新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



槇原敬之『Hungry Spider』考察〜蝶を逃した蜘の気持ちと蜘蛛の巣に潜む作曲者の孤独〜

いつものことですが、あくまで「僕の解釈」なので、その点はご了承下さい。

 

小さい頃、カーステレオからよく流れてきた槇原敬之さんのHungry Spider。

僕がこの曲を好きになったきっかけは、妖艶なその曲調からでした。

大人になってある程度歌詞の意味なども理解できるようになってくると、僕がこの曲に惹きつけられる場所は歌詞へと移っていました。

なんて孤独な歌なんだという印象です。

その頃になって、槇原敬之さんがちょうどこの曲の発表時期に覚醒剤で捕まったことを知ったのですが、そんなことは関係なしにこの曲は孤独に満ちているというのが僕の解釈です。

 

Hungry  Spiderは終始美しい蝶に恋をした蜘蛛の物語というメタファーで「叶わぬ恋」を描いていますが、もう一段掘り下げたところに槇原敬之さんの「気持ち」があるのではと僕は思っています。

 

 

蜘蛛と蝶の物語を読み解く

偉そうに作曲者のホンネを探るみたいなことを言いましたが、そのためにもまずは普通にこの歌を解釈しなければなりません。

(そもそもの歌詞がメタファーで作り上げられているため、まずはそこを攻略しなければホンネも何もないので...笑)

 

<今日も腹を減らして一匹の蜘が 八つの青い葉に糸をかける ある朝露に光る巣を見つけ きれいと笑ったあの子のため>

この曲の登場人物はきれいな蝶と、その蝶を好きになってしまった蜘。

蝶はある日、朝露で光る蜘蛛の巣を見て「きれい」と微笑みます。

それを見た蜘が蝶を好きになってしまう。

そして、毎朝蜘蛛の巣を張ってまたあの蝶に喜んでもらおうとしています。

しかし蝶がきれいと言ってくれた巣は、本来そんな蝶たちを捕まえるためのもの。

朝露で光る一瞬はきれいでも、それが乾いたら彼らを捕食するための罠。

蜘は蝶にまたきれいと笑って欲しいけれど、そこに蜘蛛の巣を張って蝶が近づいてきてしまえば、いつかは蜘蛛の巣に捕まってしまうかもしれません。

そんな葛藤を描くのが1番のAメロとBメロです。

 

<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly>

このサビには自分と好きになった相手は全く違うものであるということ(恐らく自分に言い聞かせている?)が示されています。

どうせそもそも近づくこともできないのだからこの恋は諦めよう。

そんな気持ちが描かれます。

そして、2番で物語は別の日に移ります。

 

<今日も腹を減らして一匹の蜘が 八つの青い葉に糸をかけた その夜 月に光る巣になにか もがくような陰を見つけた>

1番が「糸をかける」と(厳密にはこの言い方は正しくありませんが)現在形で描くことで昨日も今日も明日も行なっている習慣的行為であるのを表すのに対して2番では「糸をかけた」と過去形にすることで、特別なことが起きたのだと暗示させている所は本当に見事だと思うのですが、槇原さんの歌でそこを指摘していたら(多すぎて)終わらないので、今回はスルーします。

蝶のことを好きになってしまった蜘に問題が起こります。

好きだった蝶が自分の巣に引っかかってしまったのです。

蜘は当然その蝶を食べるつもりはなく、助けようと近づきます。

しかし、いくら蜘が助けようとしていても蝶にとっては醜い捕食者が罠にかかった餌を食べに来ているようにしか見えません。

そのため、蜘が<今すぐ助けると言うより先に 震える声であの子が「助けて」と繰り返す>わけです。

かつて朝露に光る巣を見て笑ってくれた蝶に好意を抱いていた蜘は、いざ目の前で好きになった相手を助けようとして、全力で怯えられてしまいます。

そして2番のサビに。

 

<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly>

1番同様に自分と相手は違うと言うことを言い聞かせるこの歌詞ですが、前の文脈によってその意味合いは決定的に異なっています。

1番では、相手を傷つけないために自分から言いきかせたこのセリフですが、2番では実際に相手に拒絶されることで気づかされた立場の違いを振り返るセリフになっています。

だからその後ろには、いっそ巣にかかる全てを食べれば傷つかずにいられるのだろうかという歌詞が続く。

この辺の構成がとんでもないなと思います。

 

そして3回目のBメロのあと、最後のサビで<I'm a hungry spider. you're a beautiful butterfly 叶わないとこの恋を捨てるより この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃した>と意味深な歌詞に続きます。

1番のサビでも<叶わないとこの恋を捨てるなら この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃がすと誓おう>というように似た表現が出て来ていますが、ここを解釈するには、槇原敬之さんが「恋」と「愛」をどういう意味で用いているかを考える必要があります。

辞書的な意味では「恋」は気持が惹きつけられて相手に思いを寄せること、「愛」は相手を愛しむ気持となっています。

恐らくここでも好きだから相手に近づこうとするのが「恋」、好きだからこそ相手のために身を引こうとするのが「愛」くらいに解釈するのが適当であるように思います。

蜘は最終的に相手と恋に落ちることはできないと悟って、それでも好きという気持ちは捨てられないので、自分は手を出さないという選択をします。

そして、ただきれいな蝶を眺めるだけの存在に徹することを選ぶわけです。

 

一見蜘は蝶を逃す前と後でやってることはまるで変わらないように見えますが、一緒になれないとは感じつつも蝶に振り向いて欲しくて蜘蛛の巣に朝露をつけていたときと、一緒になれないと自覚した上で蜘蛛の巣から蝶を眺めるのとではまるで意味が違います。

蜘は自分の気持ちを捨てられないのを認識した上で、その蝶を想い続ける道を選択したのです。

 

以上が僕のこの歌に対する解釈です。

で、普段ならここでまとめてしまうのですが、この曲に関してはもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。

 

Hungry Spiderにおける「蜘蛛の巣」は何なのか?

僕がこの曲で最も気になったのが、蝶と蜘の間に物語を生じさせた「蜘蛛の巣」が何のメタファーであるかです。

蝶は朝露に光る蜘蛛の巣を綺麗と言うし、蜘も喜んでもらうために毎日蜘蛛の巣を貼り続けます。

一方で、蜘は巣を「あの子のような蝶を捕まえるもの」と言っている。

そして、光る蜘蛛の巣に惹きつけられて絡め取られた蝶を助けようとして初めて蜘が蝶に近づくと恐れられる。

僕はこの蜘蛛の巣は、才能のメタファーであると考えています。

作曲者の槇原敬之さんにとっての才能とはもちろん歌のこと。

蜘は、本当なら自分のことを好きになってもらいたいのに、蝶がきれいといってくれるのは自分の作った蜘蛛の巣の方。

僕はHungry  Spiderが、本当は等身大の自分を分かってもらいたいのに、集まってくるのは自分の才能に惹きつけられた人ばかりであるという作曲者の孤独感を歌ったのではないかと思っています。

もう1つ、朝露で光る蜘蛛の巣と、朝露が乾いた巣に関しても当時の槇原敬之さんの複雑な心境が描かれているように思います。

槇原さんは、自分の曲を「ライフソング」と呼び、恋愛とかに限らず、もっと普遍的なものを歌いたいという想いを持っている方だそう(どこかの特集で語っていたと想います。思い違いだったらすみません。。)

実際、「どんなときも。」「僕が1番欲しかったもの」や「Flrefly〜僕は生きていく」や「世界に一つだけの花」のような恋愛以外の曲も多く描いています。

しかし、槇原敬之さんといえば「もう恋なんてしない」とか「冬がはじまるよ」みたいにどうしてもラブソングの印象が強い歌手です。

キラキラ光る蜘蛛の巣がラブソング、本当に自分が描きたい曲が乾いた巣というメタファーも含まれているのかなとも思いました。

 

こんな風に何通りにも読むことのできるHungry  Spider。

サイケデリックな感じで好みが分かれるところかと思いますが、僕はオススメの一曲です。

 

アイキャッチはもちろんHungry  Spider

 

Hungry Spider

Hungry Spider

 

 

 

井上ひさし『握手』はONE PIECEと同じ構造!?西洋料理店に隠れる時間転換の妙

今日のテスト対策をしていた時のこと、とある生徒さんから「どこがいいのかさっぱりわからへん!」という言葉を頂きました(笑)

その作品は井上ひさしさんの『握手』という小説。

その生徒さんに理由を聞いたら、「主人公が何もしないからおもんない」のだそうです(笑)

確かにその主張には納得するところもありつつ、一方でこんな読み方もできるよと、その質問で気づかされたことが多々あったので、僕なりにこの作品の凄さや中学生の皆さんが苦手意識をもつ理由について考察してみたいと思います。

 

『握手』は『ONE PIECE』である!?

僕はこの作品の構成について説明するとき、「ONE PIECEの好きな場面を教えて?」とよく聞きます。

エニエスロビーでロビンを助けるとき、幼少期に全てを失い恩人に流してもらったロビンの悲しい過去に、人にもトナカイにも仲間外れにされた自分を唯一仲間として扱ってくれたヒルルクを失った経験のあるチョッパー。

ONE PIECE』では、ドラマのクライマックスに差し掛かったところで、毎回必ずといっていいように「過去の回想シーン」を挟みます。

過去の回想シーンで登場人物の人生を知ることで、読者はどんどんそのキャラに引き込まれていく。

意図は全く違いますが、井上ひさしさんの『握手』では、これと同じ構成がとられていて、それをはっきりと意識して読まないと、読み間違えが起きたり、ストーリーが分からなくなったらしてしまいます。

 

物語の最中に回想シーンが入るなんて、小説だったら当たり前じゃないの?

そんな風に思われるかもしれませんが、中学生が国語の教科書で読む小説の中でこの構成に出会うのは、この『握手』が初めてです(たぶん)。

一年生で習うヘッセの『少年の日の思い出』も二年生で習う太宰の『走れメロス』もほかの作品も、基本的に大掛かりな回想シーンは登場しないんですよね。

だから、普段本を読まない子にとっては、文字情報でいきなり過去の回想シーンと現在を行ったりきたりする作品はこれが初めてですし、初めてだからこそ、それをはっきりと自覚しておかないと読み違えてしまうという自体が起こってしまうのだと思います。

(実際、テスト対策をしていても、現在のルロイ修道士の様子を聞かれているのに過去のシーンに根拠を求めている人がたくさんいました。)

現在のルロイ修道士のある動作を見たとき、そこに主人公が記憶の中のルロイ修道士を思い出し、そこから過去の回想に入る。

この転換のスムーズさが、この作品の面白いところの1つであるように思います。

 

登場人物が座ったままで物語が展開する面白さ

『握手』はとある西洋料理店で主人公が子どもの頃に孤児院でお世話になったルロイ修道士と再会する場面から始まります。

そして、2人はご飯を食べながら当時のことを話し始め、主人公がルロイ修道士の仕草や振る舞いを見るたびに、幼少期を思い出すという形で展開していきます。

だから、僕に登場人物に動きがなくてつまらないといった生徒さんの感想は、確かにその通りだったりします。

ただ、「登場人物が動かない」のはその通りなのですが、だからといってそれがそのまま「つまらない」であるかといえば、そんなことはないように思います。

この現在と思い出を行き来する描写が本当に上手だと思うのです。

 

西洋料理店という設定に隠れる時間転換の妙

小中高で習う小説の中でも、個人的に井上ひさしさんの『握手』はかなり好きな部類に含まれます。

思い出と現在の場面を行き来することに違和感を感じさせない設定&情景描写が凄いと思うのです。

冒頭にさりげなく出てくる「西洋料理店」という言葉。

僕たちは何気なくその場面を読み流してしまいますが、中盤にこの設定が効果的に機能します。

物語の中盤で、主人公はルロイ修道士がフォークを持つ手の潰れた指の爪を目にして、ルロイ修道士の指が「そうなった理由」を振り返るシーンへと繋がります。

ルロイ修道士は若い頃、日本軍(厳密には違いますが本筋とズレるのでご容赦下さい)に労働交渉をしたときに、逆らった見せしめとして指の爪を木槌で潰されたという過去をもっています。

そんな過去を知って、主人公が幼い頃を過ごした天使園という孤児院では、「だからルロイ修道士は日本人を恨んでいる」という噂が流れました。

しかし、子供がおひたしや汁の実を食べる様子を本当に嬉しそうに見ているルロイ修道士の姿をみて、たちまちにそんな噂は消えてしまいます。

そして、主人公がスプーンをお皿に置く描写で場面が現在へと戻ってきます。

 

僕はこの「スプーンをお皿に置く仕草」で場面が元に戻ったということを知らせる文章の構成が凄いと思っています。

過去のシーンでも直前まで食事をしているわけなので、普通に読んだらそれが思い出の中の動作なのか、現在の動作なのかは分からないはずなのです。

にもかかわらず、読んでいると当たり前のようにそれが「現在」であると読者は認識してしまいます。

その仕掛けが、冒頭に置かれた「西洋料理店」9という設定と、記憶を思い出すきっかけになったルロイ修道士の潰れた指を見せた「フォーク」、そして「スプーン」という言葉にあると思うのです。

 

西洋料理店という設定のおかげで、僕たちはスプーンとフォークを使って主人公とルロイ修道士がご飯を食べている場面を頭に思い浮かべています。

一方で、先にあげた天使園での食事の場面に出てきたのは「おひたし」と「汁の実」という情報。

ふつう「おひたし」といえばほうれん草や小松菜などの野菜を茹でたものを、「汁の実」といえばお味噌汁やお吸い物を想像するのではないでしょうか。

これらの料理の情報から僕たちの頭に浮かぶのは、天使園の子どもたちが「和食」を食べている場面です。

「おひたし」や「汁の実」にスプーンはおかしいのです。

そんな訳で「スプーンを置く」という動作が思い出の中の話から現在に切り替わる場面で機能しているわけです。

 

この場面に限らず、いろいろなところで情報を的確に出すことによって読者の頭に浮かぶイメージが上手くコントロールされています。

そうした「うまさ」を追っていくと、また別のところに面白さを感じることができるのではないでしょうか。

当然現在のルロイ修道士に思い出を重ねるうちに、主人公がルロイ修道士が会いにきた「本当の理由」に気づいていくという本筋の面白さもあります。

ただ、それは今回注目したかった部分ではないのと、ネタバレするのも野暮なので控えておきます。

当時自分が中学生だったころはつまらないと思っていた国語の教科書でしたが、改めて読み返してみると、掲載順から伺える段階的に物語を読めるようになるための工夫や、作品自体のすごさに気づくことが多々あります。

皆さんも機会があれば、是非読み返してみて下さい。

 

アイキャッチは『握手』が掲載されているこの本

ナイン (講談社文庫)

ナイン (講談社文庫)

 

 

 

 

遊園地が好きで、嫌い。〜「遊園地を楽しむ」と「遊園地で楽しむ」について〜

「せんさん(僕のあだ名)だって遊園地好きじゃないでしょ?笑」

少し前に、とあるmtgに参加していた時に友達から不意にこんなことを言われました。

そのときは理屈を組むのが面倒だったので「もちろん!」と即答したのですが、よくよく自分が「遊園地が好きか?」を自問してみると、実は結構遊園地が好きであることに気がづきました。

大前提として人混みと待ち時間が嫌いで、同じ人と長時間(朝から晩まで)いることが嫌いなので、まあ「遊園地」という設備とはことごとく相性が悪いわけですが、それを差し引いても好き嫌い度合いはプラマイゼロくらいなので、「遊園地」それ自体は結構好きなように思います。

ただ、明らかに「遊園地で楽しむ」のは嫌いです(笑)

「遊園地(を)楽しむ」なら好きだけれど、「遊園地(で)楽しむ」のは好きじゃないというのが、僕の「遊園地好きじゃないでしょ?」に対する最も正確な答えであるような気がします。

 

学生時代に富士急に遊びに行ったとき、一緒に行った子に「お化け屋敷とジェットコースターがむちゃくちゃ怖かったね!」と言われて、僕はびっくりするくらいそれに共感できなかったことを鮮明に覚えています(笑)

お化け屋敷は「驚き」はあったけど「怖さ」はなかったし、ジェットコースターは「高く」て「速い」けど「怖い」はなかったじゃん?みたいな感じです。

もちろんそんな場を台無しにする事は口にしませんでしたが、なぜ「驚き」や「高さ」や「速さ」を一緒くたに「怖い」と表すのかが、全く理解できなかったわけです。

(高所恐怖症だから「高い」が「怖い」はわかります 笑)

 

こんな風に書くと「お前はやっぱり遊園地が嫌いだろ?」と思われそうなのですが、決して楽しんでなかったわけではないのです。

僕だってお化け屋敷もジェットコースターも楽しんでいました(笑)

ただその楽しんでいる部分が「むちゃくちゃよく作り込まれている」とか「絶叫マシーンの楽しませる仕組み」とか、そういう部分というだけ。

或いは自分がアトラクションに乗ったとき、どういう感情が沸くのかを言語化できたりすると楽しかったりします。

ディズニーランドのスペースマウンテンに初めて乗ったときは「怖い」と感じ、それが視覚情報が得られないことによる「不安」からきてる物なんだと自分の中で勝手に納得してテンションが上がったりと、アトラクションに関してもとにかく「分かる」が楽しいわけです。

 

僕の遊園地の楽しみかたはどこまでも「遊園地(を)楽しむ」であって、「遊園地(で)楽しむ」ではないみたいです。

もちろん「遊園地に一緒に行った人(たち)とわいわいする」という時間の共有の部分に関しては、行くたびにむちゃくちゃ楽しいと思っています。

これはあくまでアトラクションと空間自体に対する感想。

遊園地が嫌いという人の中にも実は①遊園地が楽しめない人と②遊園地は楽しめる人がいるような気がします。

僕は典型的な②のパターン。

もちろん①の場合はそもそも行く必要はありませんが、②の場合は案外食わず嫌いなだけで行ったら楽しめるのかなと思うわけです。

というわけで遊園地における「遊園地(を)楽しむ」というやり方は結構オススメだったりします。

 

4月末からGWに書いたメモを整理していたらそんなことが書いてあったので、エントリにしてみました。

多分こういうやつはモテない(笑)

 

 

アイキャッチはメンタルをロジックで切らないという名言を残した山田玲司先生の『モテない女は罪である』です。

モテない女は罪である

モテない女は罪である

 

 

 

生産性とモチベーション

「教育において最も重要なものは生産性である。」と言うのが僕の持論です。

いくつかの誤解を生むのを承知で先に結論を述べましたが、やっぱり生産性と言う考え方は非常に大切だと思うのです。

 

僕がここでいう「教育において最も重要なものは生産性である」と言うのは、教える側の視点ではありません。

子供たちにとって最も重要なものが生産性であると言う意味です。

また生産性を上げて効率的に受験勉強に取り組めば良いといった意味でもありません。

もっと広い視点でいろいろなものに取り組むためには子供たちのもっと広い視点でいろいろなものに取り組むためには、子供たちの時間の多くを占める学校の勉強あるいはそれに類する受験勉強において、生産性の視点を持って取り組むことが不可欠だよねと言う視点から子供たちの時間の多くを占める学校の勉強あるいはそれに類する受験勉強において、生産性の視点を持って取り組むことが不可欠だよねと言う視点から生産性が重要であると考えています。

 

よく小学校の頃はいろいろなものに興味があったのに大きくなるにつれて興味が薄れてしまうと言う意見を聞きます。

これに対して詰め込み教育の弊害だとか女子校でもランチすることが問題であるといった意見をよく耳にしますが、僕は単純にこれに対して詰め込み教育の弊害だとか女子校でもランチすることが問題であるといった意見をよく耳にしますが、僕は単純に学年が上がるにつれて「忙しくなる」事が原因であると考えています。

例えば小学校の頃であれば学校が4時に終わり、その後には何時間も自由時間がありました。

仮に塾や習い事をしていたとしても中学生や高校生のそれと比べたら、相対的に自由な時間を大きいはずです。

中学校に入ると当たり前のように宿題が出て、部活動に介入し練習をして、おまけに塾などに入っていればその授業と復習までしなければならない。

高校に入ると学校までの移動距離が長くなり予習も加わりますます時間がなくなります。

詰め込み教育のせいで興味が削がれていくのではなく、ギチギチのスケジュールのせいで興味を持つ時間がないと言うのが子供たちの興味関心意欲の低下モチベーションの低下の最大の理由ではないかと思うのです。

 

時間がなさすぎて興味を持つ機会がなくなっているのであれば、解決策は興味を持つ文字費やすことができる時間を確保することです。

そのためのやり方としては①やらなければならないことを無視するか②やらなければならないことにかかる時間を減らすの2パターンがあります。

よく学校の勉強なんかせずにやりたいことに没頭しろと言う著名人がいますが、これは典型的な①のアプローチに入ります。

ちなみに僕はこのアプローチの仕方を支持しているし、実際に僕も小さい頃はこのタイプだったので、やりたくないことなんか全部無視して好きなことだけに取り組めばいいと思ってこのタイプだったので、やりたくないことなんか全部無視してできた時間を好きに使えばいいと思っています。

しかしこのアプロー好きに使えばいいと思っています。

しかし必ずしも全員がこのアプローチを取れるわけではないと思うのです。

真面目で優秀な子ほどそうは言っても「やらなければならないことがあるのだから」と思って、勉強などを投げ出すことができません。

やりたくないことを投げ出せない人にやりたいことに没頭しろと言うのは論理的に合っているかもしれませんが解決策としては無意味です。

であるならば、②のアプローチを取るしかないと思うのです。

だからこそ僕は子供たちの教育において生産性が重要であると思っています。

 

僕は通常担当してであるならば、②のアプローチを取るしかないと思うのです。

だからこそ僕は子供たちの教育において生産性が重要であると思っています。

 

僕が授業を担当しているクラスでは、基本的に半年で4倍の生産性を身に付けることを目標としています。

平均の2倍のスピードで記述ができるようになり、記述量が他のこの半分になれば容易にこの目標は達成されます。

生産性が4倍になるとそれまでの75%の時間が自由に使える時間となります。

その時間を使って、やりたいことや興味のあることを探してもらえればいいと思うのです。

 

「やりたいことを見つけるとか」「好きなことを追求しろ」とか言うことがよく言われていますが、それを見つけるための時間をどうやって作るかを教えてくれる大人があまりにもいません。

それではあまりに実効性がなさすぎると思うのですそれではあまりに実効性がなさすぎると思うのです。

だから僕はやりたいことを見つけるための時間の作り方を伝えると言う部分に焦点を当て、その解決策の1つとして生産性の向上と言うのを目標に掲げています。

やりたいことを見つけるための土台作りを助けるやりたいことを見つけるための土台作りを助ける大人が、子どもたちの周りに1人ぐらいいてもいいのかなあと思うのです。

 

KinKi Kids『スワンソング』考察~描写に表れる彼女の本音を深堀りする~

一生に一度だけ咲いてそれまでにできた竹林とともに散ってしまう竹の花。
死に花を咲かせた『RAVE』のシバや『NARUTO』のガイの父etc…
「死に際に一度だけ」というモチーフは色々あり、どれもきれいなものばかりですが、その中でもKinki Kidsの『スワンソング』は僕のお気に入りだったりします。
スワンソングとは、「生涯鳴くことのない白鳥が、死に際に一度だけ美しい声でなく」という言い伝えを表す言葉。
Kinki Kidsの『スワンソング』はこれをモチーフに作られています。
死に際に美しい声で鳴いて死んでいく白鳥に別れなければならない男女の最後を重ねてあるのですが、メロディはもちろん、それ以上に歌詞から浮かぶ情景に圧倒されます。

〈青空に目を伏せて ぼくは船に乗り込む〉
主人公の視点から始まる冒頭のサビでは、「青空」という明るい展望を示唆する情景から目を伏せるという悲しみを暗示させる描写が使われます。
そして、船に乗り込んでいく。
次に続く〈桟橋を走ってる 君の髪 雪崩れて〉という表現と合わせて、ここでは、何らかの理由で別れねばならない二人の別れ際が描かれていると判断することができます。
そして、〈死にゆく鳥が綺麗な声で 歌うように波が泣いた〉という表現で冒頭のサビが終わります。
「歌うように波が泣いた」という表現が、次のサビを引き立たせるために大きな役割をしている(と僕は思っている)ので、簡単に触れておこうと思います。
ここで重要なのは、スワンソングを暗示させる「死にゆく鳥の声」は波の音の比喩になっているという部分です。
あくまで主人公の「ぼく」は君を見ながら聴こえてくる波音が、「泣き声」に聞こえているわけです(詳しい繋がりは後ろで書きます)。


そして1番のAメロが始まります。
〈君の優しい白い手~未来がずれたのか〉
最初は船から主人公が「君」の手を見て過去の回想へと進むシーンです。
そして繰り返したあとの1番のAメロのサビでは彼女との思い出を〈ぼくと生きた数年が君を綺麗に変えたね〉と振り返る。
〈すぐ泣いた君がこんなに冷静装う〉
泣いてばかりだった君が「冷静を装って」泣かずにいるという表現から、主人公が「君」との数年の時間を思い出しているのを表すのと同時に、このあとのサビで別れを切り出した「君」も「冷静を装っているだけで、本当はつらい気持ちである」ということを暗に示しています。
僕が『スワンソング』が凄いと思うポイントはこの辺にあります。
中島敦の『山月記』で、主人公の李徴が虎になる前から、李徴の性格を述べる際に何度も「虎」を連想する表現を用いることで、いざ李徴が虎になったとき、読者にそれを納得させるような工夫がさせていますが、この曲もそれと似たような、1番のサビの意味がそれまでの歌詞の節々に散りばめられています。
そしてBメロでは〈辛いばかりだね遠距離恋愛〉と、ここでふたりが別れなければならない理由が明らかになる。
そして、サビに入ります。

〈ほんとうに終わりなの君はコクリ頷く〉
1番のAメロの白い手を見た後からの回想は主人公が「終わりなの」と聞き、「君」が頷いて返すこの場面まで続いています。
そして、ここで主人公が〈青空に目を伏せて〉船に乗り込んだ経緯が全て明らかになる。
ここからは再び主人公が「君」のことを見ている視点に戻ります。
〈桟橋の端に立ち手を振っていたけど 潮騒の中 無声映画のようにひざを折って泣いた〉
僕が最も好きなはこの部分です。
桟橋の端で手を振っていた「君」が泣き崩れたシーンです。
ここを手を振っていた「君」をみて主人公が泣き崩れた場面だと考えると内容を取り違えてしまいます。
仮に主人公が泣いていたら、「潮騒」という表現も「無声映画」という表現もいらなくなってしまいます。
無声映画のように泣いた」というのは泣き崩れたのは見えるけれど、声は聞こえないということ。
そして、そんな「君」の姿を見ている主人公の耳には、冒頭でスワンソングのように聞こえると言った波の音(=潮騒)だけが響いているわけです。
1番で「海が泣いた」と表していたのがここで生きてきます。
「君」が泣いている姿は確かにみえるけれど、声も聞こえない(=ぼくにはどうすることもできない)。
そんな二人の間に潮騒だけが響き、それがまるで「泣いている」ように聞こえるというのがここの情景です。
ここまで無駄なことばを排して情景を伝えられるのは本当に凄いと思います。

2番のAメロは再び主人公の思い出から始まります。
〈丘の上から見下ろす港 この景色が好き〉
主人公が「君」ではなく、町が好きな理由を述べる。
これは「君」に対してここに残る理由が「君」以外にもあることを伝えようとしているように解釈できます。
それに対してBメロでは(聞いて私たち 生きてる重みは 自分で背負うの 手伝いはいらない)と続きます。
主語が「私」にかわったことから、これは「君」が言ったセリフということになります。
Aメロで主人公が街が好きと言って、そこに留まる可能性を述べた直後に、「君」が「手伝いはいらない」と伝えます。
ここから「君」の方から別々の道を行こう切り出していることが分かります。
これだけ見ると単に「君」が別れを告げたように見えますが、これまでの「君」の情報、そしてここからのサビの繰り返しを見ると、「君」の本当の気持ちが分かるのです。

というわけで、最後に「君」の本音を考察していきたいと思います。
まず、〈ほんとうに終わりなの君はコクリ頷く〉(生きてる重みは 自分で背負うの 手伝いはいらない)という表現から、別れを切り出したのは「君」である事が分かります。
そして、〈すぐ泣いた君がこんなに冷静装う〉ということから、精一杯強がっていたことが分かります。
では、彼女の本音はなんなのか?
以降のサビでは冒頭の(青空に目を伏せて~)のサビと1番の〈ほんとうに終わりなの~〉の歌詞が繰り返されます。
しかし、その中で1フレーズだけすっぽりと抜けているところがあります。
僕はこの部分が「君」の本音が表れている部分だと思うのです。
それが〈潮騒の中 無声映画のようにひざを折って泣いた〉という部分。
「君」の本音は「泣き崩れるくらいに悲しい」です。
主人公は一貫して「君」のことを思い出したり、〈本当に終わりなの〉と言ったり、〈景色が好き〉とそこに留まる理由を言ったり、「君」と別れることを拒んでいました。
一方でそんな主人公を送り出すために強がっていたのが「君」。
主人公が乗り込んだ青空に浮かぶ船(変な表現ですが)は前途が有望な未来のメタファーと捉えることができます。
主人公はこれから広い世界に旅立つことができるのに、自分(「君」)のことを気にするあまり踏み出せないで居る。
そんな主人公を前に進ませるために「君」は別れを切り出した。
でも、本心では主人公を送り出したら泣き崩れるくらいに別れたくなかった。
スワンソング』はそんな二人の関係を描いた歌だと思うのです。

 

 

 

天童よしみ「美しい昔」考察〜世界のために命を捧げる「英雄」の恋人は幸せか?〜

世界を救うために命を捧げようと覚悟した男がいたとして、それを見送る恋人はどんな気持ちなのだろう?

 

小さい頃、12時まで起きていようと何度も目を擦りながら見ていた紅白歌合戦

そこで流れて未だに忘れられない曲があります。

それが天童よしみさんの歌った『美しい昔』という曲。

当時の僕には歌詞の意味なんて分かるはずもないし、そもそも演歌歌手に興味もなかったのですが、この曲だけはずんと響いてテレビに噛りついてしまったことを今でも覚えています。

 

『美しい昔』という曲は、もともとベトナム反戦歌で、元々はカーン・リーさんが歌っていた曲を日本語訳にした曲です。

(当然当時の僕はそんなことを知る由もありません)

その時は「好きな男の人に新しい人ができておいていかれたことを歌った歌詞」程度にしか思えなかったのですが、声のトーンや表情から何かただならぬものを感じ、その印象のおかげでずっと僕の記憶の片隅に眠っていました。

それをこの前15年ぶりくらいにこの曲を偶然聞く機会があり、その時に始めて歌詞の意味が分かって(少なくとも今の僕の思考が及ぶ範囲で)、改めて衝撃を受けました。

※以下は個人の勝手な解釈なので、もちろん違う解釈、「正しい」解釈があることは分かっています。それぞれの解釈がある場合は是非ご自分のブログ・SNSでご主張下さい。

 

<赤い地の果てにあなたの知らない愛があることを教えたのは誰?>

当時、小学生か中学生だった僕には、これが「恋人に置いていかれた人」に感じたわけです(笑)

今ならば「赤い地」も「あなたの知らない愛」の何を指しているか分かります。

「赤い地」とはベトナム戦争中のベトナムの地のこと。

そして「赤」というモチーフから共産主義の側であると考えられます。

そして、その「地の果て」にある「あなたの知らない愛」とは、共産主義で疲弊した国とは違うシステムで動く社会(資本主義)と捉えるのが妥当でしょう。

この歌の主人公は「あなた」の恋人で、その恋人は自分の住む国の現状を憂い、同時に海外にはずっと豊かな世界が広がっている。だからその自由を国民のために勝ち取るんだと奮起した英雄くらいに捉えると歌詞がすっと入ってくるように思います。

そして、そんな自由があることを「教えたのは誰?」と言う。

明らかに主人公は「あなた」がそれに向かって突き進むことを望んでいません。

冒頭に僕は「世界を救うために命を捧げようと覚悟した男がいたとして、それを見送る恋人はどんな気持ちなのだろう?」と書きましたが、この曲はそんな「英雄」を愛する人の気持ちを歌った歌だと思うのです。

 

<風の便りなの 人のうわさなの 愛を知らないで いてくれたならば>

続くこの歌詞に「愛を知らないでいてくれたならば」と言っています。

どうやってそのことを知ったのかは分からないけれど、あなたがこの世界のどこかに、今の暮らしとは違う、もっと豊かな世界が広がっているということを知ってしまったせいで、あなたは命を危険に晒している。

そんなことまでしなければいけないのなら、いっそこのままの方がいい。

そんな主人公の気持ちが感じられます。

そしてサビに続きます。

 

<私は今もあなたのそばで生命続くまで夢みてたのに。>

僕はこのサビの部分で使われる「夢」という言葉が、この歌を読み解くための一番のポイントであると思っています。

まず、主人公にとっての「現実」とは何かを考えると、それは「愛」を求めたせいで「あなた」がいなくなってしまったという状態です。

ということはここの「夢」はあなたとの幸せな生活のこと。

もちろんここでいう「幸せ」とは、自由を勝ち取った豊かな生活という意味ではありません。

本当は辛いし、場合によっては虐げられているのかもしれないけれど、一応「あなた」が側にいるという外の世界を知らない時に持っていた「幸せ」のこと。

仮に本当はそれが「幸せ」でないのであるとしても、それを手にするために「あなた」が犠牲になるのなら、私は仮の幸せでもいい。

そんな気持ちがあるから、ここでは「夢みてたのに」と表現されているのだと思います。

そして歌詞は<今は地の果てに愛を求めて 雨に誘われて消えてゆくあなた>と続きます。

ここでの雨は「戦火」のメタファーとして捉えるのが適当でしょう。

自由のために戦いに向かってしまう恋人を思う主人公の気持ちが表れています。

 

2番のAメロは<来る日も来る日も雨は降り続く お寺の屋根にも 果てしない道にも>と始まります。

「ずっと降り続く雨」の描写からは、先ほども書いたとおり、「戦火」が想像されます。

お寺にも道にも毎日戦争で火の粉が振り落ちてくる。

そんな終わることのない戦争の悲惨さがここから伝わってきます。

また、「止まない雨」を裏返せば太陽の見えない空と捉えることもでき、それは「希望の見えない毎日」を憂う気持ちにも取ることができます。

自分たちが信じる仏にも、未来を暗示する「果てしない道」にも雨が降り続く。

これは、まったく未来に希望を持てない主人公の内面を表現しているのではないかというのが僕の解釈。

この辺は人により意見が異なると思います。

 

<青空待たずに花は萎れて ひとつまたひとつ道に倒れて行く>

おそらくこの部分は前の歌詞を受けて、戦地に住む人々がひとりまたひとりと無くなっていく様を描いているのだと思いますが、ここで僕が気になるのは「折れる」でも「枯れる」でもなく「萎れる」と表現されている点です。

「萎れる」というのは外部の手によって命が絶たれるというわけではありません。

僕にはどちらかというと初めは持っていた希望を信じることができず、心が折れてしまう様子に感じました。

初めは「本当の自由」が手に入るという期待を持っていたのだけれど、先の見えない戦いに疲弊し、はじめに抱いた希望もとうに消えかけている。

そんなニュアンスが漂います。

そして2番のサビに。

 

<誰が誰が雨を降らせるのよ この空にいつまでもいつまでも>

「誰が雨を降らせる」という表現には結末はどうでもいいから早くこの毎日が終わって欲しいという気持ちが伺えます。

そして「雨が降るならいっそ思い出全て流して欲しい」と続きます。

そして最後は1番のサビの繰り返しで終わり。

 

僕はこの歌を改めて聞いた時、いつ手に入るかも分からない、またどんなものかも分からない「理想」を手にするためにこんな苦しみが続くくらいなら、あの時のままがよかったと思う、「英雄」を愛する人の悲痛な気持ちが書かれている曲であると感じました。

もちろん、歴史の上から振り返ってみればそういう「英雄」のおかげで今の世界があるのだから、「あなた」のやったことは正しいし、「あなた」は偉大だということになるのは分かります。

でも、その人を待つ人の気持ちになったり、そんな何年も先の本当の幸せよりも目の前の不幸が少しでも減ることを望む主人公のような気持ちも確かにその通りだと思うのです。

タイトルの「美しい昔」とは、あなたが「愛」(本当の自由や幸せ)を知らず、苦しいけれど戦時中よりはマシだった世界に戻りたいという主人公(に乗せた作詞者)の市民レベルの「当たり前」の気持ちを表したものであるように思います。

戦いの結果や、後から振り返ったら分からない、戦火に苦しむ人とっての「正しさ」はあまり歴史の教科書には表れません。

そんな声を感じるからこそ(当時は意味なんてほとんど分かりませんでしたが)この曲が印象に残っていたように思います。

 

美しい昔

美しい昔

 

イケメンの研究②「イケメン」と「モテ」の関係を考える

皆さんは「雰囲気イケメン」と聞いて誰の顔が思い浮かびますか。
有名な俳優さん?お笑い芸人のあの人?新進気鋭のあの研究者?それとも友人のA君?
僕は勝手に雰囲気イケメンの代表を星野源さんだと思っているのですが(笑)、皆さんの頭にも誰かしら浮かんでいるのではないでしょうか。
「雰囲気イケメン」と聞いて、パッと具体的な人物が思い浮かぶ一方で、「じゃあ雰囲気イケメン」とはどういった人のことを指すのかと言われると、なかなか言語化するのが難しいところだと思います。
そこで、「イケメンの研究」をするにあたって、まずは「雰囲気イケメン」の定義をしていくことにします。

「イケメン」とは何か?

「イケメンの定義は?」と聞かれて真っ先に浮かぶのは「モテる!」というものだと思います。
ここでは、この「イケメン=モテる人」という「直感的な」イケメンの定義を採用していきたいと思います。
ただし、「イケメン=モテる人」というと、きっと「そんなにカッコよくないけれどモテている人もいっぱいいる」という反論が返ってくることでしょう。
確かに、カッコよくないのにモテる人もいます。
カッコよくないのにモテる人というのは、真の意味でのイケメン(端正な顔立ち)という意味の規準には漏れるけれど明らかにモテている人という意味。
つまり、ここに該当する人こそが「雰囲気イケメン」ということになるのです。

f:id:kurumi10021002:20180417214357g:plain

以降、僕はイケメンという言葉を「モテる人」という意味で用い、そこには整った顔立ちである「真の意味でのイケメン」と「雰囲気イケメン」の両方が含まれるという前提で話を進めていきますので、皆さんもこの前提を共有していただけたらと思います。

「イケメン」と「モテる」を定義する

さて、イケメンの定義を「モテる人」とする場合、「モテる」という言葉の使い方も共有しておかなければなりません。
はたして「モテる」とはどういう状態なのか?
僕はこの「モテる」という言葉の定義に関しては、評論家の岡田斗司夫さんの「不特定多数の異性から行為を抱かれることである」というのが最も的確に「モテる」という現象を表しているように思います。
うる星やつら』の諸星あたるや『いちご100%』の真中くんみたいな状態です(笑)
おそらくこの辺のラインが一般的に「モテる」という言葉を聞いて思い浮かべる状態なのではないかと思います。
また、「不特定多数の異性から行為を抱かれる」というモテラインの他に、僕は「向こうから好意を抱かれるほどではないが、こちらから積極的にアプローチをかければ食事くらいなら断られない」という「準モテライン」も今後のイケメンの分析をするにあたって一つの指標になります。
そのため、こちらも合わせて定義していこうと思います。

「イケメン」ラインと「準イケメン」ライン

「モテ」というのが「不特定多数の異性から行為を抱かれる」状態、「準モテ」が「向こうから好意を抱かれるほどではないが、こちらから積極的にアプローチをかければ食事くらいなら断られない」状態であるとして、実際にそこに該当するのはどういった要素を持つ人で、全体の何%ぐらいなのでしょうか。
僕は雰囲気イケメンの分析をするにあたり、モテの要素を下の図のように①顔面整度と②他者意識の2つにわけ、それぞれ100点ずつの持ち点であるとしました。
①の顔面整度とはどれくらい顔が整っているか、つまり「真の意味でのイケメン」を測る指標となります。

f:id:kurumi10021002:20180417214422g:plain


一方で②の他者意識とは、コミュニケーションにおいて、どれだけ相手のことを考えているかという度合いのことを指します。
ここは完全に僕の主観ですが、「真の意味でのイケメン」は顔面整度が90点以上の人のこと、モテは①顔面精度と②他者意識の合計が140点以上の人たちのこと(全体の30%くらいのイメージです)、準モテラインは①+②が100点を超える全体の50%ということにします。
上に書いた関数に沿ってみていくと、ⅰに該当するのが「真の意味でのイケメン」で、ⅱに該当するのが「雰囲気イケメン」。
また赤いラインよりも上が「モテる」人、黄色のライン以上が「準モテ」の人ということになります。
以上で、イケメンの分析をするのに必要となる言葉のだいたいの定義ができたとので、次以降のエントリで、これらを使ってイケメンについて考えていこうと思います。