新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



目立つ実績がない人のための志望理由書き方講座①自分が主人公のエピソードを探さない

以前のエントリ(公募推薦やAO入試で落ちる子に抜けている、たった一つの「ある」視点 - 新・薄口コラム)で触れたAO入試公募推薦入試に関して、志望書の書き方や面接での受け答えの仕方を、もう少し体系的にまとめようと思います。

志望理由書や面接で必ずと言っていいくらいに聞かれるのが「高校時代のエピソード」です。
直接聞かれることはなくても、「自分の強み」や「高校時代に頑張ったこと」というのは、十中八九これに触れることになります。
当然自己PRもそう。
「自分ってどんなひと?」を伝えるわけなので、高校時代のエピソードを掘り下げないことには始まりません。
で、ここで多くの受験生がぶち当たるのが「書けるようなエピソードがない」という問題です。

志望理由書や面接の相談を受けていると、毎年必ず「書けるようなことが一つもない」と言ってくる子がいます。
そして書けないという子には、みんなある共通点があります。
それは「自分が主人公だった物語を探そうとする」ことです。
より正確に言えば、自分が先頭に立った物語を探しているのです。
彼ら彼女らの言う「エピソードがない」は、部活動の部長とか生徒会長とか応援団長とかの、「自分が先頭に立って主人公となった」経験がないということなのです。
ここに大きな誤解があります。
それは、志望理由で伝えるべきエピソードは「自分が先頭に立った物語」ではないということ。
別にリーダー経験みたいなものでなくとも、十分に試験管の目にとまるエピソードは語れます。

エピソードを伝える上で大切なことは、自分が目立つ物語ではなく、それを伝えるカメラワークです。
自分が一番目立つポジションでなくとも、その見せ方次第でいくらでも登場人物は輝きます。
例えば、宮崎駿監督の長編映画引退作となった「風立ちぬ」の主人公堀越二郎は一介の飛行機設計者。
特に組織のリーダーでも圧倒的な天才でもありません。
或いは先日40周年の節目に連載が終わった「こち亀」の主人公両さんは特別な役職でもないただの巡査。
どちらも目立つポジションでは無いにも関わらず、文句無しに主人公を張っています。
両さんこち亀の主人公足り得るのも、堀越二郎風立ちぬの主人公足り得るのも、その切り取り方が上手だからです。
何気なく流れる生活の中から、彼らにグッとフォーカスすることによって、魅力的なシーンを見つけ出しているのです。
面接や志望理由書で書くべき高校時代のエピソードもこれと同じ。

まずは、自分が客観的に目立ったかどうかは放っておいて、高校で起きたイベントを片っ端から上げていくことが大切です。
そこで印象に残っていることを書き出す。
印象に残っていないのなら、自分がやったことを淡々と書き出すだけで構いません。
1年生から3年生までを振り返ることができたら、次に、アピールしたいポイントを自分の中で決めてしまいます(アピールポイントの定め方は別のエントリで紹介する予定です)。
他の人にとって何ともないエピソードから自分の魅力が伝わる場面を引き出すのだから、当然引き出すための「判断基準」のようなものが必要になってきます。
それが「アピールしたいポイント」です。
アピールポイントが決まったら、それに近いエピソードをピックアップする。
そして、そのピックアップしたエピソードについて掘り下げて、アピールしたいことを中心に話を組み立てれば、それはもうあなたが主人公の物語です。
ルフィやナルトのような特別なチカラを持った主人公ではなく、両さん堀越二郎のような、作り手の視点によって主人公の輝きを得たキャラクターを参考にする。
このような書き方をすれば、高校時代のエピソードで悩むことはずっと減るはずです。
次にいつ扱うかは決めていませんが、続きは不定期に更新したいと思いますので、よろしくお願いします!



ゆとり世代の取扱説明書④若者はやる気がないのではなく組織に依存していないだけ

特にお盆休みや年末になると、同世代の友達の飲む機会が多くなります。
その時に強く感じるのは、「仕事はお金を稼ぐ手段」と割り切っている人が多いなあということ。
もちろん、やりがいに基づいて行動している人も一定数いますが、同時に徹頭徹尾「仕事」と割り切って労働に身を投じている人も多くいます。
良くも悪くも欧米的。
仕事を「仕事」と割り切っている人にとって、毎月決まった給与が振り込まれるサラリーマンという仕組みの中で一番合理的な行動は、どれだけ手を抜くかということになります。
そこにやりがいを求めていない以上、同額の給与を受け取ることができるのなら、手を抜くだけ使うコストが低く済むからです。
僕はお金のために働くというタイプではないのでこの手の思考回路はよくわからないのですが、理屈の上では分かります。
むしろ、僕が興味あるのはそれほどやる気もないのに一生懸命労働力を投じるオジサンたちです。
やる気もないしいつも愚痴ばかりなのに残業をしたり身を粉にして働いたりと、僕にはやる気のない若者の思考は分かっても、この手のタイプの人たちの気持ちが分かりません。
一定の給与にも関わらずやる気がないのに必死に働くのはどうみても合理的でないように思うからです。
やる気があって一生懸命に働く人も、やる気がないから最低限のパフォーマンスでやり過ごす人の気持ちもわかります。
やる気はあるけれどサボる人もまあ納得できる。
でも、やる気がないのに一生懸命な人は、今まで僕の中では理解できませんでした。
彼らだけは合理的に動いていないように見えて仕方がなかったのです。
しかし違いました。

お店で飲んでいて、周りの人たちの会話に耳をそばだてているうちに、この手の人たちの行動理由にある共通点があることに気がつきました。
全くもって勿体振ることではないのですが、それは居場所を他に持っていないということです。
働く場所は職場で飲みに行く友達も職場の同僚。
そして休日は職場の人たちとゴルフにいき、たまの休みは家族と過ごす。
職場に仕事をする場としての機能以外に、自分の居場所としての機能を求めているわけです。
だから、「仕事」としては全くやる気がなくても、「居場所」としての必要性が非常に高いから、仕事は全くやる気がないのに一生懸命打ち込むみたいな行動パターンが生まれるのだと思いました。

僕が出会った人たちを見ただけの印象論ではありますが、この手の思考を持っている人とそうでない人は30歳前後を境に大きく分かれるように思います。
30歳以上の人たちだと、職場に仕事としての機能とコミュニティとしての機能を求めている場合が多い。
それに対して30歳以下は職場にコミュニティとしての機能を求めている人の割合は減っていくように感じます。
特に僕らの世代はそれが顕著。
もちろん職場の人たちと遊ぶのは楽しいし、全く不満はないという人たちでも、別の「遊び友達」のコミュニティを持っています。
30歳以上の人たちにとっては職場の同僚は「仕事仲間であり友達」であるのに対し、30歳以下の人にとっては「遊んでもいい仕事仲間」くらいの感覚であるように思うのです。

ここで大切なことは「仕事仲間=友達」という等式ではないということです。
仕事仲間と友達が等式で繋がっている場合、どちらかの関係が絶たれれば、必然的にもう一方も絶たれてしまいます。
そのため、仕事で信用を失うイコールプライベートでの交友関係がなくなってしまうということになりかねません。
仕事仲間は遊んでもいい知り合いくらいの位置付けの場合はこうはなりません。
この場合仕事仲間は友達という大きな集合の中の部分集合のひとつです。
つまり、仮にその関係が途絶えたとしても、当人の友達という集合の中には他の幾つかの部分集合が残っているため、それほど多くの痛手にはならないのです。
だからこそ、仕事はお金をもらう手段と割り切って最小限の努力に抑えるという選択ができる。

職場に仕事以外の機能を求めているか否か。
この辺を理解するとゆとり世代とそれ以上の世代の理解が深まるように思います。



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アイキャッチは僕の大好きな編集者柿内芳文の仕事「じじいリテラシー

じじいリテラシー (星海社新書)

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ネットにおける「入場料」というビジネスモデルの可能性

例えばモーツァルトが生きた時代、音楽家は貴族に雇われて曲を書き、パーティで演奏するといった、特定の個人のお抱えの才能でした。
それがベートーヴェンショパンの時代になって自らのコンサートを開き、客を集めるようになる。
絵画で言えば、はじめは教会や地元の有力者に頼まれて書いていたものが、サロンのようなところで展示されるようになり、ギュスターヴ・クールベによって初めて個展が開催されます。
あるいは料理の世界も同じです。
それまでは貴族のために作っていた素晴らしい料理の数々を、庶民にも味わってほしいとできたのがレストランです。

これらの事例は、権力者からの注文を受けて作る職人仕事であったものから人々を集めて自分の商品を見せるという形になったという点で共通しています。
コンサートや個展を開いて、その入場料(もちろんそこでのお土産や絵が売れるというのも含め)で生計を立てるというのが、これらの分野のスタイル。
(絵画の個展の場合、入場料を取らない場合が多いかもしれませんが、あくまでマネタイズの可能性があるという意味で)
コンサートにしろ絵画にしろレストランにしろ、誰かに依頼されて作るのと1番の違いは、1度作品を作ってしまえば、それが何度でもお金を生み出すという点です。
もちろん定期的に新作を披露するわけですが、コンサートであれば行くたびに聞きたい代表曲があるだろうし、モネの睡蓮のように、ある人の作品展を見に行けば必ず見ておきたいと思えるような名作があります。
レストランも、毎回料理を作らなければなりませんが、そのレシピは1度作って仕舞えば半永久的に使えます。
誰かのお抱えになるスタイルから人を集めるスタイルに移行することで、それまでは相手に渡すその一回しか価値を生み出すことのなかった作品が、繰り返しお金を生み出す資産になります。

僕の定義では1度しかお金を生み出さないものを商品、何度もお金を生み出すものを資産としています。
SNSが普及して、これだけ人を集めやすくなった現在、ネット上にコンサートや個展やレストランに相当する「会場」を持つビジネスモデルを作るのもありなんじゃないかと思います。
もちろん、今でもお金を払ってコンテンツを閲覧する機能は多々あります。
しかしそれらは基本的にある一つの商品を購入することが想定されています。
noteのような文章にしてもアダルト動画にしてもそう。
或いはニコ動や新聞社のデジタル版のように、月額定額制のサービスも多く存在しています。
こちらは毎月お金を払い続けることでそこにあるコンテンツが見放題というサービス。
ユニバーサルスタジオジャパンの年間フリーパスみたいな感じです。

ネット上に単品購入スタイルと年間フリーパススタイルのビジネスモデルがあるのなら、入場料スタイルのビジネスモデルもあっていいのではないかと思うのです。
例えばある漫画家さんがウェブページを開いていて、そこに行けば一回500円の入場料でその作家の全ての作品が閲覧できる。
そのページから離れて別日にまた見たくなったら改めて入場料を払わなければいけない。
作品は定期的に更新されていて、入場料を払った日はどの作品をどれだけ読んでもいい。
こんなスタイルにしておけば、それまでの作品が購入されて終わりではなく、何度も人を集めるもの(=資産)になります。
もちろんマンガだけでなく、作家さんやミュージシャン、デジタルアーティストなんかもこのスタイルに相性がいいでしょう。
あまりに新作を更新する頻度が高すぎては何度も支払わなければならず、それなら月額課金でということになってしまいますし、逆に頻度が少な過ぎれば単品購入に流れてしまいます。
半年〜1年くらいでコンテンツを製作するような分野に関しては、このやり方が有効です。
予備校の夏期講習や冬期講習の授業なんて、まさにこのスパンにちょうどいいかもしれません。
単品購入でも月額課金でもない、入場料というコンテンツを提供する方式。
個人のマネタイズの仕方として、今後アリなんじゃないかなと思います。

アイキャッチはあらゆる商品がタダになるという主張をしたクリスアンダーソンの「フリー」

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

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