新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「少年の日の思い出」に毒されてみる〜芸術家の純粋で残酷すぎる美への欲求

中学一年生の国語の教科書に載っている、ヘッセの「少年の日の思い出」というお話。
主人公が隣の家の友人エーミールが所有する珍しい蝶の展翅を盗もうとして壊してしまい、その事実を伝え謝罪すると、エーミールは「わかった。お前はそういうやつなのか」とだけ告げられ、その後自分のコレクションの蝶を全て壊すというあのお話。
国語の教科書に60年近く載っている作品なので、プロットを聞くと思い出す人も多いのではないかと思います。

子供達に教える際には、殆どのばあい、後半の主人公がエーミールに謝罪する部分がフォーカスされます。
謝罪してきた主人公に対して、許しも罵りもしないエーミール。
彼はただ「そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」とだけ伝えます。
これがどんな言葉よりも主人公にとって辛い言葉です。
通例ではここを以って、「悪いことをしたら後からは取り戻せない」ということを教えるのですが、僕はどちらかというとむしろ前半の部分が作家性が出ていて、そして何より人の気持ちを読者を思わずゾワッとさせるほど的確に表しているように感じています。


僕が最も気に入っているのは、主人公がエーミールの家から一旦は蝶の展翅を盗んだが、思いとどまって返そうとした時に蝶を握りつぶしてしまったシーンです。
主人公が盗もうとした蝶の展翅をエーミールの部屋に戻そうとして、誤って握りつぶしてしまったとき、真っ先に出てきた言葉は「綺麗な蝶が崩れてしまった事に対する憂い」でした。
「盗んだ事に対する罪悪感」よりも「元に戻せなくなった焦り」よりも最初に主人公が感じたのが、「美しいもの」が壊れた事への悲しさです。
ここの描写を読んだときに、背筋に冷たい汗が垂れるような感覚を覚えました。
盗んだきっかけも、美しい蝶を見てみたい、そしてそれを目にした時に思わず手を伸ばしてしまったというものです。
ここには主人公の「美しいもの」への残酷なまでの欲望が描かれていると言えます。
人間関係や自分の立場みたいなものはわかるけれど、あまりにも美しいものを前にして、それらの制限が効かなくなってしまった。
ヘッセはここで、「美しいもの」を求める人間の根源的な欲求が、抑えきれなくなってしまう瞬間がくることを描きたかったのではないかと思うのです。

これと似た感覚って、クリエイター気質の人なら絶対1度は感じたことがあると思うんです。
美術館であまりにも美しい絵画に出会って、気がついたら手で触ってしまったとか、凄い音楽に出会って全てをそっちのけでのめり込んでしまうとか。
極端な話、それが危ない方向に傾く人が、チカンとかなのかもしれません。

ただ、美しいものをみた時に思わず手が伸びるというのは(痴漢は別として)ある程度避けられない人間の本能のようなものなのではとさえ感じてしまいます。
少年の日の思い出に出てくる主人公も、きっとそれに近い気持ちだったんじゃないかなあと。。
そしてヘッセは、その「美しいもの」に対する人間の恐ろしいまでの欲望をこの作品に込めたのではないかと思うのです。


主人公は最終的に、自らの悪事をエーミールに告白し謝罪します。
この時に初めて、主人公は「自分は取り返しのつかないことをしてしまった」と気づく。
このシーンを「後で後悔しても遅い」なんて言葉で片付けるのは、あまりに簡単すぎるように思います。
先の文脈で読めば、美しい蝶を見たときに自分のものにしようとした衝動は抑えきれないものだった。
その抑えきれない衝動の結果、取り返しのつかない過ちを犯し、自分が長年のめり込んだ蝶の収集を一つ一つその手で潰すことになります。
これは「美しさ」にとらわれた芸術家が、抑えきれない美しい物への好奇心に従って行動したけっか、全てが崩壊し、結果として自らの愛した作品さえも嫌いになってしまうという、芸術家の「罪と罰」のようなものを描いているのではないかというのが僕の読み方。
こういう作家さんや画家さんって結構多いように思います。


少年の日の思い出を大人になった今振り返ると「人間は時に美しいものに対する抑えられない欲望を抱いてしまうことがある」ということと、「その美しさを追求し尽くした先には、そのものを手放すこと(全ての崩壊)が待っている」という作者の主張が込められているようにも読めます。
少なくとも僕は美しいものに惹かれ、その感覚に抗えないという経験をしたことがあるし、殆どの人がそうした経験があると思います。
先日テレビ放映された宮崎駿さんの「風立ちぬ」なんて、まさにこれがテーマでしたよね。
ヘッセのこの作品は、そうした人間の欲望と、それに忠実に従った先に待つ崩壊の運命を描いた作品として読むと、グッと引き込まれ方が変わるように思います。
そして何より、自分の中の「美しいもの」に対する忠実な欲望に気づかされてしまうかもしれません。
これを僕は「作品に毒される」読んでいるのですが、ヘッセのこの作品は、教科書に載っている作品の中では、山田詠美さんの「ひよこの眼」と並んで毒素の強い小説であるように思います。

アイキャッチは少年の日の思い出

少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集

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