新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



「学歴」と「学校歴」を区別する

お題「お前はバカだなと言われてひとこと」
ーバカには俺がバカに映るのかー
(立川談志ラジオ番組「談志の遺言」より)

立川談志さんが昔、「あたしにゃ学校歴はないが学歴はある。落語学で言えばいくら早稲田や東大のように学校歴の高いやつを集めて来ても負けないでしょう。」と言っていました。
「学歴と学校歴」
当たり前のように談志さんが言ったこの分類に、僕は思わず強く頷いてしまったことを思い出します。
この分類分けでいくと、今の世間一般で言われている学歴の殆どが実際は学校歴だと思うのです。
僕たちは学歴を聞かれると、○○高校とか○○大学のように、どこで学んだかを答えて、研究した内容や学科など何を学んだか答えることはありません。



僕は別に今の学歴がどこを卒業したのかという学校歴になってしまっていること自体にネガティブな感情を持っている訳ではありません。
むしろ労働市場やビジネスに身を投じる時は、端的に伝わる記号としての学校歴は非常に役に立つと思っています。
対人関係においては学歴と学校歴の区別をつける必要はありませんが、自分自身の認識として両者をしっかりと分けておくことは、非常に大切です。
自分はどんなことが好きで、何を学んできたのか。
そういった物をしっかり認識できていないと、進路選択をはじめとする「何かを選ばなければならない」シチュエーションで、何を軸にして考えれば良いのかがわからなくなってしまうと思うのです。


夢がない子供たちが増えたという話をよく聞きますが、原因は自分の中で学歴と学校歴を区別できていない(そう教えてくれる大人がいない)ことにあるような気がします。
本当は自分が何をしたいのか、何に興味があるのかを起点にして、その手段のひとつとして大学や高校があるはずなのに、まずはどんな学校があるのかという、そもそも選択肢ありきでその中から選ぶことが当たり前になっています。
夢や将来設計が、「描く」ものから「選ぶ」ものになっている。
今の子供たちは物ごころついた頃から、この選択肢ありきの夢しか知らず、何よりその子たちを育てる親の世代の多くが選択肢ありきの夢しか知りません。
高校や大学を卒業する時期になるまで、やりたいことは自分で描くものではなく、選択肢の中から選ぶものになっています。
それが教育から卒業する場面になって、いきなり自由に思い描けと言われる。
やりたいことが分からないという子供たちの思いも無理がないことのように思います。
むしろ、夢を聞かれてはっきりと答えられてしまう子の多くは、選択肢の中から選んでいるだけではないかとさえ思うのです。



選択肢から選ぶのが当然という意識を象徴的に表したのが、学校歴の意味で使われている学歴という言葉です。
一般定義でいけば、学校名=学歴で構いませんが、それと同時にブランドとは別に何を学んできたかという軸を持っておく。
そうしなければ軸そのものが大学名となってしまいます。
談志さんが「俺は落語学で右に出る者はいない」と言っていたように、自分の中ではっきりと「○○学を修めた」と言える物を持つことが大切なように思います。
そしてそれは、大学や既存のカテゴリで学問とされるものである必要はなく、自分の好奇心に従ったものでいい。
それを持っていることが、これからの社会を生きる上で非常に大切な武器になるように思うのです。