新・薄口コラム

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



カリスマ性のある人に好きになってもらうには?

面白い人、キャラが立っている人は私生活のどこかにひずみが出ているっていう僕の持論があります。
キングオブコントの人の下着泥棒のやつは極端な例ですが、自分のキャラを売っている人には、多かれ少なかれそういう一面があると思うのです。
キャラを立てるということは、自分の持っている他の要素を切り捨てるということです。
当然、どんな人にも「自分にはこんな一面もある」「こんなことが好きなんだ」という、もっと見て欲しい自分の一面みたいなものがあります。
普通の人ならばそれらを全部バランス良く出すことで周りとコミュニケーションをとります。
キャラの立つ人は、そういったものを意図的に抑えて、特定の部分だけを強調します。
だからこそ周りにはそこが目立って見えるし、それがその人「らしさ」として強烈な印象になるわけです。

一つの側面を強調すれば、当然他の部分にしわ寄せが来ます。
キャラを立てている人だって、少なからず他の面も見て欲しいという欲求はあるらです。
そういう人にとって、どこかで自分のキャラから解放される瞬間が不可欠です。
そうしないと、とてもじゃないけれど自分の中でバランスが保てない。
自分のキャラを脱ぎ捨てる場がないと、ヤバい趣味やヤバい性癖に走ってしまうのだと思います。
逆に、しっかりとキャラを脱ぎ捨てる場を持っている人は、そこが自分にとっての何より心地よい居場所になる。

僕はカリスマ性がある人とは、意図的に自分のキャラを演出できる人のことであると思っています。
そして、そういう人と仲良くなるには、その人のキャラを脱ぐことのできる場になってあげればいい。
カリスマ性のある人を好きになったり、カリスマ性のある人と仲良くなりたい場合、その人の「カリスマ性」を求めている限り、絶対に相手にしてくれません。
それはその人にとっての「キャラ」に過ぎないから。
どれだけ相手にあなたの魅力(=カリスマ性)に惚れていますとアピールしたところで、相手にとっては自分のキャラを好きになってくれたファンの一人に過ぎないのです。
そこからもう一本踏み込んだ関係になりたい場合、その人のキャラの奥に潜む、キャラを立てるために切り捨てた部分にまで手を届かせる必要があります。
そうするとキャラの立っている人たちつまりカリスマ性のある人たちはファンとは違うレイヤーで認識してくれます。

カリスマ論は僕がずっと興味のあるテーマの一つです。
どうやったらカリスマになれるのだろうということと、カリスマと付き合うにはどうしたらいいのかということ。
いろんなカリスマと出会ってきた中で僕がたどり着いたのがこの結論です。
その人に惹きつけられる他のファンと同じ正面玄関から入っていくのではなく、キャラを立たせるために犠牲にしている部分に寄り添うように接近する。
キャラが立っている人、カリスマ性のある人と交流を深めたい場合、こういって姿勢で向き合うことが効果的だとおもいます。

アイキャッチは愛人問題でネットを騒がせた「カリスマ」岡田斗司夫さんのカリスマ論