思うのです。

言葉の定義が無意識の内に僕たちの思考や行動様式を規定するというのが最近の僕の考えなのですが、その視点から見た時に、日本人にとって非常に厄介な言葉があると思っています。
それが「幸福」という熟語と「楽」という漢字です。
「幸福」という熟語に関しては筑波大学学長補佐を初め、多くの肩書きを持つ落合陽一先生が「この言葉は明治時代に福沢諭吉が外来語を翻訳する仮定でできたものであり、ハッピーとラッキー併せ持った『幸福』なんて概念はもともと存在しない」と度々言っている通り、言葉の意味を見たら、もともと幸せな状態であることを指す言葉と、運がいいという状態を指す言葉が混ざっています。
辞書的な意味を調べると、福という字には「運がいい」という意味と「幸せ」という意味が含まれますが、幸せという言葉には「運がいい」という意味はありません。
つまり本来なら「福(=運」と「幸せ」は十分条件ではあるが必要条件ではないはずなのです。
にもかかわらず僕たちは「幸福」という言葉をあまりに当たり前のものとして使い、その際には必要十分条件的なものとして考えています。
だから多くの人が無意識の内に「幸せになるには運が必要だ。だから幸せそうに見える人たちは運がよくてずるい」みたいな妬みや嫉みみたいな感情が生まれやすいのではないかと思うのです。

「楽」という言葉に関しても同様のことが起こっています。
「楽」という字は「ラク」と音読みすると[easy]の意味に、「たのしい」と訓読みにすると[pleasant]という意味になります。
本来であれば「ラク」であることと「楽しい」ことはまるで違うものであるはずなのに同じ言葉で表現されてしまうが故に、僕たちは本来なら殆ど存在しない「ラクで楽しい」ものを探してしまいがちです。
(ラクだけどつまらない仕事や、大変だけど面白いイベントの例はこちらであげるまでもないでしょう)
仕事を探して「楽しい仕事」という場合、かなりの割合で無意識の内にそこには「ラクで」という言葉が含有されているように思うのです。

日本人はそもそも、使っている言語体系の影響で[happy]は[lucky]によってもたらされると考え、[easy]で[pleasant]な物事を求めがちである。
仮にこれが正しいとして、ここから分かることは「努力」の欠落です。
楽しい状態にしろ幸せな状態にしろ、本来であればそれを得るための「当人の努力」が不可欠になります。
しかしながら「幸せ」と「福」を同列に結んだ「幸福」という言葉と、「ラク」と「楽しい」という意味を同時に持ったこれらの言葉には「当人の努力」という概念が加わる余地がありません。
丸山真男さんは『「である」ことと「する」こと』(「日本の思想」岩波新書)の中で日本人のメンタリティを「である」と「する」に分けていますが、僕のいう「当人の努力」の欠如はまさに「である」ことと同義のものです。
日本の急激な「民主化」によって日本では「である」理論と「する」理論が混同し、解決にはラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と結びつくことが必要だと指摘していますが、日本人の間に存在する「である」メンタリティは普段使う言葉にまで根ざしているものなので、取り除くことは不可能であると思うのです。

ちょうど高校1年生の生徒さんから言語論について、そして2年生の生徒さんから『「である」ことと「する」こと』について聞かれたのであれこれ考えてみました(笑)

 

アイキャッチは落合陽一さんの日本再興戦略

 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

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寝ながら学べる構造主義 *3

 

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

大塚愛プラネタリウム考察~「泣かないよ」と「泣きたいよ」に表れる主人公の本音を読む~

ここ最近、「大塚愛さんと見立ての系譜」というテーマで大塚愛さんの曲ばかりを聞いていました。
本当は『さくらんぼ』『PEACH』『CHU-LIP』辺りを題材に大塚愛の「見立て」のクセについてまとめていこうと思ったのですが、掘れば掘るほど分析する視点が多くて全くまとまらなくなってしまいました(笑)
そんなこんなをしているうちに、『プラネタリウム』が流れてきて、久しぶりに聞いたらどっぷりハマッてしまったので、今回はこちらについての考察をまとめてみたいと思います。

この歌に関して、大塚愛さん自身は「あんまり思い入れもなく作った」と言っていますが、本人の気持ちが投影されているかどうかは別として、僕はひとつの物語として非常にいい曲だなあと思っています。
(余談ですが、大塚愛さんの曲を見ていると、「やっつけ感」がある曲の場合はストレートに感情が描かれている場合が多く、反対に時間をかけているなと思う曲は情景描写が巧みで気持ちを表すときにも非常に繊細な言葉選びがされていて面白いです…笑)
この『プラネタリウム』という曲は解釈を巡って様々な説が流れていますが、僕は「若い頃に死んでしまった彼氏を思い出す主人公」について歌った曲であると考えています。
(繰り返しますが、それが大塚愛さんの体験に基づいているとかいう話ではありません。)

〈夕月夜 顔だす 消えてく 子供の声〉
僕はこの出だしが非常に気に入っています。
Aメロの初めの段階で月が顔を出すという視覚情報と子供が家に帰る時間ということを声という聴覚情報で伝えています。
たった4小節、文字にすれば14字で聴覚情報と視覚情報を混ぜ、どのくらいの時間帯であるかを伝えてしまうこの出だしは凄いと思います。
そして直後で主人公の(おそらく)女性の〈この空のどこかに 君はいるんだろう〉という心情が描かれます。
僕は「君」が死んでいると思っていて、その根拠はまたあとで出てくるところで述べますが、この表現からもうっすら今はもういない人であるということが漂っています。
そして1番の2回目のAメロで二人の思い出の公園にいることが描かれます。
〈夏の終わりに2人で抜け出した〉〈あの星座 何だか 覚えてる?〉という歌詞の「抜け出した」という部分から、まだ様々な制約のある年齢ではないかと推測することができます。
(成人の2人では「抜け出す」と表現する必要性がありません。)

Bメロで〈あの香りとともに花火がぱっと開く〉とあるのですが、僕はここで「花火」が出てくることに注目しています。
Aメロでは彼との思い出は「夏の終わり」です。
にも関わらずここでは花火の日に彼を思い出している。
花火は多くの場合お盆の時期に打ち上げられます。
ここには「鎮魂」の意味や送り火の意味があると言われるのですが、『プラネタリウム』における花火もこの文脈で捉えるのが妥当でしょう。
ここから(他にも根拠はありますが)、この歌は亡くなった恋人を想う歌だと思っています。
また、内容とは別に歌の進行として一瞬で消える「花火」というモチーフを挟むことで、感覚的にサビに入る手前の「間」を表現する効果もあるように思います。

そしてサビに入ると〈行きたいよ 君のところへ〉というように、あなたに会いたいという気持ちが表現されます。
そしてサビの後半では〈数えきれない星空が 今もずっと ここにあるんだよ〉と、再び視覚情報が入ります。
そして、それを踏まえて〈泣かないよ 昔 君と見たきれいな空だったから〉と主人公の内面が描かれる。
ここはきれいな空だから(涙で)滲ませたくないという気持ちと、もう前を向いているという主人公の気持ちが描かれていると考えればよいでしょう。

2番のAメロは聴覚情報による思い出から入ります。
このパートは後半部分の〈大きな 自分の影を 見つめて 想うのでしょう〉というところに注目すべき部分です。
歌詞の表記が「想う」となっているため、「あなたのことを想う」という解釈が妥当です。
この部分を恋人は亡くなってしまっているという前提の下、「自分の大きくなった(比喩的に成長したと考えてもいいと思います)影をみてあなたのことに想いを馳せる」と考え、前の「耳に残ったふたりの足音」と合わせて考えれば、若いときに二人で歩いた様子と、1人だけ成長した自分の影をみて不意に「あなた」を失った喪失感が描かれます。
因みにここで「影」がはっきり見えているところから、1番で「顔を出し始めた(=日暮れ直後)」からの時間の経過が読み取れ、さらに1番で「子供たちの声が消えていく」という表現から雑音が無いことがさりげなく示されることで「足音」という表現が生きてきます。
しかも、「影を見つめる」という部分から、主人公は下を向いている(=悲しさやつらさがある)ということも読み取れます。
この辺の描写の運びが本当に上手だなあと思います。

そして、2番のBメロ。
〈ちっとも 変わらないはずなのに せつない気持ちふくらんでく どんなに想ったって 君は もういない〉
変わらないはずなのに切なさは増えていくという部分には、「気持ちはあのときと同じつもりなのにあなたがいなくなってから確かに時間が流れていることを実感して悲しくなる」という主人公の気持ちが表れています。
そして〈君はもういない〉というところで既に恋人は亡くなっているのだろうという印象が強くなる。

そして2番のサビに入ります。
〈行きたいよ~小さくても小さくても〉の部分で描かれる「小さくても」は星に投影している(=亡くなった)恋人に会いたいと解釈ができます。
サビの後半で再び〈泣かないよ〉という恋人に対する「約束」が出てきます。

そして最後のサビに向かうための3回目のBメロが登場します。
1番のBメロと同様に花火の描写が入ります。
そして、音楽的にはすぐにサビに入らず、1小節空白が作られます(そこに打ち上げ花火の音が挟まれる)。
そして、転調する最後のサビに向かいます。
ここでの2度目の「花火」の描写によって、時間経過が表されています。
そしてその後の転調のおかげで、さも花火大会が終盤に向かっているという印象を与えてくれます。

そして転調したあとの最後のサビ。
〈泣きたいよ それはそれは きれいな空だった〉
これまでは〈泣かないよ〉と「あなた」に対して語っていたのが、最後のサビでは「泣きたいよ」と自分の心情をこぼしています。
1番2番で出て来た空は〈昔君と見たきれいな空だったから〉という表現から「今」見ている空であることが分かります。
それに対して「泣きたい」と言っているここで表される〈きれいな空だった〉というのは明らかにあなたと見た「過去」の空のこと。
今見ている空は昔あなたと見た空のようにきれいだけれど、あなたがいないという事実を思い出すたびに、過去の空を思い出す。
ここで主人公の「あなたがいない世界にも慣れてきた」と強がっているけれど本当は全く立ち直れていない本音がこぼれます。

以上のような構成の『プラネタリウム』という曲。
ここまでで、構成や言葉選びにより表現したかった作者の意図のようなものを考えてきましたが、僕が何より凄いと思うのは、この曲の中で「悲しい」や「うれしい」といった直接的な感情表現は一つも出てこないところにあると思っています。
せいぜい出てくるのは「好き」という言葉が一回だけ。
にも関わらず、歌全体から感情がにじみ出ている。
大塚愛さんというとアップテンポで直接感情を表した曲の印象ですが、この曲や『恋愛写真』、そして『クムリウタ』のような、感情を描写だけで描くことにこそ彼女の真骨頂があるように思うのです。

 

アイキャッチは『プラネタリウム』は入っていないけれど僕が一番好きな大塚愛さんのアルバム。 

LOVE PiECE

LOVE PiECE

 

 

芸術作品に見る「常識」と養い方

daguerreotypeの写真が当然であった時代の人々にとっては、現代の街を行き交う人々が写っている写真は極めて不自然なものに見えるだろう。

これは昔、東大の英語入試で出題された文章の一部を和訳したものなのですが、僕にとってこの文章は芸術や文化に興味を持つきっかけになったもので、未だに強く印象に残っています。

当時のdaguerreotype、つまり銀盤写真では、カメラの前で長時間動かずにいることで写真に写ることができました。

f:id:kurumi10021002:20180227011537j:image(ウィキペディアより引用しました)

だから、例えば町の写真を撮ろうとしたら、上の図のように動いている人々は写真に写らず、止まっている都市の風景だけが写ることになります。

だとすれば、そういう写真が「常識」の人たちにとっては、「数時間止まったままにできない存在は写真に写りこまない」というのが「当たり前」になるわけです。

であれば当然、スマホを取り出してボタンを押しっぱなしにするだけで連写ができる現代の僕たちとは世界の見え方が当然違うはずだし、それによって導き出されるアウトプットも違うものになるはずである。

この文章を読んだときにそんなことを思い、以後作品に現れる見え方の「常識」みたいなものを集めています。

 

現代との見え方の違いという観点から面白いと思うのはカイユボットの『Paris Street; Rainy Day』という作品です。

f:id:kurumi10021002:20180227012153j:image

(ウィキペディアより引用)

ご覧の通りこの作品には雨の降るパリの街並みが描かれているわけですが、そこには僕たちが雨を表す際に使う細い線で描かれたような「雨」はありません。

チームラボの猪子さんはこの絵と、その数年後、日本の浮世絵から「雨を線で描くといい」ということを学んだ後の絵を引き合いに出し、ジャポニズムが広がる以前のフランス人の文化においては、雨は線で捉えるものではなかったのではないかという仮説を立てていますが、おそらく文化という意味ではその通りでしょうし、雨が線に見えない文化を知ろうとする上で非常に学ぶことが多いのが、このカイユボットの作品であるように思います。

 

アラン・ルノーの『個人の時代』には(確か)昔の作品に描かれる、「着ている洋服に関しては細部まで描かれているのに対して被写体の顔が曖昧である」ということを以って、「この時代には『個人』という認識がなかったのではないか」と結論づけていますが、これも上の例と同様にその通りで、同時に作品に現れるように、当時の人々にとっての社会の見え方が反映されているように思います。

 

視点を日本に向けてみれば、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」という俳句からも、当時の文化背景をうかがい知る事ができます。

この歌は、一茶が死んだ自分の娘を題に詠んだ歌なのですが、これを理解するためには江戸時代の「時間感覚」を理解する必要があります。

一茶がこの歌を詠んだときは、生とは向こう側の世界から形を持って現れるものだという認識が常識でした。

だから植物の開花は、ない世界からある世界への新たな命の芽吹きを表し、それを積むのは忌むべきことだったわけです。

唯一花を積むのが許されるのは、死者に対する手向けをするときだけ。

一茶が詠んだ「君が小さいころむしりたがった花を、君が死んでしまったからやっと摘んで墓前に飾ってあげられる」という歌の意味に込められた悲しみは、こうした 当時の価値観を知ることで初めて理解できるわけです。

 

僕は芸術の強みはここにこそあると思っています。

芸術に触れ、当時の人々が芸術に込めた意図や思想を理解しようとすることで、初めてその時代の価値観がわかり、作者がその作品で言わんとしたことも理解ができる。

芸術にはそんな、僕たちを常識の外へ連れて行ってくれる機能があるように思います。

新大学生が好待遇なバイトを探す5つの方法

この時期進路が決まった生徒さんが挨拶に来てくれることが多く、1年は早いものだなあと感慨深くなるのですが、そんな生徒さんからよく、「どんなバイトをしたらいいか?」ということを聞かれます。

 で、この前もそんな質問をされたのですが、その時にふと考えたら、僕は今まで「求人サイトに応募してバイトを探す」という経験をした事がなかったことに気がつきました。

というか、今もメインでお世話になっている塾の他にもう一つお仕事をさせてもらっていたり、ライターのお仕事をしたりNPOに関わったり、他にも諸々単発長期を問わなければ色々やっているのですが、いずれも自分から求人サイトで見つけてくるという過程を踏んだものではありません。

だから、僕にとって「バイト探し」をサイトで行うこと自体が極めて不自然なことだったりします。

そんな話をしたら、その生徒さんから逆にサイト以外でどうやって探すのと言われ、ここの認識ギャップが面白いと思ったので、僕が今学生でバイトを探すならという切り口でバイトの探し方を考えてみたいと思います。

 

求人サイトしか探す方法が無いは思い込み

まず、だいぜんていとして大前提として僕は「求人サイトによるバイト探し」は最終手段だと思っています。

これは決してネガティヴな意味で言っているのではなく、その前にもっと効率のいい探し方があるよねというお話です。

 

僕自身がこんな生き方をしているということもあり、周りには自分で会社を起こしたり、団体を立ち上げたりということをしている人が多いのですが、彼らの組織ではたいていバイトを雇っていて、待遇を聞く限りコンビニやチェーンの居酒屋よりもずっといいバイトであると思うものばかりです。

でも、彼らは当然求人サイトになんか募集は出していません(というか出す予算はない)。

だから僕はそもそも面白くて好待遇なバイトにたどり着きたいのなら、求人サイトとは違うアプローチをとるべきだと思っています。

 

僕がバイトを探すのならおそらく下のような順番でアプローチをかけると思います。

①向こうからオファーがある

②よく行くお店に頼む

③親類・知人に紹介してもらう

④自分の足で歩いて店前の求人募集を探す

⑤求人サイトを見る

求人サイトを見るのは①〜④で上手くいかなかった時。

多分この方が結果的に面白いバイトにたどり着ける気がします。

(もちろん「制服がかわいい」とか「その職業がやりたい」とかなら求人サイトが1番の近道です。)


フェーズ別アプローチの仕方(前編)

まず①の向こうからオファーがくるというものについて。

高校を卒業したばかりの人にそんなもの来るわけないと思うかもしれませんし、実際殆どの人にこのパターンはありません。

ただ、中にはよく行っていたカフェのマスターから誘われたりとか、習い事をしていた教室から誘われたりということがあります。

っというか、うちの塾もたまにありますし、僕が学生時代にバイトをしていた塾でもありました。

経営者側がこの子に働いて欲しいと思えば当たり前ですが声をかけますし、その場合はたいてい待遇がいい上に居心地もよくなります(何と言っても向こうから誘っているわけですから!)。

だからまず自分の周りに①が転がっていないかを探すのが先決です。

 

①がなければ次に行うのが②のよく行くお店に頼むというものです。

よく行く文房具屋さんや立ち寄るカフェみたいなところに頼むという手法です。

或いは通っていた習い事の教室から①のように向こうから声がかからなくても、こちらから頼んでみるとか。

人手が足りないタイミングで、関係が良好(こいつに頼めば大丈夫という信頼関係がある)ならば十中八九雇って貰えます。

これはコンビニなどでも同じ。

実際に僕の友達の何人かは、塾で毎日使っていたコンビニの店長と仲良くなっていて、大学で地元を離れるまでの間や、長期休暇の間だけ雇ってもらうみたいなことをしていました(笑)

これなんか、一般的に大変と思われるコンビニのバイトなのに好待遇で迎え入れられた例です。

 

フェーズ別アプローチの仕方(後編)

ここまでのやり方が自分の信頼を使ってバイトを探す方法なので非常に効果的な方法なのですが、一方で高校生の段階でそんな信頼を勝ち取っている人は稀です。

そんな場合に有効なのが③の親類・知人に紹介してもらうという方法です。

親類の仕事場や親類の知り合いの仕事場、或いは友人が働いているバイト先などに自分を紹介してもらえないか頼んでみる。

基本的に「コイツなら紹介してもいい」と思われていなければ紹介してもらえませんし、紹介された側も紹介者の信頼を担保にしているため、比較的好確率で好待遇なバイトにたどり着けます。

知り合いに仕事を紹介してもらうというのは当人が紹介者の信頼を勝ち得ていて、その信頼を元本に紹介者が信頼を得ている人に紹介してくれるわけなので、直接自分が求人側に信頼されている場合には及ばなくとも(時にはそれ以上にレバレッジがかかることもある)、それなりのバイトにたどり着ける可能性は高いわけです。

 

人づても見つからない場合は、今度は自分の足で探します。

自分が働きたいあたりを回って見て、いいなと気になるところがあったらそこを訪ねてみる(個人経営がオススメ)。

向こうが求人広告を出してくれているわけなので、欲しいと言っている人に「僕はどうですか」と営業をかけに行くイメージです。

優秀な営業マンだと同じ商品でも売り上げが全然ちがうのと同じように、清潔感のある服装で爽やかな印象、そして礼儀正しくハキハキ見えればかなりの確率でいい印象を持ってもらえるはず(そこは本人の心がけ)。

また、ここでいう「足で探す」とは、実際に歩くことには限りません。

ウェブで求人サイトを使わずに興味のあるものを探してみるというのもここに該当します。

求人サイトにはなっていないけれど、自分のウェブサイトに求人を出しているという会社にとって、自らたどり着いてくれた時点で、多少興味があるのではと思ってもらえるはず。

そこで上に書いた清潔感×爽やか×礼儀があればやはり好確率でいい待遇に出会えるように思います。

 

求人サイトで探すのもいいけれど

以上のように、バイト探しと一口に言ってもいろいろな方法があります。

少なくとも僕がパッと思いついただけでも(このエントリはある生徒さんと話していたときにパッと思いついて説明したものを書き起こしたものです)上の5パターンが出てきます。

もちろん求人サイトで探すのもいいと思いますが、その中からラクで楽しくて時給のいい仕事を見つけるのはなかなか難しいと思います。

・・・そもそも求人サイトに掲載している時点で、雇った瞬間に掲載料金分は働かせようと思うわけですし(笑)

僕はバイトを探す軸が「ラク」でも「時給」でもないので、正直こうした基準で選ぶのはよくわかりませんが、確かにラクな仕事も時給がいい仕事もたくさん存在します。

ただ、それにたどり着くには①〜④の方法でないとかなり難しいのではないかと思うのです。

バイトを探す新大学一年生の方の参考になったら幸いです。

 

アイキャッチは「愛されニート」という生き方が書いてある岡田斗司夫さんの「僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない」という本。

僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない 電子版

僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない 電子版

 

 

 

デジモン世代だけが持つ武器!?20代後半〜30代前半だけが圧倒的活字耐性を持っている

日本語の語彙を増やすために、日本語を観察するために、間違いに気づすために、そして、人と同じ過ちを犯さないためにも、聞くことをなおざりにはできない。

ふと手にした野口圭子さんの「かなり気がかりな日本語」(集英社新書)という本に、こんなことが書かれていて、この本が2004年に出版されたということを知り、僕たちの情報処理活動は90年代後半からゼロ年代前半にかけてだけ「例外的に」文字情報が中心の生活だったのだなあと思いました。

10年代後半を生きる人間は、ウェブ環境の急速な発達とスマホの普及により、波形情報、つまり音と映像の情報に囲まれて生きています。

電車に乗ればほとんどの人がイヤホンをつけていますし、ふと除くと結構な人がスマホゲームをしていたり、youtubeで動画を見たりしています。

今の僕たちが情報を取り入れる間口は、圧倒的に映像情報(画像情報を含む)と音声情報です。

一方25年くらいさかのぼってみると、一般にはインターネットが普及しておらず、携帯電話も広がっていなかった時代を振り返ってみると、やはりその時も私たちの情報処理活動は波形情報が中心でした。

家に帰ればテレビを点けたり、CDコンポで音楽を流しておく。

こんなライフスタイルが定番であったように思います。

僕たちは基本的にずっと映像と音声に囲まれて生きてきたというのが僕の解釈です。

 

インターネット成長期だけ一時的に訪れた文字情報の社会

 

基本的に映像情報と音声情報に囲まれて生きてきた僕たちですが、パソコンが一般家庭に普及し、ウェブ環境が整いつつあった90年代後半からゼロ年代前半にかけてだけは、圧倒的に文字情報に触れる機会が多くなります。

パソコンが普及したために触れられる情報量が圧倒的に増えた一方で、インターネットの技術がそれほど進化していなかったため、技術的な制約があり、ウェブ上の情報は文字情報が溢れかえっていました。

また、携帯電話もコミュニケーションはメールが中心ですし、そこからウェブにアクセスしたときもパケットなどの制約上、得られる情報は活字ばかりでした。

ゼロ年代半ばくらいから急速にウェブ環境が整い、youtubeのようなサービスが生まれた辺りから急にウェブ空間には動画やビジュアル情報が増えるようになり、その動きは10年代前半にスマホが発売されたことで決定的になりました。

こうやって見てみると、僕たちの生活に活字が溢れていたのは、環境が生み出した例外的な状況で、90年代後半〜ゼロ年代前半の特徴であるように思うのです。

 

デジタルネイティブの最大の武器は圧倒的活字感覚にある

 

僕は自分たちの世代ならではの武器は何かということを頻繁に考えているのですが、上のように90年代後半〜ゼロ年代前半だけが例外的に文字情報に溢れる社会であったとするなら、その時代を生きた人は圧倒的に文字による情報処理をしてきたということになります。

そしてその時代に幼少期を過ごしているのは僕を含む今の20代後半から30代前半の人たち。

いわゆるデジタルネイティブと呼ばれる世代です。

時代の流れの中で技術の制約上一時的に文字情報溢れた期間に偶然幼少期を過ごしたこの世代だけが、他の世代と比べて圧倒的に文字情報に触れ、文字情報を処理することが肌感覚として染みついているように思うのです。

僕たちの世代は、とにかく文字ベースでコミュニケーションをして、文字ベースで娯楽を探すことに長けています。

(というかそれしか道具がなかった)

当たり前のようにLINEやTwitterとは違うそこそこの文字数のメールというコミュニケーションツールでやりとりをしていたし、プロフやmixiのようなサービスで誰もが普通に日記を書いたりしていました。

だから、振り返ってみればこの世代は(論理的な文章などは別としてつ)文章を書く能力が平均的に高いはずです。

 

文字ベースの思考とデジタルネイティブ生存戦略

現代は圧倒的に映像情報と音声情報が身の回りに溢れ、相対的に文字情報に触れる機会が減りつつあります。

今の子どもたちを見ているとそれは明らか。

今後もこの傾向は続き、基本的には文字情報を中心とした文化に戻ることはないと思います。

身近な環境にどのような情報が溢れているかは、思考方法に直に影響を与えます。

文字ベースで思考する人と、ビジュアルベースで思考する人では、同じものに対して考えたとしても出てくるアウトプットは異なるでしょう。

今後ますます映像ベース、音声ベースの思考をする人が増えてくるとしたら、相対的に文字ベースに思考する人の割合は少なくなっていきます。

だとしたら、使い方によってはそれ自体が大きな差別化要因になるように思うのです。

この辺りが僕を含む20代後半から30代前半の生存戦略を考えるときのポイントになってくるのではないかと思う今日この頃。

環境の関係で偶然手に入れることができたこの「差異」を最大限有効活用する方法を考えぬくということは、結構重要なことであるように思います。

 

アイキャッチはまさにデジタルネイティブの世代しか知らないのではないかといわれるデジモン(笑)

 

 

成果が出なくても努力し続けられる期間を自覚する

成果を上げるには、自分が成果が出ると想定している10倍くらいの努力が適正値である。

これが僕の努力に関する考えでした。

例えばこれは僕の印象値ですが、受験勉強をして「私頑張っています」という人は、毎年同じレベルの学校を目指し受かっていった人と比べると大体そのストイックさは1/10にも満たないくらいの感覚です。

努力をしていないわけではありませんが、そもそも当たり前の基準が足りていない。

もちろん勉強に限らず、あらゆることも同様です。

だから、それこそ幻冬社見城徹さんではないですが、結果を出したいのであれば圧倒的な努力をしろと思っていました。

 

ただ、僕はここ最近努力について、もう一つ重要な指針があるのではないかと考えています。

それが「成果が出なくても頑張れる期間を知る」ということです。

確かに何かしらの結果を出したければ圧倒的な努力が必要である(しかもその努力は無駄になる可能性も覚悟する)ことは間違えないのですが、一方でいつ来るかもわからない(場合によっては無駄になるかもしれない)投資を成果に結びつくまでやり続けるということはなかなかできないと思うのです。

成功するまで圧倒的努力を続けられるのは根性でも才能でもなく、単純な適性のお話。

偶然、そういうやり方ができた人の「結果が出るまで耐えられるスパンが異常に長かった」というだけのことだというのが僕の最近の考えです。

 

そういった「適性」がある人しか成果を上げられないのかと言えば、決してそんなことはありません。

自分の「結果が出るまで耐えられるスパン」が短い人は、単にそのスパンの中で結果が出そうな段階に、目標を分割してあげればいいわけです。

 

こういう文脈の場合、有り体の自己啓発書であれば、「だから目標を細分化しましょう」という話に繋がると思うのですが、僕はそれとはちょっと違うアプローチが重要であると思っています。

それが、自分にとって結果が出なくても努力を続けられる期間を正確に把握するということです。

これさえできていれば、あとはやりたいことを常にその期間より短くて結果が出るであろうレベルに下げて、ひたすら積み上げていくだけ。

nという期間で努力ができる人がいたとして、それよりも1/6の期間しか成果の出ない努力に耐えられないという人は、(a+b+c+d+e+f)というように6コ積み上げればいいだけの話なのです。

 

「成果が出なくても努力できる期間」という軸で社会をみると、大抵は1週間〜1ヶ月くらいの所に落ち着き、優秀と呼ばれる人は半年〜1.2年、いわゆるリーダーと呼ばれる人は2〜5年くらいであるように思います。

それよりスパンが短い人はいわゆる「落伍者」的に思われ、反対に10年くらいのスパンで頑張る人は「仕事が遅い」とか「マイペース」みたいな評価がされます。

大体2〜3年を最大値とした上に凸の2次関数的な評価がなされるというのが僕の印象です。

2〜3年の努力を積み上げた先の成果が最も評価されるのであれば、それより短いスパンでしか耐えられない人も、積み上げにより追いつくことは不可能ではありません。

(流石に10年スパンで頑張る人に1月の努力の人が120積み上げるというのは難しい気がします)

というわけで努力に関しては、圧倒的な努力と自分が成果が上げられずに耐えられる期間を知ることが重要であるように思うわけです。

 

時間がないので今日はマジでたんに思いついたこと(笑)