新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



凶悪な事件に理由をつけたがる

佐世保で起こった同級生殺害の事件。
「自分を僕と呼んでいた」とか「母の死、父の再婚」とか、「一人暮らし」といった、加害者の女の子の特殊性のような部分に今回の事件の原因を見出そうとするニュースが並んでいます。
こういう凶悪な事件が起こると、加害者の特殊性に結びつけて、どうにか悲惨な事件が起こったことに理由をつけようとする場合が多いのですが、本当に加害者の「特殊な環境」が原因で事件が起きたのか、それとも加害者の行動の中で特殊な部分を見つけ出して「特殊性」を作り出しているのか。
なんとなく僕は、後者であるような気がします。

これは、マスコミの話題作りとかそういう話ではなくて、僕たちは凶悪な事件が起きた時、それが特別な事であり、自分たちの周りでは起こらないと信じこみたいからという、ずっと根源的な理由から。
僕たちはとにかく理由のないものを嫌います。
景気が悪くなればそれに理由をつけたがるし、今回のような事件がおきたら家庭環境や加害者の性格とリンクさせて説明したがる。

しかし、それは後付けの物語でしかないんですよね。
この事件をみていて、特にそんな風に思いました。
凶悪な事件程、加害者に特別なストーリーを見出したがる。
それは、凶悪な事件であるほど、それが何処にでも起こりうる事であると信じたくないからなのだと思います。

今回の事件について、これからどんどんこういった加害者の「特殊性」を並べて、凶悪事件に走るに至った物語が人々によって作られていくと思います。
そうすると1番根本にあった、加害者の女の子の供述の内容が薄れていく。
「人を殺して解剖してみたかった」と、淡々と述べたという供述や、反省や謝罪の言葉はなかったという事実。
これこそがこの事件の本質である気がします。

人を殺して解剖してみたかったというのは恨みや復讐、まして快楽でもなく、ただの好奇心から起きたこと。
そして反省や謝罪の言葉がないというのは、仲のいい友達を殺すことに何の感情とわかないということ。
家庭環境や本人の性格に関わらず、こういう人は社会に一定層いて、今回たまたま行動に移してしまっただけなような気がします。
こうした事件が起こる度に語られる加害者の背景は、その人にしか当てはまらないものであり、逆を言えばそんなものあらゆる人に対して作り出せる。
僕たちが凶悪事件は特殊な人が起こすものと信じこみたいのと裏腹に、実はどこのだれでもこういった事件を起こす可能性があるのではないか。
まだ色々なストーリーがついていない今だからこそ、そんな風に思い、複雑な気持ちになりました。