実験芸術
ひざしのてりつけるやまのうえをかりのむれがとびかい、かわではさかなたちがおよいでいる。
やまのなかをあるけばはなばながさきみだれ、ちょうたちがたのしそうにまっている。
言葉から記号としての役割を取り払うと、酷く使い勝手の悪いものになってしまいます。
日 雁
雁 蝶 川川川
山 雁 蝶 川魚川
山山山 花花花花花花花花 川川川
逆に、言葉を媒介としての役割から解放してしまうと、何が何だかわからないものになる。
ぱっと思いつきませんが、綺麗な言葉を並べるだけでも、僕たちはたぶん「作品」として感動することは内容な気がします。
僕たちは記号・媒体・そしてテキストの3つがそろって始めて、言葉を言葉として評価しているわけです。
「あるものを成立させる」ために不可欠な要素を意図的に排した芸術を作ってみたいという事を時々思います。
人が通常美しいとか素晴らしいと感じるために必要な条件がかけているのに、なお訴えかけるものがある作品。
そういうものがどうやって作られているかが、とても気になるから。
永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない。
こういう実験的な試みをした芸術は、文学作品ばかりではありません。
例えば立川談志さんが落語の中で挑戦していた前後の整合性が全くない笑い(談志さんがイリュージョンと読んでいた笑い)なんかも、これにあたると思います。
(Wikipediaから引用させてもらいました)
こういう実験的な試みで、且つ素晴らしいと評価されるものを作ることができる人の考え方や思考パターンっていうのんが本当に気になります。
手法をトレースすることは簡単(もちろん同じクオリティにするのにはとんでもない才能と努力が必要なことは分かってますが)ですが、自分のジャンルの中でそれを思いつき、その上で作品の域まで高めるというのは、次元が違う作業のはず。
実験的な作品を作る人たちの頭のつくりに心底興味があるし、その頭に憧れます。
某高校の説明会に行って、前衛的な取り組みを見てきて、久しぶりに変な右脳スイッチが入ってしまいました(笑)
授業までにもどさないと、、、