新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



山月記解説「袁傪の想いと虎になった理由」読解的アプローチ×文学部的アプローチ

ひとつ前のエントリの言い訳編ということで・・・(笑)

 

山月記の良さに関しては、いろいろなレイヤーで語ることができると思います。
内容としての良さはもちろんのこと、中島敦さんの作家性が出ているという意味においても、また作者の文構成のテクニックの面でも、その良さが表れています。

内容面に関してはやはり李徴が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のために虎になってしまったと親友に吐露する部分が印象的です。
自分の才能は信じているけれど、実際に師に教えを請うて、才を磨こうと努力したときに自分には才能がないことが発覚するのを怖がって、師について学ぼうとはしません。
一方で普通の人たちに交じることは、李徴の中にある普通の人に成り下がることに対する恥ずかしさが邪魔して許さない。
そんな李徴の「弱さ」が自らを虎にしてしまったのだと自らの口で親友に述べるこのシーン。
「臆病」「自尊心」と「尊大」「羞恥心」という本来反する言葉同士をつなげることで、李徴の悔しさと自分の才能の限界を自覚する頭の良さが本当にうまくあらわされているように思います。
内容面で好きなところは他にもたくさんあるのですが、国語の授業の文字起こしになってしまうのでやめておきます(笑)

李陵・山月記 (新潮文庫)


作者はなぜ李徴を虎にしなければならなかったのでしょうか。
もちろんこの作品の原作となったお話は漢文に存在するのですが、それでも作者は登場人物が虎になる話を選んで小説にしているわけなので、そこには作者の思いみたいなものがあるはずです。
これは僕の解釈ですが、作者は山月記の中で、李徴を虎にして自らの弱さを認めさせることで、李徴自身を救っているのではないかと考えています。
たしかに李徴は虎になり、もう人間の姿で名声を得ることはかなわなくなりました。
しかしだからこそ自分の弱さを認め、袁 に気持ちを吐き出すことができたと思うのです。
虎に変身して、夢を断ち切られたことで、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」から解放されたとも読めます。
対照的に作者は、山月記を書いていたとき、李徴のような気持ちに悩まされていたのではないかと思います。
李徴は虎になることで作家の夢を断たれ、そのおかげで弱さを認めることができたが、作者は筆を執ることができるからこそ、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に悩んでいる。
李徴が虎になるシーンには、「弱さ」を認められない作者の内面が重ねられているように思います。
変身した動物が「虎」であったというのも、その強そうな見てくれと、人々に恐れられているところがプライドと自分を認めてもらえない孤独感に重なっているように思います。


内容や作家性みたいなところはもちろんですが、何より僕が山月記をすごいと思うのは、その言葉選びです。
李徴が虎になって初めて出てくるシーンは物語を数ページ読み進めたところなのですが、それまでに作者は李徴の性格を示す際に、虎を暗示させるような言葉を多用しています。
「虎榜(こぼう)」「狷介(けんかい)」「頗(すこぶ)」「埒のつくり+虎)+略」(かくりゃく)」「歯牙」「狂悖(きょうはい)」「発狂」
冒頭で李徴の性格を表す中に使われている言葉をいくつか抜き出してみると、そこに「虎」や獣辺、そのほかにも獣を連想させる言葉がたくさん登場します。
李徴が虎になったと発覚する前から、「虎」を連想させる言葉を僕らは無意識に見てきているため、李徴が虎になって表れるという、普通ならばありえない展開に、どことなく「なるほど」と思わせてしまう演出上の効果があるように思います。
最初に取り上げた「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という表現もそうですが、中島敦さんの徹底的なまでに無駄のない表現のテクニックが、本当にすごいと思います。

このような理由から、僕は山月記が好きだったりします。
前のエントリで山月記を軽く見るような書き方をしてしまったので、その弁解に僕なりの山月記の好きな点や解釈を紹介させてもらいました。

アイキャッチ山月記考察本

 

 

 

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

 

 

 

 

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山月記について、内容面について感じることを書いたエントリです。こちらもよろしくお願いします。

山月記考察・人間を捨てることで始めて人間的な行いをした李徴の人柄 - 新・薄口コラム