新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



社会の教科書に載る「現在」はどんな「過去」になっているのだろう?

僕はよく「もし数百年後に現在が社会の教科書に載ったらどういう説明がされるのだろう?」ということを考えます。
振り返れば激動の時代であった幕末も世界大戦時も、その時を過ごす人にとっては「当たり前」の毎日だったのではないかと思うのです。
逆に言えば、今この瞬間はなんだかんだで「当たり前」に過ごしていても、振り返ったとき、激動の時代であったと言われる可能性も秘めてるわけです。

たとえば農業革命が起こった時、その革新的な変化をはっきりと意識していた人はそれ程多くなかったはず。
たとえば産業革命の時、それがこれほどまでに決定的な変化をもたらすものであると理解できていた人はほとんどいなかったはず。
当然新しい技術にワクワクはしていたのでしょうが、その感動は毎日の延長線を超えることはなかったのではないかと思います。
そう考えると今の時代も振り返ったとき、どれほど大きな事象になるのかと考えると、色々な期待を寄せてしまいます。

9.11にリーマンショック、ITバブルにギリシャ危機、政権交代アラブの春が起こって3.11を経験してISISが僕たちを脅かし、2度目のオリンピックが僕たちを待っている。
これらが全て、わずか20年の出来事です。
こうしたことが100年後の教科書でどう表現されるのか。
妄想にも近いものですが、そんな将来を考えると、漠然と自分がどう振る舞うべきなのか、見えてくるような気がします。
とうていそれは自信を持って周りに宣言できるような代物ではありません。
ひどく不安定で、自信のないものです。
でも、確かな質感が手から伝わってくるように思う。
ちょうど津島佑子さんの「水辺」のような感覚です。


僕の周りには孫さんがどうしても好きになれないという人が何人かいます。
僕は好きも嫌いもないのですが、それを聞いてなんとなく理由はわかる気がします。
孫さんを好きになれないという人の多くは、彼が「技術の未来を見ている」のであって、「技術が進化した先に、人々のどんな生活が待っている」かを想像しているわけではないことを肌感覚として捉えているからであると思うのです。
技術の先にどんな未来が広がるのか。
アプローチこそ違えど、見ている視点は僕が考える「未来の教科書では僕たちをどう説明するのか」に繋がります。
技術の進化で完結することなく、その先にどんな未来が想像できるのかを考える。
それは捉え方によっては、SFが持つ社会的な役割のようにも思います。
未来を想像する力、そして過去となった今を振り返る力。
この二つの視点が、現代を生きる上で重要なポイントになるように思うのです。
当たり前ですが前例のないことばかりでリスクを取って「正解」を導くのは大変です。
しかし一方で世界は常に変化しています。
その流れに対して膝をつきあわせて向き合うには、先入観にとらわれない発想が必要です。
ゲームのプレイヤーであると同時に、俯瞰した位置から自分を見るイメージ。
それを持っていることが非常に大切であるように思います。
以前読んだ本に「役者の最大の仕事は結末の分かっている物語を、どうなるか分からないかのように演じることだ」と書かれていたのが今でも強く覚えています。
ちょうど僕たちはその反対で、結末の分からない物語を自分なりに考えてみることが必要である気がします。

アイキャッチはハレダイニングのオードブル
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