新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



感情はデジタルに馴染まない

コミュニケーションについて、IT技術が進化することによって、リアルの繋がりが薄れる事を危惧する意見をよく見かけます。
僕は全体からみるとかなりデジタル推進派の人間です。
年賀状なんて絶対書かないですし、手書きの方が気持ちが伝わるという意見も意味が分からないと思っているくらい(笑)
このように、コミュニケーションに関してはかなりデジタル推進派の僕ですが、リアルなコミュニケーションがIT技術に置き換わってしまうことには否定的な立場を取っています。

それは、感情面のデジタル化(細切れという本来の意味で使っています)はよくないと思っているから。
手書きの手紙や年賀状に関して必要ないと僕が思っているのは、手紙も文字もあくまで「情報」を伝えるための手段だと思っているからです。
手書きなら感情が伝わるという人がいますが、僕は文字にした時点で自分の感情なんて伝わらないと思っています。
少なくとも、相手に伝わるのは自分の想いの中で言語に表されたものだけ。
どちらにせよ感情を伝えるのは不可能なのであるから、初めから文字でのやりとりはあくまで「情報」を伝える手段として割り切るべき。
そう考えているため、手書きや年賀状という「物質」にこだわる必要はなく、全てデジタルにしてしまえばいいと思っています。


一方で、リアルなコミュニケーションに関しては出来る限り省くべきではないと思っています。
会話は「情報」ではなく、「感情」を伝えるという側面が強いと考えているからです。
「感情」は微妙な機微によって成り立っているものだから、デジタル化(細分化)には適していません。
喜怒哀楽のように明確に分けられるものではなく、腹が立つのに大好きとかやる気はあるのに欲望に負けそうになるというように、相反する感情の中間地点みたいな所に何百と感情が存在します。
点の集まりならば細分化することができますが、感情はそういうものではないと思っています。
だから、細かく分けて相手に伝えるというデジタルの考え方には大変なじまないというのが僕の主張です。


ちょうどLINEを使うようになったあたりからこんなことを考えるようになりました。
誰かと話をしていて、自分の意見を伝えるのが面倒に感じると、スタンプをパッと送ることがよくあります。
ついつい便利だから感情を表す手段としてLINEスタンプを多用してしまうのですが、これって結構危険な行為なのではないかと思う時があります。
なぜなら、LINEスタンプを使うとき、僕らは「用意された感情」の中から自分の気持ちを選んでいるということだからです。
僕はこれを「感情の記号化」と言っています。
これになれてしまうと、僕たちは気持ちを相手に伝えるとき、用意された感情の選択肢の中から自分の状態に一番近いものを相手に伝えるというのが当たり前になってしまうように思います。
本来無数に広がっている微妙な感情のやりとりが、スタンプで用意された4つや8つ(あるいはもう少し数はあるかもしれません)の極めて少ない物に分類されてやりとりがなされる様になってしまう。
それが常態化した世界では、僕らは選択肢の中でしか感情が選べなくなるのではないかと思うわけです。
ここまで言うと少し大げさかもしれません。
本来は思考があってそれを伝える手段が言語であると思うのですが、実際には思考はその人のボキャブラリーの広さと相関関係があります。
これは、言語ありきで僕たちは思考しているということです。

言語は思考を伝えるための記号です。
ジョージオーウェンの「1984年」の世界では、国民に思考をさせない為に、よりボキャブラリーの少ない新しい公用語(ニュースピーク)を作ろうとしました。
言語が思考を伝えるための記号であり、それが思考の幅を規定するものであるなら、感情を伝える手段が記号化されれば、その記号の数に感情の幅は規定されることになると思います。
言語並みに膨大な感情を表す記号が生み出せるのならばいいかもしれませんが、現状では、圧倒的に少数しかありません。
その状況で、感情を記号に載せて伝えることに慣れてしまうのは、感情の幅をとてつもなく狭めることにつながるように思うのです。
この意味で僕は感情をIT技術で伝えるということに否定的な立場をとっています。

Mr.Childrenの「ギフト」の歌詞にある「白と黒の間に無限の色が広がっている」ではないですが、感情は白と黒の間が最も大切であるように思います。
全てを0と1で表すデジタルにはもっともなじまないものです。
その意味で、ありきたりではあるけれどデジタルに頼らないコミュニケーションっていうものが大切なんじゃないかと思うわけです。。