新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



素人の声を反映しても、ロクなことがないと思う

クレームだらけの世界になったとき、そこで流通するクリエイティブ作品はどの様なものになるのかということを最近よく考えます。
コンサルタントの永江一石さんがよく、ブログで「素人のクライアントがデザインや戦略についてアレコレ言ってくる案件は引き受けない」といった趣旨の発言をされていますが、これがプロの正論だと思います。
完成品の直感的な良し悪しはともかく、そこにはプロとしての戦略や思想が含まれているはずです。
もちろんそれは一般人の目でみたら、表層的には分からないかもしれませんが、プロが見たら一目で分かる集客上の工夫や、そこに込められた意図があったり、また、プロでなくとも、無意識下で視線をうまくコントロールするようなデザイン上の工夫があるかもしれません。
「こうした方がアクセスが増える」とか、「この方主張が伝わる」というような、専門的な見地を持っているからプロなわけです。
そうした人たちの仕事に対して、素人が表層的な事柄を以てむやみに批難することは、結果的に損しか産まないように思ってしまいます。

もちろん、権力やコネクションによって仕事が行き来するのが日常になってしまうことには反対です。
しかし、その形式で選ばれたものに対して、素人の僕たちが難癖をつけたとして、そこに生まれるのは「公正・平等の選択によって選ばれた最良の選択肢」ではなく、「素人が直感的にいいと感じた、表面的にウケる選択肢」に落ち着くしかないと思うのです。
核心をつく批判があるかもしれないけれど、大概が的外れな誹謗中傷に向き合ってまで、たった一度だけの大仕事に臨むベネフィットとリスクを比較したら、プロにとってリスクがずっと上回っているのは明らかです。
確かにそうしたプロが参加を辞退しても、素人が作った選択肢が圧倒的な評価を得る可能性はあります。
ただ、プロと素人の才能の絶対量を比べたとき、クリエイティブ案件の採択基準を完全にオープンにして(且つTwitterなどの誹謗中傷で今後の仕事に評判が響くリスクも考慮した上で)、そこに参入してくる素人の才能を足し合わせた絶対値よりも、それによって参加を辞退するプロの才能の絶対値の方がずっと高いような気がしてなりません。


プロゲーマーの梅原大吾さんが、著書「勝ち続ける意志力」で、一回勝つことと、勝ち続けることは全く違うと言っています。
たった一度だけ勝つのは誰でも狙えるけれど、毎回勝ち続けることは本当に難しいのだそう。
僕はこれが素人とプロの違いであると思います。
素人がまぐれ当たりで世界を震撼させるクリエイティブ作品を生み出したとして、それが続かなければ、単発的な評判はともかく、あの人は凄いという「評価」にはなりません。
一定以上パブリックなクリエイティブ作品においては、ビギナーズラックではなく、プロとしての安定した力量の末にたどり着いたアウトプットである必要があると思うのです。

素人目で批判して、素人目に気に入った選択肢を選ぶことは確かに容易です。
しかしながら、そこには前提としてリスクとベネフィットを計りにかけた時にリスクの重みが上回るであろう一定以上の才能を持った人たちが始めから選択肢から抜けています。
また、そこで選ばれた「選択肢」が、当人のキチッとした技量に根ざしたものではなく、偶然の産物である場合が多分に含まれるわけです。
そしてなにより、そのクリエイティブ作品が大ゴケしたとき、それが素人であれば責任をとれる訳もありません。

大きな案件の主導者を有名人の中から選ぶのには、何かあったときにその人の名において責任を担えることも加味されているのではないでしょうか。
オリンピック五輪のパクリ問題も、佐野さんという一定の功績のある人だからこそ、その責任を追及されています。
裏を返せば、それだけ責任を受け止められる肩書きを有していたということです。
仮にこれが素人の作った作品であったとして、パクリ疑惑の責任は誰が取るかという話になってしまいます。
そんな大事、一介の素人では受け切れない。
もちろん、仕事を受注する上での縁故や、やっつけ感が滲む場合には、その点を指摘してしかるべきだと思います。
しかし、その声が過剰になったとき、全体に与える影響はベネフィットよりもコストが上回ってしまうことは頭の片隅に入れておくことが不可欠だと思うのです。
最近のニュースをみていると、強く感じます。。



アイキャッチ梅原大吾さんの「勝ち続ける意志力」

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

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