新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



褒める教育という話に抜けがちな「褒める側の資格」という視点~褒めに関する顧客視点~

この前スマホでニュースを読んでいたら偶然見つけた「褒めて伸ばす教育」という記事を読んで思ったことをつらつらと。。。

特に教育に携わる人にありがちなことだと思うのですが、相手を褒めなければと思うあまり、自分が「人を褒めるに値する振る舞いをしているかどうか」を忘れてしまうことがあります。
僕は、褒められるためには一定の水準を満たす必要がある=褒められる資格を手にする努力が必要であると同時に、褒める側にも相応の資格が必要なのではないかと思っています。
相手が期待する基準を超えたときに褒められると仮定すると、褒められるための資格とは、相手の期待値を越える成果を出す、或いは相手の想定を超える努力をすることだといえます。
いい意味で相手の期待を裏切ることで、褒めてもらうというリターンを得るわけです。

褒められる側の資格が明確であるのに対して褒める側の資格は一見すると見えづらいものです。
相手のすごいと思う点を「すごいね」と口で伝えるのが褒めることなのかというと、実は層ではないんじゃないかと思うんです。
たとえばミュージシャンでも画家でもいいですが、自分があこがれている人の作品を見て「すごい」と口にして伝えた場合、それは褒めているのではなく、尊敬しているということに近い気がします。
ここでの構造を見ると自分よりも相手のほうが優れているという状態です。
優れている相手に対して「すごい」と思った気持ちをつたえる場合、それは「褒め」ではなく「尊敬」になるのです。

では、自分がすごいと思った気持ちを伝えて、それが「褒め」となるのはどういうときか。
相手に対して自分が感じた「すごい」という気持ちを伝えたとき、それが相手に「褒められた」と認識されるのは、褒められる相手が自分のことを相対的に「すごい」と感じているときであると考えられます。
自分がすごいと思っている人から「すごい」と言ってもらえる。
この瞬間に褒められた側はうれしいと感じ、同時にそれが「褒められた」と認識されるのだと思うのです。

褒められる側が褒める側のことを相対的に自分よりすごいと感じている場合に「褒め」という行為が成り立つと考えると、褒める側の資格とは、相手にとって一目置くべき存在でいることです。
これは立場や身分、年齢からは決して生まれせん。
日頃の振る舞いや考え方、その人の人となりなどをみて、褒められる側が判断するものなのです。
昨今、「褒めて伸ばす」ということの大切さが叫ばれます。
叱ったり、罰則で圧をかけることで追い立てたりするのではなく、褒めて内発的に成長させるという方針に関しては、全面的に賛成なのですが、いざ褒める教育の実践となったとき、相手を見ることにばかり意識が向き、僕が「褒める資格」と表現している、自分自身を研鑽するという方面に全く意識が向いていないように感じます。
褒めたら無条件でうれしいはずだというのは、「褒める」という行為に関して供給者側の視点で、「褒められる」側である子供達の視点、つまり顧客視点が欠けていると思うのです。
「どんな人に褒められたらうれしいのだろうか」ということを考えるが、僕が言うところの顧客視点です。
相手の褒めるポイントを見つけ出すスキルを磨く一方で、自分が相手にとって「褒められたい存在」でいられるような背中を見せることができているか。
その両面を磨くことが、褒めて伸ばすということに関して必要な姿勢だと思うのです。

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反転学習 ? 生徒の主体的参加への入り口

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