新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



『性格ブス』脱出クエスト~イケメン男子に学ぶ、これがモテる男の話し方!?~

僕の研究テーマの一つに「イケメンの研究」というのがありまして、この数年イケメンと呼ばれる人たちの生態を研究しています。
このブログで何度も言っていますが、僕はイケメンが大好きです。
もちろん性的な意味ではなく、彼らの振る舞いやホスピタリティを見ていると本当に学ぶことが多いのです。
「振る舞いやホスピタリティ」という言葉から分かっていただけるかと思いますが、僕がここで言うイケメンとは、ジャニーズやオラオラ系のイケメンや合コンによくいるイケメンと自覚して女遊びに長けた人たちではなく、どちらかと言うと星野源さんやマンガでいうと『君に届け』の風早くんみたいな、無自覚に『イケメン』を振りまいているタイプの人たちです。
彼らと遊んでいると学ぶことが多く、横で見ていて男の立場から見ても「こりゃほれるわ」と思うような場面が多々あるのです。
様々な所作や思考回路まで、紹介したいことは多くありますが、全部を1エントリでまとめることは当然不可能なので、今回は話し方について「研究結果」をまとめていくことにします。

少し前に、Twitterを見ていたら雰囲気イケメンの対義語として「性格ブス」なるパワーワードが流れてきました。
それを見た時、雰囲気イケメンを正確に捉えるには、反対の概念である「性格ブス」も押さえておく必要があるなと思い、それからしばらく身の周りので「性格ブス」を探していました(むっちゃ失礼…)。
で、その結果どちらの振る舞い方もある程度言語化し、またその違いが何によって生じるかもざっくりと考えてみたのが以下の傾向です。

f:id:kurumi10021002:20180828211007j:plain


「ほとんどの人は男女問わず… 『自分のこと』で一杯になってる…」「話したいけど聞いてもらえないことが一杯ある…」
マンガ家の山田玲司先生が女性が持てる方法について描いた『モテない女は罪である』という本(タイトルはキツイ表現ですが、中身は顧客視点について描かれていて、女性のモテはもちろん、男性のモテにも、また就活でも社会人の仕事術としてもオススメです!)の中でこう言っています。
僕は「雰囲気イケメン」と「性格ブス」のコミュニケーションの決定的な違いはここにあると思うのです。
「性格ブス」の男の会話は、常に「自分のこと」ばかりで、相手に聞いてもらっているという自覚がありません。
一方で「雰囲気イケメン」は、世の中の人たちが「話したいけど聞いてもらえない」ことをよく知っているから相手の話に耳を傾ける。
(因みに相手の話を聞く余裕ができるのは、イケメンであることによってそうでない人に比べ放っていても人が集まるので、そうでない人に比べて「自分問題」をこじらせていないのが原因だと思います。)
で、さらに「自分問題」という視点からコミュニケーションを分類すると、話の視点を[自分/相手]の2パターン、話しの内容を[ポジティブ/ネガティブ]の2パターン、会話のスタンスを[構って欲しい/与える/引き受ける/引き出す]の4パターンに分けることができます。
その上で、自己中心的なコミュニケーションから他者意識のあるコミュニケーションへと並べていくと以下のようになります。
①自分のネガティブ×構って欲しい
②自分のネガティブ×相手に与える
③相手と自分の会話の割合が5分5分
④自分のポジティブ×相手に与える
⑤相手のネガティブ×引き受ける
⑥相手のネガティブ×引き出す
話の視点(2通り)×話しの内容(2通り)×会話のスタンス(4通り)で本来16通りの会話がありますが、全部の分析をしていると文字数に限界があるので、今回は「性格ブス」「雰囲気イケメン」に関係する6通りでまとめました。
①~⑥がそれぞれ上図のレベル0~レベル5に対応します。
レベル0メンヘラ系①自分のネガティブ×構って欲しい
レベル1マウント系②自分のネガティブ×相手に与える
レベル2ニュートラル③相手と自分の会話の割合が5分5分
レベル3エンターテイナー系④自分のポジティブ×相手に与える
レベル4ホステス系⑤相手のネガティブ×引き受ける
レベル5カウンセラー系⑥相手のネガティブ×引き出す

話し相手にとって一番厄介なのはレベル0のメンヘラ系コミュニケーションです。
ここに該当する人は不機嫌を背負って話し相手の前に現れたり、「どうせ俺なんて…」というような「フォローしなければならない独り言」を言うことで、相手が自分のネガティブに意識を向けることを強制します。
これは僕が男だからかもしれませんが、男性のこの手のコミュニケーションが一番厄介です。
雰囲気イケメンを目ざすのであれば、まずここを脱する必要があるでしょう。

メンヘラコミュニケーションを脱することができたら、次のフェーズはマウント系コミュニケーションです。
世の中の男性に多い(特に「おじさん」と呼ばれるひとたち)ように思います。
ここに該当する人たちは、相手から自分を気にかけて欲しいというそぶりは見せませんが、代わりに相手が自分の話を聞くことを強制します。
また、ネガティブな内容の他に攻撃的なものや自慢も含まれている(僕はそれらも含めて「ネガティブ」と呼んでいますが)ため、聞き手の負担は相当なもの。
こちらから構いに行かなくて言い分メンヘラコミュニケーションよりはコストが少ないですが、相手のネガティブを引き受けることを強制する点で、非常に面倒なコミュニケーションと言えます。

レベル2のニュートラル型コミュニケーションが、いわゆる普通の会話に相当します。
相手の話を聞く分量と自分の話をする分量がほぼ同量で、しっかりと会話のキャッチボールになっている。
平均的な女性はここに属す一方、男性はやや平均より会話が上手い人でなければここに到達しないように思います。

で、ここからが相手に(相対的なものも含めて)プラスを与えるコミュニケーションです。
レベル3になると、話し手自らが面白い話を用意して、その場を盛り上げようとします。
このタイプの人は自分が中心になってはいるけれど、周りを楽しませようということが根底にあるため、一緒にいて周りは楽しく感じます。
(因みに周りを楽しませようという意志を持たずにこれをやっているのはレベル2のマウント系です)
ここに該当するのがエンターテイナー系コミュニケーション。

中学校や高校、ギリ大学生くらいまでの最上位の会話スキルはおそらくレベル3のエンターテイナー系コミュニケーションです。
ここまでできる人は恐らくクラスの人気者だったはず。
しかし、大学生以降になると、これより先のスキルを持っている人がでてきます。
それがレベル4のホステス系コミュニケーションです。
ここにいる人は、相手の話をニコニコしながら聞き、相手が話やすいように必要に応じた合いの手を入れることに長けています。
だから、話をしたいと思っている人は凄く気持ちよく話すことができる。
それがたとえネガティブであってもしっかりと受け止めるのがここにいる人の特徴です。
ここに該当する人は「あの人は私のことをわかってくれる」という印象をもたれがち。

そして、ホステス系コミュニケーションのさらに上に、相手のネガティブを自然に引き出して解消してしまうようなコミュニケーションを取ることができる猛者がいます。
これがレベル5のカウンセラー系コミュニケーションです。
ここに該当する人は相手が話しやすい空気を作るばかりでなく、相手が自然とネガティブを打ち明けられるような雰囲気を作ります。
ここまでくると雰囲気イケメンです。

以上が僕の考える「性格ブス」から「雰囲気イケメン」になるための手順です。
皆さんはどこにいますか?
(因みに僕はせいぜいレベル2か3です…笑)

BUMP OF CHICKEN「乗車権」考察〜社会システムから「乗車券」と「バス」のメタファーを解く

金環日食という言葉を特に意識していた訳ではないのだけど、歌詞は私の中から出てきたものだから、きっとどっかで見て、どこかで気になっていたんだと思う」

ドリカムの吉田美和さんが昔、テレビのインタビューでこんな風なことを言っていました。

(細かな言い回しは違うと思います)

「時間旅行」という曲の中に出てきた「金環日食」という言葉に対するインタビューでの言葉だったのですが、いかにも美和さんらしい答えだなあと思います。

僕はアーティストさんの中には、頭の中にファンタジーを思い描いて言葉にする人と、どこまでもリアルな体験から感じたことを言葉にする人がいると思っています。

例えば松任谷由実さんは前者で(本人がインタビューで答えていました)、吉田美和さんは後者。

自分が経験したこと、感じたことをそのまま歌にするタイプの人たちの曲は、聞くほどに自分の解釈が構築されていき、どんどん好きになっていくような気がします。

(もちろん前者の歌にもそういうものは多くあります)

そういった理由から好きなアーティストがたくさんいるのですが、僕にとってBUMP OF CHICKENはその代表例だったりします。

 

僕はここ最近、『乗車権』という曲にハマっています。

初めて聞いたのは高校生の時で、その時は漠然と「攻撃的な曲だなあ」くらいに思っていたのですが、改めて聞くととても意味深に聞こえてくるのです。

以前、ハネウマライダーの考察エントリ(「ハネウマライダー」考察〜20代後半でもう一度聴きたい、ハネウマライダーの人生論 - 新・薄口コラム)でも書きましたが、BUMPの『乗車権』も大人になって自分の中での解釈が大きく変わった一曲だったりします。

 

排気ガスを吐いて 腹ぺこのバスが来る 夢の先に連れてってくれんだ どうだろう>

『乗車権』はこう始まります。

僕が最初に気になったのは「バス」が何のメタファーであるのかということでした。

主人公が<夢の先に連れてってくれる>と思い乗り込むバスが、非常に印象的です。

結論から言えば、「バス」は中高大と入試を通って進学し、その先の就職活動を経て社会人になるという、決められた「人生像」のメタファーであるというのが僕の解釈です。

学生時代、よく考える時間も与えられず、とりあえずどこの学校に進むかを決めさせられ、就職活動ではとにかく「いい企業」に入ろうとし、そしてそんな行動に疑問を持つことすらなかった自分たち。

そんな大多数を無思考のまま大人にしていくシステムのメタファーとして公共交通機関としての「バス」ではないかと思うのです。

主人公は「夢の先に連れてってくれる」と謳うバスと対峙します。

 

<強く望む事を 書いた紙があれば それがそのまま 乗車券として 使えるらしい>

仮に受験や就活のシステムそのものがバスのメタファーだとしたら、ここに出てくる<強く望む事を書いた紙>というのは、志望理由書や自己PRといった紙ということになります。

そういった「紙に書いた夢」を乗車券にして乗ることのできるバス。

Aメロの1回目では、そういった前提情報が提示されます。

 

2回目のAメロには、そんな「バス」に対する主人公の漠然とした不安と焦りが描かれていきます。

<我先に群がり 行列出来上がり ぎらぎらの目 友達も皆 どうしよう>

<強く望む事か 適当でもいいか 取り敢えずは 乗車券の替わり>

ここでは、「バス」に乗る時を目の前にして周囲の人間が大きく変わった(「バス」に乗るために必死な形相になっている)ことと、そんな周囲に対して自分には「紙に書く」ような大層な夢なんかないと考える主人公の不安が書かれます。

そして、適当でもいいので<とりあえず 乗車券の替わり>として強く望む事を書く主人公。

そうやって適当な夢を書く事で「乗車券」を手に入れた主人公は、Bメロで競争に身を置きます。

 

<どけ そこどけ 乗り遅れるだろう 人数制限何人だ 嘘だろう これを逃したら いつになる>

乗車券を手に「バス」の列に並んだ主人公は、<そこだけ>といってそのバスに乗り込もうと必死になります。

そしてサビで<あぁ ちょっと待ってくれ 俺を先に乗せてくれ>といってバスに乗り込むことに必死になって1番は終わりです。

そして何とか「バス」に乗れたとこらから2番が始まります。

 

<鈍い音で吠えて 食い過ぎたバスが出る>

1番では「腹ペコ」だったバスが「食い過ぎ」になっています。

あぶれるくらいに人が乗った「バス」は、さらにここからも振り落とされる人がいる可能性を暗示しています。

主人公な「泣き落としで順番を譲るバカ」のお陰で無事そのバスに乗車することができます。

先ほどまでは「友達」と言っていた周囲の人も、バスに乗る時には「バカ」と表現しているところも非常に印象的です。

そして数時間後に<次の乗り継ぎ>がやってくる。

ここに出てくる「乗り継ぎ」が1つ目の試験を突破した先にも次の試験が待っているという意味で、受験や就活に縛られた僕たちの生活が重なります。

そんな乗り継ぎの直前、主人公は<あれ ここに無い でも こっちにも無い なんで乗車券が無い 予定外 見付からないまま 日が落ちる>と言って1番で「乗車券の替わり」としてとりあえず書いた紙を無くしてしまいます。

そして、それが見つからないまま日が落ちていく(=乗り継ぎが迫ってくる)。

「乗車券」が見つからない主人公は、とりあえず書いた夢なんて競争しているうちに忘れてしまう。

ここには「強く望む事」のためにバスに乗ったはずなのに、気がつくとそれを忘れてバスに乗り遅れないように必死になる主人公(たち)が描かれています。

その証拠に2番目のサビでは<あぁ ちょっと待ってくれ 俺もそれに乗せてくれ おい そこの空席に 鞄 置いてんじゃねえ>と言っています。

この言葉から、主人公にはもはやバスに乗るべきか否かな選択の余裕はなく、乗ることが目的になっていることが伺えます。

そして間奏後の3回目のBメロへ。

 

<違う これじゃない これでもない 違う 人間証明書が無い 予定外 俺が居ない>

ここにきて主人公はとりあえずの夢を書いた「乗車券」ではなく、「人間証明書」なるものが無いことに気がつきます。

ここであえて「乗車券」とは違うものを出してきたということから考えれば、「人間証明書」というのは「とりあえず書いた夢」とは真逆のもの、つまり「自分とは何か」とか「自分の本当にしたいこと」とかいった根源的な自分に対する問いかけのようなものでしょう。

主人公は「乗り継ぎ」をする中でそれが無いことに気がつきます。

しかし、もう「乗車券」すら無くなっていて、今更バスから降りることもできない主人公はこう言います。

<やばい 忍び込め>

そして最後のサビに向かいます。

 

<あぁ ちょっと待ってくれ やはりここで降ろしてくれ なぁ こんな人生は望んじゃいない 望んでたのは---・・・>

最後のサビで主人公はこう叫びます。

次々に乗り継ぐバスの中で主人公はこう気づき、<あぁ 見逃してくれ 解らないまま乗ってたんだ>と言いますが、今更乗ったバスを降りることはできません。

実際に主人公も<俺一人 降ろす為 止まってくれる筈もねえ>とそのことに気づいています。

 

僕はこの曲で非常に面白いと思うのはやはり「バス」というメタファーを使っているところだと思います。

乗ってしまえば次の目的地まで連れていかれ、途中で降りることはできない。

そんな公共交通機関から降りたくても下ろしてもらえないという所に、現代社会が投影されているように思うのです。

 

<強く望む事が 欲しいと望んだよ 夢の先なんて 見たくもないから>

主人公は最後にこう言います。

「夢の先なんて見ないから強く望むことが欲しい」という部分からは、初めに出てきた「乗車券」の替わりとして「とりあえずとりあえず適当にでも夢を描く」という自分のした選択に対する後悔が感じられます。

そして、本当に「強く望むこと」が欲しいと思う。

この一連の主人公の心境の変化が、今を生きる僕たちを非常によく表しているようち思うのです。

 

もちろん作詞した藤原さんはアーティストなので、「バス」や「乗り継ぎ」というメタファーが、オーディンやらレーベルへの所属やらから来ているのかもしれません。

しかし、この曲がシングルの表題曲でも無いのに根強い人気があるのは、こうしたその時代を生きた人々が無意識に感じていたものを巧みに織り込んでいたからでは無いかと思うのです。

受験なのか、就活なのか、或いはそのほかの何かなのか。

この曲に対する共感は、自分にとっての「バス」が何であるのかによって変わってくると思います。

しかし、共感した人は、必ず何かしら分からないままにシステムに乗ってしまった経験と、それに対する後悔があるように思うのです。

あなたにとっての「バス」は何ですか?

 

 

ユグドラシル

ユグドラシル

 

 

 

 

AO入試の倒し方[受験作文攻略ガイド]③文章の型より大切な2つの力

小論文の指導をしていると、必ずと言っていいほど全員の生徒さんが「書き方がわからへん!」と言います。

しかし、実際に指導を開始してみると、分からないのは書き方ではなく、「アイデアの出し方」のほうだったというのがほとんど。

手が動かない、文章が進まないから「書けない」と思い込んでいるのだけれど、実際には書くべきことが浮かばないという場合がザラにあります。

そういう人には試しに自分について問われているような、主張を組み立てやすいテーマの小論文を課すのですが、その場合、多くの生徒さんが途端にかけるようになります。

文章が書けないのは、書き方を知らないことが原因なのではなく、与えられたお題からアイデアを出して、論に落とし込む方法を知らないのが原因なのです。

 

では具体的にアイデアを出すためにはどんな準備が必要なのか。

それを考えるために、そもそも小論文を書く際に必要なアイデアについてまとめていこうと思います。

一般的に小論文の王道とされる文の型に序論-本論-結論という形式がありますが(書きやすい文の型には、他にも起承転結なり序破急なりいろいろなパターンがありますが、いずれにせよ)その中身は①自分の主張、②その理由、③具体例、③まとめあたりで構成されていて、それぞれの能力を高めていくことが必要です。

このうち、②と④は次善準備をするというよりは実際に文章を書いていく中で身につけるものなので、能力は練習量に比例します。

また、この2つの書きやすさは、それぞれ前の主張と具体例の分かりやすさにある程度比例します。

だから説明は後回し。

重要なのは①の自分の主張と③の具体例です。

ほとんどの生徒さんが、与えられたお題から自分の主張を組み立てられない、またはそれを説得するのに適当な具体例が思いつけないということで悩んでいます。

だからこそ、小論文の練習においては、まずこの2点に焦点をあてることが重要なのです。

 

①の自分の主張と③の具体例を素早く、かつ適切に考えるためには、与えられたお題に対して様々な角度からアプローチをかけるための思考ツールを身につけておくことと、適切な具体例を引き出すための、知識のストックを作っておくことがそれぞれ必要になります。

意見を生み出すための思考ツールを知り、それを使いこなせるようになることで①の自分の主張が短時間で(しかもさまざまな角度から複数)作ることができるようになり、知識のストックを日頃から積み上げておくことで主張に説得力を持たせられる具体例を用意することができるようになるのです。

次回以降の数回で、まず意見を作るための思考ツールとその使い方を紹介し、その後、具体例に役立つ知識の集め方をまとめていきたいと思います。

今すぐにでも動かなければと思っている人がいれば、まずは前のエントリで書いた「ノート作り」をはじめてください。

小論文はこういった基礎力の部分が本当に重要になってきます。

コツコツと頑張って下さい。

 

 アイキャッチは現代文の知識をつけるのにぴったりなこの一冊

ことばはちからダ!現代文キーワード―入試現代文最重要キーワード20 (河合塾SERIES)

ことばはちからダ!現代文キーワード―入試現代文最重要キーワード20 (河合塾SERIES)

 

 

デジタル「以前」を武器にする

数年前にサイコパスというアニメにはまっていました。
サイコパスで描かれる世界では、その人の「悪意」が数値化されます。
ドミネーターという自動照銃のようなものを向けると、その人の悪意の指数が表示されて、潜在的な凶悪性を持つものほど「悪意の数字」が大きくなる。
主人公はそんなドミネーターを持って、凶悪な犯罪者と戦います。
そんな世界観で話が展開されるサイコパスですが、主人公たちの最大の敵として登場する槙島という人物は、紛れもなく凶悪な犯罪者にも関わらず、「悪意」が表示されません。
機械には数値化できない悪意を備えた人物なのです。
サイコパスという作品にはまったのは純粋に作品の面白さによるものですが、同時に槙島という人物の設定を見て以来、僕の中で「数値化できないこと」というのが一つのテーマになりました。

先日葉加瀬太郎さんが、自身の楽曲『エトピリカ』の演奏解説を見たときに、意図的に微分音を混ぜているという話しをしていて、それに驚きました。
微分音とは、CとC#の間にあるような五線譜には現れないような音のこと。
ピアノから楽器に入った僕にとって、音は五線譜で書き表されるもの、白鍵と黒腱によって表されるものであって、五線譜には表れず、まして鍵盤の存在しない部分に音があるなんていう視点はなかったので、非常に新鮮でした。

ジャンルを問わず、僕たちはある出力装置に慣れ親しんでいると、そもそも「その出力装置が表せるものしか目の前には現れない」という極めて当たり前の前提をちょいちょい忘れてしまいまる。
一見何でも調べたら出てきそうなGoogleでも、そもそも誰にも言語化されていないものは検索しても到達できませんし、誰もそれに「投稿すべき価値」を見出さないような情報はアップされません。
あるいは、僕たちは言葉によって、他者に自分の意図を伝えられるように思いがちですが、言葉にした時点で、頭の中で想像していた周辺にある細かなニュアンスのようなものはそぎ落とされてしまいます。
僕たちはそうやって、無意識の内にその出力装置で表されるものが世界の全てと思い込んでしまうわけです。

 

僕は統計的に考える事が大好きなのですが、一方で誤差項をとても大事にしています。
ナシーム・ニコラス・タレブ教授が『ブラックスワン』の中で言うように、統計的にはたった1つの「異常値」にすぎなかったとしても、それが決定的なインパクトを与える場合があるからです。

デジタルの根本が世の中の事象を0と1で表すことにあるとして、そのことによりあらゆるものが効率化されていくのだとしたら、その世界観における最大の差別化は0と1に変換する際に切り捨てられた誤差の部分になります。
宮崎駿さんは現実の自然とアニメ世界の自然の違いを「情報量」といい、猪子寿之さんは芸術の差別化要因を「文化」と、それぞれの分野に適した言い方をしていますが、僕の考える「誤差」はまさにそんな感じ。
デジタルに変換されたあとの部分で差別化を測ろうとするのではなく、デジタルに組み込まれた時点で削ぎ落とされた部分を武器にする。
確かな根拠があるわけではありませんが、直感的にそういう戦い方の目を肥やしておくことが、これからの社会で価値を生み出すのに大きな強みになるように思うのです。

 

 

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

 

 



あなたはどれくらい生きづらい?〜文学作品で生きづらさレベルを測定する〜

I am GOD'S CHILD 
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?

こんなもののために生まれたんじゃない

 

私はこんな世界に産み落とされた神の子、こんな世界でどう生きたらいいの?

そんな攻撃的な出だしから始まる鬼束ちひろさんの代表作『月光』。

エラく歯切れのいい生きづらさの告白だなあと思う一方、「密かにギュッと抑えていた『周囲に溶け込めない』という直感レベルの想いをよくぞ言ってくれた」というように思った人もいるのではなきでしょうか。

僕自身この手の周囲に溶け込めない「感じ」を表した作品がとても好きだったりします。

音楽や映画の中にもこう言ったテーマを表すものは、それこそ数限りなくありますが、こういった気持ちを探すのならば僕はやっぱり文学なのかなと思います。

 

周りに対する「生きづらさ」を書いた作品という括りで僕の頭に浮かぶのは①すやまたけしさんの『素顔同盟』、②山田詠美さんの『眠れる分度器』、そして③太宰治さんの『人間失格』です。

僕は①→③に向かうに従って、周囲に溶け込めないことに対する苦悩が増えていっているように思っています。

そんなことから僕はこの「生きづらさ3部作」のどれに共感をするのかで、その人の拗らせ度合いが分かる(笑)と思っているのですが、皆さんはどれに共感をするでしょうか?

 

①生きづらさ度合い 軽症(すやまたけし『素顔同盟』)

教育出版の国語の教科書に掲載されていた(されている?)すやまたけしさんのこの作品。

その朝も目を覚ますと仮面をつけ,鏡に向かった。にせものの笑顔がそこにある。人工的すぎる,口もとだけでしか笑っていない。その他の部分は,目もほおも無表情ですらある。そしてなによりも,その無個性な笑顔はみんなと同じなのだ。人と同じであることは幸福なのだとみんなは言うが,ぼくはそれに息苦しさを感じている。

こんな風に始まる素顔同盟の世界では、人と人の間に争いが起きないように人前に出るときは誰もが「笑顔の仮面」をつけなければならず、そのことを主人公が通う学校の先生も友達もみんな素晴しいことだと考えています。

そんな中、主人公だけは「本音を出してはいけない状態で幸せ」ということに疑問を感じている。

しかし周りにはそんなことを思う人はおらず、そんな学校生活に生きづらさを感じています。

ある日そんな窮屈さに耐えられなくなった主人公は、「人前に出るときは仮面を外してはいけない」という法律を破り、河原でそっと仮面を外すのですが、その場面をある女の子(だったはず...)見られてしまいます。

「しまった!」と思ってその子を見たら、その子もなんと仮面をつけていなかったのです。

そして、仮面をつけることの生きづらさに耐えられない人の集まる場所があると聞いて、主人公はその子についていってしまいます。

 

作品のあらすじはザッとこんな感じです。

おそらく学校にしろ社会にしろ、この主人公と同じような生きづらさを感じる人は少なくないのではないでしょうか?

本気で笑顔の仮面がいいものだと信じる先生、そして生徒たち。

そんな周りの人たちよりも少し色々なことに気づけてしまうからこそ、生きづらさを感じてしまう主人公。

この主人公に共感を覚える人は少なからず生きづらさを感じているはずです。

 

②生きづらさ度合い 中 山田詠美『眠れる分度器』

すやまたけしさんの『素顔同盟』よりももう少し尖っているのが山田詠美のさんの『眠れる分度器』です。

主人公の時田秀美は、周りの子供たちと比べるとエラく大人びた小学5年生。

小さい頃から自分らしさを貫く人たちを見てきたこともあり、学校という「社会」から学ぶべきことが多いと思っている担任の先生やそこが社会の全てである子供たちにはうまく溶け込めません。

頭がいいが故に周りに溶け込めない。

そんな生きづらさが描かれます。

そこに、「尊敬に値いするもの」というラベルの扱い方を、上手い具合に、組み込んでいた。それ故、子供たちは、そのラベルを剥がすのが、自分に困難をもたらすことに等しいと、本能的に悟っていた。親しみ深い教師は、何人も存在していた。彼らを見つけ出すたびに、そっと、子供たちは、ラベルを剥がしてみる。そのことが、教師を喜ばせ、休息を伴った自らの地位の向上に役立つのを知っていたからだ。しかし、糊は、いつも乾かさないように注意している。生暖かい唾を広げて、不都合を察知すると、すぐに、休息を封印する。教師に忌み嫌われる子供は、その方法を、知らないのだった。習得してしまえば、これ程便利なものの存在に気付いていないのだった。鈍感さのために。あるいは、知ろうとしない依怙地さのために。賢い子供たちは、前者を見下し、後者を排斥する。

周囲よりも一回り大人で、学校の外に広がる本当の社会を見ているからこそ感じる教室という「社会」の「嘘っぽさ」。

秀美は(勉強ができるという意味ではなく)頭がいいが故にその事に気付いてしまい、大人びているが故にラベルを剥がしたりつけたりして、先生を慕っているというフリをするごっこ遊びなんてできむせん。

これが秀美の生きづらさ。

頭がいいからこそ見えてしまい、頭がいいからこそそんな茶番に付き合えない。

そういう気持ちを持っている人の生きづらさはここに該当します。

 

③生きづらさ度合い 重症 太宰治人間失格

『素顔同盟』でもなく、『眠れる分度器』でもない人が共感するのかなと思うのが太宰治の『人間失格』です。

この作品に出てくる主人公の葉蔵は生きづらさの極致を行っているように思います。

これを超えている人はそもそも社会で生きていけていないか、一周回って自由に生きているような気がします(笑)

主人公は幼少期から人の本音のようなものに対する恐怖感があり(というか根本的に理解ができない?)、それ故にいつも道化を演じています。

自分は子供の頃から 、自分の家族の者たちに対してさえ 、彼等がどんなに苦しく 、またどんな事を考えて生きているのか 、まるでちっとも見当つかず 、ただおそろしく 、その気まずさに堪える事が出来ず 、既に道化の上手になっていました 。つまり 、自分は 、いつのまにやら 、一言も本当の事を言わない子になっていたのです 。

あまりにも周りに感じる違和感がありすぎると、この主人公のように徹底して道化を演じ、逆に人に合わせようとするようです。

しかしそれは、決して周りに溶け込めているのではないので、そんな自分に対していつも葛藤があり、実際に葉蔵はついに人の心に対する恐怖が無くなることはなく、アル中になり、そしてモルヒネをやめられなくなり、やがて精神病棟に入れられてしまいます。

そこで主人公は自分が人間失格であると悟るのです。

 

『眠れる分度器』では頭がいい故に周りに溶け込めない生きづらさが描かれてきましたが、『人間失格』になるとさらに上を行き、あまりに周りが理解できないために、かえって道化を演じざるを得ない主人公が登場します。

太宰治自身にも数度の自殺未遂があることからも、おそらく本人にも周りがこう見えていたに違いありません。

道化を演じなければ周囲と関係を保てないレベル。

こちらに共感する人の生きづらさは重症というべきでしょう(笑)

 

 

という具合に、「生きづらさ」というテーマでぱっと思いつく作品と、その生きづらさ度合いをレベル別に分けてみましたが、皆さんはどこに該当したでしょうか。

きっとどれにも共感しない人もいるでしょうし、反対に『人間失格』よりももっとずっと深いところで絶望している人もいるかもしれません。

仮に①〜③のいずれかでピンときた人がいたら、その本を読んでみたら共感できるように思います。

 

冒頭で引用した鬼束ちひろさんは、初期の頃、2000年には、「こんな世の中でどうやって生きればいい?」と嘆いていました。

果たしてその「生きづらさ」はどのレベルでのものだったのでしょうか?

2013年(ちょうど奇抜なファッションや言動で注目を浴びていたころ)にリリースした『悪戯道化師』を見てみると、<心はいつだって偽物に〜溺れぬ本音や拍手という名のうわべで><暴かれるのは嫌 脱がされるのは嫌 そう このまま生きて行こうとも>と歌っています。

(http://j-lyric.net/artist/a000679/l02cda5.html より)

少なくとも僕には、間違えなく鬼束ちひろさんは『人間失格』と同じ生きづらさのレベルであったように思います。

 

みなさんの「生きづらさ」はどこですか?

 

アイキャッチは数ある人間失格の中でもこの表紙。

(僕はこの人も実は生きづらさレベルが高いのではないかなと思っています)

人間失格 (ぶんか社文庫)

人間失格 (ぶんか社文庫)

 

 

 

AO入試の倒し方[受験作文攻略ガイド]①合格するには最初に○○を用意しろ!

AO入試の倒し方」だなんて挑発的な名前をつけたので、もしかしたら「こんなフレーズを入れたら受かる!」みたいな必殺ワードとか、「こう聞かれたらこう答えろ」みたいなパターン集のような物におもってアクセスした人もいるかもしれません。
そういう人には予め謝っておかなければならないのですが、この連載はそもそもあらゆるOA入試の参考書が小手先のテクニックだったら、基礎力ありきの必殺技のようなものばかりを説明しているから、根本的な基礎力のつけ方を説明してみたいというコンセプトの基で始めているため、一切表面的なテクニックを書くつもりはありません。
(なので、そういったすぐに役に立つ(ように見える耳ざわりのいい方法論)を知りたい方はブラウザバックをオススメします。)
この連載エントリでは、そういった技術というよりは、もっとずっと基本的な部分、スポーツでいうところの筋トレの部分を説明するようなものです。
僕の小論文指導の実体験や、企業や団体の広報をしてきた経験、あるいはライターをやっていた経験や、はたまた就活相談を長年し続けている方との数えきれない意見交換から僕なりに一定の成果があげられると自信をもっていえるようになったその方法論を書いていきたいと思います。

さて、前置きはこれくらいにして、早速本題に入ろうと思います。
小論文にでも感想文でも自己PRでもAO入試の面接でも構いませんが、こういったものに関して書く(あるいは話す)練習をする前にずっと大事なことがあります。
それが「自分の思考と言葉を増やす」ことです。
巷には様々な文章術や作文の型などが溢れていますが、これらは大前提として「書きたいこと」がある場合に役にたつ道具です。
小論文を初めとする作文の練習をいざ始めようとして、学校の先生に習ったり参考書に書かれていることを参考にしてとりあえず書き始めようとしたのはいいけれど「そもそも何を書いたらいいの?」というところで止まってしまったという人はいませんか?笑
こういった人はそもそも文の型や技術を覚える前に自分自身の中に知識をためなければならないのです。
数学の公式や英単語などと同じです。
小論文等が入試科目である以上、それに立ち向かうには「知識」と「技術」の両方が必要です。
普段からいろいろなことを考える習慣がついていたり、書く事に慣れていたりするのならともかく、そうでない人がいきなり技術を覚えたところで文章を書くことは不可能です。
だからまずやるべきことは「知識」をつけることなのです。

では小論文(を初めとする作文や面談)の準備としての知識とはどうやってつければいいのか。
僕がこの訓練でオススメしていることが「ノートを持つ」ことです。
はっ?って思われたかもしれなませんが、ここでいう「ノート」とはいわゆる学校の授業のときに書くノートや提出を目的としたノートとは少し違います。
そういった演習や言われたことをまとめるためのノートではなくて、自分の思考を書き溜めるためのノートです。
どちらかといえばメモに近いかもしれません。

みなさんちょっと今日一日を振り返ってみてください。
友達と話していたとき、トイレにいたとき、お風呂に入っていたとき、通学の間etc…
そういったちょっとしたときに何か面白いことを考えたり思いついたりしていませんでしたか?
ふとしたきっかけに「あれどうなっているんだろう?」とか「こんなアイデアどうだろう?」とか、或いはマンガを読んでいるときにふと目が留まったところとか、日常生活の中には些細なところで脳で考えるタイミングがあります。
しかし、私たちはそんなものに価値を感じていないのでふと思いついてすぐに忘れてしまう。
この一見なんの価値も無い思いつきや思考が、小論文では大きな役に立ちます。
決められた時間内にお題が与えられてそれに対して自分の意見を書くということは、ふとしたアイデアの種を制限時間内にどれだけ用意することができて、その中から的確なものを選び、相手に伝わる形に仕上げるかです。
ここでいうアイデアの種はまさに日頃ふと思いついたり考えたりすることに近いのです。

私たちは日頃たくさんのことを思いついて、気がつくと忘れています。
仮に一時間に3個思いついているとして、一日18時間行動したら54個のアイデアが浮かんでいることになるのですが、私たちはそのほとんどを忘れてしまいます。
もし入試まで100日あって、こうした小さなアイデアを全てノートに書き留めて忘れないようにしていたとしたら、54個×100日で5400個のアイデアストックを持って入試に臨んでいるのと同じことになります。
何気なく思いついたものをストックしておくだけでこれだけの分量になるのなら、それを意識して毎日ノートにつけるようにしたらどうなるでしょうか?
いうまでもなく、入試会場でそれらは最強の武器になります。
こういった武器をつくるために有効なのがノートをとることなのです。
詳しいことは次のエントリに書きますが、まずはノートを用意してみてください。
そして、そこには何でも構いません。
とにかく思いついたこと、いいと思ったもの、気になった作品やCM、看板、Twitterのつぶやき、ニュース記事など、何でもいいので全て書き留めてください。
目標は30枚の標準ノートなら一月に1冊。
一ヶ月も続ければ、あっという間に自分の思考やアイデアのストックが溜まり、作文用紙を前にして何もできずにフリーズするという自体はなくなります。
これが作文における「知識」なのです。
まずはノートを用意して何かしら書き込む。
その行動を今この瞬間に起こせるかどうかが非常に大切です。
ぜひここから始めてみてください。

 

アイキャッチは僕のライターになりたいと思うきっかけになった読売新聞の一面コラムを書かれている竹内政明さんのこの本。

「引用」だけで一冊まるまる読み物として成立させてしまっているとんでもない作品です。

名文どろぼう (文春新書)

名文どろぼう (文春新書)

 

 

擬似的な金融資産としてのブログは成り立つか?

よく友達と飲んでいると、「お前は何がやりたいのだ」と言う疑問を投げかけられます。

僕は基本的にお金儲けにも、ビジネスにも、興味はなく、ただただ現象を観察しておきたいというのが行動欲求なのですが、それでも自分の中で積み上げて実験していることがいくつかあります。

このブログもそのうちの1つです。

 

もちろん大前提として、このブログでお金を稼ぐことをPVを目標とすることもありませんが、一応自分なりにやってみたいことがあります。

僕の30代になるまでにやりたいことの中に、擬似的なベーシックインカムの実現(&その実験)と、貨幣以外で物やりとりが成り立つ「ご縁経済」の実験があります。

このうち後者のほうは説明するのに時間がかかるため今回は触れる事はしませんが、特に前者に関してブログは僕の中で大きな役割を占めています。

 

現在僕のこの「薄口コラム」は、年間約100,000円程度を広告収入から得いています。

改めて断っておくと、もちろん僕はこの収入が目的でブログを運営しているわけではありません。

そもそもこのブログのきっかけは、マーケティングなどを無視して、好きなことを書いてどれだけアクセスが増えるかを実験したかったから始めたものなのです。

ただせっかく興味のあるベーシックインカムの話にもつなげることができそうなので、今回はお金に紐付けてこのブログについて考えていきたいと思います。

 

仮に僕が年利2%の金融資産で100,000円を稼ごうとしたら、5,000,000円が必要です。

だとすれば、このブログは金利だけを考えるのであれば5,000,000円を持っているのと同価値であるといえます(笑)

ちなみにこの場合ならば福利で、1年後、100,000円分が資産に追加されているわけですが、そこから生まれる利子は、100,000円× 2%で2000円となります。

これはブログのアクセス数で言う所の2%増加に相当します。

現場の僕のブログのアクセス増加率は毎年約40%。

ということで、よほどのことがない限りこの年利2%の金融資産と言う過程でのブログのケースは上滑りすることがあっても下回ることがないということができます。

 

そもそも僕はお金儲けに全く興味がなかったり、他にやりたいことがたくさんあったりするので、資産運用みたいなものにはほとんどお金を回していません。

(去年の11月位まではビットコインでだいぶ遊んでいましたが…笑)

そんなわけで資産運用には全く強くない僕ですが、このブログを疑似的な資産を運用として考えるということにはちょっとだけ余っていたりします。

 

何の僕のブログのアクセス数から考えると、年間4,500人ほどのアクセス増でこの数値は達成できます。

そして仮にこの数値で成長し続けることができれば(当然ブログと言う性質上そんな事はありませんが、仮定の話です)

 10年後には計1,200,000円以上のお金を生み出すことになる。

こんな風に考えたらブログの運用もちょっとだけ楽しく感じることができる人がいるかもしれません。

僕のブログの運用の1つ目標は、擬似的な資産運用ではなく、擬似的なベーシックインカムを作り出すことです。

ただその過程で、二次的な資産運用の実験もできるということで今回はこのエントリを書きました。

ブログを実際の金融資産の金利等に当てはめると、疑似的なブログの資産価値が出てきます。

皆さんもよかったら試してみてください。

あなたのブログの資産価値はいくらですか?

 

アイキャッチは最近ダイエットの鬼となった与沢翼さん。

今をときめく編集者の箕輪さんが手がけたほんです。