新・薄口コラム(@Nuts_aki)

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大阪大学2005年外国語学部「宇治拾遺物語」留志長者現代語訳

東進の過去問データベースから、解答は見られるのですが、訳は載っていないので、全訳を作ってみました。
内容の背景を捉えることを第一目標としているので、直訳とは若干異なるところがありますが、ご了承下さい。
順次問題は手に入っても解説のない古文について、文章の現代語訳をアップしていこうと思います。

 

昔のことであるが、天竺に留志長者といって、世間でも非常に裕福な長者がいた。たくさんの蔵を持つくらいに裕福であったのだが、性格はケチで、妻子にも、まして使いの者には物を食わせたり、衣服を与えると言うようなことはしなかった。自分自身が物を欲しいときは人にも見せないで、隠して食べているうちに、少しでは物足りなくなっていった。留志長者は妻に「ご飯・酒・くだものなどをたくさんご用意なさい。これから私に憑いて、ケチな気持ちを起こす慳貪の神を祀り、払ってくるのです。」と言った。
妻も「ケチな心を直そうとするのは非常にいいことです。」と喜んで、様々に準備をして、渡せば、留志はそれを受け取って、人目のないところで食おうと思い、食べ物は容器に入れ、瓶子に酒を移して持ち出した。
「この木のもとには烏がいる。あちらには雀が。」
などと何もいない場所を探して選び、鳥獣もいないような人里離れた山の中の木の陰に座り、ひとり食っていた。他に比較できないほどに気分が良く、思わず漢詩を読んだ。
「今昿野中、食飯飲酒大安楽、猶過毘沙門天、勝天帝釈」
その意は、人もいないところにひとりでやってきて、物を食い、酒を飲む。この気持ちの楽しさと言ったら、毘沙門天帝釈天にも勝っているだろうというものだった。
留志長者がこのように言ったのを、帝釈天はきっとご覧になっていたのだろ。長者の言葉を憎く思ったのだろう、留志長者の姿に化けなさって、長者の家にやってきた。
留志長者に化けた帝釈天は「私は山で、物を惜しむ神を祀ってきました。祀った効き目があったのでしょう、私のケチな心はすっかりなくなってしまったので、このようにしましょう。」と言って、蔵をあけて、妻子を初め、使いのもの、またそうでないよその者、修行者、乞食に至るまでに、蔵の宝物を取り出して配ってしまった。そこにいたものは皆喜んで、分けて取り合っていたところ、本当の留志長者が帰ってきた。全部の蔵を開けて、このように宝を人々が取っていっている姿を見て、留志は驚きあきれて、その悲しさと言ったら、言葉にできないほどだった。
「どうしてこんなことをしているのだ。」
と周囲の者を非難したのだが、自分と全く同じ姿をしたものがやってきて、蔵の中身を全て配ってしまったと知って、訳が分からなくなってしまった。
本物の留志が「あれは変化した私の偽者だ。」と言っても、それを聞き入れる人はいなかった。この問題を帝に申し上げたところ、「どちらが本物であるか、母に見分けてもらえ。」と言われた。母に聞くと「人に物を分け与える者こそわが子である。」と言うため、本物の留志は自分が本物であることを証明できなくなってしまった。 
「腰の辺りにあざがございます。それを本物のしるしとしてご覧下さい。」留志がそう言って腰を見せるが、帝釈天がそれをまねしていないことなどあるだろうか。当然腰のあざまでをしっかりと真似していて、二人とも同じように腰の辺りにあざがあったので、留志は力なくもう一人を引き連れて、仏のもとにいくことにした。仏のもとに着いたとき、帝釈天はもとの姿になって、留志の目の前に立った。留志は帝釈天が自分の真似をして、先ほどの歌の仕返しをしにきたのであれば、何も文句も言えないだろうと思っていたら、留志は仏の力によって、そのまますぐに悟りの最初の段階を手に入れた。悟りによって悪い気持ちも離れ、物を惜しむケチな心もすっかり失せてしまった。
 このように帝釈天が人をお導きになることは計り知れない。理由もなく富裕な者の財産を失わせてしまおうなどと、どうして思うだろうか。慳貪の業で、危うく地獄に落ちるところであった留志を哀れに思う心から、このようなことをしなさったとは、なんとも素晴らしいことである。