新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



2008年関西大学政策創造学科「大鏡」現代語訳

赤本に全訳が載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次赤本に全訳が載っていない古典の文章の訳をアップしていこうと思います。

 

 その殿、藤原師輔は息子が11人、娘が5・6人いらっしゃった。第一の娘安子は村上の先帝の時代の女御で、他の多くの女御、御息所の中にすばらしく優れていらっしゃった。帝は、この女御を大変に怖がる節があり、女御がめったにないような難しい頼みを申し上げになられても、断ることができませんでした。まして、そのほかのことなど、申すまでもありません。少し性格が悪く、嫉妬しがちだと世の人々にはうわさされがちでした。帝にもよく、嫉妬をしてどのような成り行きであったか、夕方に帝が安子の部屋にやってきなさって、御格子を叩いて中に入れるようにとおっしゃったときに、安子は御格子を開けなかったということがありました。帝は扉を叩くことに戸惑って、「女房の安子になぜ扉を開けぬのか聞きなさい。」と名前はなんと言ったか忘れてしまいましたが、天皇の身の回りの世話をする童に命じたのです。童は開いているところが無いだろうかとそこら中を見てまわったけれど、安子の部屋の鍵はみな閉まっていて、ただ、細殿の戸口のみ開いており、そこに人の気配がしたので、そこに寄って、帝の言ったことを伝えたが、特に返事も無く、内側で笑っているのが聞こえた。童は帝の下に戻り、出来事を伝えたところ、帝もお笑いなさって、「いつものことだ」とおっしゃられて、お帰りになられた。この童は伊賀の前司資国のおじだったと思います。


 藤壺・弘徽殿の二つの部屋は近くに位置していました。藤壺の方には小一条女御(芳子)が、弘徽殿には安子の后が滞在していた。安子はそのことが不安で、とても心を静めることができなかったのだろう。間を隔てる壁に穴を開けて、芳子の部屋を覗きなさった。覗いてみると、芳子の女御のお姿は非常に美しく、すばらしかったので、「なるほど、あの容姿だから帝に寵愛されているのだろう」と安子は思って、いっそう悩ましく思い、覗き穴を通るくらいの土器の欠片を使って、召使いに芳子に向かって投げさせた。


 帝がいらっしゃって、さすがにこの安子の行為には我慢できず、お怒りになって、「このようなことをさすがに女房はしまい。兄弟の伊尹・兼道・兼家などが安子をそそのかして、そのようなことをさせたのであろう。」とおっしゃられて、ちょうど三人が殿上に参上していたので、三人を謹慎させた。安子はこの帝の行為にいっそう大きく腹立ちなさって、「私の部屋に顔を出しなさい。」と帝に伝えた。帝はきっと三人を罰したことについてだろうと思い、参上せずにいたら、何度も安子から「はやくはやく」と手紙がきて、参上しなければいっそう機嫌をそこねるだろうと、恐ろしく、気の毒に思って、安子のもとに参上した。

 「どうして三人を謹慎にするようなことをしたのですか。たとえひどい反逆の罪を犯したとしても、彼らを許さなければなりません。まして、わたしが原因で彼らがそのような目にあっていなさるのなら、たいそう情けなく、つらいことでございます。今すぐに彼らの謹慎を解いて、ここにお呼び下さい。」と安子が言った。帝も「どうして今彼らを許すことができようか。世間に見苦しいうわさが流れてしまうだろう。」と反論したが、「そんなことしてはいけない。」と安子が責め立てたので、「それならば分かった」と納得して、安子の部屋を退出しようとした。退出しようとする帝の服の裾をつかみ「もしあなたが部屋を出て行ったら、すぐに許そうとしないでしょう。今この場で三人をお呼びなさい。」と言って、その場を立ち去らせなかった。帝もどうしたことかと思いながら、后の部屋に蔵人を及びになって、三人をこの場に呼ぶようにという趣旨の勅命を下させた。このできごとばかりでなく、こうしたことはいくつもあったことだ。

 しかしながら、安子はおおかたの方面に関して非常に心が広く、人に対して思いやりの気持ちを持っており、周囲の人には誰に対しても、非常に手厚く面倒を見ていたものです。側にいた女房たちに対しても、情に厚く、風流なことを交わしあったりもしていたのに、思いがけず出てしまう嫉妬心などを、ご本人はどのように感じていたでしょうか。小一条の女御は、非常に容姿が整っておられたので、許すことのできる気持ちを超えた嫉妬心が湧き出して、先のような出来事もあったのでしょう。男女の関係となると、本人の性格を超えて気持ちが現れてしまうものなのでしょうか。そのようなことまでは詮索しません。私どもが男女の仲を詮索するなど、非常に恐れ多いことです。

 安子は、大方の殿上人、女房、はてはそのほかの女御にまでも、どんな時でも見逃しや聞き逃しもなく、きちんと挨拶をするようなお人柄でした。まして、血の繋がった兄弟に際しては言うまでもありません。兄兄弟を親のように頼り、弟に対してはわが子のように大切にしていました。だからこそ、安子が亡くなったときは当然ながら、田舎世界までそのことが伝わり、惜しみ、悲しみの声があふれたのです。帝は、さまざまな政治のアドバイスを安子に求めました。その度に、安子は一般の人の嘆きとなるようなことをやめ、喜びとなるようなことを進めるようにとおっしゃっていました。偶然にでも帝の耳に入ったらよくないような内容を人が言っているのを聞いたときでも、それを帝に告げるようなことはしませんでした。このようなお心がすばらしかったので、それが祈りとなって、永く栄えることが出きたのでしょう