新・薄口コラム(@Nuts_aki)

こっちが本物(笑)アメブロでやっている薄口コラムから本格移行します。



高校生を悩ます「である」ことと「する」事はおばちゃんのダイエットに例えると分かり易い⑤「『である』社会と『である』道徳」

この段落は「である」理屈で動く社会では、その人がどのような身分「である」のかによって、ふるまう型が決まってくるという話から始まります。
この段落を理解するためには、「である」理屈と「する」理屈が何を指しているのかを理解しなければなりません。
「である」理屈はアニメのキャラクター設定に似ています。
たとえばおそ松さん。
おそ松さんの中に出てくる6つ子のおそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、そしてトド松は、見た目はほとんど同じなのに、見ている僕たちは彼らのことを難なく見分けることができます。
それは彼ら各々が、自分「らしく」振舞っているからです。
おそ松はおそ松「らしく」、十四松は十四松「らしく」振舞うため、僕たちはこの6つ子が誰「である」のかを把握することができるのです。
まさにこれが「である」社会のロジック。
極端な例として見た目の違いが無く「である」振る舞いだけをするおそ松さんを挙げましたが、実際の「である」社会では、見た目も重要です。
「である」社会では、服装や言葉遣い、住まいなど、パッと見でその人の属性が判断できることで、コミュニケーションが円滑に進むのです。
こういった社会では、人々が自分の立場を主張する必要がありません。
そのため会議のような手続きが不要になるわけです。
むしろ、自分の意見を対等に戦わせる会議みたいなものは「らしく」振る舞う上では邪魔になる場合さえあります。
それぞれが自分の身分に沿って「らしく」振舞うことで、コミュニケーションがスムーズに成り立つのが「である」論理の社会といえます。

丸山真男さんは「赤の他人の間のモラルというものは、ここではあまり発達しないし、発達する必要もない。」と言っています。
「赤の他人」とは、ここではどのような身分の人であるのか分からない人のこと。
どういう人であるのかが分からない者同士のコミュニケーションが交わされる場やそこでの振る舞いを、丸山さんは「公共道徳」あるいは「パブリックな道徳」と表現しています。
そして、江戸時代のような身分社会や儒教の考え方にはそもそもそういった「赤の他人」とのコミュニケーションなど想定されていないのです。
こうしたことを踏まえ、丸山さんは「である」理論で回っている社会を儒教的な社会と言っています。
かつての社会は身内や身分といった、「らしさ」でうまくいく人の繋がりの中だけで完結する社会でした。
しかし、社会が発達するにつれ、限られた人間関係だけではすまなくなってきました。
そこで必要になったのが、「する」論理です。
「する」論理で動く社会は「である」論理で動く社会とは全く異なるため、新しいコミュニケーションが必要になってきます。
それを丸山真男さんは「赤の他人どうしの間に関係を取り結ぶ必要が増大してきますと、どうしても組織や制度の性格が変わってくるし、またモラルも『である』道徳だけでは済まなくなります。」と結び、次の形式段落に進みます。

「である」社会と「である」道徳という節は、次の節への繋ぎのような役割を果たしています。
そのため、単体で理解しようとすると、少しわかりづらいかもしれません。
次の節を踏まえたうえでもう一度戻ってくると、筆者のいう「である」論理と「する」論理の対比が明確になって、理解がしやすくなると思います。

ということで、次の節はできるだけ早くまとめようと思います。。。

 

 
アイキャッチは「おそ松さん」

 

 

 

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