新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2010年代の文化論〜ダメよ、ゴレライ、ゲラゲラポーに見る語感の文化〜

ここ数年の音楽・ドラマ・お笑いなどの大衆芸能を見ていて感じるのが、「音」の芸が注目されているなあということです。
音楽をみれば、きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」「にんじゃりばんばん」などの曲全般、アナ雪の「レリゴー」、SEKAI NO OWARIの「ドラゲナイ」、そして妖怪ウォッチの「ゲラゲラポー」。
テレビドラマならば半沢直樹の「倍返しだ!」やあまちゃんの「じぇじぇじぇ!」、そしてお笑いで流行ったのは日本エレキテル連合の「ダメよ〜」や8.6秒バズーカの「ラッスンゴレライ」。
どれも内容云々の前に、語感で私たちを楽しませるものばかりです。
2010年以降は、音の持つ意味よりも音そのものの響きが重視される文化であるように思います。

ゼロ年代の文化は言葉の意味の文化〜仲間意識とありがとう〜

言葉の語感そのものが重視される2010年代に対して、ゼロ年代の大衆芸能は言葉の意味が重要視される文化でした。
特に顕著なのが音楽の分野。
僕はゼロ年代の音楽で最大の特徴は、ラップ音楽が流行ったことだと思っています。
奏でられる音楽よりも、そこに乗っている言葉が世間では重視される、その象徴がオレンジレンジリップスライムなどのアーティストの人気が広がったことに現れている気がします。

言葉が重視されるというのは、技巧的な言い回しや繊細な心情描写ではありません。
むしろ、自分の気持ちを端的に、そしてストレートに言葉で表す作品ほど人々に受け入れられました。
キーワードは「ありがとう」と「仲間意識」だったように思います。
もちろん映画でも音楽でも小説でも、多くの作品で普遍的に描かれるテーマであるのですが、特にゼロ年代はこういった感情をストレートに言葉で伝えることが流行っていました。
SMAPの「世界に一つだけの花」の大ヒットに始まるゼロ年代の大衆文化。
若者のケータイ小説人気、ごくせん、湘南之風に西野カナ
先ほど挙げたラップ勢も、多くの「ありがとう」や仲間の大切さを歌った曲を残しています。
仲間のために戦うONE PIECEが大ヒットしたり、みんなで頑張る姿を見せ、歌の中では「ありがとう」を繰り返すAKBの国民的人気が、ゼロ年代の「みんな・仲間意識」や「ありがとう」の文化を象徴しています。

2010年代の文化が普及した物理的要因

言葉に乗せて感情をストレートに伝えることから言葉の語感そのものにポイントがシフトした理由には、物理的要因と精神的要因の二つがあるように思います。
物理的要因とは、コンテンツの過剰供給です。
ゼロ年代はIT技術がとんでもない勢いで進化しました。
技術の進歩により情報を供給側する側の速度と量が圧倒的に増えたのはもちろんのこと、受け手の側もスマートフォンを、持つことによって触れる情報量が格段に増加します。
それによって、僕たちは絶えず膨大なコンテンツを浴びるような生活へと突入しました。

今までもずっとコンテンツの量が消費できる量を上回っていたのですが、IT技術の発達で僕たちは本来なら耳に入ってこなかったようなコンテンツにも触れるようになりました。
その結果認知しきれない膨大なコンテンツの中から、自分が楽しむものを見つけなければならなくなります。
結果として、流れて行くコンテンツの中で意識に止まるのは、直感的に認知できる物になります。
ゲラゲラポーやラッスンゴレライのように、耳に残る言い回しが注目されるのは、こういった背景があるように思います。


「みんな」の限界に感づき始めた10年代

もう一つの精神的要因は、どちらかというとゼロ年代の「ありがとう」や「仲間意識」の大衆文化が衰退していった原因です。
ゼロ年代はみんなで頑張ろうという空気に満ちていました。
そして、どこか内と外を隔てるような閉鎖的な感覚がありました。
9.11が起こっても、金融危機が起こっても、どこか他の世界の出来事といった空気感です。
内と外に分けたうえで、内側の世界でいきる仲間と共感できる、自分の気持ちをストレートに代弁してくれるコンテンツを消費する。
大きな問題を自分たちから切り離したからこそ、身近な感情の機微や近しい仲間との繋がりを描いた芸能に、僕たちは没頭できたのだと思います。

2010年代になると、今までは外の問題として切り離していたものが、急に身体性を帯びてきます。
これに関しては以前のエントリ(ゼロ年代後半と壁の崩れた社会 - 新・薄口コラム)で書いたので細かくまとめませんが、端的に言えば自分の内面や半径数キロの世界だけを見ていることができなくなったのです。
その結果、自分の内面を分かりやすい言葉で表現してくれる作品に共感したり身近な仲間との繋がりを描いたような作品が少しずつ勢いを弱めていった。
僕たちはコンテンツに内面の吐露を求めなくなりました。

コンテンツに非日常を求める

共感を消費するゼロ年代のコンテンツは、日常を扱った作品であったと言えます。
そこには、日常生活で感じる些細な気持ちが描かれていました。
2010年代になると、そうした日常の感情の機微ではないものを芸能に求めるようになる。
言い換えれば、非日常の世界を作品世界に求めるようになりつつあるということです。
様々なコンテンツが日常の気持ちに寄り添ったものから、現実から離れて非日常へ没入する装置として消費されつつあるよつに思います。
「全部妖怪のせい」にできる社会も、「少しも寒くないわ」と言って1人で聞きていこうとする世界も、どれも僕たちが求める「もしも〜なら」の世界です。
こうしたものをうまく作品に取り入れることと、語感の良いものがこれから流行るコンテンツの大きな傾向であるように思います。


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