新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



古典を「読む」上で必要な頭で想像する力について

その想定が小さなボロ長屋なのか屋敷の軒先なのか、同じ玄関口で奥さんを呼ぶ行為でも全く違う。

古典の授業をするにあたって、絵を頭に描けているのか否かを重視しています。
同じ「訳を伝える」でも、ただ現代文に直すのと、文字から風景を思い浮かべて、それを伝えるのとではまるで情報量が違うと思うからです。
高校の古典の授業で、「若紫」は最も有名な作品の一つだと思います。
比叡の山に光源氏が参拝に行き、その帰りに偶然尼と幼い若紫を見かけるお話。
「雀の子を犬君が逃がしつる」で有名なあれです。

若紫は庭の植え込みから源氏が尼の座っている部屋を覗き込むところから始まりますが、ただ読んだだけでは「源氏が脇息にもたれかかる尼を覗き見ていた」という情報しか得られません。
これではただの文字情報でしかなく、絵で条件を、思い浮かべることができません。
・庭の植え込みはどのくらいの大きさなのか?
・尼のいる部屋の広さは?
・源氏が覗く植え込みと尼の屋敷までの距離はどのくらい?
・源氏はどんな服を着ていたのだろうか?
こういったものをひとつひとつ考えることで、情景が少しだけリアルになります。
またそこに出てくるリード文は映画でいうところのカメラの働き。
その言葉で表される源氏はどの角度から抜いた絵なのか?どこで尼のほうへカメラをスイッチしたのか?
そういった事も意識することでようやく文字情報が動き出す。
現在の文章と比べてずっと情報量が削られています。
だから、その分を自分の頭の中で組み立てていく習慣をつけることが、古典読解には重要です。

これは僕の持論なのですが、パソコンが普及する前と後では圧倒的に直接体験の機会が減っていて、その結果文字情報から絵をイメージすることが苦手になっていると考えています。
人の喜怒哀楽が揺れるのは、何らかの情報に触れたとき、自分の過去の経験の断片と何かしら結びつくからです。
玄関口で大きな声で「ごめんください」と挨拶すると奥さんが障子を開けて出てくる様子を知らなければ、落語の「ごめんください」の一言から長屋の小ささは想像できないし、山の中で遊び回った経験がなければ、土の匂いや虫の羽音、風に揺れる葉の音なんかは絶対に想像できません。
そういう「生の経験」が減っていることが、物を想像する力を減らしているように思うのです。

教わる側の想像する力が相対的に減っているとしたら、教える側がアシストをしてあげる必要がある。
古典はそれが特に顕著な科目だと思います。
少ない情報から絵を想像させるテクニックを研究するために僕が目をつけたのが落語でした。
落語家の人がどういう所に目をつけて語っているのか。
噺家の視点がそのまま読解の視点だと思うのです。

噺家的な視点で作品を読み解いていく。
そうすることで自然と作り手の視点=頭の中に絵を浮かべる習慣が身につくのではないかと考えています。
これは英語長文においても同じです。
もちろん品詞分解できる力は絶対に必要だと想いますが、そこから直訳、そして直訳した情報から情景を思い浮かべる。
そのフェーズの練習こそが今の子達にとって最も難しいところで、教えて欲しい内容であるように思います。

よく子供達の学校の予習をみていると、頑張って品詞分解をして、頑張って直訳してたところで終わってしまっています。
もう一歩だけ踏み込んで、そこから絵を想像する練習。
それこそが古典を「読む」ために最も大切な力だったりするわけです。

そんなことを思いながら通過する「千早」駅


アイキャッチ立川談志さん「努力とは馬鹿に恵えた夢である」

努力とは馬鹿に恵えた夢である

努力とは馬鹿に恵えた夢である

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