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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



失職=自己責任でなければ困る人

「最近凶悪犯罪が増えたって言うけど、悪いニュースが報道されているうちはいいんですよ。そのニュースが珍しいから報道されているわけなんで。「電車でお年寄りに席を譲った」みたいなのがニュースになった時が、本当に危機なんです。」
これは立川談志さんが落語のまくらで話していことなのですが、『失職女子。』著者から「不採用・契約打ち切りis自己責任」と書き込む人々へのお返事 - ドクダミハニー_ブログという記事を読んでふと思い出しました。
社会が幸せなら凶悪犯罪がニュースになり、仮に凶悪犯罪に溢れる社会ならいい行いがニュースになるという談志さんの理屈は、相対的に希少となったことがニュース(話題)になるという意味で、この失職=自己責任と考える人の説明にも当てはまるように思いました。

僕は、失職=自己責任という人は価値観が古いとか、上から目線とかいうことではなくて、失職は自己責任でなければならないのだと思います。
失職するのは自己責任であるとすれば、反対に現在仕事についている人は自分の能力の結果ということになります。
逆に、失職したのが自己責任でなく社会環境や情勢に寄るものだとすると、現在仕事にありついている人は「自分の能力のおかげでなく、ただ運がいいだけ」ということになってしまう。
おそらく本当に能力がある人は、こう言われても全く意に介さないか「確かにそうかもね」と笑って受け流します。
しかし、そうではなく現在の仕事についていられるのが運によるところが多い人(本人にとっては努力していると感じるところがまた厄介なのですが)にとって、この「事実」は、受け入れがたいことなのです。
努力の結果として得たリターンが現在の職であり、仕事がないのはその人の努力不足であるならば、両者には確固たる差があることになります。
失職している人が今以上の努力をして、かつ自分が今の努力を怠らない限り、逆転は起こり得ない。
しかし、仕事についているのも失職しているのも自分の努力の有無ではなく、外的要因が多いとなると、両者のポジションは容易に転換し得るということになります。
もしそうだとすれば、これは転換される付近にいる現在仕事がある人にとっては、受け付けられない事実です。
だからそういう人にとっては、失職は自己責任でなければならないのです。


冒頭の談志さんのまくらに戻ります。
談志さんは幸せな社会だから凶悪犯罪が取り上げられると言っています。
このロジックをそのまま失職問題に当てはめると、失職の原因が自己責任だとしきりに叫ばれるのは、自己責任による失職が珍しいからということになります。
仕事が溢れていたバブルの時代であれば、職を失ったと聞いて周りがしてくれるアドバイスは「運が悪かっただけだよ」といったものだったのではないでしょうか。
多分そういう時代であれば、本当に職を失うのは自己責任だったのだと思います。
逆に、職を失うのは自己責任だという主張が多く聞こえる社会、少なくともそういう主張をする人が多く存在するコミュニティの中では、職を失う原因は本人以外の外的要因による場合が多いと考えられます。
幸せな社会だから珍しい凶悪犯罪が注目されるのと職を失う原因が運だからこそ自己責任論が蔓延するのとでは、発生理由も目立つ理由も異なりますが、実社会において小数値の事例が話題になりやすいという点では共通しているように思います。

職を失うのが自己責任であると言う人にとって、職を失うことは自己責任でなければならないわけです。
そうでなければ、自分の現在のポジションが偶然であり、容易に転換し得るものだということになってしまうから。
それを認めるだけの余裕がある人が溢れる社会なら自己責任論は見かけないだろうし、仮にそういう社会であるとしたら、本当に職を失うことの要因に占める自己責任の割合は大きいものであるのだと思います。

言葉はとことん正直だというのが僕の持論です。
嘘を含んだ言葉は、その嘘を繁栄させた「言葉」となって現れる。
失職=自己責任という言葉には、そうでなければ困るという気持ちが繁栄されているように感じます。


アイキャッチは冒頭に紹介した記事を書いたブロガーさんの本
失職女子。 ~私がリストラされてから、生活保護を受給するまで

失職女子。 ~私がリストラされてから、生活保護を受給するまで