新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「である」ことと「する」こと。投票行動が「する」ことなのか?

一昨日くらいに書いた安倍首相の狙いを予想した記事、壮大に外してしまいました(笑)
増税先送りと、年末総選挙を決めたみたいですね、、
今年の師走は、文字通り「センセイ」が走る事になりそうです。


ところで選挙の投票に関して思うことがあります。
それは「投票に行かないことがそんなに悪いことなのか?」ということ。
もっと正確に言えば、「投票に行くことがそんなにいいことなのか?」ということです。
ここでいう「投票に行くことがそんなにいいことなのか?」とは、投票に行ったって仕方がないといった趣旨ではなく、「投票に行くだけで有権者の役目を果たしたと満足してていいのか?」という問題意識から出て来た疑問です。
僕は選挙に行くだけで、国民として国に関わっていると言えるのかということが凄く疑問に思うんです。


選挙に行くという行為だけとったら、確かにそれは積極的に国に関わっていて、その意味で国民としての役割を果たしているように思います。
しかし、その投票行動のきっかけが与えられた情報を受けたものだとしたら、それは積極的ね行動とは言えないと思うんですよね。
たとえば選挙が始まって新聞やメディアに流れた情報の中から印象で投票する政党なり候補者をきめる。
これって、極めて受動的な選択です。
まして、昔から○○党に入れてるからみたいな理由で投票先を選んでいる人たちが、能動的だとは思えない。

本来の能動的な姿勢って、まず自分の考えやスタンス、理想像みたいなものがあって、その上で情報に触れる。
そこで得た情報の中から、自分に近い候補者を選ぶっていうことだと思うんです。
たとえ選挙に欠かさず行っているっていったって、その選択に自分の意見が先行していなければ、それは受動的な行為でしかない。
投票行動というレイヤーではなく、もうひとつ引いたレイヤーで考えた能動・受動でいえば、多くの人が極めて受動的に国民としての役割を果たしているだけであるように思います。


丸山真男さんの【「である」ことと「する」こと】の中で、「自由に満足するのではなく、その自由を保つ為に不断の努力と監視が必要だ」といった趣旨のことが述べられています。
投票行動とは、丸山真男さんの言うところの「監視」行動ではないかと思うのです。
誤解を恐れずに言えば、僕には「選挙に行こう!」と周りに強く推し進める人々は不断の「監視」をしているだけで、「努力」を怠っているように見えます。
本当の意味での「する」ことを実現させたいというのなら、「投票」という行為を推進するのではなく、あなたはどういう社会を思い描くのかという、当人の自覚を促すことが先のはず。
自分の意見を持つという不断の「努力」があって初めて、投票という形の「監視」ができるのではないでしょうか。

現在の投票への呼びかけを見ていると、投票することに意味を見出しているように見えます。
投票は本来、自分の意見を反映させる手段です。
しかし多くの場合、それ自体が目的になってしまっている。
これは丸山真男さんの理屈でいえば、一見すると「する」理論で動いているようにも見えますが、実のところは国民「である」ことに満足しているのではないかと思ってしまいます。

「投票『する』」という行為そのものが、実際は「国民『である』」ことに過ぎません。
「国民を『する』」というのは、実はもっと深い部分まで掘り下げなければならないことのように思います。
今の選挙に対するスタンスを見ていると、どうしても表面的な部分で満足しているように思えてしまいます。
その辺が選挙に対して僕が持っている疑問です。
言うまでもなく、投票に行くことは行かないよりずっといいことなのでしょうが、その行為(=投票に行く)で満足するのではなく、もう一歩踏み込んだところに思考を働かせる。
そうした意識が大切なように思います。