新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ゼクレアトルの祖!?〜濹東綺譚は元祖作者が作品に登場する作品

―濹東綺譚はここに筆を擱くべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人になっているお雪に廻り逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう。楓葉荻花秋は瑟々たる刀禰河あたりの渡船で摺れちがう処などは、殊に妙であろう。
 わたくしとお雪とは、互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯濹東の裏町、蚊のわめく溝際の家で狎れしたしんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。軽い恋愛の遊戯とは云いながら、再会の望みなき事を初めから知りぬいていた別離の情は、強いて之を語ろうとすれば誇張に陥り、之を軽々に叙し去れば情を尽さぬ憾みがある。-

三島由紀夫の「文章読本」を読み、荷風の小説が浮かびました。
濹東綺譚。
三島由紀夫のいうところの「味わっておいしく、しかも、栄養がある」文章の一つだと思います。
冒頭に引用した「濹東綺譚はここに筆を擱くべきであろう」とはじまる後半の一節を読んだとき、何とも言えない感覚でこの小説に引き込まれたことを覚えています。

「もしここに小説的な結末を加えようとするのなら、しばらくの後にお雪と再会する描写を描けばよい。しかし実際はそんな小説のような展開は起こるはずもなく、淡々と過ぎるだけだ。」

取り立てて感動的な顛末が待っているというわけでなく小説が終わっていくというところに妙な現実味を感じたことが、この小説が好きになった最大の理由でした。
これといって劇的な出会いをするでもなく、ただ雨の中で女と男が出会い、少しだけお互いに惹かれあい、大きな事件を経て引き裂かれるでもなく二人は離れることになり、その後会うこともない。
どこにでもありそうな風景が淡々と続く物語を、美しい言葉を用いて描かれた作品です。

小説を読むと頭に情景が浮かびます。
自然と登場人物を思い描き、背景や声を想像する。
小説を読んでいると、稀に、声が想像できない作品に出合うことがあります。
僕はそれを「音」のない作品と呼んでいて、濹東綺譚はその作品の一つでした。
風景も登場人物の表情も鮮明に頭に浮かんでいるのに、音だけがどうしても想像できない。
音が浮かばないのは、内容だけでなく、言葉の並びの美しさに引き込まれてしまっているからなのだと思います。

頭の中で行間を補うよりも、文字の並びを味わいたい。
ありのままの文字情報を受け取ろうとするから、「音」が頭に浮かばないのだと思います。
内容を楽しむのはもちろんのこと、文字を楽しむという意味でも「濹東綺譚」は僕が大好きな小説です。