新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



無駄な気付きを磨く

僕のお盆休みは、BBQと海水浴で始まりました。
一泊二日の岡山への旅行。
蒜山高原、真庭、渋川海水浴場と、岡山県を北から南へと縦断する旅行です。
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蒜山高原は適度に気温も低く、過ごしやすく、宿泊地の真庭では、偶然にもお祭りが開催されていて、天然温泉、花火大会、お祭りと、想定外のサプライズが僕らを迎えてくれました。
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僕はリアルな経験をかなり重視しています。
以前に書いた、情報量に関するエントリ(デジタル化と情報量の減少 - 新・薄口コラム)でも似たことは言ったのですが、リアルに体験したことと、「データ」として知っていることでは、全然情報量が違います。
例えば、上の花火大会ならば、実際にみたからこそ感じる(洞察できる)、高地だからこそ上空の風の流れがはやいこと、「シュコン」という打ち上がる時の火薬玉が筒をこする音、火薬の香りに、落ちてくる燃えかす、打ち上がるときの観覧者のつばきを飲むような緊張感。
シャツがまとわりつく感じも、遠くで微かに聞こえるダムの水が落ちる音も、浴衣姿に慣れない下駄で「カランコロン」と鳴らす女の子の足音もそう。
経験しているからこそ意識を向けられることが数多くあるのです。

後輩の子がそっと唇の前に指を立てて、「きいて!ひぐらしの声がする」と言っていました。
こうした些細な気づきが、リアルな体験の中には溢れています。
現代のように徹底的に合理化した生活を送っていたり、リアルな経験が少ない日常に慣れすぎていると、こうした気づきは「で、なに?」と一蹴されて終わりでしょう。
しかし、膨大な「些細な気づき」のストックのようなものが、不確定な物事に対する意思決定の重大な要素になると考えます。
一見どうすればいいかわからない課題が目の前に現れたとして、些細な気づきが多い人ならば、その身の振り方がわからない課題からも様々な情報を得て、選択をできると思うのです。

勉強でも同じです。
おそらく、些細な気づきができる人とそうでない人では、同じ問題に当たったときでも、そこから得ている情報量は全く違います。
同じ図形の問題でも、人によってはそこから何も得ることができずてが止まってしまい、一方で問題文の「てにをは」まで丁寧に読み込んだ人には筋道がはっきり見えている。
問題を解くというのは、無駄なものを排除して、正解へ続く一本の道筋を導く作業です。
しかし、それを行うためには、膨大な些細な気づきが必要です。
その、些細な気づきを身につけるには、一見訳にも立たないと思える膨大な無駄を経験しなければいけないのです。
勉強でいうのなら、それは問題の前に向かって行う無限の思考ですし、自然と触れ合うということでいえば、先に挙げたようなことです。
勉強と遊びで、両者はまったく違うものに思うかもしれませんが、気づきを得るという観点でいけば、どちらも同じといえます。
僕はその「気付き」に関して、自然に触れるというリアルな経験に勝るものはないと思っています。
養老孟司さんが若者へのアドバイスとして、一日10分森に行けと言っているのですが、その心はここにあるのではないでしょうか。

生活圏のシステムは、僕たちが思う以上に合理化されています。
そのため日常生活でリアルな経験をするという機会はあまりありません。
お盆休みはそうした気付きの感覚を研ぎ直すいい機会です。
非日常の空間に行った時、気付きを意識してみると、思わぬ効果が得られるように思います。