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新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



Knowledge as capital,knowledge as consumption

僕は資本という言葉を、価値を再生産し続けるものと定義しています。

たとえば、お金をある事業に投資すると、そこで新たな価値を生み出し、投資した以上の価値となって自らの元に戻ります。
一時的にコストとして支払っていても、後に戻ってくる。
このように、持っていることで価値を増やすことのできるものを資本と考えることにします。
その反対にあるのが、消費です。
価値を再生産しない物の使い方が消費です。
別にそれはお金に限らず、時間などでも同じ事。
ざっくりと僕の中では、使って終わりが消費、使って価値を増やすものが資本という住み分けがあります。
 
お金や時間に関して資本と消費という観点から語られることが多いですが、僕は知識にも資本と消費があると考えています。
特に学校の勉強なんかで顕著です。
資本としての知識とは、「自分の覚えた知識を使って問題を解くこと」です。
それに対して消費型の勉強は「覚えた知識を積み立てようとせず、場当たり的に問題に望む」こと。
大木こだまひびきばりの「そんな奴おやへんやろ~」が聞こえてきそうですが、実際に勉強を教えていると、消費型の知識獲得になってしまっている子が少なくありません。
 
資本としての知識の使い方と、消費視点の知識の使い方の間には非常に大きなキャズムが存在しているように感じます。
投資視点の勉強法方ができる子に関しては当たり前のように「知識は身に付けて使うもの」と考えていて、消費視点の勉強をしている子には、そもそも資本家視点の勉強と言う概念がないように思うのです。
 
消費型の勉強の典型は丸暗記型の勉強です。
問題を解いていて、でてきたものを片っ端から覚えようとする。
その場では一旦解けるようになるのですが、「消費」的な覚え方であるため、応用が利きません。
知識を応用するというのを資本にたとえるのなら、拡大再生産をするということになります。
投資した価値からそれ以上の価値を生み出すことが拡大再生産。
学力もこれと同様に知識という資本を投資して、拡大再生産をするから学力が伸びるのです。
拡大再生産のない勉強は、現状所持している知識を利用している範囲を超えないため、必ず限界が来ます。
僕の印象論ですがその限界が、中学校の勉強ではだいたい偏差値55くらいでやって来て、高校になると偏差値50くらいにあるように感じます。
 
身につけた知識を使って拡大再生産をする。
この「資本としての知識」という捕らえ方が、本質的な部分で学力を伸ばすには不可欠であるように思います。

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)