新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



蝉しぐれとブタゴリラ

春先の花曇り、そして夏の蝉しぐれ
どちらも僕が嫌いなことばです(笑)
ことばで実態以上に風流に受け取られているように思えてならないのです。
俵万智さんが自身の随筆の中で、「花曇り」ということばの美しさをめでています。
<それまでどんよりとして嫌いだった春の曇り空が、花曇りという言葉を知ってから見方が変わった。まるで花びらが散らないように雲がかかってるみたい。あるいは先乱れた花のせいで太陽が遮られるような、そんな風に感じられる>
細かな表現は全然違ったと思いますが、このような内容の事を言っていたのを思い出します。
文章を読んだときは、確かにそんな見方があるのかとうなりました。
同時に感じたのが「いやっ、美化しすぎやろ!」という感情です(笑)
やっぱり僕は桜が咲く頃の曇り空はテンションが下がりますし、晴れて欲しいなと思います。

まあ花曇りは全然いいんです。
俵万智さんのおかげで風流な受け取り方ができるようになったから。
問題は「蝉しぐれ」です。
僕の1番嫌いな言葉(笑)
藤沢周平さんを嫌いとかそういうのでは決してありません。
ただ、藤沢さんが書いた小説「蝉しぐれ」のせいで、そこから使われるようになった(と、僕は理解しているのですが)この言葉が美化されすぎているような気がしてならないのです。
そこから生まれた言葉なのだから当たり前かとしれませんが、「蝉しぐれ」という言葉には、あの作品の持つ淡くはかないイメージをいつも纏っています。
だから僕たちは蝉しぐれという言葉を使うときには、少しだけ哀愁漂う夏の空を思い浮かべてしまう。
実際に蝉しぐれを調べてみると、「蝉の鳴き声が時雨のように降り注ぐさま」と出てきます。
実生活に当てはめてそれをイメージすれば、アタマの中は「ミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン」という言葉でいっぱいのばず。
実際の蝉しぐれは、絶対に僕らが思い描くみたいな風流なものじゃないと思うんです。
実態とことばの持つ美しいイメージとで、乖離がありすぎる。
100%僕の偏見であることは承知していますが、これが僕の蝉しぐれということばが好きになれない理由です。
実物に比べて、あまりにも与えられたことばが美しすぎる!
「薫って子を呼んでおいたから」って女友達に言われて女の子が来るんじゃないかと期待して遊びに行ったらやって来たのはブタゴリラみたいな。
蝉しぐれということばはどうしてもそんな感じしてしまうんですよね。


芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を読んで、いつか自分もそんな風景に出会えるのだろうと期待をしていて、実際に同じシチュエーションでカエルが池に飛び込んだら「ビチャッ」っていう汚い音しか聞こえなかったときのように、その情景に期待を持ちすぎていたが故に裏切られるということは、恐らく多くの人が経験しているんじゃないかと思います。
元の作品に期待をしすぎているからこそ裏切られるのではないかと思う作品が、今秋公開の3DCG版ガンバの冒険です。
上の話を枕にして内容に入ろうと思ったのですが、中途半端に長くなってしまったのでやめておこうと思います(笑)

ってことで僕が言いたいのは一つだけです。
ブタゴリラってあだ名、ひどくない?
すみませんでした。。

蝉しぐれに関しては、僕の風流心が足りなさすぎるだけなのか、或いは作家が蝉の泣きじゃくるさまを美化しすぎたのか。
はたまた当時と現代、作者の育った日常と僕らが育った日常が違いすぎるのか。
可能性を探ればきりがありません。
少なくとも僕小説の「蝉しぐれ」を彷彿させる蝉しぐれにあったことがないですし、これからも会えるという期待が些かも感じられません。
僕の感じる正直な蝉の声は、時雨と言うよりはひねもす続くゲリラ豪雨
藤沢周平さんの蝉しぐれは好きですし、一青窈さんの蝉しぐれも大好きです。
でも現実の蝉の破壊工作を蝉しぐれなんて美しい言葉で表すのはどうかと思うのです。
蝉テロみたいな呼び名が実態を表す上で最も妥当なのではないか。
そんなことを考える、エアコンをつけないままの熱帯夜(笑)

アイキャッチは映画「蝉しぐれ」の主題歌、一青窈さんの「かざぐるま」

かざぐるま

かざぐるま