新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



違うレイヤーで語る人が主張を押し付けるとロクな事がないと思う

資本主義っていうゲームに対して、僕は自分なりのルール解釈をしています。
大前提が資本家と労働者という二つの選択肢があって、選択によっては膨大な努力と才能を要する場合もあるが基本的には好きな方を選択できる(制度的に不可能ではない)。
で、資本家と労働者というそれぞれの役割の中での競争があるけれど、資本家と労働者自体を比べたとき、前者の方が圧倒的に優位に立てる。
これば僕の非常にざっくりとした考え方です。

この構造で見ると、居酒屋で聞く愚痴に出てくる勝ち組とは、「労働者としての勝ち組」の意になります。
そもそも労働者という枠組みでしか全体を見ておらず、資本家プレイヤーに勝とうとか資本家に鞍替えする道を探すという選択肢を想定すらしていない。
小さいころ母親が言った「いい会社に入って成功する」という言葉に非常に違和感を感じた事を覚えています。
当時はもっと漠然とした感覚だったのですが、何故「成功する」という言葉と「会社に入る」という言葉が自分の中でなんの矛盾もなく並んで使うことができるのだろうと感じました。

資本主義という枠組みで考えたとき、「成功する」とは資本家を目指すことであると僕は考えています。
高い給与を貰える、一般にいいとされる会社に入ることっていうのんは、労働者というプレイヤーの中での競争で勝つことであって、そこに魅力を感じるというのがどうしても理解できませんでした。
もちろん言葉では分かるのですが、それに気持ちが動かされるかといわれると。。という感じです。

元から競争に勝って成功したいという野心をあまり持っていないのでアレですが、仮に僕が野心グツグツの人間で成り上がろうと思ったら、迷わず資本家の側に回ることを考え、そのために努力すると思います。
野心を持って労働者の仕組みに飛び込むという選択はイマイチ感覚としてなじまない。
僕は自分のこの考えが極端なもの、或いはズレている可能性があることは十分承知しているつもりです。
だから人の選択に対して何か思うことがあるわけでもなければ、まして人に自分の意見を強制しようだなんて思いません。
しかし、じゃあ自分が動く際の行動原理を考えるとき、自分なりに納得できてしまっているこの考えを捨てられるかと言われたら、どうしてもできないように思います。

僕はルールの全体像や仕組みの大前提の部分を語ってくれる人が大好きです。
逆に見える範囲で理解してその中で全力を出すことが大切という考えの人は苦手。
見えるところ、理解できる範囲で直向きに努力することはもちろん大切なのですが、それが全体を把握しようとする必要がない理由にはならないと思うわけです。
決して目の前の事に全力を注ぐより、全体像を把握することが大切などと思っているわけではありません。
そうではなく、目の前の事象に全力を注ぐのは当然として、その上で全体を把握する。
どうしても僕が「the・熱血漢」みたいな人が得意に慣れない理由はここら辺にあるような気がします。

偶然スーパーで以前コーヒーご一緒した人と出くわして思った事(笑)

アイキャッチは秋の高台寺
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