新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



僕たちはなぜ進撃の巨人に惹かれるのか?~ゼロ年代後半と壁の崩れた社会~

進撃の巨人の世界では、得体の知れない巨人がうごめく「外」の世界から、大きな壁に守られた空間の中で人類が生活をしています。

人類を守る壁はどうやって作られたのかもわからず、中で暮らす人々は壁の外の世界にほとんど関心がない。
そんな「日常」を送る壁の中の世界に、急激な異変がやってきます。
今まで絶対に安心だと信じていた「壁」が、ある日突然想定もしていなかった巨人の手によって崩されてしまうのです。
それをきっかけに内部では様々な混乱が起きる。
 
僕は進撃の巨人の中に描かれる世界の描写と、0年代以降の日本が経験してきた事が、非常に重なっているように感じます。
 
 

生活の外の世界で起こる大事件と、他人事の内の世界

0年代がスタートした時に起こった最大の事件は、やはり9.11の同時多発テロではないでしょうか。
世界はここからテロの脅威というものを強く自覚し始めたように思います。
しかし、僕たちは(少なくとも外国の人と比べて)あまりその脅威にピンときていませんでした。
その後のリーマンショックギリシャ危機も、漠然とした不況のイメージは持っていたとしても、どこか他人事のような感覚でした。
 
振り返れば9.11やリーマンショックが世界にもたらした影響は把握できますが、実際に経験したあの瞬間は、おそらくほとんどの人が9.11よりもバスジャック事件や牛肉偽造事件に関心があっただろうし、リーマンショックの時期は秋葉原無差別殺害事件やのりぴーの逮捕に驚いていたように思います。
どこか世界を巻き込む事件は、自分たちの外で起きている出来事という空気があった。
 
そんな「外の世界でいろいろな事が起こっている」という感覚が、10年代に入って急に身体性を帯びるようになります。
そのきっかけとなったのが2011年の東日本大震災
 
 

「壁が壊れる」感覚と、「壊れた世界」に広がる誰も信じられないという空気

東日本大震災、そして先日のISISによる日本人処刑事件で、僕たちは一気に世界の変化を肌で感じるようになりました。
東日本大震災が起こったとき、原発安全神話が崩れ、僕たちは大きく混乱しました。
そこでいろいろな情報を取り込むようになる中で、「グローバルスタンダード」なるものに関心を抱き始めます。
僕は東日本大震災の一連の出来事をきっかけに、日本人の多くが「世界の中の日本」ということを意識し始めたように思っています。
 
そして、もうひとつのISISの日本人処刑事件が起きます。
今まで、テロに対しては心のどこかで他人事と思っていた僕たちが標的となりました。
人質が殺される映像を見て、今まで関係のなかった出来事が、急激に身近なものになりました。
否が応でも外の世界を見なければなりません。
 
今までは「外の世界」だった大きな事件が急に自分たちの「内の問題」としてなだれ込んできて、僕たちは大きく混乱します。
そしてその感覚は、情報を自ら取りに行く層とそうでない層の間で、どんどん乖離が大きくなっています。
ちょうどこの辺も、進撃の巨人の世界で危機感を持って動くグループと、壁が壊れた後も普通の生活を営むグループがいるところに被るように思います。
 
 

「笑っていいとも」の終了で感じたこと

去年のお盆休みに帰省した時、母との会話の中で、何気なく笑っていいともが終了したことを話題にしました。
その時の母の「番組がひとつ終わっただけでしょ」という反応が非常に印象に残っています。
「笑っていいとも」に関しては、本当にただの番組が終わっただけのことなのですが、きっと振り返ったら大きな出来事に見えるものも、当事者として経験する最中は、こんな風に気にも止めずに流すのだろうと思った瞬間でした。
 
振り返って、ゼロ年代後半で大きく変化したものを挙げてみると、いろいろなものが思いつきます。
家電メーカーの経営悪化、ジブリの正社員制廃止、いいとも終了、自民党政権の崩壊etc...
個人的には仕組み上は国民の声を反映している政治分野でのみ振り戻しが起きたことが面白いと思うのですが、話が逸れるので置いておくとして、様々な「当たり前」と思っていたものが当たり前でなくなってきていることが印象的です。
先のいいともの様にある一分野での出来事に過ぎないと取ることもできますが、裏返せば、様々な分野で小さな綻びが生じ始めていると捉える事もできます。
 
 

大きな壁が壊れ始めた社会におけるコミュニティという小さな壁

ちょうど様々な「当たり前」が崩れ始めたのと重なるように、SNSが普及しはじめます。
そしてアイドルブームや韓流ブーム、オタクブームなど、ターゲットを全く異にするブームも生まれます。
ビジネス界隈では、マイルドヤンキーという言葉が流行るようになりました。
こうした一連の流れを、僕はコミュニティへの細分化であると考えています。
今までは漠然とした日本の内と外という仕切りがあり、その中で国民全体としての流行みたいものがありました。
しかし壁の様なものが崩れたことを感覚的に察知して、僕たちは小さなコミュニティへ帰結するようになっていった。
大きな壁が崩れはじめたことで、人々が小さな壁の役割をするコミュニティへと動き始めたというのが僕の印象です。
 
マンガ家の山田玲司さんの言葉を借りれば、小さなそれぞれのコミュニティはディズニーランドの役割を果たしています。
自分たちが共有したい物語を持つ者同士がそれを満たしてくれるコンテンツやプラットフォームに集まっていく。
高校時代の恋愛を思い出したいひとはAKBに集まり、昔を懐かしみたい人々はあまちゃんやアメトークなど昔を思い出させてくれるテレビに集まり、土地の繋がるに思い入れがある人は地元の良さに集まります。
SNSでは気の合う友人のコミュニティが存在し、ネット方向になれば、思想の違い人々の発言をフォローするうちに、似た人々の集まりに属すようになる。
カラオケのトップ10が三代目Jsoul brothers、初音ミクアナと雪の女王、妖怪ウォッチという、全く共通項を見出せないものになっているところに、コミュニティよ細分化は象徴されています。
あらゆる方面で似た欲求を持つ者同士が集まりそれぞれで小さな壁を作っているというのが現在の大きな流れであるように思うのです。
 
 

全体の流れを遮断するということ

僕が進撃の巨人を面白いなあと感じるのは、こうした日本の置かれた状態をリアルタイムで描写しているからです。
筆者がそういった意図で書いているわけではないと思うのですが、ちょうど時代の流れが乗っかっているように思います。
時代の流れを感じ取って行動を始める主人公たちと、その中で混乱する人々。
いろいろなものが、象徴的に表されています。
 
壁が崩れ始めた社会でそれを小さなこととして気に留めずコミュニティに入り込んでいく層と、それを変化の前兆と捉え先を見据えている層。
そこのキャズムが広がりつつあるような気がします。
コミュニティの壁を作って外の音をノイズとして遮断するのか、大きな流れを理解しようとするのか。
そこがこれからの立ち振る舞いを考える上で、大きな分岐点であるように思います。
 
 
 
山田玲司さんの番組を見て思ったこと。。
 

 

 

 

ゼロ年代の想像力

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