新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



正月なので普段書かない事を書いてみた③介護論

凍てつく風が窓を叩くその反対側で、灯りを一つ消した時に不意にぞっとした。
もし目が覚めたとき、物理的に声を失っていたらどうだろう。
体の機能が思っているのと比べて、ずっと衰えていたらどうだろうか。

自分以外の日常は昨日までの速さで営まれていて、自分だけがそこについていけないとしたら。
計り知れない孤独感だと思う。
まるで自分だけが地球の自転から取り残されたかのような感覚。

なんとか周りに追いつこうとしても、物理的な障害が、それを許さない。
むしろもがくほどに周囲に迷惑をかけているように感じてしまう。
孤立したくなくてもがいて、周りに疎まれる。
たとえそんな気はなくとも、当人には無意識下のそんな気持ちが伝わるはずだ。


病気が人の死を早めるのではなく、孤立感が決定的に人の死を加速させているように思う。
日常が以下に複雑な組み合わせでできているかは、日常を生きる人にとって非常に理解し難いことだ。
例えばドアを開けるという動作はどれほどの行動の集合体でてきているのか。
頭の中にあるごく簡易なイメージを相手に伝えるために、どれほどの言語を必要とするのか。
それをどれだけ組み合わせて一日は成り立っているのだろうと考えると、めまいがする。
「不自由な日常」と「当たり前の日常」は、あまりにかけ離れいる。


身近にそうした人たちがいるとしとして、ほんの近くに見える自分と相手の日常の間にある溝の深さを理解している人はそういない。
理解しようとしないのではなく、気がつかないのだと思う。
適切な言葉が出てこないが、強いていうなら無邪気な悪意というのが僕の感覚に1番近い。
無邪気な悪意は批難できない。
おかしな言い回しになってしまうが、相手には「悪意」がないからだ。
どうしようもなく遣る瀬無さが募り、たまに怒りをこぼしてしまうと「病気のせいで」と片付けられる。
外に出さまいとして、どうしても耐えきれなくなって零れてしまった苦しみの結晶を、軽い言葉に置き換えられた時の絶望感は想像だにできない。

凍てつく風が吹き付けるのは、薄く透明のガラス窓だ。
窓が視界に入る時に、外の世界の厳しさをいちいち考える人はいない。
それほど僕たちの日常は日常として僕たちの身に溶け込んでいる。

「日常」から少しずつ切り離され、周りに迷惑をかけ、ただ終わりに向かうことを受け入れて次の日を待つ。
どれほどつらいかを考えたい。
ガラス窓一枚隔てた外の世界に心を向けるような気持ちを持ちたい。
案外身近に「窓の外」に置かれた人は多くいる。