一旦は幸せを味わった上で、再び不幸に落とされた衝撃で狂ってしまったエリスが、僕は舞姫の中で一番印象に残っています。
高校現代文の教科書に載っている、森鷗外の「舞姫」。
あの慣れない文語に場面設定。
毎年例外なく何人もの三年生を悩ませます。
もちろんあの驚くほどに無駄の削がれた文章を味わうなら、原文を読むより他はないのですが、内容を味わうのには現代語の方が向いていると僕は思います。
文語であることから得られる情報量と、内容を把握する際のノイズを比べると、後者が大きすぎる気がします。
現代語訳はWebでいくらでも公開されているので、内容を読むには、現代語版がお勧めです。
そして、海のトリトンでは、自分たちの一族を滅ぼしたポセイドン族と戦うのですが、最後にポセイドンの像を倒したとき、その地下には大量のポセイドン族が住んでおり、トリトンは彼らを滅ぼしてしまったのだということを、そこで知ります。
両者に共通する富野由悠季さんが作品に込めたメッセージは「少年は取り返しのつかない失敗をして大人になる」というもの。
大切なものを失い、葛藤をして大人になるというのが大きなメッセージにあるように思うのです。
で、僕はこれと同じメッセージが伝わってくるのが舞姫だと思うのです。
主人公の豊太郎は、エリスと出会って恋をして、一時は全てを捨ててエリスと一緒になろうとします。
しかし友人の相沢謙吉の助けで仕事の場に戻ると、結果的に豊太郎は日本への帰国を選択します。
豊太郎はエリスに直前まで本当のことが言えず、豊太郎との間の子を身籠ったエリスは、相沢の口から豊太郎がいなくなることを聞き、発狂する。
そんなエリスを見捨てて、豊太郎は帰国の途に就くわけです。
一人の女性をどん底から救い、その女性を自らの手で再び地に落とす。
学問や仕事ばかりだった豊太郎は、ここに来て始めて取り返しのつかない過ちを犯します。
豊太郎は、深い傷を背負うことで始めて、少年から青年になるのです。
いろいろな読み方があるとは思うのですが、僕にとって舞姫という作品は、恵まれた環境で育った主人公の青年豊太郎が、一人の女性に対して行った取り返しのつかない過ちを通して、「本当の」青年になる物語であると思っています。
本来、思春期に経験するような何らかの「取り返しのつかない過ち」を、優秀であるが故にしてこなかった主人公。
そんな主人公が遠い異国で味わった青年になるための通過儀礼。
文学に限らず、最近のあらゆる作品で、少年から青年へと進む物語を見かけません。
そんな環境下で舞姫を読んでも、全く共感や物語を楽しむことはできないかもしれません。
それどころか、豊太郎の行動に嫌悪感を抱いて終わりということさえあるでしょう。
少年から青年への成長物語と知った上で読むと、また少し違った見え方になるのではないかと思います。
- 作者: 森鴎外
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1991/03
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