新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



組み体操が無くなろうが続こうが心底興味はないけれど、僕が構造的に無くなりづらいだろうと思う理由について書いてみた

最近やたら僕のfacebookのタイムラインに組み体操の賛否を書いたニュースが流れてきます。

僕自身はやれ汗ばんだ人の足を握ってサボテンだとか、やれ土で汚れた人の背中の上に乗ってピラミットだとか、とにかく汗や泥のついた人との接触が多いのが苦痛でたまらなかった記憶しかないのですが、組体操自体についてどう思っているかと言われれば、特に維持すべきとも廃止すべきとも思いません(笑)
やりたいのならばやればいいし、騒ぎになってまでやるほどのものでないと思うならやめればいいのではというのが率直な意見です。
ただ、構造的に廃止の方向に向かいづらいのだろうなあとは思います。
僕は組み体操という競技が、演者はともかく、見ている親と提供する学校にとって非常にニーズにあっているように思うのです。

観客である親にとっては基本的に自分の子供(と仲のいい友達)以外の演技には興味はありません。
全員参加の50m走などであっても、保護者にとっては結局のところ、自分の子供の活躍以外はどうでもいい事象なのです。
仮に各学年200人の学校で一回で5人走り、1レースあたり1分で進むとしても、全校600÷5人で1レース1分としても、全員が走り終えるのに2時間かかります。120分の中でわが子の活躍は1分。
個人競技の場合それ以外の二時間は、ほぼ全ての保護者にとって、炎天下の中で時間をつぶさなくてはならない苦痛の時間となるわけです。
全員参加の種目なら、少なくともその演技中は自分の子供をカメラで追って、退屈しないで済むことができます。
そもそも観客に鑑賞してもらうことが目的の組み体操は、少人数での見せ場をいくつも作ることができるため、一部の運動神経抜群の子供を持つ親以外にとっては、非常にコスパがいい種目であると言えます。

保護者にとってばかりでなく、組体操は運動会を主催する学校にとっても歓迎すべき種目であるように思います。
参観会、三者面談、文化発表会に並び、運動会は学校にとって、日頃の教育指導の結果を計られる、数少ない貴重な行事です。
組み体操を行うと、そんな「晴れの舞台」で端的に学校の指導力を示すことができます。
組み体操のような集団演技では、学校の先生は監督としての役割を果たします。
きれいな行進やいっせいに開く扇、成功したときのピラミッドなど、ひと学年全員が笛の合図のもと、一丸となって演目を作るのは、監督としての管理が行き届いていることの、もっとも象徴的なアピールとなります。
騎馬戦や長縄跳びでは、この監督としてのアピールはできません。
集団管理の行き届いていることを保護者に示すには、組み体操はラジオ体操と並び、非常に効果的です。
単純に、号令とともにテキパキと動いていたら、見ている側としてはそれだけでしっかりと指導が行き届いているようにみえると思うのです。

生徒ひとりひとりにとって、組み体操がどういうものであるかは分かりません。
ただ、大半の子にとっては「どっちでもいい」ものであり、そういったどちらでもいい子と、嫌な子、そして組み体操をやりたい子をあわせた平均をとったら、プラマイゼロくらいな気がします。
運動会を構成する要員が生徒たち演者・保護者を初めとする観客・監督としての先生の3つとすると、そのうちの演者がどっちでもいいと考えていて、観客と監督のニーズを満たしているのであれば、そりゃ安易に廃止しようという流れに行かないのも無理のないことです。
そんなわけで、組体操の維持・廃止に関しては全く興味のない僕ですが、システムとしてニーズがしっかりかみ合っている組体操は、なかなか無くならないのだろうなあと思います。
僕はただただ、潔癖症の子にはつらいだろうなと思うばかりです(笑)


前提として、安全面や子供達の達成感といった方面に関しては、一切加味しないと決めて書いたエントリなので、その点は悪しからず。。


アイキャッチは徹底的に構造的な捉え方をする橘玲さんの著書。

バカが多いのには理由がある

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