新・薄口コラム(@Nuts_aki)

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高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い③「近代社会における制度の考え方」

ずっと前のエントリで、丸山真男さんの「『である』ことと『する』こと」を説明するといっておいて、随分放置したままになってしまっていました。
そろそろ学校で扱うところも増えてくる時期だと思いますので、エントリの続きとして各段落をざっくり説明して行きたいと思います。
 
 
丸山真男さんの「『である』ことと『する』こと」の中で地味に難しいのが、この2段落です。
「自由だと信じている人間は、偏見からかえって自由でない」という言葉や、「制度の自己目的化」という言葉、そして鷲田さん曰く有名な「プディングの味は食べて見なければわからない」(笑)という言葉など、直感的に理解しづらいものが並んでいます。
2段落は、これらの言葉をざっくり噛み砕いて行きたいと思います。
 

「自由と信じている人間は偏見から最も自由でない」問題

僕の友だちに「俺はみんなが仲良くできることを1番大事にする」といつも言っているヤツがいます。
むっちゃいいヤツなのですが、唯一の弱点はこの「仲のいい信仰」なんですよね(笑)
彼は自分の所属するコミュニティのみんなが仲良くすることを本当に大事にしています。
だからこそちょっと我の強い後輩とかが入ってくると、「輪を乱すヤツ」と判断して、すぐに追い出そうとしてしまうのです。
本来「みんなが仲良くする」というのなら仮に我の強い後輩がコミュニティに入ってきたとして、そいつもうまく輪の中に打ち解けさせてあげなければいけません。
しかしながら彼は、自分は「みんな仲良く」と信じきっているから、「輪を乱すヤツを排除する」という形で自分の行なっている「迫害」には気づいていないんですよね。
彼のいう「みんな」は、本当の意味でのみんなではなく、無意識に彼が贔屓にしている「みんな」であることに気づけない。
なぜならば彼が自分は「みんな仲良く」を自分の良さだと信じ込んでいるから。
こういった人って、いろいろな場面で見かけると思います。
 
丸山真男さんの言う、「自分が自由だと信じている者は、自分自身の中に巣くう偏見から最も自由でない」も、これと同じ構造です。
自分が自由だって信じ込んでいるから、その自由って本当に自由なの?って考えることができないのです。
ちっちゃい鳥かごで飼われていた九官鳥が、ある日むちゃでかい籠に移してもらえて、俺は自由になったと思い込んでいる感じ。
自由は自由になったと思い込んでいるから、結局は「籠の中」という問題に意識が向かないのです。
 

「制度の自己目的化」の典型例は学校の宿題と覚えればOK

2段落でよくわからない言葉の二つ目はこの「制度の自己目的化」でしょう。
ざっくり言えば「制度って何かをよくするために作ったもののはずなのに、気がついたらそれを守ることこそが大事だ!みたいになってない?」ってことです。
約束や決まりごとなんて、もともとは必要だから作っただけなのに、時間が経つとそのルールを守ることが何より大切になっているというのが制度の自己目的化。
僕はこの典型例が、学校の宿題だと思っています。
本来、学校の宿題は勉強を定着させるために行うものなはずです。
つまり、宿題は勉強の定着という目的のための手段にすぎない。
それならば学校の授業を聞くだけでしっかり定着している人は、本来宿題なんかありません。
でも、できる人は宿題を出さなくていいなんてすると不平等になってしまう。
そのため宿題提出を成績の評価基準にまでして、全員が同じ宿題をやって提出することを強制するようになります。
宿題が「目的」になった瞬間です。
 
もうひとつ制度の自己目的化の例を考えると、コンビニでバイトしている時のマニュアル上司なんかもそうでしょう。
マニュアルとはもともと、どんな人でも最低限の品質を保証するために作られた、効率のよい接客の方法です。
A君は非常に仕事が早く、かつ細かな部分に気づける人材です。
そんな彼はいつもお客さんに喜んでもらえるように、その人に合わせた接客をしていました。
マニュアル上司はそんなA君を見て「そんな適当なことをせず、しっかりマニュアルを守れ」と言ってくる。
この上司にとっては、1人の突出したできる人材よりもバイト全員がマニュアルを守って最低限の品質を保ち続けることが大事なわけです。
 
民主主義という制度も、本来は自分たちの暮らしをよくするために作った手段に過ぎないはずなのに、気がつくと民主主義を守ること自体が大事だというように、それが目的になってしまっています。
これが丸山さんの言う「制度の自己目的化」です。
こうならないためには、僕たちがしっかりと、「その制度って今の社会にあってるの?」といつも考えていなければいけないのです。
そうやって常に考えていなければ「自分が自由だと信じる者は自分が自由だという偏見から自由でない」のと同じ状態に陥ってしまいます。
そうならないためにしっかり頭で考えなさいというお話。
 

プディングの味は食べて見なければわからない

上の例えとして登場するのが「プディングの味は食べて見なければわからない」というお話です。
一言で言えば「目の前にプリンみたいな食べ物出されたけど、それ、もしかしたらプリンっぽい茶碗蒸しかもしれへんで!」ってお話(笑)
まあここでのプディングの例の正しい解釈は「プリンは店によって美味しいものから不味いものまでの幅が広いから、食べて見るまでは味は分からない」という意味ですが、もっと極端な方が直感的に掴みやすいと思ったので、プリンみたいな茶碗蒸しという解釈にしました。
見た目で美味しいプリンだって判断せずに、口に入れて毎回確かめましょうということを伝えたいために用いられた具体例です。
見た目は同じプリンでも、食べてみるとお店によって味が全然違います。
だからこそ、毎回口に含んでプリンの美味しさを確かめましょうということが言いたいのです。
 
で、この例が伝えたいのは、それがプリン「である」ことに満足せずに、プリンがどういう味か、しっかりと味見「する」ことが大切にだよねということ。
その姿勢はそのまま制度に関しても当てはまります。
制度があるから安心というのではなくて、しっかりと制度を監視「する」ことが大切なのです。
 

で、結局「である」ことと「する」ことって?

プディングの例を踏まえて、この文の中心である、「である」ことと「する」ことという対比が登場します。
丸山さんは、近代社会の1番の変化は「である」ことから「する」ことへの転換だと述べます。
それまでの社会は身分や家柄のように、自由がどのような人「である」かが大切でした。
しかし、ヨーロッパを中心に起きた革命によって、身分で決まる社会から自分が動くことによってあらゆることが決まる、「する」社会へと変化していきます。
この「である」ことから「する」ことへの転換が、近代社会の最大のポイントというわけです。
 
当然今でも家族だから手伝うとか、出身地が同じだから仲良くなるといった、「である」関係はいくつも残っています。
そして同時に「する」価値観も浸透しています。
丸山さんは、ある社会がどの程度「である」ロジックで動いていて、どの程度「する」ロジックで動いているかという視点でみると、社会の特徴がよく見えると言っています。
その例が、以降の段落で出てくる日本社会。
日本社会は、ある部分で非常に近代的、つまり「する」ロジックで回っている一方で、別の部分では非常に前近代的、すなわち「である」ロジックで動いています。
次の段落から、その具体例が挙がっていきます。
 
 
 
アイキャッチ椎名林檎さん、「自分への道連れ」

 

 

 

自由へ道連れ

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