新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



ことばは絵を作る

「本を読んでいると空間は言葉だけになる」
作家の朝吹真理子さんが、「古典のすすめ」という本の冒頭で言った言葉です。
僕はこの言葉をみたとき、芥川賞を受賞した「きことわ」に、なぜ僕がここまで惹きつけられたのかが分かった気がしました。
「永遠子(とわこ)は夢をみる。貴子は夢をみない。」
帯にある通り、本当に「きことわ」ではこれしか物語の筋はありません。
徹底して物語世界に入り込めない。
そのくせ文字を追うたびに頭に浮かぶ風景は濃くなって、ページをめくるたびに頭の中の白黒の背景が少しずつ色づいていく。
僕の「きことわ」に対する感想はこんな感じです。


作品を楽しむことに最も必要な能力は、ことばから絵を紡ぐ力です。
そこに並んだ文字のかたまりから頭の中に絵を浮かばせる。
僕はこれが読解力であると思っています。
よく、日本語で書かれているのだから国語の文なんて読めるに決まってるという子がいますが、僕はそれを聞くたびに本当かなと思います。
「文字を読む」ことと「文章を読む」ことは明確に違うのです。
文字を読むとは、そこにある言葉を追いかけること。
主語と述語をしっかりととって、そこに書かれていることばを記号として受け止める行為です。
極端な話、理解などできていなくても「読む」ことはできます。
それに対して文章を読むとは、言葉から相手の言いたい事を汲み取る作業です。
それが小説ならば頭に絵を浮かべることまでが求められるし、論説文であるならば筆者の主張をしっかりとつかむ必要があります。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(川端康成「雪国」)
ひとことに「読む」といっても、パッと浮かぶだけで3種類の読み方があると思います。
一つは音として読むこと。
「コッキョウノナガイトンネルヲヌケルトユキグニデアッタ」
文字を追うだけの作業です。
これは上で「文字を読む」ですらありません。
次がそこに書かれている言葉を記号として読み取るという読み方。
「主人公はトンネルを抜けて、雪国に来た。」
文字から得られる「情報」を抽出するような読み方で、ここには客観情報としての「トンネル」や「雪国」しかありません。
これが「文字を読む作業」です。
最後が「文章を読む」という読み方です。
汽車に揺られながら長いトンネルを抜けるイメージ、当時の煙を吐きながら進む汽車、長いトンネルを抜けた瞬間に目の前にパッと広がる一面が真っ白な景色。
そういったものを一語読むごとに頭の中で構築していくのが僕は「文章を読む」という動作だと思っています。

立川談志さんは、落語を演じる際にどうやって「江戸の風」を相手に伝えるかにこだわっていた落語家です。
古典落語の一つ「長屋の花見」は、お金がない住人が蒲鉾と酒の代わりに沢庵と出がらしで花見をしたというお話です。
談志さんは「おかしさで笑わすことはできても、そこに流れる長屋の住人の粋な心やどこか漂う哀愁さを伝わらなくなっている」というようなことを言っていました。
ちょうど「文字を読む」ことと「文章を読む」ことの違いがここにあるように思います。
昔は何かを鑑賞するというと、当たり前のように文章を読んでいたのに、時代の中で文字を読む人ばかりになってきた。
談志さんの言葉から、そうした僕たちの変化が読み取れます。

談志さんの言葉には読むということが「文章を読む」ことから「文字を読む」ことへの移ってしまったことが読み取れますが、僕はここ数年になってくるとさらに「文字を読む」ことから「文字を追う」ことになってしまっているように感じます。
「文字を読む」という作業のときは記号として言葉が意味している情報を読み取っていたのが、それすらしなくなっている。
文字を目で追いかける、或いは発生することが「読む」行為になってしまっているように思うのです。
ことばの意味していることを情報として理解するのではなく、そのことばのカタマリからなんとなく感じる印象を勝手に納得して飲み込む。
こういう読み方が増えたように思います。
Twitterなどで140字以内でびっしり因果関係や論理展開を考えてつぶやかれた知識人の言葉に的外れな批判を当てるつぶやきをよくみますが、あれは見当はずれなことを言っているのではなく、つぶやきを見て(「文字を追」って)そこから受けた印象を元に反論をしているのだと思うのです。
つまり「文字を追う」=「読む」ことだと思っている人にとっては、極めて理にかなった反論をしているということになる。

お笑いの人気ネタを追って行っても、同様の変遷が見られます。
B&Bやすしきよしのネタ、上岡龍太郎さんのトークなどを見ていると、彼らの笑いは見ている側が頭の中にネタに出てくる風景を想像することを要求します。
アンタッチャブルチュートリアルサンドウィッチマンをはじめとするMー1世代の芸人さんの漫才やひな壇芸人のトークは言葉の断片から受け取る情報としての面白さ。
そして僕はレッドカーペット以後の芸人と分類しているのですが、柳原可奈子さんやウーマンラッシュアワー、有吉弘さん、最近でいけば8.6秒バズーカや日本エレキテル連合などは「なんとなく」伝わる面白い雰囲気に笑っているように感じます。
ちょうど「文章を読む」→「文字を読む」→「文字を追う」という流れと重なります。

現代の僕たちにとっての読解が「文字を追う」ことになってしまったとすると、「文章を読む」ことを求められたとき、それがいかに難しい作業であるかが分かります。
「文章を読む」ということをすると、2段階の訓練が必要になってくるわけです。
まず言葉一つ一つが意味している情報を正しく読み取る訓練。
そして、言葉の羅列から頭に絵を浮かぶ訓練。
ほとんどの人が「文字を追う」ことが読むことだと思ってしまっていて、そうではないと気づいている人ですら、「文字を読む」ことで止まっている。
今の優秀と言われる人のほとんどはこの段階である気がします。
その先に「文章を読む」という行為があるという可能性がそもそも想定されていない。

「本を読んでいると空間は言葉だけになる」という朝吹さんの言葉は非常にシンプルに「文章を読む」ことについて伝えてくれているような気がしました。


アイキャッチ朝吹真理子さんの「きことわ」

きことわ

きことわ