新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



実はメルへヴンとガッシュベルがゼロ年代の空気感を象徴しているのではなかというお話。

どちらも王道バトル物なのですが、設定が非常にゼロ年代的です。
漫画家の山田玲司先生の受け売りなのですが、ヒーロー物の系譜は、大きく、ウルトラマン仮面ライダーのように世界のために立ち上がる系統から、筋肉マンをはじめとする努力して力をつける系統になり、その後元から特別な才能を備えた存在が登場してきます。
ちょうどここに該当するのが、北斗の拳などの作品。
その後、特別な力を理不尽に与えられ、戦いたくないという主人公のマインドを前面に出したエヴァンゲリオンが出てくる。
主人公をみてみると、はじめは自ら立ち上がっていたのが、努力で力を手にするようになり、やがて元から力を持っていたところから、最後には強大な力を周りから突然与えられたというものに移っていきます。
また、戦い方もどんどん変化していきます。
鉄人28号のころは外からロボを操っていたのが、ガンダムになって自らが機械に乗り込むようになります。
そしてエヴァンゲリオンになって、戦う手段とパイロットか一体化するようになりました。
戦う力が周囲に与えられるように変化していったのに対して、その戦い方はますます身体性を帯びていったと言うことができます。
ここまでが90年代の大きな流れ。

90年の後半にポケモンが出てきます。
新たなヒーローものの登場です。
ポケモンの段階になると、戦い方が今までとは決定的に異なるようになりました。
自分が戦闘の前線に立っていたのが、ここにきて完全に戦いが自分の持っているしもべ(ポケモン)へと分離します。
ポケモンになって、戦いが代理戦争になるのです。
戦いの痛みが、主人公から切り離されます。
同時期に登場するのがワンピースです。
こちらは「悪魔の実」という強大な力を得る木の実を食べることで力を手にします。
こうした設定に、当時の時代の空気のようなものを強く投影していたことで、どちらも爆発的な人気になったのではないでしょうか。

非常に主観にまみれた見方なのですが、こうした僕のざっくりとした時代の流れの中で見たときに、先に挙げた、ガッシュベルとメルへヴンが、その先の時代の空気みたいなものを表しているように思えたのです。
ガッシュベルはある日突然魔界の王を決める戦いが始まることになり、人間界にその候補者の100人の子供がやってきます。
子供達は人間のパートナーを見つけ、王様になる一人が決まるまで戦います。
人間のパートナーがいなければ魔物の子は力を出すことはできません。
主人公の清麿は、王様の候補の一人ガッシュベルのパートナーとなり、ガッシュを王様にするために戦いに巻き込まれていくわけです。
僕はこの作品の、人間がいなければ力を出せないという「代理戦争」のパッケージと、魔物の子に選ばれた人間にとっての戦いの理由の「他人事」感が非常に印象的でした。
突き詰めると、選ばれた人間にとって、戦う理由は存在しないのです。
一方のメルへヴンの主人公は、現実世界では何をやっても人並み以下の男の子。
いつも頭の中でファンタジーを描いていました。
ある日、主人公のギンタは自分の頭で思い描いていたようなファンタジーの世界、「メルへヴン」に引き込まれます。
現実世界では全くさえないギンタですが、その世界は相対的にギンタの体力が強く、国を救うために戦うことになります。
今までの作品が現実世界の中で大きな力を与えられるのに対して、ベルへヴンになって、主人公が活躍できる世界が登場するのです。
いわば自分が活躍するための「It's a small world」の世界です。
戦いの理由が本質的に他人ごとである物語と、自分が活躍できる世界の中に飛び込んでいく物語の二作品が同時に連載されていたゼロ年代の半ばの週間少年サンデーの紙面が、以後の社会の空気感を先に捕らえていたように感じます。

直面する問題に対してどこか他人ごとである様子、そして、自分の居心地のよいコミュニティー内での関係が強化される様が、この二作品には非常に象徴的に描かれているように感じます。
どちらも僕は大好きな作品です。
ですから、批判的な意味合いで書いているわけではありません。
ただ、今振り返ってみると、非常に象徴的な二作品であったなあと思うわけです。
その後に進撃の巨人サイコパスのような理不尽さや無力感、何よりも「外の世界の存在」を知った作品が登場してくるわけですが、その辺の作品に関して思うことはまたいずれ書きたいと思います。



アイキャッチメルヘヴンガッシュベル

金色のガッシュ!!(1) (講談社漫画文庫)

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